近代能楽用語索引Index of Nō-related Terms in Modern Texts

近代芸談における技芸用語

主にシテ方の技芸にかかわる用語の索引。姿勢、視線などの重要と思われるトピックのほか、『能楽大事典』(筑摩書房)に立項される技術用語を対象としました。同表記・別意味の語を別に立項した場合(例:「運び」を歩き方と謡い方で別立項)も、逆に同意味・別表記の語をまとめて立項した場合(例:眼、目、目玉)もあります。

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あしびょうし【足拍子】

観世左近編『謡曲大講座 観世清廉口傳集 観世元義口傳集』(1934)
  • 10オ[「小書略解」の一節]〇加茂 素働。後シテとなつて、太皷に手の替りがあり、シテの足拍子に踏方があります。
  • 10ウ[「小書略解」の一節]〇定家 闇夜の一声。後シテの謡出しの前の一声に就ての習ひです。和扇の舞に、ぎおふぎのまひと読みて、舞の中に違ひがあります。心味の拍子、其舞姫の小忌衣と云ふ所に足拍子があります。埋れ留メ、これはキリのトメの伝で、残りトメとなります。
  • 12オ–12ウ[「小書略解」の一節]〇道成寺 赤頭。後シテの頭が赤頭になり、乱拍子の内に足拍子が多くなり、舞はカゝリの位がシツトリとなり急の舞となる所の足拍子が無になります。
杉山萌圓(夢野久作)『梅津只圓翁伝』(1935)
  • 95夏なぞは弟子に型を演つて見せる時素足のまゝであつたが、それでも弟子連中よりもズツトスラ〳〵と動いた。足拍子でも徹底した音がした。平生は悪い方の左足を内蟇にしてヨタ〳〵と歩いてゐたが、舞台に立つとチヤンと外蟇になつて運んだ。
松本長『松韻秘話』(1936)
  • 108–109足拍子にした処で序の舞の足拍子と中の舞の足拍子はそれく違つてゐなければならず、これは自然の力であつて、強いてかへて踏むといふことの出来るものではありませんから、曲に入りて心を心として自然の力をまつのであります。楽などの拍子はハメ方がむづかしい、つまり拍子がむづかしいのですが、踏み方の趣は却つて序の舞や中の舞の足拍子がむづかしいのです。足拍子をうまく拍子にはめ込むといふ事だけでは足拍子の味や心持はない事になるのです。
野上豊一郎編『謡曲芸術』(1936)
  • 228–229金春禅竹は足拍子について次のやうに言つている。「足拍子に、女能は、静かに小さく踏み、修羅、鬼、天狗などといへば、荒らかに大きに踏む事とばかりと、皆知らざる者は心得候なり。習ひ無き故なり。修羅、鬼にても、小さく細かに踏む事あり。」これはひとり足拍子に限つたことではなく、謡ひ方にも同様な事がいへるのであるが、しかし、修羅物の謡ひ方の概要はあくまで上述の如くであつて、その根本は断じて変らない。
梅若万三郎『亀堂閑話』(1938)
  • 85–86終りに亡父から聞かされてゐます稽古の心得の歌を申上げておきませう。 其の能の心を舞はで姿にて面白がるは下手のくせなり 足拍子はづさず合はず乗り乗らず句あひをふみて当らぬぞよき
観世左近『能楽随想』(1939)
  • 99[「藤戸」の歌い方について]「彼の岸に到りいたりて」の初句は型があり足拍子がありますからノリよく謡はねばなりません。
  • 247–248[片山春子談]私は夜分お師匠さん第眠られてから、官分一人で舞台で稽古をした。それも足拍子一つ聞えても叱られるので、言ぶに言はれぬ苦心をして修業をした。
三宅襄・丸岡大二編『能楽謡曲芸談集』(1940)
  • 145[金剛巌談]楊貴妃といふ人物が何しろ史上に名高いのですから、昔からいろいろと、故実めいたことが斯道へも取り込まれてゐます。序破之舞といつて序之舞の位についての秘伝があります。これは楊貴妃と玄宗皇帝が霓裳羽衣の曲を見残したといふ古事から来てゐるのです。又ワキ方に「常世着」と云つて道行のトメの習があります。足拍子などもやかましい心得があります。
近藤乾三『さるをがせ』(1940)
  • 188–189主 そうならなくてはいけません。お能を御覧になるには、型を習ふ習はぬに拘はらず、謡本と首引ではいけません。大概はお能を聞きに入らつしやる方が多いのですからネ。 客 いや私などもその一人だつたのです。クセなどシテが座つてゐるので、一生懸命と謡本に気を取られて居ると、舞台で足拍子の音がするではありませんか。顔を上げて見ますと、座つて居た筈のシテが何時の間にか立上つて、好い形で舞つてゐるんでせう。謡のどこで立たれたのやら全く惜しいと思つた事など度々あります。
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
  • 58–59其れだから吾々は、甚麼に厭やな顔をされても、充分に出来る迄にお稽古申上げる事は出来なくなる。其結果として能などをやつても、形は一寸器用に演り得ても重みがなかつたり、拍子を半を間に踏んでも、御当人が気が付かない。現に流義のお素人で、鼓もやれば能もやる人ですら、楽などは満足に行かぬ事がある。乾三や濤平は誠に未熱ではあるが、出来る迄稽古をしてやるのであるから、間違つた事は演らせない。畢竟するに、お素人は職業の暇々にお慰みにやる仕事である。如何に慰みだからとて間違つた事をやつて心の慰藉にならうとは思へないが、前に云つた通りに、半の間に拍子を踏んでも御自分は其れと気が付かないから、矢張り立派に出来たと思つて居るに相違ない。だから私の考へでは充分にお慰みになる様に勉強されて欲しいと思ふ。つまり何度直されても厭やな顔をせずに。
手塚貞三編『謡曲大講座 手塚亮太郎口傳集』(1934)
  • 15オ–15ウ「実にも誠の弱法師とて」合点して心持ちで謡ふ。此「実にも」の謡ひ出しを注意しないと、乗り過ぎて陽気になり、シテは踊り出す様に拍子を踏まねばならぬ事になつて、聞き苦しく見苦しくなるから、「げにも」と如何にも心持を緊めてじつくりと、乗りを外して謡はねばならぬ。前の調子から行きがゞり上、これは無理な注文の様であるが、然し謡から行つても、型から行つてもどうしてもじつくりと緊めねばならぬ処である。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第一』(1934)
  • 9オそれだから私達は、充分に出来る迄にお稽古を申上げることが出来なくなる。其結果、型は一寸器用に出来ても重みがなかつたり、拍子は半の間に踏んだりする。現に流儀のお素人で、鼓も能もなさる人ですら、楽などは満足に行かぬことがある。乾三や濤平は弱年の上に誠に未熟であるが、出来る迄稽古をしてやるから、間違つた事はしないつもりである。お素人方は職業の暇をにお慰みにさるのだから、お慰みになればよいのだが、半の間に拍子を踏んだのでは充分にお慰みとはいへまいと思つて、やかましくいふのだから、私等の心持も汲んで勉強されて欲しいと思ふ。
片山博通『幽花亭随筆』(1934)
  • 8[観世左近所演「遊行柳」について]「蹴鞠の庭の面、四本の木影枝垂れて暮に数ある沓の音」の形を面白く見た。正中にて下へサシ回し開いて「数ある」で右拍子、右一足をチヨツト出し、つま先を上げて「沓の音」と聞心をする。平安朝の公卿共が朝政をよそに蹴鞠に耽ける様子が眼に見える様だ。
  • 50その二三ヶ月後、東京の別会で、同じ小袖曽我を舞つたが、申合せの日に、父に稽古してもらつたのだが、富士野の御狩、の拍子がうまく行かず、馬鹿ツ‼ とどなられて足蹴にされた拍子にヂヤーツと小便をたれてしまつた。恐らく新小川町の舞台に小便をしたのは僕だけだらう。それを拭いてくれたのは書生時代の谷村直ちゃんと大槻さんだつた。
  • 282–283[観世左近所演「清経」について]家元は興にのりすぎるね。 いや、観衆へのあて場を心得てるんだよ。 まあ、随分ね。船よりかつぱと、の拍子は六ケ敷いですわね。 ヲドリの間ですわ。 いゝえ、走りですわ。あたしこわかつたの。 何が。 すべつたでせう。 あれは型だよ。 うそ、すべつたのよ。
  • 285[演者未詳「熊坂」について]はじめつから苦し相ね。床几にかけてゐて拍子を踏むのに、あんなに肩をうごかしてもいゝんですか。熊坂の弱つてゐる実感が出ていゝ。
野上豊一郎編『謡曲芸術』(1936)
  • 248–249[「鬘物の謠ひ方要領」梅若万三郎]又これは三番目物ではないが、「船弁慶」の「前後之替」といふ重い習を勤めた時、前の序の舞を随分稽古したが、毎日々々叱られて、どうも思ふやうに行かない、遂にある日、心持を内にしてかなりサラリめに、舞つたところ、父に今日はよく出来たといつてほめられたことがある。水を淀みなく流すやうに舞ふといふことがわかつたらそれでいゝのだといはれて成程と思つた。重い習のものではあり、それに、静は義経に名残を惜んで舞ふところ故、拍子を踏むにも後れるやうにするのであるが、さういふ気持に捉はれて、とかくあまりに重くれてしまふのである。
梅若万三郎『亀堂閑話』(1938)
  • 140–141尚、これも足の事でございますが、「組舞台などで何故あんなにシツカリした拍子が聞かれるのですか」と問はれる方がございます。拍子は、踏み方が悪いといけませんのです。宅の書生に千歳を許しましたらその稽古に、舞台で拍子を踏むのでございますが、ぞれが私の頭に響いてなりません。余りやかましいので、「モウ少し静かに踏めよ、そんなに乱暴に踏んでも音は同じだ」と注意致しましたが、トン〳〵〳〵トトン、トン〳〵、さう云ふ風に出来ないものでございますから、矢鱈にドン〳〵やりますのでひどい音がしまして、私が座敷に居りましてもこの拍子を踏む音がズン〳〵響いて来るといふ有様です。拍子は踵で踏むのでございますが、私どもの踏むのとは音が違ふのです。女物と男物と音が違ひます事は勿論です。又座敷では足は上げますが音をさせません。若し板の上で踏むやうに致したら、それこそ埃だらけになります。拍子はむつかしいものでございますから組舞台又は座敷では尚更で、大阪の皆さんが公会堂での、猶義の千歳をほめてくださるのは、たとへ少しでも出来かけてゐるのたと思ひます。
  • 192玉座、御八畳、直ぐ次ぎ十畳の御座敷にて相勤むる事、如此御側へ罷出候事は聞き居らざりし事故、唯恐ろしく忝なく仕るのみ。『玉の段「彼の海底に飛び入れば」の乗込拍子の時は、御座間近まで乗り込み拍子踏む時などは、直ぐ御座前にて何と申す言葉は無く恐れ入る』と亡父も申す。
喜多実『演能手記』(1939)
  • 60[「道成寺」について]「撞かんとする」と扇を上げてこれを打つ態、さて次ぎが左に紐を解いて右手に烏帽子を払ふ。どとへ飛ぶか判らない。足許へ落ちるのは、からまる惧がある。ヒラヒラと舞上つて、白洲へ落ちるのが一番綺麗だ。左手をかざして鐘の下へ行く。拍子二つが合図で、落下する鐘にシテの姿は没し去る。
  • 97父が「富士太鼓」の楽の中で、坪折にした舞衣の前が落ちかかつて来たのを、拍子を踏みつつ後へ廻りながら――挟み込んだことがある。後へ廻る型は無いのであるが、坪折を挟むために後へ向く、それを一つの美しい型にする。これなんが菊君の場合と同じ即妙的気転で、更に妙なるものであるが、これ程のことは、どこ迄も気転に過ぎないので、名人でなければ出来ないといふ技ではない。
  • 120–121[「道成寺」について]金太郎さんの時はその呼吸申分無いものだつたと楽堂さんは書いて居る。勿論さうだつたらうと思ふ。ただ金春の外から身体を廻しながら入る、あの飛込み方は非常にむづかしいものだらうと考へる。少くも流儀のよりは呼吸が複雑になる。それをピタリと呼吸を合せ得たら、その巧妙さは一層際立つて来る。ただその場合、飛ぶ、放す、前のコミ、モーションが目立つて、見物の眼にもはつきり受取れるに相違ない。見物もその両者の呼吸に一致する。つまり吸呼が判り易い。流儀のやうにトン〳〵といふ拍子でドンと落すのでは、見物は呼吸を合せて居る暇がない。その複雑巧妙な金太郎氏の鐘入を見た楽堂さんが、単純でアツケない流儀の鐘入に飽き足らないで、物足りなさを感じたのではないだらうか。
  • 167–168[デンマーク皇太子御覧「土蜘」について]作物に掛けた巣も打杖で破らずに、左手で一寸引搔くやうに破り、その隙から投げ巣を出し、ワキの方から出て紅葉狩のやうに台の上で拍子、飛び下りハタラキ。
  • 223[「景清」所演について]初同が大変し、つくり謡はれたので先づ気をよくした。「山は松風」のところで小鼓に工合をつけられたので、気を挫かれた。このところ稽古能の時といひ、今度といひ、余程たたられて居るとみえる。「なにがしは平家の侍」の拍子は今日初めて態とらしからぬやう巧みに踏めた。
  • 256[「松風」所演について]桶に水を汲み入れる手際に至つては、どうしてかう不器用かな、と嘆息するばかりだ。不器用をそれ程苦にしない。寧ろ器用だつたから、もつとそれを苦にしさうに思へるが、ここらへ来ると本気に苦になつて来る。 三つの拍子の綱と拍子が逆になつてハツとした。クドキの謡は例によつて持てあつかつた。ここも、いつも我ながら下手だなあと思はざるを得ない。どうしても謡が巧くなくつちや松風は駄目だとつくづく考へる。
  • 270五月五日、水戸公会堂舞台披。 この舞台は他の敷舞台と違つて、ステーヂの床をそのまま舞台に使用出来るやうに設計されて居る。床の下には幾つかのかめも入れてあるさうだ。拍子の工合も余程宜しい。
  • 283十二月二十五日、稽古能「融遊曲之舞」を勤める。 稍々タカをくくつて出たが、案外運びが滑かでなかつた。今年初めて板の冷たさを足裏に感じて感覚がない程だつた。 早舞も未だしだが、従来の場合より余程マシのやうだつた。遊曲の舞は、伝書通り、観世流では角々の拍子踏めず、意義を没してしまつてゐる。この小書はどうしても金春に限る。
  • 284一月二十六日、発会、「翁」を勤める。三番三は京都から忠三郎氏に来て貰ふ。 先日来風邪気だつたが、流儀の今年の慶福が、この一曲に在ると思つては、どれ程熱が出ようが、勤めないでは措かぬと決めて居た。幸ひに軽い熱だつた。がセキが激しかつた。これも舞台では出る隙もなかつた。自分の「翁」を勤める心持は、ただ正大の気に在つた。渾身的に芸術に祈るつもりであつた。調子も出たし拍子も正しく踏めた。
  • 301–302七月二十二日、稽古能、「土車」。これは袴能、直面ものはいくら一生懸命にやつてみても、深味を感じない。 道行で車を曳いて舞台へ入るところだけが気持がよい。「ひちりき笙の笛」の結ぶ拍子は、踏みながら浮薄さを感じた。これは喜多流の踏み方ぢやなかつたやうだ。
  • 322五月八日、名古屋能楽会、「賀茂」武雄氏、「桜川」実、「天鼓」喜之氏。 赤坂の舞台とここは、自分には大変舞ひいい。板のすべり工合である。「花鳥」の段が一番工合よく行つたやうだが、「浮かめ〳〵」の拍子は実に乱暴になつて、冷汗が出た。
観世左近『能楽随想』(1939)
  • 71[「元章自筆の謡本」所載「半蔀」型付の引用]よるべ末をと拍子を五ツふみ 一首を詠じト脇へ向折てこそと扇をたゝみながら右へくつろき常のごとく舞出す
  • 100–101[「藤戸」謡い方について]「水馴棹」と「さし引き」と二足づゝ下りまして「生死の海を」とズカ〳〵と出て常座へ廻りまして「彼の岸に」と四つ拍子を踏みます。 杖とか長刀は拍子の間へ突くものでありまして、こゝの四つ拍子へは二つ突きます。
  • 113[「井筒」について]次の「ほの〴〵と」へ四つ拍子を踏みます。どれは実に皮肉な型でございまして、何もこゝで拍子など踏まなくても宜い訳でありますのに、その皮肉な拍子を踏むことによつて却つて効果を生むので御座います。邪魔にならぬやうに踏んでそして感じを出さねばなりません。シテの技も難かしいが、舞台全体の空気がそれ以上に大切であります。
  • 121溌剌とした千歳の舞をうけて、天地人三才の拍子などの秘事を尽して、翁の舞を神々しく舞ひ了り「万歳楽」「万歳楽」「万歳楽」と納めてしまふと、実に安らかな暢び〳〵した喜悦の情に包まれて、重荷を下したやうな心になる。
  • 128もう一度、千歳を舞つて見たいネ。一昨年の大晦日、日比谷公会堂で 皇太子殿下御誕生の奉祝能があつた。その時私は翁で千歳は高輪(万三郎氏)さ。気持よささうに拍子を踏んで居るのを見て居てチヨツと羨ましくなつたネ。俺も千歳を舞ひたくなつちまつた。マア養子でも貰つて、それに跡目を襲がせて、隠居でもしてからの話だ。まさか観世大夫で千歳を舞ふつて訳にも行かないからネ。
三宅襄・丸岡大二編『能楽謡曲芸談集』(1940)
  • 27–28[金剛巌談]能舞台それ自体が楽器であると言ふ説明には、まづ舞台の床下にいけてある甕の話をしました。御承知の通り舞台の下には五ケ所に甕が埋められてありますが、あの五つの甕はそれ〴〵いろんな傾斜を持つて据ゑてあるのです。その度合によつて越、平、双、黄、盤の五調子が出て来るのです。その調子を定めるには、初め床下に甕を縄で釣しておいて、舞台に上つて拍子を踏んで見ます。その拍子の響き加減で、又縄を動かして甕を或は照らし、或は曇らして五つの調子を出し、愈々となつてチャンと埋めるのです。この五つの甕の上で踏んだ拍子が五つの基本調即ち、壱越、平調、双調、黄鐘、盤渉であります。
  • 102[「高砂の話」梅若六郎]キリへ来まして「をさむる手には」と四拍子を踏みますが、これは拍子をふんでしまつてから、タップリとお腹に力を入れて、大きくみせるところです。やはり充分心してします。
  • 105[「松風一式之習」金剛巌]本ノ留はロンギのトメを大小鼓が本ノ留の手を打つてシテは拍子を踏みます。本ノ打切は「哀れに消えしうき身かな」の後へ打切を打つのです。
  • 106[「松風一式之習」金剛巌]脇留はシテは「いとま申して」とワキへ辞儀をして立ち上り「返る波の音の」と拍子を踏みます、橋懸へ行きそのまゝ幕へ入つてしまひます。ワキがそれを見送つてとめるのであります。
  • 161[「富士太鼓現之楽」観世銕之丞]あの小書がつきますと楽が変るのです。初段をいくらか締めておいて二段目から調子は盤渉になります。従つて位もすこし宛引き立つてきて、だんだんと狂乱の心持になるわけです。それで二段目と三段目のはじめに、拍子をわざと外して踏むのですが、ここらでハッキリと狂ひの心を見せるわけでせう。拍子は踏み出しを普通に、踏みかへしを外します。
近藤乾三『さるをがせ』(1940)
  • 149装束はこれ位にしてをきませう。舞は千歳の舞も翁の舞も特別な舞で他に例はありません。翁の舞は小鼓によつて乱拍子式に舞ふものであります。この舞の中に天地人の拍子と申すものがあります。角のところでふむのが天、脇座の前でふむのが地、大小前でふむのが人の拍子であります。
  • 188–189主 そうならなくてはいけません。お能を御覧になるには、型を習ふ習はぬに拘はらず、謡本と首引ではいけません。大概はお能を聞きに入らつしやる方が多いのですからネ。 客 いや私などもその一人だつたのです。クセなどシテが座つてゐるので、一生懸命と謡本に気を取られて居ると、舞台で足拍子の音がするではありませんか。顔を上げて見ますと、座つて居た筈のシテが何時の間にか立上つて、好い形で舞つてゐるんでせう。謡のどこで立たれたのやら全く惜しいと思つた事など度々あります。
喜多六平太『六平太芸談』(1942)
  • 7–8[白衣の翁について]それと、もう一つ変つたことには揚幕だね。あの普段の幕揚をすつかり巻上げて、その前へこれも白の単の揚幕を下げるんだよ。ずいぶん思ひ切つたものだね。しかし型や丈句にはかはりはなく、ただ天地人の拍子の間の足数がずつと詰るんだ。それだけだよ。
  • 60けふの小塩は、どうも車の轅をまたいで前へ下りるのが格好が悪いね。今念のため型附を調べたんだが、やはり前から下りるやうにしてある。どうもをかしいね。一体前から下りる曲は外に一つもあるまい。折合が悪いよ。「都辺はなべて錦となりにけり」、型附には据える拍子があるんだが、あれも無理だね。それ程あとがはずまないんだからね。
  • 221[「道成寺」の乱拍子について]シテが一歩片方だけ踏み出して、しつかりと踵をとめます、それから爪先きをあげる、その足をやがて外へひねつて、また元に直す、それから今度はその爪先きを下ろして、踵をあげ、ついと足をひく。かういふ型を左、右の足でたがひちがひに繰り返しその型が左足から右足へ戻るたびに右足で拍子を一つ踏みます。これが舞の一段です。
  • 227–228父は「教へるわけにゆかないといふものを無理にといふもりも何もない。ただ私もすこしばかり鎗をつかふので、あなたがあの鐘引の綱をはなすところを見ていると、鎗を繰り出すのと全く同じコツのやうだ。恰度おシテが拍子を踏んで腰を浮かす途端に、さつと綱をはなす、その意気込みといふか、やりかたは正に鎗法と異るところがない。あすこで鎗を繰り出せば、きつと対手を突き倒せる。鐘引は、まづ武芸と同じ行き方だ。……」さう言ひますと、久もつい引き込まれて、「鐘引も武芸と同じですかな。武芸のことは存じませんが、腰でなく、足を見ています。」さう言つて、足の話に興が乗つてしまひました。久のコツといふのは、つまり、足の浮き方を見るのです。足の浮いたところで綱をはなせば、きつとうまくゆくといふのでした。
野口兼資『黒門町芸話』(1943)
  • 106–107[「運びと拍子」の一節]ノリ込み拍子、これは当然の事なのだが間違へる方がある。左の手の出て居る時は左足から、右手の出て居る時は右足から乗込むのです。
  • 107[「運びと拍子」の一節]クセの始めに踏む一つの拍子も遅くもなく早くもなく、嵌りよく運ぶ様に注意する事が肝要です。鬟物は鬟物男物は男物の積りで心して踏まなければならない。謡の方でも拍子を踏む所は嵌りよく加減をしてうまく謡はなければならない。又立つた時にはよく腰を入れてあごの出ぬ様にしなければいけません
  • 107–108拍子の種類にも色々あり、物柄や場所に依つて、踏む心得も各々違ふ訳ですが、六ツ拍子は始め二つはドン〳〵、あとの四つはトン〳〵トドンと踏む。ノリ地の時はドンドントントンドンドンをなる。七つ拍子は始め一つをドン、二つ目を消し、三つ目をドン、あとの四つは六つ拍子の場合と同じ踏み方です。又たゞの四つ拍子も同様です。九つ拍子は始めドン二つ、三つ目を消して、四つ目をドン、次いで結び、結びは右からト、トンと三つ、それから先よりトドンに踏むのです。これは場合に依つては結びを踏まずに右ばかり二つ詰める事もあります。併し主にこれは、例へば綾鼓の「一念慎恚の邪姪の恨み」の所の如く、位物に置いて踏むのである。巴の「罪も報ひも」、鉄輪の「炎の赤き」のムスブ所も同様です。
  • 112–113[「仕舞の心得」の一節]拍子を踏むと形がくづれますが、それは膝が伸びるから腰がくだけるのです。膝と腰とは非常に深い関係があります。拍子の踏み方も葛物は葛物の様に、荒い物は荒い物の様に心して踏まねばなりません。クセの始めに踏む一ツ拍子や、大左右をして地の前でふむ一ツ拍子などは曲の如何に拘らず、品よく荒くなく踏みます。謡の方もその拍子が ある時心持して謡ひます。又乗込拍子も曲によつて違ひますが、大体かゝつて踏みます。併しその為荒くなつてはいけません。 実盛の「会稽山に」や、三山の「緋桜子」の左拍子などは特殊な踏子ですから、確り拍みます。
杉山萌圓(夢野久作)『梅津只圓翁伝』(1935)
  • 52翁の養子になつてゐた梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)などは遠方の中学校へ行く為に早く起きやうとすると、早くも翁の足踏の音が舞台の方向に聞こえるので、又夜具の中へ潜り込んだといふ利彦氏の直話である。かうした刻苦精励が翁の終生を通じて変らなかつた事は側近者が皆実見した処であつた。
喜多実『演能手記』(1939)
  • 298[瀬尾潔追善能における「景清」所演について]「思へども腹立ちゃ」など、前よりも技巧としては冴えがなかつたやうだし、「何某は平家」の様子も、どうした加減か自分の技の程度では出来さうもないやうな巧妙な踏み方が出来たのも、今度はまるでいけなかつた。結局全体として前程冴えがなかつたのが、自分には何だか喜悦に浸れないものがあつた。