近代能楽用語索引Index of Nō-related Terms in Modern Texts

近代芸談における技芸用語

主にシテ方の技芸にかかわる用語の索引。姿勢、視線などの重要と思われるトピックのほか、『能楽大事典』(筑摩書房)に立項される技術用語を対象としました。同表記・別意味の語を別に立項した場合(例:「運び」を歩き方と謡い方で別立項)も、逆に同意味・別表記の語をまとめて立項した場合(例:眼、目、目玉)もあります。

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いえもと【家元】

松本長『松韻秘話』(1936)
  • 54その型は家元にも覚書が蔵つてある筈です。
喜多六平太『六平太芸談』(1942)
  • 3[稽古はじめについて]なにしろ旧幕時代は、いつでも弟子部屋には各藩のお役者で扶持を貰つて修業に上つて来ていた者が三四十人位づつは居たさうだから、それらの連中だけでも随分賑やかだつたさうだよ。近頃は、囃子は高砂、江口、猩々の三番にしたがこれはその時々の家元によつていろいろ変つたらしい。
  • 17健忘斎古能が代々の家元の中ではわりあひに学問もあり、面の鑑定なども確かだつたといふが[中略]流儀の本面をすつかり整理したのはぢい様だからね。だから家元の本面の裏には必ず喜多能静と金字で入れてある。
  • 19さすがの松田もすつかり弱つてしまつて、森さん済まないが一寸ぬしさま(そのころの弟子達は家元のことをかう呼んだ)に聞き忘れたことがあるから、これからも一度帰つてくるからと云つて、あたふたぢい様のところへ引返して来て、
  • 25[弱法師の面について]森恕軒が宝生流の型を写して置いたとかいふのを持つて来てくれて、失礼だがこれはお家元へ御寄附いたします。どうかお納め下さいと云はれたんだが、
  • 74[一調について]昔はなかなかやかましくつて、家元でなくちやあ出来ないことになつていた。
  • 77昔から脇方では開口といふものは非常に重いもの、無論家元の一子相伝で、弟子家には絶対に勤めさせない。しかも必ず家元揃ひといふくらいだから容易ならぬものなんだ。
  • 78[開口について]さういふ折に出るものなんで、脇方の家元でも稽古はしたが一生勤めなかつたといふやうな人もあつたらうと思ふね。
  • 81昔から三老女なんかおそらく弟子家では勤めた者はある筈もなく、また家元でも勤めず死んでしまつた人もあつたらう。
  • 112光圀公申されるには、自分はこのたび鐘馗を直面で舞ふことを家元から許された。直面でやると云ふことは、元来異法なのであるが自分は年も寄つているので、特に許された。しかしこれは、家元でも非常に重く扱つて、誰にでも許すといふことはしないといふ。そこまでに芸道に於ての自分を家元が重く取扱つてくれた
  • 157子供のころ一番嬉しかつたことで、今でも忘れないのは、自分等よりはずうつと年をとつた大先輩の人達から、家元扱ひされることだつた。 なにしろ此方は家元といつても、それこそまだ駈出しの青二才だらう。芸から云つても人間としても、ほんたうの小僧つ子さ。それが一歩楽屋へ入ると、ふだん小鼓や太皷の稽古に行つて散々叱り飛ばされてるお師匠さんの、三須錦吾さんや松村言吉[隆司翁の父]さんたちでも、忽ち態度が変つて、喜多のお家元さん今日は、御苫労さまなんとか云つて先方から真面目に挨拶されるんでね。
  • 158[前頁の続き]芸の上でも、少しぐらい此方が無理を云つでも大抵よくきいてくれて、まああなたはお家元だからその通りお附合ひしませう、なんて調子でね。それで居て舞台へ出ると少しも調子をおろして小僧扱ひにするなんてことはない。精一杯やつてくれる。
  • 162私が子供時分に葛野さんへ行きますと、市郎兵衛さんの未亡人が、きつと謡の文句を訊くのです。そんな遠いものはまだ知りませんといふと、お家元だからどんな遠いものでも早く文句はお覚えにならなくてはいけませんよとしみじみといつてくれました。
  • 167白井平造の器用な美しい謡は気に入らなかつたので、その隠居の弟子共がいて頑張るものだから、浜町[家元]の謡が何時までも白井風にならなかつたのだ。
  • 171(註)当時右京氏は、金剛流家元の身で弟子家の謹之輔氏に寄食していたのである。
  • 173観世新九郎(観世流小鼓家元)といふ人は小柄な品のいいお爺さんでした。
  • 180[友枝三郎について]三年いるうちに、能は西王母と猩々といつたかね、二番だけ松村浅次郎(白井平造の弟)に習つて、舞ふのは家元に見てもらつただけだといつていたよ。謡は白井に、これも一二番習つたさうだ。然し郷里へ帰つて養父に、家元で能を二番見て貰つたと話したら、お前は仕合せだ、その分では後の稽古が続くかも知れないよと大いに喜んだといふことだ。
  • 182[観世元規が華族黒田某に対して]普通ならば流儀にないものを無闇に打たれては困ると、家元の権式だけででも止められる筈なんだが、何しろ兄弟子ではあり、おまけに有力な後援者でもあるので、さう頭からも止めかねたと見えて、柔らかな調子で中止をするやうに注意をしたんだが、
  • 197[鷺について]子供としては十四歳まで、老人になりましては、家元が六十歳、弟子家では七十歳にならないと許されない掟になつてをりますが
  • 207ある日友枝が、しみじみと言つてくれたことがあります。人が見てくれるとか、人に賞められるとか、さういふことをあたまに置いていてはいけない、家元の芸といふものは、第一に正しく、真つすぐな芸といふことを心がけなくてはいけない。
  • 208家元として動かない一流の芸風を立てる迄、勿論それは長い歴史をもつた伝統的な芸術といはれる能楽のことでありますから、勝手放題にやれるはずのものではありませんが、然し正しい典拠は典拠、きまつた形式は形式として、そこにまたおのづから独創的なものを生かしてゆく。
  • 209[石橋の舞納めについて]家元を継いたのが明治十五年、私の九歳のとき、[中略]幸ひ両曲とも無事に勤めまして、私の本懐を遂げましたことは、まことに生涯の思ひ出、祖先に対しましても、また喜多流第十四世の家元としましても、無上の面目と存じてをります。
  • 210高潔侯は私の先々代、即ち十二代の家元六平太から皆伝申しあげたほどのお腕前でありましたから、お前の祖父から習つた通りをすつかり伝へてやるといふ思召しでお稽古をして下さいましたし、
  • 212この容堂様にも十二代の家元から皆伝をお許しいたしましたところ、藤堂様がこれをお気になすつた。
  • 215[老女物について]鷺と同様、家元が六十歳以上、弟子家は七十歳以上にならないと勤められないことになつていますが、容堂様は私の祖父に卒都婆をやれといふ御註文。
  • 216[前頁の続き]若い家元といつても、十二代はその頃四十歳前後、容堂様と年配も同じのはずですが、どんな心持で老女物をやるか、それを試めしてやらうといふお考へもあつたでせうが、
  • 243一つ催しをやつて当座を凌ぐことにしようと父が計書を立てたらしく、それには千代造などといふ名前では子供ぽくて家元らしくないから、六平太を名乗れと申します。
本田秀男編『謡曲大講座 櫻間左陣夜話 附櫻間左陣小話』(1934)
  • 9ウ[左陣の逸話]とう〳〵翁の疳癪玉は破裂してしまつた。「それで家元といへますかツ」と。八郎先生もさすが酔もさめはてゝしまつたといふことだ。
柳沢英樹『宝生九郎伝』(1944)
  • 5家齊が一橋家から入つて将軍職を襲いだが、彼は一橋家に在時既に宝生を稽古してゐた。時の家元は将監英勝で、即ち九郎の曾祖父に当る。これを機会に宝生流は柳営に於いて急に勢力を得るやうになつた。
  • 7家元の嗣子であるから家元自身が手をつて教ゆべきであるが、この道では却て他人に教へさせるといふ習慣であつた。これは親子であると兎角甘へたり、甘へさせたりする事があるが、他人ではさういふ仮借がない上に、弟子家では家元の御曹子を好く仕立てねばならぬ責任があるのでそこに双方の励みが加はる訳である。[中略]彼[幾右衛門]はまた家元にも大変信任があつて、前述の弘化五年の勧進能の際には松本彌八郎と共に支配人格で活躍してゐ[る]。
  • 11[石之助は]江戸末期の文化の影響をうけて而かも生粋の江戸子で、何事も粋を好むといふ性質であつた。これが彌五郎には気に入らなかつた。宝生の家元を嗣ぐ御曹子としては、もつと武家気質であつて欲しかつたのであらう
  • 12[嘉永六年]十一月廿五日より本丸表舞台に於いては十三代将軍家定の将軍宣下能が五日間催されたが、その時には彌五郎は出勤しないで、石之助が家元格として連日勤めてゐる。[中略]石之助がすべて家元の格式で出演したのである。[中略]隠居した紫雪は文化八未年十一月廿七日祖父豊郎将監の家督を嫡孫承祖が聴許されて以来四十三年の長い間家元の職にあつた。彼の父権五郎邦保が当然十六世家元となるべきであつたのを、祖父彌五郎将監よりも先立つて、邦保は文化六己年四月九日に病死したので父の代を抜いて爾五郎が相続するやうになつたからだ。
  • 13[彌五郎について]彼が金沢に隠退してからの生活はそんなつましいものではなく、前家元としての権式を保持して行くだけ十分の準備はしていつた筈である。然るに
  • 14嘉永七寅年一月三日将軍家に於ける謡初式には家元となつて始めて石之助は「東北」を勤めた。家元として名誉ある盛儀であるこの謡初式といふのは江戸幕府の正月に於ける最初の行事で、三日の夜将軍出座して諸侯列座の面前で烏帽子素袍上下の威儀を正した観世、宝生、(金春、金剛と交替)喜多の三家元が着座すると奏者番の指図で、先づ観世大夫が四海波を平伏して謡ひ続いて宝生(或は金春、金剛)の東北、喜多の高砂と三番の囃子がある、白練の時服を賜りこれを三家元は素袍の上から坪折つて着し弓矢立合を舞ふ。それが済むと将軍家が裃の肩衣を脱いで投げ与へ、諸侯もこれに慣つて肩衣を投げる。さうして大夫には盃が下される。この肩衣は後日各々の邸に持参すると祝儀に代はるのである。 この嘉例が新将軍家定の前で行はれた。十八歳の家元九郎は無事それを勤めたのである。
  • 15[減禄が]宝生流に於いては、これが家元を排斥する運動の導火点となつた。新家元の代になつて(中略)実権を握らうといふ腹黒いものが数人ゐた。八子生之丞、己野松五郎、日吉某の三人が主謀者で、今回幕府より減禄を申渡されたのは九郎の如き意気地のないものが家元になつてゐるからで、あゝいふ者が家元になつてゐては吾々の生活も益々不安であると言つて、仲間を説いて廻つた。(中略)若き家元与みし易しと侮る手輩が勢力を得て来たのである。(中略)彼等三人は家元より破門された事になつて舞台に出ることは出来ない。
  • 17[維新後]九郎はいつ旅籠町の邸に踏み止つて今までの家元の生活を続けて行く考へはなかつた。
  • 20楽屋に顔を出すと、実と鉄之丞の喜びやうは一と通りではなかつた。ワキ、囃子方の家元連中も見えてゐたが、彼を下にも置かぬといふ優待振である。
  • 23[岩倉邸行幸啓について]前田侯は宝生流であるからかういふ場合には当然家元九郎を呼んで準備を命ずる筈であるのに、何故か当時侯と九郎とは具合が悪かつたので
  • 24[梅若実が]岩倉公へは「本日御楽屋に宝生流の家元九郎が御手伝に上つて居ます。どうぞ彼に臨時に一番舞はせて頂きたうございます」と嘆願した
  • 28観世の弟子家であつた彼[梅若実]は九郎を何処までも家元として立てゝゐた。流儀は違ふが、彼と肩を並べようとする野心などは遂に抱かなかつた。
  • 32[喜多流松田亀太郎について]当時家元のない彼は金剛の舞台へ時々出演してゐたので、この時も金剛の家の者として出勤した訳である。
  • 36喜多は未だ千代造(現六平太)が宗家を相続せぬ前で、東京に代表的人物がゐないので文十郎が招ばれ、以後家元代理を勤めるやうになつた。
  • 40宝生の連獅子が家元父子に限つて許さるべきことは茲に態々説くまでもないが宝生家では三十八年振でこの秘曲を演ずる機会が廻つて来た。
  • 43[松本]金太郎の養父彌八郎も家元に対しては忠勤なる功労者で、彼の弘化五年の勧進能の際には殆ど総支配人の格で奮闘したのである
  • 47金太郎も家元第一主義で、如何なる場合でも家元を尊信する事は人後に陥ちなかつた。
  • 49玄人の門弟の外は限られた特殊関係の稽古しかしなかつたので、家元として一家を張つて行くには人知れね苦労があつた。
  • 59[木村安吉について]橫浜方面に流儀の地盤を開拓して、後に定期的に家元一行の能を催張するやうになつた。
  • 69明治二十八年には矢田八太郎の編集になる「小謡華実集」上下二冊が江鳥より上刻されてゐる。その奥附には「校訂者宝生九郎編集者矢田正義」と明記されてゐるから、家元の承諾を得て出版されたものであらう。
  • 70九郎は当時謡本の出版についての家元の権利といふやうなものを良く識らなかつたし、またさういふ事に恬淡でもあつた。然し其後に九郎の周囲に集る崇拝者の中に法律家も居るやうになり、流儀謡本の一切に対して家元が統一の責任があることを感知するに至つた。
  • 70彼には未だ旧幕時代の大夫のお習に依つて、さういふ素人の稽古は家元のなすべき領域ではないと考へてゐたらしい。
  • 76主唱者は観世清廉、喜多六平太、金剛鈴之助等の若い家元達で、先づ九郎、実の元老の所へ相談に行くと、両人は余り賛成ではなかつた。
  • 77当時両元老と、若い家元達とは事毎に対立する傾向があつた[中略]若い家元の代表者ともいふべき清廉は、実とは表面は兎も角、遂に胸襟を開くに至らずであつたが、九郎に対しても事毎に反抗的態度に出る嫌ひがあつた。これは先代清孝と九郎とが同年で、俱に若年より家元しての苦労を積んで来たのであるが[中略]たゞ磊落な、清廉が厳格なる家元的態度を嫌つて、漂々としてゐたのが、彼の峻厳なる性格と相容れなかつたのである。六平太や鈴之助に対しては、その生長を見るに冷淡であつたやうに言ふ者もあるが、彼はこれ等の若い家元の背後に於いて、彼等が家元として失態なからん事を常に気遣つてゐたのであつた。
  • 78[前頁の続き]右京(鈴之助)や六平太がその晩年に至り、大夫らしい大夫として斯界に重きをなしたのは、九郎が先に家元学の範を示したに依るものである。九郎の一生は能楽の権化、家元の典型として見るべきである。
  • 84[野口]政吉が妻帯して同じ深川の冬木町に別居するまで、家元の所に同居してゐたといふのなど、師弟の間を通り越して親子の情愛が籠つてゐて奥床しい。
  • 88[囃子方に対して]若くても家元にはそれだけの儀礼を失はなかつたし、若い囃子方の演奏に対しては注視の眼を怠らず、少しでも気に入らぬ点があると、演奏後傍へ招いて彼の得心の行くまで繰返させて見たりした
  • 90九郎の立場になつて見れば、前述の如く家元としての責任があるので、珍しいものは一番でも多い方が宜いといふやうな単純な考へにはなれない。
  • 91流儀の現行曲として存在してゐながら、いざといふ場合演奏を断るやうな事があれば廃曲も同様であるが、家元としてはそれでは責任は立たない訳で、それは彼の最も嫌ふ所であつた。(中略)家元としての責任は、曲の軽重、遠近に拘らず、何を所望されても直に応ずる事が出来なければならぬといふのが彼の常識であつた。
  • 92[宝生]金五郎の先代新朔の家元時代から、或る弟子の問題で芳しくない間柄になつてゐたが、金五郎の代になつて一層悪化してゐた。
  • 100この年[明治三八年]二月廿一日、下掛宝生流の家元宝生金五郎は六十五歳で病没した。(中略)尤も現在下宝生では立派に家元を継いだ新を始め門弟には東条兄弟、尾上兄弟と先代からの遺弟が揃つてゐるから、他流には引目はとらなかつた。
  • 102宝生宗家十六世の家元として彼は少年時代より多くの苦労をして来たが、家芸も彼の代になつて絶えなんとしたのを復活して、而も数々の光栄に浴してゐた。[中略]殊に家元といふ重責の地位にゐたので、如何なる場合でも完全な技芸を演奏するのでなけれぱ、良心がこれを許さなかつた。
  • 107年齢は[桜間]伴馬の方が少し上だつたが、家元である九郎には常に兄事してゐた。[中略]当時金春流の家元は微々たるもので、その芸統は桜間に依つて継がれなければ流儀の将来は憂ふべきものであつた。
  • 111笛方の一噌要三郎は梅若のお先棒を担いで反対の態度を示し、これに家元の一噌米次郎が加担したので、笛方は梅若に一噌流全部が買収され、他の舞台では森田流の笛ばかりで済まさぬばならぬ事になつた。当時の森田流は家元森田初太郎の外は鹿島清兵衛、寺井三四郎位で、いよ〳〵困つたら大阪より森田操を呼ぶつもりであつた。
  • 115[宝生]嘉内が上京の決心をしたのは、二男英勝を家元の所で一人前にしたかつたからである。
  • 117[幸流について]家元は金春流宗家が預つて二十数年の時日を経過した。
  • 134[松本金太郎について]彼は飽くまでも家元至上主義であり、流儀に対する最大の功労者である事は何人も認むる所であらう。
  • 135[全頁の続き]彼は清廉、淡白で私利私欲に対して野心なく、何処までも家元本位であり、流儀本位であつたので、一身の栄達など殆んど願みなかつた。[中略]能を舞ふ場合でも、装束を着けてから鏡ノ間で家元に隠れて一杯引掛けて幕にかゝるといふやうな愛嬌もあつた。
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
  • 51づツと古い話であるが、犬公方様と云はれた常憲院様の時代に、斯う云ふ事があつたさうだ。其時代は喜多流の全盛で、将軍も喜多流を遊ばされた位であつたから、喜多流を御ひいきなさるのは、まア当然であらうが、其時将軍は他の四流の家元に向つて、悉く喜多へ稽古に行けと厳命された。
  • 51斯う云ふ事は前後に例のない事だから、いづれも大恐怖を来した。其結果として、他流の家元は言を左右にして、喜多に稽古しなかつたが、私共の当主は将軍の命に従つて喜多へ稽古したさうである。此話の真偽は解からないが、一の話柄として伝はつて居る。
  • 51–52これは将軍の命とは云へ、修業期を過した一流の家元が、何の必要もな要もなしに他流に稽古に行くといふのは、大なる迫害で、家名にかゝはると云へば云へるが、然し又熟考すれば、芸術の為めに忍ぶ可らざる事を忍んだものである。
  • 73進藤流の家元進藤権右衛門は観世流の座付でワキ師の首席なのであつたが、或る年に此開口の大役を仰せ出された時、これを演りそこなつたので遠島に処される事となつた。権右衛門は時の名人であつたので、酒井雅楽頭が甚く之を惜み、表面は遠島に処した体にして、権右衛門をば其邸内に隠して置いた。
  • 161–162斯界の流派は少ないやうで中々多い。昔は相応の格式のあつた家でも、時代の変遷に余儀なくせられて、絶家したもの亦少なくないが、それ等の流儀は、テンデ流儀の名前さへ知らぬ者が多い。 脇、狂言、四拍子、の家元で絶家して了つたものは沢山ある。中には家元が絶家しても、其流儀丈け残つてるものも亦多い。
  • 162威徳の家は、極古い家で、徳川幕府以前には一流の家元であつたが、徳川幕府が、始めて能役者制度を定めた時、其申出やうが他より遅く、其時既に四座の太夫及び其座付き/\が定まつた後だツたので、家元たる事は許されず、と云つて今春惣右衛門や葛野の弟子になるを潔しとせず、幸五郎次郎の弟子家と云ふ名目で、当流の座付を仰付けられたのである。
  • 164–165其後新九郎はお詫びがかなつて帰参は許されたが、此時から当流の座付きを仰せ付けられ、宝生新九郎と称して居た。其家から出た大鼓方が宝生錬三郎の先祖である。其後数年の後新九郎は、元の如くに観世の座付きとなつて性も元に復したが、錬三郎をば私の座へ置いて行つたのである。錬三郎は芸も中々達者であつたさうだが、何しろ家元の数と云ふものは定まつて居るから、新九郎 のアシライ鼓と称し、錬三郎派と云つて居たのである。此家も今も絶えてしまつた。
  • 168–169【春日流】 笛の春日流は家元の跡も絶え、芸も亦東京には絶えて了つた。春日の家元は、旧幕時代には観世の座付きで、囃子方全体の正席の家であつて、百五十俵に十人扶持かを頂いて居た。だから囃子方のうちでは一番格式のよい家柄であつたのだ。芸風は一噌流や森田流とは固より違つて居る。
  • 169【大蔵と鷺流】 狂言の大蔵流は、今は家元の跡は絶えて居るが、誰れも知つてる如く、東京には山本東次郎、西京には茂山忠三郎同千五郎が居る。東次郎は大蔵の家元の弟子家であるが、家元には大蔵八右衛門と云つて分家があつた。これは私共の座付きで家元並の待遇を受けて居たのである。 狂言の鷺流も古い流儀であるが今は絶えて了つた。
  • 170【幕府の抱へ外の役者 】今日の人には其区別が解からないであらうが、今日各舞台に出勤して居る人の中にも、昔は幕府のお抱へでなかつた家がある。 シテ方では西京の片山なども矢張り幕府のお抱へではなかつた。大鼓の大倉流なども古い流儀で豊臣時代には家元と称して居たさうだが、徳川時代には矢張り幕府のお抱へにはならなかつた。それから狂言の和泉流、これは尾州藩のお抱へであつたのだ。
  • 170–172【旧幕の席次】 維新後、楽師が幕府の禄を離れて以来、楽師の席順などは滅茶々々になつて了つたが旧幕時代には其れがチヤンと定まつて居た。幕末時代の楽師の席次は左の通りである。この中には今は絶家したものもあり、又職を転じたものもある。以上は家元及び家元並丈けであつて、一役及び地謡は此下に席を与へられたものである。 右のうち小鼓の幸五郎次郎と幸清次郎と大倉六蔵及び狂言の大蔵千太郎と鷺仁右衛門は家督順に依つて席を定められたものである。
  • 183–184【故観世紅雪 】観世紅雪(鉄之丞)も終に亡くなつたが、同流の今日として誠に惜しい事をした。紅雪の父の鉄之丞は、観世先代の宗家清孝の後見をして居た。此人は非常な堅人であつて、能役者仲間の信用も厚く、十三代将軍の御稽古も先代の鉄之丞が家元に代つてして居た。其功によつて五十石加増になり太夫並として優遇せられ、他の家元に準じて唐織も拝領した。けれども惜しい事には男盛りの三十九歳で亡くなつてしまつた。病気は今の胃癌である。
  • 226世間では私などは只順調に平坦な道を行るいて来て、今日あるに至つたと思ふ人もあるかも知らぬが、恐らくは今の能楽師中、私程人に邪魔をされた者は他にあるまいと思ふ。其れぢや何麼人に何麼邪魔をされたかと云ふに、一々之れを数へ挙げた日には大変であるが、其最も甚しいのは、私は廃物にされて了つて家元を横領されやうとした一事である。今でこそ流儀は泰平無事で、誰一人小言云ふ者もないが、維新前には心の邪な者が揃ひも揃つて居たので、兎角紛擾が絶えなかつた。其れで私を廃物にして家元を横領しやうとしたのは八ツ子生之亟、巳野喜松外一名が発頭人であつた。
  • 202弥右衛門 大蔵流(狂言)の家元、今は此家元は絶家した。 伝右衛門 鷺流(狂言)であつて、鷺を姓とし家元並に取扱はれて居たのであるが、今日は絶家してしまつたのである。 仁右衛門 鷺流(狂言)の家元であるが同じく絶家したのである。 八右衛門 大蔵流(狂言)で矢張り姓は大蔵、家元並の取扱ひを受けた家柄であつたが、絶家して仕舞た。
  • 227–228其当時は一般の能役者は、非番当番があつて陪扶持を頂いて居たのであつたが、其後間もなく非番当番の別なしに平扶持になつた。これも幕府のお沙汰であるから私は勿論、他の三座とても、誰れ一人反対を唱へて之れを如何しやうと云ふ者はなかつたのだ。然るに蝦夷行の請願で失敗した八子は、此処ぞ機乗すべしと為し、先づ第一に巳野松五郎を説付け、其れから其れと流儀の者十数人を煽動し、私を廃物にして家元を横領しやうとした。其理由はと云へば実に滑稽極まる話で陪扶持を平扶持にされたのも、畢竟家元の私が愚鈍な結果だから、彼の様な者を家元にして置いては流儀の為めに甚だ宜しくない。須らく九郎を廃して貰ひ度いと云ふので、之れを訴訟に及んだ。
  • 228–229少しく事理を弁へて居る者から見れば直ぐ解る事で、何も宝生座ばかりが平扶持にされた訳でなし幕府の都合で各座悉く平扶持にされたものを、家元が愚鈍だとか何とかと故事を付けたからとて、オイソレと元の陪扶持に復す道理がない。即ち彼等訴訟の裏面の、自分等が家元を横領して重代の装束金品を横奪しやうと言ふ悪計が手に取る様に見えるぢやないか。処が其れが馬鹿な証拠で、芸事を以て争つても迚も及ばないから、終い此様無法な訴訟に及んだのである。
  • 229–230然るに維新後になつて仲間からの申入れがあつて巳野に日吉の二人は舞台に出す事にした。一度ならず二度迄斯う云ふ事があつたのだから、充分に身を謹まなけりやならんのであるが、精神の腐つた者と云ふものは悲しいもので、巳野喜松は再び悪事を計画んで、又もや私を廃して家元を横領しやうとした。元来巳野と云ふ男は八子よりは謡は上であるが、形は固より知らなかつ た。其れで家元にならうと云ふのだから、其大胆には驚かざるを得ない。
  • 230で其頃巳野は根岸の前田候にお出入りをしたり、岩倉公に伺候したりして居たので、頻りに私を中傷し、宝生流は巳野を措いて他に人がない様に云つて、そして自分が家元にならうと計画した。
手塚貞三編『謡曲大講座 手塚亮太郎口傳集』(1934)
  • 2ウ秘曲実演に就て 来る五⽉⼆⼗⽇(昭和三年)、⼤阪能楽殿に於て、私は関寺⼩町の能を勤めさして頂きます。[中略]古来弟⼦の分としてこの秘曲を勤めるといふことは、その例頗る稀であるのと、年は還暦を越えても芸が頗る未熟であるのと、この⼆つの点から︑実演に就いては幾度か躊躇致したのであります。が観世⼤夫の御厚意と拍⼦⽅諸家元の共演快諾と、それから同好家諸⽒の⼤なる御声援と、この三つに⽼の勇気を⿎舞して愈々秘曲演奏の決⼼を得た次第であります。
片山博通『幽花亭随筆』(1934)
  • 48–49七つの年だつたと思ふ。はじめて安宅の子方を室町の舞台でつとめた。シテは兄(家元)だつた。我等より引き下つて御出であらうずるにて候、のところを笑つて、どうしても言はないのだ。自分には何んの事か少しも分らず不思議に思つたが、後になつて聞いてみるとかうだ。よろ〳〵として歩み給ふ、で金剛杖にすがつて二三足正へ出るときに、本当によろ〳〵としたのだ相だ。
  • 89[観世流における鎮め扇について]次に白骨と黒骨の区別を云ひませう。白骨と云つても、黒に対して白と云つたので、本当は黄色です。此れは一般に使用するものです。黒骨の方は家元の許がないと使用出来ないのがキマリです。然し、そんな規則を知らず、イキな扇だ位に考へて使つてゐる人もある事でせう。
  • 129[梅若問題]だがね、仮りに本当に梅若流が出来るとしてだね、よしつてんで独立を許すのかい。そりや形式的にでも観世流へ詫証文を入れるとか、一度観世流にしてから梅若にするんだらうよ。随分まはりくどいね。梅若流の家元になりたいため三拝九拝する六郎と云ふ人もあんまりよい男つぷりぢやないね。そこが可愛ところさ。さう云ふ一本気が人に可愛がられる所以だね。
  • 129–130それにても今の梅若と観世ぢや大して違ふまい。何が。すべて型でも謡でもさ。で独立となると型を変へなくちやなるまい。各流家元の前で型の試験があるとするね。ふん。そこで梅若が一つのものを舞ふとする。うん。さうして各家元がこれなら梅若流と言つてよろしいとなる。待ち給へ。サシ込開キするね。そりや観世にある。小廻リする。そりや金春にある。かざす。そりや宝生にある。
  • 280–281[五月例会能評判記(京都観世会)]此の間の喜多さんの清経を御覧になりましたこと。あたし、手塚さんの関寺を拝見しましたわ。あのね………おい〳〵始まるよ。(しばらくの間は静かなり。謡の声にまじりて、ひざを打ちて拍子をとるかすかな音、本をめくる音のみ聞ゆ。)いゝわね。矢つ張り家元ね。自動車来て。さう。ぢや失礼。
  • 281[五月例会能評判記(京都観世会)]どうだい、君。 あとはつまらないから帰りませうよ。まだ若いね。あれで芸に時代がつけばいゝね。随分おまけの多い清経ですね。面白いわ。 ツレは誰。家元そつくりの謡ね。 神戸の伊東さんの息子だよ。
  • 282[五月例会能評判記(京都観世会)]君、お能は面白いですか。 えゝ。分らないながら、何ものかを感じますね。ワキが何ともなくいゝわ。 あたし能好きある。何故あたま、モダーンですか。変です。アイドント。家元は興にのりすぎるね。いや、観衆へのあて場を心得てるんだよ。まあ、随分ね。船よりかつぱと、の拍子は六ケ敷いですわね。ヲドリの間ですわ。
  • 284–285[五月例会能評判記(京都観世会)]大江さんは老巧だよ、 ねえあなた、大江さんなんか嫌ね。 大江さんは枯れてゐる。 君、何つて謡てるのか聞えるかい。ボシヤ〳〵の中に大江一流の味がある。 君、大江さん崇拝か。 いゝものは何でもいゝさ。後の出がいゝ。僕には分りません。家元もいゝが、今日の中では此が一番いゝ。序の舞のうまさ。切のうまさ。絵だ。美だ。
  • 386–387[観世友資所演「田村」について]キリの型など十分とは申せませんが、ある程度までは気分も出て居りました。どうか此の意気、此の元気で、今後大いに勉強して頂きたいと存じます。これはお家元に申せばよいのか、観世会の方に申せばよいのか存じませんが、どうか友資さんにどん〳〵能を舞はせて上げて、勉強の機会を与へてあげて頂きたいと切望します。
観世左近編『謡曲大講座 観世清廉口傳集 観世元義口傳集』(1934)
  • 1オ[はしがき]本書は先代家元清廉と。その実弟で私の実⽗なる元義との芸話集である。編中のものは雑誌能楽⼜は能楽書報に掲載されたものであるが、その誌主なる坂元雪⿃、斎藤⾹村両⽒の諒解を得、編纂実務には斎藤春雄⽒を煩した。
  • 6ウ[「装束の型物」という見出しの章の一部]○道成寺 花⾊⼜は紺地の油煙形が家元の⽤ひる腰巻。他は紋尽しの腰巻。唐織は枝垂桜に⽷巻の模様の唐織で、⾦と茶の⾊替り。
  • 15ウ[元義所演「三輪白色」談の一部]着しく違ふ処はざつと右の如くで形も⾊々変り緩急も屡々あつて極演り難いもので︑殊に前に云つた通り⽚⼭家の外にないものだから、囃⼦⽅は薪規なものを演ると同様で、これ迄京都で演つた時などは、どうも囃⼦⽅との喰ひ合ひが旨く⾏かなかつたが、今度は何しろ家元揃ひの囃⼦⽅なので、緩急の具合なども誠にシツクリ⾏つて、勤め⼼持がよかつた。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第二、第三』(1935)
  • 五3オ[開口と風流という節の一部]進藤流の家元︑進藤権右衛⾨は観世流の座付でワキ師全体の⾸席であつたが、或る年にこの開⼝の⼤役を仰せ出された時、これを謡ひそこなつたので遠島に処される事となつた。権右衛⾨は時の名⼈であつたので、酒井雅楽頭が甚く之を惜み、表⾯は遠島に処した体にして、権右衛⾨をばその邸内に隠して置いた。
  • 七3ウある年(時代は忘れた)喜多の家元――七太夫か⼗太夫か――が御本丸のお能で祝⾔を勤めた――喜多家はシテ⽅の末席だから祝⾔を勤めたのだ――処が其⽇のお能のうち祝⾔が⼀番出来がよかつたといふので、喜多の家元は⼤に⾯⽬を施したといふのである。
杉山萌圓(夢野久作)『梅津只圓翁伝』(1935)
  • 34明治⼆年四⽉四⽇、⻑知公は新都東京へ上られた。翁も例によつて御供をして荒⼾の埠頭から新造の⿊⽥藩軍艦環瀛丸に乗り、⼗三⽇東京着。隔⽇の御番(当番)出仕で、夜半⼆時迄の不寝番をつとめた。毎⽉お扶知⽅として⾦⼗五円⼆歩を賜はつた。此時翁の師匠、喜多能静⽒(喜多流⼗⼆世家元。現家元六平太⽒は⼗四世)は根岸に住んでゐたが、その寓居を訪ふた翁は「到つて静かで師を尋ねて来る⼈もなかつた」と⼿記してる。
  • 34その能静⽒の根岸の寓居は現在もソツクリ其のまゝの姿で⽯川⼦爵が住んで居れる。まことに堂々たる構へであるが、しかも此の明治⼆年前後は、能楽師が極度の窮迫に沈淪してゐた時代であつた。現家元六平太⽒が家元として引継がれた品物は僅かに張扇⼀対といふのが事実であつたから、能静⽒も表⾯は⽴派な邸宅に住みながら、内実は余程微禄した佗しい⽣活に陥つて居られたものであらう。
  • 34能静⽒の芸⾵は、極めてガツチリした、不器⽤な、さうして⼤きな感じのするものであつたと云ふ。現家元六平太⽒が常に先代々々と云つて例に引くのは此⼈の事である。
  • 38事実、維新直後から能楽各流の家元は衰微の極に達し、こんなものは将来廃絶されるにきまつてゐるといふので、古物商は⼀⼨四⽅何両といふ装束を焼いて灰にして、その灰の中から⽔銀法によつて⾦分を採る。能⾯は⼑の鍔と⼀緒に捨値で⻄洋⼈に買はれて、⻄洋の応接室の壁の装飾に塗込まれるといふ⾔語道断さで、能楽は此時に⼀度滅亡したと云つても過⾔でなかつた。
  • 41明治⼆⼗五年(翁七⼗六歳)九⽉、先師喜多能静⽒の年回(⼆⼗五回忌)として追善能が東都に於て催さるゝ事となつた。当時東京では喜多流皆伝の藤堂伯其他の斡旋により、現⼗四世喜多流家元六平太⽒、当時幼名千代造⽒が能静⽒の⾎縁に当る故を以て若冠ながら家元の地位に据わり、異常の天分を抽んで、藤堂伯其他の故⽼に就てお稽古に励んでゐた。しかも前記の通り家元として伝へられた能楽の⽤具は僅かに張扇⼀対といふ、全然、空無廃絶に等しい状態から喜多流今⽇の基礎を築く可く精進し初めてゐる時代であつた。
  • 42其後、千代造⽒(六平太⽒幼名)と、翁と同⾏にて霞が関へ出頭せよといふ藩公からの御沙汰があつた。ところが出仕してみると華族池⽥茂政、前⽥利⾿、皇太后宮亮林直康⽒が来て居られて、⾊々とお話の末、池⽥、前⽥両⽒が親しく翁を召されて、「新家元、千代造の輔導の⼤役を引受けて呉れぬか」といふ懇な御⾔葉であつた。
  • 42同年⼀⽉⼗九⽇、芝能楽堂で亡能静師の追善能があつた。翁も能⼀番(当⿇?)をつとめた筈であるが、その当時の記録は今、喜多宗家に伝はつて居る事と思ふ。その後、毎⽇もしくは隔⽇に翁は飯⽥町家元稽古場に出て千代造⽒に師伝を伝へ、⼜所々の能、囃⼦に出席する事⼀年余、明治⼆⼗六年⼗⼀⽉に帰県したが、何を云ふにも、流儀の⼀⼤事、翁の⼀⽣の名誉あるお稽古とて此間の丹精は⾮常なものがあつたらしい。もつとも現六平太⽒が、千代造時代に師事した⼈々は只円翁⼀⼈では無かつた。
  • 43尚此時に翁は能楽装束附の⼤家斎藤五郎蔵⽒に就いて装束附⽅を伝習した。尤も斎藤⽒は初め翁を⽥舎の貧弱な⽼⾻能楽師と思つたらしく中々伝習を承知しなかつたさうであるが、現家元其他の熱⼼な尽⼒によつてやつと承知した。現家元厳君故宇都鶴五郎⽒(能静⽒愛婿)は屡々只円翁の装束附お稽古の為に呼出されてお⼈形に使はれたといふ。
  • 43なほ六平太⽒は只円翁について語る。「⾊々思ひ出す事も多いですが、只円は字が上⼿でしたからね。私から頼んで家元に在る装束の畳紙に装束の名前を書いて貰ひました。只円は装点の僅少な⽥舎に居たものですから⼤した⾻折では無いとタカを括つて引受けたらしいのです。ところが、⼝広いお話ですが家元の装束と申しましても中々⼤層なものでね。先づ唐織から書き初めて貰ひましたのを、只円は何の五六枚と思つて墨を磨つてゐたのがアトから〳〵際限もなく出て来る︒何⼗枚となく抱へ出されるので余程驚いたらしいですね。
  • 44「⾯⽩いのは梅⼲の種⼦を⼤切にする事で(註⽇。翁は菅公崇拝者)、⼀々紙に包んで袂に⼊れて居りました。或る時私が只円の着物を畳んで居る時に偶然にそれが出て来ましたのでね。開いてみると梅⼲の種⼦なので何気なく庭先ヘポイと棄てたら只円が恐ろしく⽴腹しましたよ。『勿体ない事をする』と云ふのでね。恐ろしい顔をして⾒せました︒後にも先にも私が只円から叱られたのは此時だけでしたよ」云々……と。師弟の順逆。⽼幼の間の情愛礼譲の美しさ。聞くだに涙ぐましいものがある。かくて新家元へ相伝の⼤任を終つた翁が、藩公⻑知侯にお暇乞ひに伺つた処、御垢付の御召物を頂戴したと云ふ。
  • 92翁の芸⾵を当時の⼀⼦⽅に過ぎない筆者が批評する事は、礼、⾮礼の問題は別としても不可能事である。しかし筆者としては及ばずながら此の機会に出来る限り偽はらざる感想を述べて置き度い。⾨外漢の⽥夫野⼈の⾔葉でも古名⼈の境界を伝へてゐる事が屡々あるのだから。同時に翁の芸⾵を知り過ぎる位知つて居られる現家元喜多六平太⽒や、熊本の友枝御兄弟の批評などは容易に得られないと思ふから……。
  • 95只円翁の「⼭姥」と「景清」が絶品であつた事は今でも故⽼の語⾋に残つてゐる。これに反して晩年上京の際、家元の舞台で、翁⾃⾝に進み望んで直⾯の「景清」を舞つたが、此時の「景清」は聊か可笑しかつたといふ噂が残つてゐるが、どうであつたらうか。
  • 115翁の歿後は前記梅津朔蔵⽒、同昌吉⽒及び斎⽥惟成⽒が⽴⽅を指導し、⼭本毎⽒が謡曲⽅⾯を宣揚してゐた。此の諸⽒が相前後して歿した後は河村、林、上原、⽔上(泰⽣⽒⽗君)、持⼭、藤原の諸⽒が謡曲を指導し、⼜能の⽅は⼤野徳太郎、柴藤精蔵両⽒が熊本の⼤家故友枝三郎翁に師事し、次で現師範友枝為城⽒、敏樹⽒の両⼤家に参じ、観世流の諸⽒と協⼒して各神社の祭事能を継続し、其他⼤⼩の能、囃⼦等を受持つて東都家元六平太師を招いて、只円翁の追善能記念事業を計画するなぞ福岡の斯界を⾵靡してゐた。
  • 115⽽して今から⼆⼗余年前⼤野徳太郎⽒の歿後、福岡喜多会が成⽴するや、博多喜多流関係の能装束等の保管⽅を依頼されてゐた柴藤精蔵教授之が会⻑となり、或は梅津正保師範の来福指導に、⼜は家元六平太先⽣を中⼼とする演能の開催に努⼒し、其他数次の演能を開催して流⾵の煽揚に⼒めたものであるが、⼤正の⼤震災後に⾄り現師範梅津正利⽒が来福するや更に⼀段の緊張を来し、両者相提携して同地⽅の能楽に於ける研究法の是正と、流勢の拡張に努⼒した。
  • 336[雑誌『喜多』、「能とは何ぞや」の内容目次]「能ぎらひ……能好き……能の真⾯⽬……⾮写実の写実……能の向上……能の起原……脚本……囃⼦……仮⾯……束……造り物と⼩道具……出演者……狂⾔……後⾒……向上の⽬標……曲の発達……家元制度……流派……曲の難易……家元の組織と仕⽅……家元の世襲制度……
  • 340いささか細かい事実に拘わることになるが、右に引いた「夢野久作⽒とは」に並んで、やはり無署名の短⽂「邯鄲の団扇に就いて」が埋め草記事として掲載されている。これは、「能とは何か」のなかの「家元の世襲制度」の項において、久作が「邯鄲」について⾔及した部分に対して、やわらかい反論を試みたもので、その全⽂は次の通りである。
  • 343[解題の一部]喜多実⽒の「熊坂」と「海⼈」『九州⽇報』⼀九⼆〇(⼤正九)年七⽉⼀⼆⽇号に、「萌円」の署名で発表された。本篇掲載と同⼀紙⾯に、喜多実「能楽から⾒たる近代芸術と近代芸術としての能楽の価値」が⾒られるが、これは喜多の談話を久作がまとめたものである。その談話記事の冒頭に、杉⼭萌円署名の短⽂が付されているので、ここに全⽂を引いておく。「過般、⼤野家追善能の為め来福の喜多流家元嗣⼦を、能終了後、東中洲⽔野旅館に訪問して︑いろ〳〵芸術上の質問をした。
  • 350[解題の一部]中世に於ては被賤視されていた被差別階層の申楽者たちは、戦国時代の下剋上の乱世を経て、賤⺠から脱却して、階級的に上昇することになった。彼らは時の政治権⼒(武⼠階級)の庇護を受けることによって、社会の差別秩序を維持するがわの荷担者になると同時に、みずからの内にも家元制度という権⼒を創り出し、新たなる差別構造を産み出したのである。
野上豊一郎編『謡曲芸術』(1936)
  • 244–245⼤分昔の話、先代家元の観世清廉さんが、何の能であつたか橋掛から舞台へ⼊るといふところで、⾜がくづれたことがあるが、⾜がくづれたといつても、外へはちつともわからない程度故むろん誰も気づかずにいたが、橋岡久太郎さんだけはそれを観破して指摘されたことがあつた。
梅若万三郎『亀堂閑話』(1938)
  • 10この間に、大正十年七月梅若流を樹立致しまして家元となりましたが、後これを弟六郎に譲つて、昭和七年の暮に観世流に復帰致しますなど、身辺には変動がございましたとはいへ、私の能をいつくしむ心持は終始同じでございまして、将来も体のきゝますかぎりは舞つて見る覚悟でございます。
  • 27[昭和九年東京音楽学校皇后行啓能について]御相手は、ワキが新さん、笛が一噌又六郎さん、小皷が幸悟朗さん、大皷が高安道喜さん、太鼓が金春惣右衛門さんで、私の外は全部一流の家元ばかりといふ豪華な役割でございました。
  • 159春藤流の家元で春藤六右衛門といふ、老人の脇師がございました。前にも申上げましたが一六の稽古日には私ども若手の相手をしてくれました。私どもとは年の台が違ひますがそでも矢張り、ワキの位を守つてシテは花をもたせ子供なら子供のやうに相手をしてくれました。眼の大変据つた方でございまして、その眼と私の眼とがかち会ひますと、向うに力がありますから到底その眼を見てはゐられませんでした。
  • 162–163幸清流の家元の、幸清次郎さんは色々お話のある方でございますが、一時は車夫になつてゐられたのを、車上の人に前身を知られて、再び世に出たといふ小説のやうなお話の持主で、やはり一流の家元としての力を持つたお方でいらつしやいました。
  • 164森田流の家元は森田初太郎といふ方でございましたが、此人はお酒が大好きで、若い時分、酒を飲みますのに初は猪口で飲んで居りますが、しまひには面倒臭いとお膳に酒を注いで、そのお膳の角から飲んださうでございます。これは此人だけで他の誰にも出来ない事で、かうした所に旧幕府時代の豪放さが残つてをりました。
  • 166観世清孝さんは観世太夫であるといふだけでなく、体格はよろしいし、殊に鼻がお高くて、実に立派な方でございました。芸の方も大きな風格を持つたもので、こんなのを家元芸と申すのだらうとつく〴〵思ひました。
  • 199[葉山離宮の敷舞台での演能について]今度は御畳でなく、板敷の事でございますから、舞ひますには非常に楽でございますし、それに、前の四人の外に私どもの方では義兄の六郎も参りますし、宝生さんの方も巳野喜松さんが加はつて、六人になりました。尚その上に石井一斎さん(石井流大皷家元)が林さんのお供で葉山に来てをられましたので、御伺ひ致されました。此時も林直庸さんが色々と御世話下さいました。林さんは土佐の方でございまして、亡父がずつと御稽古申上げてをつたのです。
  • 225–226古いお方は「左近さんは万三郎に習つた」とおつしやるやうでございますが、これは少し誤つて伝へられてゐるやうでございます。御承知のやうに左近さんが家元になられたのは十七歳かの折でございまして、先代鉄之丞さんが分家の事でございますから、総ての後見をなさる事になりました。然し鉄之丞さんは老年の事でございまして「お手直しの方は出来かねるから万三郎に」との御話がございましたが、私は未熟者でございますし、責任も重うございますので、再三御断り申しましたところ、
  • 227こんな訳で僅の間おさらへを拝見したといふだけでございましたので、左近さんまでが私に習つたやうに言つて下さるのは、老人を立てゝをられるので、決して教へたといふ程たいしたことではございません。先の家元清廉さんも、亡父の所へ見えましたが、清廉さんには型も、謡も相当お手直し致しましたやうでございます。
喜多実『演能手記』(1939)
  • 7所が、その能なるものが徳川時代になつてから、悉く封建制度の余波を受けて所謂家元といふのが置かれ、すべて家元のやつた事を皆やらなければならないといふ制度になつてからは、一寸した型の末まで頑固に約束づけられてしまつたのであります。弟子家の者は新しい型をやつて見るやうなことはいけないそれは御法度といふことになつて、恐しく窮屈なものになつてしまつた。
  • 59–60ところが、この乱拍子のあとに急激な「急の舞」が来る。見た目の面白いのはことから鐘入迄ゾク〳〵として肌に粟を生する程の凄さ、であるべきものだが、往々一向凄からざる急の舞を見せられる。桜間金太郎氏のは、当代に於ても屈指の「道成寺」である。急の舞も無論凄い。その金太郎氏が「喜多のお家元の道成寺は面白いですね」と常に嘆賞されるさうだ。
  • 73その一番重い義務を負担しなければならないのは家元だ。左近君や重英君は、自分たちはまだ若く、自分の芸をすらまだ完成して居ないと云ふかも知れないが、若くして家元になつた者の、それは不幸である。
  • 110【家柄進歩性】日日新聞の「新人物点描」なるものを阿部真之助といふ人が書いて居る。その中の「名人群」の項に於て、余り事情に通じて居さうもない能の事に口を出して無茶なこと言つて居る。宝生の松本長氏が「姥捨」を演じようとしたが、ハヤシ方の拒絶か、、家元が冠を曲げたがして沙汰止みとなつた。この場合松本氏が家元だつたら、氏程の妙芸の持主でなからうと、彼が欲するなら、「姥捨」は愚が「爺捨」であらうと何等の故障なしに行はれたであらう、と云ふのである。……噓である。
  • 111家元である父が、二三ケ月前に、「卒都婆」を演じようとしたが、ハヤシ方の都合がつかずに見合せになつて居る。阿部君は、この例をもつで「能楽の方面では――この家柄といふものが、その尊厳を維持すべく、いかに馬鹿馬鹿しい滑稽を演じつつあるか」と言つて居る。識らぬことに口出しして物嗤ひとなる標本を、この阿部君が演じて居る。現在の能界は、既に家柄偏重の弊から脱して居ること、他の想像以外である。
  • 123それが山本東次郎翁とのお別れになつてしまつた。新聞で享年七十二と読むと、少しも不自然に思へないが、親しくあの元気な風貌に接して居ると、死とはまだまだ距離のある感じだつた。私の翁に対する最初の感情は甚だ不逞なものだつた。それは梅若問題の時、四流の家元――その後委員になつたので、特に父が代表的の位置に立つたが、――それに対する三役側、殊に翁と某氏との言動が、随吩激越なものだつたと伝聞して、当時病床に在つた私は、親を辱しめた仇といふやうな感情を抱いて居た。
  • 243[「鷺」乱について]この乱は、「猩々」の乱に比して決して難かしいものではない。父も、難かしいものではないが、馬鹿に重いものだ、と云つて居る。各役とも家元揃ひならでは出来ぬ筈のものになつて居る。今度は稽古能の事とて、相手方寺井、瀬尾、安福、松村の諸氏にお願ひした。此の中寺井、安福両氏は初演のやうである。
観世左近『能楽随想』(1939)
  • 32[明治四十二年六月伏見宮主催能について]この鷺は家元の⼀⼦相伝の⽩式で勤めました。流儀からは織雄「花⽉」、万三郎「船橋」、⽚⼭九郎三郎「花筐」の仕舞に、梅若六郎の半能「嵐⼭」を御覧に供へ奉りました。
  • 59観世⾖腐 旧幕時代に各流の家元では、夫の稽古能と云ふ事をやつてゐた。今の稽古能とは少々意味も違つてゐたらしいが、とにかく此時は出勤者全部に極めて⼿軽なお膳を出したものである。そのお菜にしたのが、観世⾖腐で、家の名物になつてゐた。これをこさへるには、⼀丁の焼⾖腐に庖丁を⼆つ⼊れて三⾓形を三つ作り、鰹節をダシにして⼀⽇前からコト〳〵と煮つめる。かうして⼗分に煮つめた物に⾟⼦をつけて⾷べる。
  • 114道成寺の唐織と中啓 唐織は⾚地で⽷垂桜に⼩⽥巻、籠⽬の模様がある。籠⽬は蛇籠であり、桜は本⽂の「⼊相の鐘に花ぞ散りける」から来てゐる。籠⽬がなく霞の模様の⼊つてゐるのは弟⼦家の⽤ひる物となつてゐる。中啓は普通は⻤扇即ち⼀輪牡丹であーるが、家元の勤める時は、⾦ゐ丸め中に草花を描いたのを⽤ひる。この模様は表も裏も同じである。なほ道成寺の鐘づゝみは、紺地に昆沙⾨⻲甲に牡丹の様模がある。
  • 115望⽉の素襖と扇 素袍は欝⾦地に富⽥雲の模様で、その中に宝尽くしがあしらつてある。腰帯は⽩地に獅⼦丸の繡紋を⽤ひる。扇⼦は家元の場合は群翔千⿃を描がいた物、弟⼦家は近衛引を⽤ひると云ふことになつてゐる。
  • 116鷺 上から下まで⽩⼀式の装束になる。但これは家元に限るので、弟⼦家は⾊⼊になる。即ち何かに⾚を⽤ひるのだが、扇は神扇を⽤ひるから、それ以外に装束に⾊⼊を使ふ訳である。
  • 158この場合、芸の修⾏法に三つの⽅法が考へられる。第⼀は⽣活や社会に無関⼼で芸道にのみ⼼を注ぐ⽅法である。⾝は乞⾷にまで零落れても芸の修⾏は決して忘れないといふ、今の世に逆⾏したやり⽅であるが、こんな⼈があれば芸道の戦⼠として⾦鵄勲章以上の功労であらう。(中略)さて私が、宗家とか家元とかいふ⽴場から考へれば、勿論第⼀の⽅法以外は存在しないと云ひたい。だが昔ならいざ知らず、私が各⼈の⽣活保証でもしない限り、かうした事は⾔ひ切れるものではない。
  • 166とにかく、⽗の稽古は厳しい烈げしいものでしたが、忘れたらまた繰返して⾒せる、間違つたらさうぢやない、かうだと教へると云ふことは絶対になく、打つてでも擲つてでも思ひ出させる、考へさせるといふ⾃発的のいき⽅でした、それだけに⼀度教はつたことは決して忘れませんでした、今にして思ふと難有いわけです。親⽗のこのスパルタ式教育も、私が家元の養⼦と定まつてからは、ガラリと変りました、今までのやうに、親しく⼿をとつて教へると云ふことはしなくなりました、勿論打擲もやめましたよ。
  • 166それからは⼀通り、⾃分で舞つて⾒せるだけでしたか、必らず後で家元御⾃⾝で御⼯夫をと⾔ふのです。凡てこの調⼦で、重習の謡もさうでした、私が⼀ぺん謡ひますから、何卒お聴者おき下さいと云つて⼀通り謡つてくれました。
  • 166えゝ、真実からさう⾔ふのです、⽪⾁でも何でもないのです、まことの⽗⼦といふ感情は少しも表はさないで飽までも家元と弟⼦家としての態度応対でした、弟⼦家の者が、家元に教へるなどの不遜は絶対にすべきでないとの信念を抱いてゐたのですね、座敷でも必らず私を上座に据ゑて、⾃分は下に座リました、さういふ点は実にキチンとしてゐました、⽮張り昔を守る⼈でした。
  • 166–167凡てが、かういふ⾵でしたから、あゝしろとか、かうしろとか指図めいたことは⼀切申しませんでした、芸事はもとより他のことでもみなさうでした、唯、酒を飲んで酔が廻つて来ると、はじめるのです、えゝ、なか〳〵酒豪でした、酔つぱらつて来ると家元々々と苦⾔を呈してくれました、あなたは彼処を、あゝやられたが、私はかうすべきだと思ふ、私等ならあれでいゝが、家元のあなたとしては⾯⽩くないと云つた⾵でした、ですから私は親⽗の酔ふのが楽しみでもあり、また恐ろしくもありました、
  • 167元義は四⼗七歳で亡くなりましたが、も少し⽣かしておきたかつたと惜しくてなりません、今⽣きてゐたつて六⼗⼀歳ですから、まだ⽼ぼれた訳ではないのですからね̶̶、それに芸⾵もこれからと云ふ時でした、私の⼝から⾔ふのもおかしいのですが、親⽗は先代が病気で倒れてから急に⼀⽣懸命になつたやうです、随つて芸も段々と上つていつたのです、何んにしても流儀の家元の中継をつとめたことと、京観世の真ン中へ⼀⼈で⾶びこんで⾏づてこれを東京⽅に統⼀したことゝは、⼤きな功績でその⼒は⼗分に認めてやつていゝと思ひます。
  • 167–168私は京都にゐた時、⼩寺隼之助に就て少しばかり太⿎を習つたのですが、まあ漸く⽻⾐のキリが打てる位で、東京へ来てしまひましたから、元規さんに稽古しました、元規さんの⽅から家へ来てくれましたが、最初にいきなり吉野天⼈の囃⼦をはじめたのです、そして⼀度⾃分で打つてきかせてすぐ、さあおやりなさいと来ました、弱りましたよ、しかたがないから、⼀ぺん位ぢや出来ないと⾔つたのです、すると元規さんが開き直つて、家元といふものはとお談義がはじまりましてね、到頭⼀時間余承はつてしまひました。
  • 171今更申すまでもありませんが、能楽には厳として抜くべからざる五百年の伝統と歴史とが存するのです。凡ては玆に源があるので、家元制度を始め、芸事上のいろいろの約束や、習慣は⼀⾒まことに窮屈で、旧弊のやうですが、永い間に洗錬されて作り上げられたればこそ、これらの物が⽣れて来てゐるので、今⽇の⾃由な状勢の下で易々と⽣れた他の新しい物と、同⼀視さるべきではありますまい。
  • 172舞台上の事に就いても夫々の主張なり、キマリなりを⼗分に諒解し、然る上で議論して貰ひたいのです。批評は⾃由でありませうが、それを第三者に発表するときは、そこに責任を⽣ずるのですから、斬捨御免のやうな勝⼿な議論は遠慮して欲しいのです。観世には観世の流是があり、家元には家元の⽴場があります。それを平等無差別に、上懸も下懸も⼀緒に論じ、⼜家元も弟⼦家も区別なしに論じたりされるのは、聊か迷惑する次第です。
  • 183銀座をぶらついたり、芝居を⾒たり、デパートをあさつたり、⾄極のんびりとした気持でゐる時「観世だよ」「お能の家元だぞ」などゝひそかな話声が、不図⽿に這⼊らうものなら、とたんに憂欝になつてしまふ。まだ声の聞こえる⽅はいゝが、さうした意識を含んだ眼の視線を感じた時思はずゾーツとすることがある。
  • 183–184先⽇も汽⾞の中で、⾷堂へ⾏かうと座席を歩いてゐた時、⼀⼈のお婆さん̶̶と云つても五⼗ぐらいの⼈が私の顔を⾒つけるなり「あら‼ 家元‼」と思はず⼤きな声を出した。
  • 192元正教育の理想は何と云つても将来家元になるべく、こま〳〵せず⼤様に、そして頭の働きのよい⼈間に仕上げたいと云ふことです。私が実⽗から受けた教育の中で、-それを元正にもほどこして⾒ようと思ふものがあるかとのお訊ねもありますが、今直ぐに⾏ふ意志はありません。舞台に興味が出たら私が⽗に仕込まれたやうに、おつぽり出して⾃然に覚えさせて、厳ましく叱⾔を云ふ、依頼⼼を持たせないで、教はらなくても覚える、と云ふやうにしたいと思つてゐます。
  • 193この能芸に対する態度も私の場合は絶対に是でなければならぬと思つて居りましたから、これを⼀⽣男⼦の業にすべきやなどとの考は⼀度も起したことはありません。私は⼤袈裟に云へば、⽗から家元教育を施された訳です。学校の⽅は⾼等⼆年で退き、⼗三から⼗九迄今は故⼈になられた帝⼤⽂科部⻑藤代禎輔⽒、それから法科部⻑仁保⻲松⽒、三⾼教授の⼤野徳孝⽒、このお三⽅にお世話を願つて国語、漢⽂、外国語等を詰込まれたのです。元正は中学にやつて、それから⾳楽学校に⼊れたいと思つて居ります。
  • 193兎に⾓私たちは、今まで⼦供といふものを持たなかつただけに、急に⼋歳の⼦が出来て、たゞ〳〵⼼配ばかりしてゐます。どうかして、この⼦が、⽴派な時代の男、時代の家元になつてくれるやうにと、私は祈つてゐます。(養嗣⼦披露能を前にして)
  • 205三井得右衛⾨⽒ 先々代清孝に⼿ほどきを受けた⽅で、芸はお素⼈としては抜群に出来てゐた。何しろ厳しい清孝に叱られ〳〵⽻⾐の呼掛だけに、三⼗⽇も通つたと云ふやうな本格の稽古をされたのだから、⽴派な芸であるのは当然のことだつた。全くの家元崇拝とも云ふべき精神の⽅だつた。観世会の⽉並にも出勤して⼀番宛舞つて頂いたこともあるし、⼜清廉の代稽古もして下さつた。⼩⿎は⼭崎⼀道の弟⼦でその蘊奥に達してゐられた。流儀にとつては功労者の⼀⼈として忘れてはならぬ。私が家元の養⼦になる時は、三井さんに仲人になつて頂いた。
  • 210⾦剛右京 能楽界の元⽼としての⾦剛さん、シテ⽅家元の先輩としての⾦剛さん、この道の故実に精通してゐた⾦剛さんの、この度の逝去はまことに残念と申上ぐるより他に⾔葉はありません。ズーツと以前に能楽協会の仕事として、編纂部をこしらへ、その頭に⾦剛さんを推戴して、雑誌も発⾏し、本も作り、各流の異同や主張を調査して、後々のために書き残しておく計画をしたことがありましたが、ある都合から実現しませんでした。あれなど私個⼈としても甚だ遺憾に思つてゐます。
  • 220観世元規 元規さんは私の恩⼈とも⾔ふべきです。太⿎観世の家元として、旧幕時代から⽣残りの能楽界の元⽼として、充分に信頼し尊敬してゐました。元規さんも、私を実⽗の元義から托されて監督の⼼持もあつて、何くれと無く⼼を配つて貰ひました。⾮常に真⾯⽬な⼈で、先々代清孝が前将軍に従つて静岡に隠遁する際、これに同⾏して⾃分は興津に仮住居し、そこから毎⽇静岡の清孝の佗住居へ通つたと⾔ふ律義さです。この⽇参を三年の間続けたのを以つて⾒ても、元規さんの性格が知れませう。
  • 220私が家元の後嗣となつて東京へ来ると同時に、元規さんに就いて太⿎の稽古を始めましたが、元規さんは家元の養⼦と⾔ふゐで⾃分の⽅から出かけて来てくれたのです。その第⼀回の稽古の時です。忘れもしませんが私は⼗四才でした。
  • 221[観世元規の、稽古中の言葉]「貴⽅は何のために能を⾒たり、稽古をしたりされるのですか、家元になられる⾝分が、ソンなことで何うなりますか」と⾔つた調⼦でした。⾔葉は丁寧でしたが、⾔ふ事は⾟棘でした。然し家元⼤切と思へばこその忠⾔だつたのですから、⼦共⼼にも恐い⼩⽗さんと思ふ⼀⽅何となく頼りたい気持はありました。
  • 222元規さんの最後の舞台は、私が相⼿をして遊⾏柳の⼀調でした。あれは⼤震災の年です。その少し前に、能楽協会の催で、姨捨の⼀調を打つたのですが、この時も私が謡ひましたが、この姨捨が元規さんの晴の最後の舞台と⾔ふべきでせう。この⼀調の時は、⼤分⽼⼈の事でもあり、また⼤曲でもあるので数回の申合せをしましたが、私の⽅から淀橋の住居の⽅へ出向いたのです。すると物堅い⼈でしたから、お家元に態々お運びを願つては恐れ⼊るから次回は私が⼤曲へ伺ひます、と⾔つてきかないのです。
  • 222元規さんには今⼀つ思出があります。私が⼗代の時分ですが、先代清廉の追善に、元義が朝⻑の讖法を勤めました。私はその後⾒を勤めることになり、楽屋から舞台へ出ようとした時、「お家元」とグツと私の袖を摑んだ者があるのです。誰つと振向いて⾒ると元規さんが難かしい顔をして、私の腰の印籠を握つてゐるのです。
  • 227[生一左兵衛について]先代左兵衛は若い時分に東京へ修業に来てゐた。素直な芸だつたが、中年に横道へ踏込んで破⾨を受けたりした故か晩年は芸も荒んでゐた。⼿塚亮太郎と性質の合はなかつた故か、何事によらす⼆⼈は反対で、遇へば必す⾔ひ合つてゐた。互に⾃説を主張しては、その挙句私のところへ来て「お家元さうではございませんか」と訴へるので、私も随分困らされたものである。
  • 237–238[観世清孝について大西閑雪談]晩の座敷には何時でも観世左吉(観世流太⿎家元)、観世新九郎(観世流⼩⿎家元)、春⽇市右衛⾨(春⽇流笛家元)と云つた連中がゐて、⼤夫の相⼿をして盃を重ねてゐた。その間をお酌をしながら⼤夫の芸の話を承るのが即ち⾃分達の修業だつたと。
  • 238⼜先代の茂⼭忠三郎良豊が、若い時に江⼾へ修業に出た。そして家元の⼤蔵(狂⾔⼤蔵流)に連れられて吉原へ遊びに⾏つて、吉原の⼟⼿で観世⼤夫に遇つた。⼤夫は駕籠に乗つてゐたが、⼟⼿で駕籠を下りて⼩⽤を⾜した。これを⾒て⼤蔵は横合から挨拶した。そして忠三郎をそれとなく引合せてくれたさうである。
  • 240先代は⼜芸事の上でも⾮常に謙譲だつた。家元として何の曲でも勤めようと思へば勤め得られる⾝分にも拘らず、三⼗⼋歳で発病するまでに習物は僅か「砧」の能⼀番しか舞つてゐない。これを以て⾒ても如何に芸に対して謙虚だつたかゞ知れよう。
  • 240私は九歳の時、観世宗家へ⼊⾨して免状を貰ひ、⼗⼀歳の時鷺を許された。この鷺の免状に⾊⼊といふ肩書が附いてゐる。流儀では鷺の⽩式は⼀⼦相伝といふ事になつてゐるので、宗家以外の者が許される時は、装束に何か紅⾊を⼊れるのである。私はその時は著附に緋を⽤ひた。その後⾏啓能で鷺を勤めた時は、家元といふところから全部⽩⼀式にした。この鷺にしても当時叔⽗にして⾒れば、家元の後嗣にすることは既に承知であつたらうに、芸を尊重する上から前述の⾊⼊にしたものらしい。
  • 248祖⺟は全く⾃分でこさへ上げた芸だつたのです。先代⼋千代が没くなるまでは、春⼦は家元侯補者では無かつたのですが、相弟⼦達から⾃然に推され〳〵して、家元を継いだ訳です。この事は始終⾔つてゐました。私はみんなから推されて井上⼋千代を継いだんや、⾃分で家元になりたうて成つたんやない……と、
  • 260その後、ある機会に裏千家の淡々斎宗匠と同席することが出来た。これは⾮常にくだけた会合だつたので、お互にむつかしい話を抜きにして胸襟を開きあつたのだが、さうした中に、⾃然と覚える芸格といふのか、淡々斎宗匠の⼈格そのものをはつきり知ることが出来た。わかりやすく云へば、⾃然の態度のうちに家元らしい態度、物ごし、否、⽴派な芸術家としての淡々斎宗匠を感じたのだつた。⼈といふものは、芸格が⾃然の態度にもしみ出てくるものだと、しみ〴〵と悟るところがあつた。
  • 269–270⼀体、家元といふものは、⼈が思つてゐるほど、いゝものでも気楽なものでもない。私も今まで、代れるものなら誰かと代つて⼀個⼈として芸の勉強がしたい、などと何度考へたか分らないくらゐだ。⼀国の宰相と家元を⽐較したのでは少し⼤袈裟すぎるだらうが、その責任の重⼤さ、⼩うるさい事の多さなどだけを考へると、まづ同じやうなものぢやなからうかと思へる。
  • 271昔の家元なら、たとへ芸がうまくなくても――それでもあまりよくはなからうが̶̶まあ〳〵将軍家のお抱へとしての貫録だけは⽰せたかも知れないが、今は名実共に家元の芸を備へなければ、⼈に問題にされなくなる。芸が出来ての上でこそ、はじめて家元たる本当の資格が備はるのであつて、下⼿くそでは、家元でござい、と⼈の上に⽴つ事は出来ない。此処に、これからの家元の悩みがあるのだ。
  • 271まだもう⼀つ苦るしいことがある。それは家元たるもの、たゞ単なる名⼈上⼿だけであつてはならないことだ。家元芸と云ふか、⼤夫芸といふか、気品を伴つた⼤まかな芸⾵にならなければならない。さうして流儀の規範ともならなければならない。極端に云へば、家元が悪達者で技巧を弄し過ぎたならば、さうしてそれが名⼈上⼿であればあるほど、その流内のものは、それにならつて流是(流儀の芸術的主張)をめちゃめちゃにしてしまふ。
  • 273⽗は寿と⾔つて故⼆⼗⼆世観世清孝の三男、⼊つて⽚⼭家を継ぎ九郎三郎と名宣つてゐた。⺟は光⼦、井上流三代⽬家元井上⼋千代即ち⽚⼭春⼦の娘である。
  • 274この教育⽅針は⽗の深い思ひやりに因る所であるが、既にこ頃⽗と叔⽗(観世宗家清廉)との間に私の養⼦の事か相談されてゐたと⾒え、⽗は家元教育を志ざしてゐたらしい。形式偏重、画⼀主義の学校教育を享けなかつたのは、能役者としての僕には幸福だつたと考へてゐる。斯のやうな⽅針を取つたことは、確かに⽗の卓⾒だつたと僕は今でも感謝してゐる。
  • 274–275⼗七歳の夏、養⽗清廉が病歿したので⼆⼗四世観世宗家を継承した。⾮常に若い家元が出来た訳で、本⼈よりも傍は⾊々と⼼配したらしい。実⽗は、この時は⽚⼭家を去つて実家に復帰して観世元義となつてゐたが、住居は⽮張京都にあつて毎⽉上京して僕を補佐し指導した。
  • 277[「明細短冊」について]⼀番の観世⼤夫は先々代⼆⼗⼆世清孝、鉄之丞は先代で紅雪と号した。三番の梅若六郎は後の実である。五番の福王繁⼗郎は福王流脇⽅の家元で、明治まで⽣存してゐた。
三宅襄・丸岡大二編『能楽謡曲芸談集』(1940)
  • 47家元のところの島澤、木原、藤波さんのところの子供さん等も近頃大曲の舞台へ出られます。家元の御養子の元正さんはなか〳〵しつかりして、間などもちゃんとしてゐます。立派なものになるでせう。
  • 51舞台上の事に就ても夫々の主張なり、キマリなりを十分に領解し、然る上で議論して貰ひたいのです。批評は自由でありませうが、それを第三者に発表するときは、そこに責任を生ずるのですから、斬捨御免のやうな勝手な議論は遠慮して欲しいのです。観世には観世の流是があり家元には家元の立場があります。それを平等無差別に、上懸も下懸も一緒に論じ、又家元も弟子家も区別なしに論じたりされるのは、聊か迷惑する次第です。
  • 127[初演の木賊 観世喜之」初演でもあり、先代の追善の気持もあつて、家元にもよく相談し、書きものなども送つてもらつて拝見したり、また種々先輩の意見などもうかがつて居ります。
  • 147[老女物など 観世喜之]私は明治四十一年でしたか、家元から卒都婆れやらないかと言はれましたが、何ですか未ださうした気持になれないで、御受けしませんでした。それが、先代の追善能の時でした。初めて勤めてみたのです。
  • 148–149[老女物など 観世喜之]本当の老女らしいところ、そして昔の小町の味ひ、その両方をにじみ出さなければならないのですから大変むづかしいのです。先日の家元の姨捨はニ度目ですが、大変具合が良く行つたと思ひます。最初の時と、先日の時と、両方を思ひうかべて、その間の苦心や修業が、うかがはれるわけです。
  • 157[道成寺 観世喜之]道成寺を勤めるのは、今度で二度目なのです。尤も、地方では三度ばかり勤めてゐますが、この前東京での初演は、先代清之の十三回忌の追善の折でした。大正十年五月十五日に、九段の能楽堂で勤めたのです。その時は家元に鐘引を願ひまして、橋岡久太郎の後見、大槻十三の地頭、囃子は高安鬼三、大倉喜太郎、松村隆司、一嗜又六郎、ワキが野島信でした。
  • 158[道成寺 観世喜之]今度は赤頭の小書つきでもあり、私としては乱拍子の長ッたらしいのも、どうかと思ふので、乱拍子は大いにあつさりと短かく演つて、手際よくやつて見たいと思つてゐます。これは家元に相談していい所を演らして頂くつもりです。
  • 161[富士太鼓現之楽 観世銕之丞]この間の富士太鼓ですが、あの現之楽といふ小書は私の家に昔からあります。たしか家元にもある筈です。あの小書がつきますと楽が変るのです。初段をいくらか締めておいて二段目から調子は盤渉になります。従つて位もすこし宛引き立つてきて、だんだんと狂乱の心持になるわけです。
  • 166[松山での友枝三郎の指導につき14世六平太談]或日雨が降つて誰もゐない、誰も来ない日がありました。するとガラリと変つて小言を言ひ出して、家元の芸はそんなことではいけない、人が見てくれるとか、ほめてくれるとか云ふやうなことを頭においては駄目だ、正しい真直な芸を心懸けなさいと懇々と説いてくれて、ビシビシ直すのです。そこではじめて私は気がついたのです。ハハア今までは人が稽古を見たり、覗いたりしてゐたからだとわかりました。
  • 176[修業時代 粟谷益二郎]十一歳の年、忘れもしません……初めて家元にお目にかかつたのでした。家元が広島へお出になつて祖父に私を東京へよこすやうにとお話があつたのでしたが、祖父には前申しましたやうな不安があつたので、「お断りしてしまつたさうです。
  • 177[修業時代 粟谷益二郎]ところが其年に祖父は亡くなつて了つたのです。あけて私の十二歳の年に再度家元が紀喜真さんなどと一緒にお出になり鶴羽神社の舞台で催がありました。この折、家元の命で再び私が経政を舞ひ、それから三月程たつて、六月でしたか七月でしたか、紀さんに連れられてはるばる家元の膝下へ、東京へと出て参りました。
  • 177[修業時代 粟谷益二郎]家元の所へ来てからも、学校へ行つてゐたので、毎日の稽古は学校から帰つてからでした。時には早朝に稽古をして頂いて、それから舞台と脇正面を雑巾がけをして学校へ行く事もありました。正木亀三郎と私と二人がその頃の内弟子だつたのです。この二人が毎朝雑巾がけから何からやるのです。
  • 177[修業時代 粟谷益二郎]家元は色んな事が好きな方でして、角力をやつた事もありました。ところが段の私が大きくなると仲々負けてゐないので、今度は撃剣になりましたが、撃剣には一人の恐ろしい人が現れて来たものでした。家元の御隠居さんがお出でゝしたが、この方は本当に撃剣をやつた方でしたので、「どれ俺も仲間へ入れて貰はう」と云ふので、お加はりになると、こつちは出鱈目剣術、ぼかぼかやられて困りました。
  • 177–178[修業時代 粟谷益二郎]稽古の方は夕方が主でしたが、出来ないと立つてゐろ……とやられて、随分立たされました。春日竜神をやつてゐた時でしたが、どうにも巧くゆかないので、また例の如くに立たされてゐると、奥さんが余り度々なので可哀さうにと仰有つたので、家元がなほお怒りになつた事もありました。
  • 178[修業時代 粟谷益二郎]家元は気の短かい人でしたから、「おい」と云ふところも、「おいおいおーい」と急き込んで仰有ると云つた人でした。私はまだ子供ですから、しまひにはどうすればいいのか解らなくなつて泣いて了つた事も度々でした。
  • 179[修業時代 粟谷益二郎]また銭金を持つことをかたく禁じられてゐましてね、正木と一緒にトラホームになつて、春日町の明々堂へがよつてゐた時でしたが、この明々堂病院は家元のご親類で昼は家元のご隠居が事務を見に行つてゐられたのですが、或時二人に十銭だつたかお銭を下さつたのです。それでもつて帰りに水道橋、今の宝生会の入口の左角でしたかにあつた塩あんの大福を買つて、帰つて来ますと「おい角力だ!」と家元が仰有るので、正木も喜んで裸にならうと、帯をとくとこの三尺に巻き込んであつたツリ銭がバラバラッと散つたのです。サア大変。
  • 179[修業時代 粟谷益二郎]これなども家元が芸道のものが銭金を欲しがつたり、また金があればムダ食をして身体をこはすだらうとの深いご心配から出たもので、今に忘れません。この頃の色々の教訓と指導が今はどうにか私の生きて行ける道をつくつて頂いたのです。またこの頃は家元の他に、金子さんからも謡を教へて頂いて居りました。
  • 187[観世左近談]親父のこのスパルタ式教育も、私が家元の養子と定まつてからは、ガラリと変りました。今までのやうに、親しく手をとつて教へると云ふことはしなくなり、勿論打擲もやめました。それからは一通り、自分で舞つて見せるだけでしたが必らず後で、家元御自身で御工夫をと言ふのです。凡てこの調子で重習の謡もさうでした。私が一ぺん謡ひますから、何卒お聴きおき下さいといつて一通り謡つてくれました。
  • 187–188[観世左近談]真実からさう言ふのです。皮肉でも何でもないのです。まことの父子といふ感情は少しも表はさないで、飽までも家元と弟子家としての態度応待でした。弟子家の者が家元に教へるなどの不遜は絶対にすべきでないとの信念を抱いてゐたのです。座敷でも必らず私を上座に据ゑて自分は下に座りました。さういふ点は実にキチンとしてゐました。矢張り昔を守る人でした。
  • 188[観世左近談]凡てがかういふ風でしたから、あゝしろとか、かうしろとか指図めいたことは一切申しませんでした。芸事はもとより他のことでもみなさうでした。唯、酒を飲んで酔が廻つて来ると、はじめるのです。なかなか酒豪でしたが、酔つぱらつて来ると家元々々と苦言を呈してくれました。あなたはあそこをあゝやられたが、私はかうすべきだと思ふ。私等ならあれでいゝが、家元のあなたとしては面白くないといつた風でした。ですから私は親父の酔ふのが楽しみでもあり、また恐ろしくもありました。
  • 188–189[観世左近談]元義は四十七歳で亡くなりましたが、も少し生かしておきたかつたと惜しくてなりません。今生きてゐたつて六十一歳ですから、まだ老ぼれる年ではありません。それに芸風もこれからといふ時でした。私の口から言ふのもをかしいのですが、親父は先代が病気で倒れてから急に一所懸命になつたやうです。随つて芸も段々と上つていつたのです。何んにしても流儀の家元の中継をつとめたことと、京観世の真ン中ヘ一人で飛びこんで行つてこれを東京方に統一したことゝは、大きな功績で、その力は十分に認めてやつていゝと思ひます。
  • 189[観世左近談]東京へ来てしまひましてからは元規さんに稽古しました。元規さんの方から家へ来てくれましたが、最初にいきなり吉野天人の囃子をはじめたのです。そして一度自分で打つてきかせてすぐ、さあおやりなさいと来ました。しかたがないから二へん位ぢゃ出来ないと言つたのです。すると元規さんが開き直つてお家元といふものはとお談義がはじまりました。そして到頭一時間余承はつてしまひました。
  • 224[朝長懺法の秘事 金春惣右衛門]私は今度で懺法を勤めるのも四度目となります。初役は二十四歳の時、東京で祖父、父、伯父などの追善会を主催したときにやりました。大正九年四月三日で、シテが宝生の家元、ワキは宝生新さん、大小笛は川崎、幸、一噌の方々でした。その時、新聞に載つた、批評の切抜があります。たしか山畸楽堂さんがお書きになつたものと思ひます。
  • 245[「花子」の話 野村又三郎]一体和泉流の三宅と野村(又三郎氏)の家は、特別な扱ひをうけて居りました家柄で、この両家だけは狂言の免状を自分で発行出来たものでございます。ところが夫れほどの家でも、「花子」の免状は家元から出して貰ふのですから、この狂言がいがに大物であるかがわかりませう。
  • 261[「安宅」の間狂言 野村万斎]一体私の方にも山脇(和泉流家元)にも貝立はありません。併し和泉流は座附の狂言方ではありません歩らシテ方のお望みならば辞退申し上げません。
  • 265[父山本東 山本東次郎]嘉永元年九月十一日同藩[岡藩]狂言方小松謙吉氏より藩主へ願出て内弟子とした。其頃家元よりも藩主へ願ひを出して、家元の倅干太郎の相手を勤めさせてゐたさうです。これは当時弟子と誰も他藩のものは其藩主の許を受けなければ、勝手に相手をさせる事は出来なかつたのです。
  • 265–266[父山本東 山本東次郎]ところが、この年には既に各藩国勝手といふ事になつてゐたので、皆々藩地出発の用意をしてゐた頃でして東次郎もこの十月には出発と定めてゐました。家元(千太郎師長)との別れを惜み、家元も度々宅へお出になり、共に好きな酒をのみ、夜が更けると、よく泊つてお帰りになつたさうです。当時の家元など予大で中々弟子の家などには来ることなんか無かつた頃で、まして宿泊りなどは思ひも寄らぬことでした。余程親密の間だつたのでせう。
  • 266[父山本東 山本東次郎]其節家元がもう斯道も是までだ、当流も終に滅びてしまふのかと涙を流して云はれたとき、東次郎は、いやいや一旦国へ行つても再び江戸に帰つて、斯道につくします。もし江戸に帰られなかつたら、いづくのはてへでも斯道を残しますと云ふと、家元も涙を流してよろこび、右の取立の免状を下さつたのだと云ふことです。
  • 294[日露戦争当時と今日 橋岡久太郎]私はその頃、家元清廉先生の下に居りましたが、検査は郷里でうけました。丙種で兵役免除といふことになりまして、家の闕を随分高く感じました。
  • 295[日露戦争当時と今日 橋岡久太郎]勿論、今日のやうに皇軍慰問能会なども、より〳〵に五流の家元が集つて相談しては開催致しました。こんな点は今日と少しも変化がないやうに思つてゐます。
  • 297[日露戦争当時と今日 橋岡久太郎]ちゃうど旅順開城が正月二日でしたから、年始とぶつかつて家元も大変なよろこびであつたのを覚えてゐます。
  • 302[思ひ出す人々 茂山千五郎]父が折に触れてれて話して聞かせたことですが、三番叟の稽古を家元でうけた時、頭取だけを二十五遍半繰返したさうです。二十三遍目には袴の紐がより切れてしまつたし、両足が棒のやうになつて、どうにも上らなかつたさうですが、今日では到底真似の出来ない話でせう。
  • 321[思ひ出のいろ〳〵 梅若万三郎]左近さんが御挨拶をなさいますのも、他の方々には、家元でありますからどうしても家元としてオタカイ所がありましたが、私には極く丁寧にして下さいまして、畳へ両手をついて挨拶なさいました。
  • 321–322思ひ出のいろ〳〵 梅若万三郎]亡父もよく見所よりも楽屋がこはいと申して居りました。あの方はオツモリがよい方ですから、手を取つてもらつても出来ないやうなことを、ちゃんとなさいました。一寸わかりにくいことでも、家元などは見てゐて憶えてしまふのです。
近藤乾三『さるをがせ』(1940)
  • 4我々にもよくいはれましたが、名なぞは後から何んとでも人様がつけて下さる。だから何んでもいゝ。芸を勉強しろ。芸が出来れば能役者は夫でいゝ(勿論素行も大事)。斯うした事は、因襲を重んずる事、芝居道以上な能楽道の家元が中々云へる事ではありません。
  • 52[林弘君]私共が小石川林町に参つた頃、例の大震災で家元の家が焼けて了つたので、一時私の家を本部にしたことがあります。その時、林君は藤野軍司君等を一緒に一週間位私の家にゐました。「弘ちやん、弘ちやん」といつて。十四位でせう。あの時は林君の家告焼けて了つたのです。
  • 53三川寿水さんは今の清君のお父さんで、山形県鶴岡の人です。私はよく存知ませんが、先代もこの道をやつてゐられたと聞いてをります。学校の先生か何かやつてゐたんですね。それが東京へ出て来たのは安田善衛さんのお世話だつたさうです。安田さんが銀行関係で向ふへ行つてゐられた頃の事でせう。東京では宝生俱楽部へ来て深川の家元へ通ひ、私が稽古して居りました。
  • 66[下谷の狂言師]与作さんで思ひ出しましたが、柑子俵といふ狂言があります。子方に格好なのがないと中々出ないものださうです。その柑子俵の子方を逝くなつた藤野濤平君がつとめた事がありました。その時のシテが与作さんでした。私も釣針のお腰元に出たことがあります。それかと思ふと今の山山本東次郎さん当時の河内晋さんが今の家元と共に鶴亀の子方の稽古をしたこともあります。
  • 80それからはすぐ鶴亀は猩々になり、あとはとん〳〵拍子に進んで行きましたが、これを思つても先生の根試しだつた事が分ります。其時分に私の初舞台も矢張り鞍馬天狗の花見で、濤平さんや三浦銀太郎氏の息子さん達と一緒で、要さんはもう其頃子方をして居ました。それは要さんは松本さんの方の関係で、家元へ這入るのは遅かつたが、舞台へは早くから出て居ました。
  • 90深川の夏はとり立てゝ申上げることもありません。一番重要な仕事は虫干でした。九郎先生は避暑にもゆかれず虫干しをなされたものでした 初めての虫干しは私が十一二の時で、野口さんがまだ家元の玄関にゐられた頃でした。二人でお手伝ひしたものです。
  • 98御維新前ある囃子方の家元(先生はハツキリ言つてゐられましたが)が、大奥の御用の時、大役がつくといつも病気欠勤の届を出して、弟子の出来るものに代勤させてゐたさうです。その家元は芸がよく出来なかつたので、御用をつとめて失敗でもしようものなら家元としての面目上御扶持も貰へなくなる。それで達者な弟子に勤めさせて、自分はつとめず、未熟な芸であり乍ら、家元としての御扶持を頂いてゐた。出来るものが認められず、単に家柄であるが為にかうしたことが昔はあつた。と云ふお話をよく聞かされましたが、先生には不愉快で堪らなかつたらしいのです。要するに芸本位の方だつたからでせう。
  • 103今年(昭和八年)は師匠(先代宝生九郎翁)が十七回忌で、濤平さんが十三回忌になります。先日、安田善次郎さんが、野口さんか私かゞ施主になつて供養をしてやつたらいゝだらうとお話して下さつてゐましたところ、家元もその気だつたもんですから、円照忌の時、師匠の法事が済んだあと、濤平さんの供養も済ましました。
  • 109[瀬尾要君の深川時代]要君と私とは一つ違ひの親友でした。年は私が一つ上でしたが、芸道の方は、要君は松本長さんに幼少から教はつてゐましたから私より先輩です。深川の家元へ住込んだのは私が二三年早かつたので、その方では私が先輩の訳です。何分も子供時代の所謂竹馬の友といつたら要君に取つて私より外にはなかつたでせう。
  • 150千歳を勤めましたのは翁よりずつと以前、明治三十九年かと思ひます。シテは誰でしたか記憶がありません。それ以来松本さん、野口さんの千歳を勤めてをります。先年名古屋で協会能がありました節、家元の千歳を勤めました。これが千歳の終りと思つてゐます。
  • 221こんな話もありました。向島の大倉喜八郎さんの別荘でお催しがあつた事があります。何のお催しか一寸記憶にありませんが、徳川慶喜公が正客でした。その時公の独吟がありました。その帰りがけに先生が、今日は久し振りで親父の謡を聞いたといはれました。慶喜公の謡に先生のお父さんたる紫雪翁の面影があつたんですね。公はつまり先々代家元のお弟子です。品のいゝ謡でした。先生は感慨無量だつたやうです。
  • 222客 先生はお幾つの時深川へ(先代宗家宝生九郎翁)へ入門されました。主 十一でした。客 如何いふ御縁故ですか。主 父(敦吉)が家元の番頭のやうな事をやつてゐました。先生の信用をうけてゐたんですね。大体、父の叔父に、茨城県古河の土井藩のお近習頭をしてゐた近藤久蔵といふものがをりました。これが、殿様の謡のお相手役をして先生に御稽古もしてゐたんですね。
  • 225[木村安吉]客 女に世話をされてゐたといふ話ですね。主 さうです。七扇流といふ踊の家元ですね。後で一緒になりました。客 安田さんに伺ひましたが、山崎紫紅さんが、安吉さんの一代を小説に書かれたそうですね。
野口兼資『黒門町芸話』(1943)
  • 12–13私は十四の時、深川(先代の家元)へ祖父(野口庄兵衛)に連れられて参りましたが、当時はまた交通の不便な時代でして、電車さへもなく、二人乗といつて御存知の方もありませうが、二人一緒に並んで乗れる腰掛の広い人力車がありましたが、あれに乗つて行つたものでした。
  • 35[宗家母堂の逝去]家元のお母さんも残念なことをしました。然し、しあはせな人でしたね。深川の先生(寳生九郎先生)の病中はよくお世話して呉れましたね。先生の宅には、昔は年を老つた「小母さん」といふ人がゐて、先生の世話をしてゐました。「小母さん」は先生と何のゆかりはありませんが、年を老つてゐるものだから、先生は「小母さん、小母さん」と呼んでゐました。先生らしいところですね。その後、小母さんもゐないし、若いものばかりだつたので、家元のお母さんが深川まで通つて色々世話をされたんですね。
  • 103私が九郎先生に稽古をして頂いて、一寸した事を書留めて置きましたが、それが今日どの位力になつてゐるかわかりません。一寸したことでもゆるがせに出来ないものと思ひます。震災の時に家元でも大切な本面と写しの面が、持ち出せて結構でしたが、私もその時、今申した書留めを幸に持ち出すことが出来ました。
  • 116客 震災は何処でお会ひでしたか。主 黒門町でした。客 あの時は東京にお出でゞしたか。主 ゐました。私は昼飯をすまして書斎にゐましたが家族は食事中でした。客 家元の内弟子が先生のお宅へ来たさうですね。主 さう、二三人来ましたね。