近代能楽用語索引Index of Nō-related Terms in Modern Texts

近代芸談における技芸用語

主にシテ方の技芸にかかわる用語の索引。姿勢、視線などの重要と思われるトピックのほか、『能楽大事典』(筑摩書房)に立項される技術用語を対象としました。同表記・別意味の語を別に立項した場合(例:「運び」を歩き方と謡い方で別立項)も、逆に同意味・別表記の語をまとめて立項した場合(例:眼、目、目玉)もあります。

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いちじょうだい【一畳台】

宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
  • 63–64昔から各流共、これは二番目に用ゐ、これは三番目に用ゐる、と云ふ事が、皆定まつて居るのである。即ち、能全体を脇能、修羅物、三番目もの、雑(此中に四番目に用ゐるものと、五番目に用ゐるものとの区別がある)の四大別にしてある。最も雑の中には略脇能、略二番目、略三番目等に用ゐてよいものもある。此中から選つて、一日の能の番組を定めるのだが、唯脇、修羅、三番目、四番目、五番目と、其部類に属するものを一番宛出して排列する事は容易であるが、尉ものが続くとか、僧脇が続くとか、一畳台が続くとか、作り物の山が続くとかと云ふ故障が出て来る。これ等のさし障りのない様に番組を作らねばならぬ。
  • 158[「金剛流の石橋」]石橋は当流では前はツレになつて居るが、金剛流では前もシテで前シテが引流むと、幕を上げて台を一つ出し、又別に幕を上げて又台を一つ出す。それが同流の規則ださうで私が先の唯一氏のを見た時も、右京氏が前田家行幸啓の三日目かに勤められた時も皆其通りであつたが、先年名古屋で寺田左門治氏のを見た時は、台が出て居て、ツレが引込むと来序になつてシテが出た。其後右京氏に逢つた時、此話しをしたら右京氏は、「御流儀を一寸真似て見たのでせう」と笑つて居られた。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第一』(1934)
  • 19オ–19ウ昔から各流とも、これは初番、これは二番目これは三番目に用ゐる、と云ふ事が、皆定まつて居る。即ち能全体を脇能、修羅物、三番目もの、雑(此中に四番目に用ゐるものと、五番目に用ゐるものとの区別がある)の四大別にされてある。最も雑の中には略して初・二・三番目等に用ゐてよいものもある。此中から選つて、一日の能の番組を定めるのだが、唯脇能、修羅、三番目、四番目、五番目と、其部類に属するものを一番宛出して配列する事は容易であるが、尉ものが続くとか、僧脇が続くとか、一畳台が続くとか作り物の山が続くとか云ふ故障が出て来る。それがいゝとして並べて見ると、曲想が似通つて居たり同じ舞が重出したり、又は同じ囃事が続いたりする。それ等のさし障りのないやうにしてこそ、ほんとの番組である。
杉山萌圓(夢野久作)『梅津只圓翁伝』(1935)
  • 66それからやつと「小鍛冶」の後シテになつて、翁と二人で台を正面へ抱へ出す。その上に翁が張盤を据えて、翁は自分の膝で早笛をあしらひ初める。それがトテも猛烈なものでよく膝が痛まないものだと思ふうちにシテの出になる。 その時の運びの六かしかつたこと。一度出来ても其次にはダレてしまつて出来ない。むろん今は出来ない処が記憶にさへ残つてゐないが、しまひには翁が自分で足袋を穿いて来て演つてみせた。その白足袋の眼まぐるしく板に辷つてゆく緊張した交錯の線が今でも眼にはハツキリ残つてゐる様であるが、やはり説明も出来ず真似も出来ない。 その序に翁は台の上からビツクリする程高く宙に飛んで、板張りの上に片膝をストンと突いて見せたが、これは筆者も真似て大いに成功したらしい。
梅若万三郎『亀堂閑話』(1938)
  • 319–320此間、清之さんの追善会で喜之さんから、珍らしく「土蜘」を勤めるやうに役づけられましたが、廿五年ぶりでトメに枯木倒れをやりました。これは御承知のやうに枯木の倒れるやうに、真直に後へ倒れるのでございますが、老人がやつて、比較的、うまく行つたものでございますから、御評判になりました。あれだけは馴れて居りますが、も一つ前シテで、頼光との斬組に一畳台から飛びおりますのに宙返りを致しますのですけれども、年を取りますと危険でございますからやりません。それならば枯木倒れは安全かと申しますと、あれでも頭を打ちましたら眼をまはしてしまひます。
喜多実『演能手記』(1939)
  • 90然も兄よりは、自由に批評をしてくれられる位置に居る雪鳥氏に、期待すること甚だ大なるものがある。その眼の相当に深いものであることは、先日舞つた三ツ台の、二ケ所の一寸した足のもつれを指摘されたことによつても十分の敬意を表して居る。 然しどうしてそれをズバ〳〵言はないのか。 これが私の何よりの不満なのである。
  • 167–168[デンマーク皇太子御覧能「土蜘」]作物に掛けた巣も打杖で破らずに、左手で一寸引搔くやうに破り、その隙から投げ巣を出し、ワキの方から出て紅葉狩のやうに台の上で拍子、飛び下りハタラキ。
  • 209–210[学生鑑賞能「邯鄲」]夢が覚めてからは又やりよい、と云つても、ここの足の扱ひは困難な処だが、心持は出し易いといつた工合で、一曲を通じて何か一つの気持でグツと押してしまへなかつたやうだ。演後の感が磊塊を吐き尽したやうなサツパリさがない。これはもう一度こすつてやり直すべきものだと思ふ。多少研究したのは来序で台へ上る処と、空下りの二個所、共に不十分ながら目鼻はついた感がある。子方長世。
  • 211–212十月八日、喜多会地方能、京都金剛舞台にて、「邯鄲」実、「景清」父、「紅葉狩」栗谷君の三番。「邯鄲」は春のやり直しのつもりで出したものだつたが、練習出来ず、やり直しどころか二番茶に終つた。謡の調子は楽。概して前半は春よりどうにか良かつたが、楽は一畳台が自家のよりも半足づつ狭くて参つた。
  • 259十月二十四日、稽古能、「山姥」五郎、「石橋」実。 「石橋」は三つ台である。十二代能静以来出たことのない大秘曲三つ台だ。その先代すら暗闇で百遍も練習したといふ程のものを、未熟の自分が二十遍やそこらの練習でやるのは僭上の沙汰ではあるが、震災で記録を失つて居るのを再録する、かねての宿志を初めて達成するのである。父が居てくれたからこそ出来た仕事だが、さうでなかつたら、この喜多流にのみ存在する三ツ台の型も永久に滅びるところだつた。
  • 260十月二十八日、例会、「三輪神遊」粟谷君、「景清」父、「石橋」実。 今日は台二つ、常の通り。三ツ台に気を入れた後で、今日はいかにも演り辛かつた。前のが失敗であつたならまだよかつたが、自分として先づ成功の方であつたので、気も緩むし、拙ければ又がつかりしなければならないし、妙に固くなつて、しかも気の入らない立場であつた。でも三ツ台で無くてまだよかつた。全然同じぢやどうにも逃れやうがない。 前は此の間と変へて童子。
  • 270[建流三百五十年記念能別会「邯鄲傘の出」]面白や不思議やな、の所は橋懸へ行かず、台へ退つて腰を下した。これは左足を台へ載せて腰を掛ける型をやつて見たかつたんだが、尻餅をついてしまつたので、計画画餅に帰した。
  • 342[「殺生石」所演について]ここ迄来ればもう心配はなかつた。後は調子も大変楽だつたし、型もすべて思ひ通りやり遂げた。作物が出て床几の位置が稽古より後だつたため、飛下りる時踵が半分台へ残つて危く転びさうだつた、がこんな失敗も一向気にならなかつた。
三宅襄・丸岡大二編『能楽謡曲芸談集』(1940)
  • 132[「谷行の話」宝生新]また子方を一畳台の下にすてた時は、一番端のツレの次ツレ(七人のときは六人目五人の時は四人目)が行つて衣をかけることになつて居ります。先日のは子方を膝枕で寝かして衣をかけましたが、古い記録によりますと、膝枕のときには衣をかけないで、台の下ではじめて衣を被けることになつて居ります。然し私は教へられた通りにいつでも膝枕で被けてゐます。 台の立木ですが、あれは元来観世では正面から見て左の角と右の奥に定まつてゐます。それをこの間は注文して、右の角と左の奥へ立てて貰ひました。
  • 134[「邯鄲の話」桜間金太郎]シテにとつては、道成寺よりも邯郸の方が、余程大役だ。邯郸は舞ひにくい能だ。あの飛込は始めの「邯郸の枕に伏しにけり」で寝た時と、枕なり、身体なりと位置が同じでないと不可ぬから、難かしい。注意しろと、稽古のたびに、教へてくれました。たしかに其通りです。あの台の飛込は、なかなか前後が同じやうに、まゐりません。骨が折れます。道成寺だつて下手をしたら、鐘に頭を打ッつけてしまふのですが。
  • 135[「邯鄲の話」桜間金太郎]邯郸の飛込など、随分遠方から行つて、そして台の手前一尺位で飛びましたが、綺麗でした。七十を越してからの話ですが、階段から落ちまして、大腿部に大きなシコリが出来たのです。それを治しにモミ療治に一ケ月の余も通ひましたが、なかなかよくならない、処が邯郸を舞ふことに成りまして、傍の者は心配して「そのシコリが消えてからになさい」と忠告したのです。頑固でしたから、ききません。その儘で到頭舞ひました。此時は飛込を、台の上にあがつて袖を返して置いて、トンと寝ましたが、それが又非常に鮮やかな出来で、評判でした。とても私など、親父の真似は出来ません。今でさへ、親父の晩年程に、身体がききませんのですから。意気地のない話です。
  • 137[「邯鄲の話」桜間金太郎]私は、飛込の稽古を、畳でやりました。一畳台の高さだけ、畳を積んで其上で何回も何回も繰返しました。畳でもかなり痛いものです。親父が傍にゐると容赦なく小言をいふので随分閉口しました。蒲団でやる人もありますが、あれなら痛くないから、ラクですよ。
喜多六平太『六平太芸談』(1942)
  • 50石橋の三ツ台 ああいふものは望まれたら舞ふべきもので、自分で買つて出るべきものではない。満座の中で怪我でもしたら取返しがつかない。だから、流儀にはあるが私は舞はない。
  • 69–70[「張良」について]文十郎得意満面で、当日になると、楽屋でワキの繁十郎に、手前に落ちるやうなことは滅多にありませんが、ひよつとすると、舞台の先きから下へ落ちる、かもしれませんから何分よろしく、とかなんとか自信たつぷりな挨拶だつたので、繁十郎も、いや手前へ落ちるのは困りますが、先きへ落ちる方は、けつこうでございますと云つて、安心して舞台へ出たのだつたが、肝腎の時になつて、一番まづいことになつちまづたんだ。それはそれほど稽古がしてあつたにも拘らず、沓が大口の裾にほんの少しだつたがひつかかつたんだ。サアいけない。向ふへ飛ぶ筈のが上へ飛び上つて、一条台のシテの下へ落ちてしまつたんだ。悪いも悪い一番始末の悪いところだ。もうどうにも仕様がない。わたしも子供心にひやひやして、福王の叔父さんどうするかと、かたづを呑んで見ていたんだがね。
  • 71–72[「張良」について]この繁十郎の勤めた少し以前に、春藤六右衛門が根岸の加州様の舞台で勤めたが、その時はシテがやはり流儀の藤堂様で、この方も大分お稽古をなさつたんだが、やはり当日はずつと手前、台の直ぐ前へ落ちた。その時は六右衛門さん台から飛降ると直ぐ、その沓を蹴つて先へ出してやつた。その時のも、中々面白かつた。とにかく昔の人は修業や心構へが違ふから、どんなとつさの場合にも臨機応変、あわてず騒がず、かへつてよい機会をつかんでしまふんだから、実に敬服のほかはないよ。