いる【居る】
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
- 20–21一番の能を舞ひ謡を謡ふにしても、シテならシテ、ワキならワキ、地なら地に取つて、用のなき場所がある。シテにすれば居グセの様な処は、シテは黙つて、坐つて居るだけで、別に仕事といふことがないから、ボンヤリと気も心もめて居てもよささうであるが若しさうしたら大変だ。地謡が一生懸命に謡つて居る心持が、シテに通はない事になるから、舞台に人形でも据ゑて置くと異らない結果を来たすのである。だからシテは矢張り居グセの文句や心持を、自分の心持ちとして泣く処は心で泣き、喜ぶ処は心で喜んで居なければならぬ。仕草がないとて油断をしてはならぬ。
- 21–22能の時のクツロギ、即ち後見座にクツログ時などでも、寛ぎであるから、汗も拭かうし、後見は袖を入れたりもするけれども、胡坐をかいて休むのとは事が違ふから無闇に構へを乱したり、居べき時でないのに下に居たりする事はならない。斯う云ふ際でも矢張気が抜けてはならないから、油断しては居られないのである。
- 106[「善知鳥」演能について]先づ「木曽の麻衣の袖を解きて」と、水衣の左袖を取つて、「これをしるしに」と、両手にて水衣の袖を持ちワキへ向いてさし出し、少し下げて、「涙を添へて」と、水衣の袖でシヲリをする。其シヲリの手を下げた処へワキが袖を受け取りに来て、シテは袖を渡す。斯う云ふ順序になつて居るのであるが、四月の宝生会の時はワキ(尾上始太郎)の来やうが早かつたのでシテの方では気合ひを挫かれてしまつたのである。此時のワキはそればかりでなく、座付く場所も低く過ぎて不都合多く、従つてシテも演り難くかつたのみならず、見て居ても甚だ見悪かつた。斯う云ふ処をば態とか否か、看過して置いて、大きなアラを出した処を、反対に褒めるに至つては、実にどうも……イヤハヤ言語同断。
- 3ウ[「関寺小町」について]次第・名乗・道行が済んで子方・ワキ・ツレが着座すると、後見が作り物の引廻しをおろします。シテの扮装は左の通りであります。
- 4オ[「関寺小町」について]ワキは「たゞおん出で候へとよ」とシテの手を取り、作物から誘ひ出します。そしてシテもワキも着座します。「七夕の織る糸竹の手向草」の地のうち、「袖も今は麻布の浅ましや痛はしや」のところに、シテにもワキにも心持があります。「とても今宵は」でワキはワキ座に帰り、シテは心持をつけて居を直します。
- 4ウ[「関寺小町」について]ワカ・キリ・鐘がしら・送り留 ワカ「百年は」から切りかへかけて型があります。「あら恋しの古やな」と下に居ますが、以下留までいろいろの型があり。心持が肝要であります。
- 9ウ[「頼政」について]初同の「月こそ出づれ云々」は、ゆるりと謡ふ、シテの語りは、下に居て語る。「かやうに申せば云々」はしツくりと謡ふ。中入前の「夢の浮世の中宿の」の地は閑かに謡ふがよい。
- 11ウ私は其話を子供の時分に聞いて知つて居たが、それに就いて、も一つ話がある。故実翁が此の能を勤められた時、梅若舞台で稽古があつた、前にも云ふ通り私は其ツレを勤めたのだから、舞台に座はつて居ながら、実翁の演ずる事を見て居た。肝腎の木賊を刈る処に来たが、翁は鎌を普通に持つて其処の型をした。
- 12オ[「木賊」について]地の「廬山の古を」と閑かに謡はせ、シテはワキに酌をする。クリ地でシテは中へ戻り、正面を向いて着座する。クリは調子をしめやかに、位をつけてサラリと謡ふ。
- 15ウ–16オ[「三井寺」について]シテは賤しき狂女。子を尋ねる謀として物狂となつたのである。位は序の破。シテは面は深井、着流し女。扇懐中し、水晶の珠数を持つ。笠を着る事もある。舞台正面先へ出て下に居、合掌して謡ひ出す。是を念誦と云ひ、或は観念とも云ふ。至誠に祈る心持ちである。
- 20オ[「鵜飼」について]後の謡ひ出しは、常は一の松であるが、舞台の正先まで出て「夫れ地獄遠きにあらず」とうたひ、下つて座す。「真如の月や出でぬらん」で「空の働き」となる。働きの型も常とは変つて中には鬼足といふものがある。これは一口に云へば飛んで出るので口伝の一つ。石橋、舟弁慶の前後の替などにも此足がある。位は一体静かに、段が済んでから急になり、留めで安座をして了まふ。それでロンギは安座のまゝで、型は一つもなく「実に往来の利益こそ」から、謡を静かに謡はせて大小は流しを打つ。シテは此処で始めて立つて、切りの謡一ばいに幕に入る。ワキは合掌して留める。
- 21ウ[「西行桜」について]「春の夜の」と序の舞は太鼓があつて、乗りなく囃す。又杖で舞ふ事があるが、これは習ひである。又三段目のヲロシに「葉隠れの伝」とて作り物に寄り添ひ、安座する形がある。これ老人休息の心であるが、此形は当流には用ゐない。
- 14オ[「油断は隙」]一番の能を舞ひ、謡を謡ふにしても、シテならシテ、ワキならワキ、地なら地に取つて用のない場所がある。シテにすれば、居グセのやうな処はシテは座はつてゐるだけで、別に仕事といふものがないから、ぼんやりと気も心も休めてゐてもよささうであるが、若しそんな事をしたら大変だ。地謡が一生懸命に謡つてゐる心持が、シテに通はないことになるから、舞台に人形でも据えて置くと異らない結果を来たしてしまふ。だから、シテは矢張り居グセの文句や心持を、自分の心持として泣く処は心で泣き、喜ぶ処は心で喜んでゐなければならない。仕草がないとて油断をしてはならぬのである。
- 14ウ能の時のクツロギ、即ち後見座にクツログ時などでも、寛ぎであるから、汗も拭かうし、後見は又袖を入れたりもするけれども、胡座をかいて休むのとは事が違ふから、無闇に構へを乱したり、居るべき時でないのに下にゐたりする事はならない。かう言ふ際でも矢張り気が抜けてはならないから、油断してはゐられないのである。
- 5ウ–6オ〇もう故人であるが、春藤六右衛門といつて流儀の座附きの脇方があつた。近代の名脇師として名があつた。自分が只の一度、今迄にたつた一度やられたことがある。それは、道成寺を勤めたとき、この六右衛門が相手だつた。後シテ祈りのあと「祈り祈られ」と押されて下り、安臥するとき、自分の胸に何かでドンとたゝきつけられたやうに思つた。「アツしまつた」と思つた。何でもない。安臥するときワキが打つた珠数の房の先きが、自分の胸に一寸さはつたたけであった。つまり六右衛門の気合に打れたのだつた。
- 49–50友ちゃん(観世友資君)と小袖曽我の仕舞を別会の時に舞つた。二三日たつてから写真を写したが、晴らして月を、の型のところだつた。僕が五郎で坐つて雲の扇をしてゐるのだが、ピントを合はす間が持ち耐へられず、後につつかへ棒をしてもらつた。
- 132–133草紙洗の中の一寸した型に私は非常な面白さを感じた事がある。それは、ワキがシテの歌を古歌だと言つてから掛合があつて地どころとなる。此の中の「わが身にあたらぬ歌人さへ」辺のところになると、小町の後に坐つてゐた女ヅレ二人が、立つて地謡座の前、男ヅレの間へ這入つて坐る。此れを面白く思つた。此れより後のシテの型や舞の邪魔になるから立つて、向ふへ行つたと言へばそれ迄だが、私は此の型を見てゐて、こんな風に思つた。 「小町さんは美人だし、歌は上手だし、あたし達は尊敬してゐましたわ。黒主さんが古歌だとおつしやるけれどうそだと思つてたわ。だけど矢張り………ぢや本当なのネ。あら嫌だ。」そこで立つて行くのぢやないでせうか。古歌だと言はれても直ぐ立ち上がらず、しばらく様子を見てから愈々本当らしいので、ツイと立つて行くのです。女の気性をよく現はした型だと思ひます。それとも私の勝手な想像でせうか。
- 145[日吉神社御謡初について]二番太鼓で装束をつけ、四時の三番太鼓で、いよ〳〵拝殿にすゝむ。ギツシリとつまつた参詣人をかきわける様にして設けの座につく。宮司の祝詞がすむまで約二十分の間、腹に力を入れて、ウンと構へてゐるが、ふるへがとまらない。それでも幸と例年よりは暖いのだが、吹きつさらしの拝殿の上に、比叡颪を直にうけて、坐つてゐるのだからたまらない。あたりはまだ全く暗い。前に二つとぼされた雪洞と、仕丁の持つ炬火、かゞり火のみが、赤々と空を焼いてゐるばかりだ。祝詞が終ると共に翁をはじめる。
- 236摂待──随分足の痛い能です。舞台の上でも、舞台の下でも、ともかく二時間に近い長丁場を、じつと坐つてゐるだけでも大変な努力です。謡本を読んで見ると筋も面白いし、人数も沢山出るから、能なら退屈なしに見られるだらうとお考へになつたら、それは見当違です。全曲の大部分が坐つたまゝで、只、謡の緩急とシテの心持で見せる能なんです。だから正直に申し上げますならば、此の能を初歩の人に見せるのは無理なんです。いくら説明しても、結局、アクビが二百五十ほど出る位がオチです。
- 238[「摂待」について]一行は其処で一休みしやうとして高札を読み、佐藤の館へ行く事になります。兼房の反対説が出ますが、弁慶の主張で矢張り摂待をうける事に決定、安宅の関であれだけの智恵をしぼつた弁慶です、皆安心して賛成したのでせう。家へ這入つた心で一同座につきます。(安宅と同じ様な位置に坐ります。)此処で眼を幕の方へ移動させて下さい。子方が出て来ます。
- 239[「摂待」について]──判官殿主従十二人の方々が山伏となつて、奥州へお出になつたと聞きましたので、祖母が此の摂待をはじめたのです。然し、あんた方も十二人ですが、判官殿では御座いませんか。──いや‼めつさうもない。私共はそんなものぢやありません。サア〳〵奥へ行つてゐらつしやい。 此れで子供は此処を立ちます。弁慶、又々大変な事が起るかも知れないと云ふので、判官を他の山伏の間に坐らせてしまひます。 又橋掛の方へ眼を転じて下さい。シテが出て来ました。花の帽子と云ふ、尼さんらしい頭巾をかぶつたお婆さんです。
- 252五百年の能楽史を通じて、足利時代の「江口」をおもふのも結構。又もう一つさかのぼつて江口の君そのものを思ひうかべて見るのも面白いでせう。とにかくそれは皆様方におまかせ致しますが、どうか謡本だけは見ないで下さい。どうもそれを見てゐると、能を充分に見る事が出来ませんから。舞台上の人達の動かない一節々々に何とも言ひ様のないスバラシイ型がひそんでゐるのを見つけ出して下さい。そこに能の面白さがあると思ひます。もう私の拙い説明は必要ではありません。皆様は、夢見心地になつて坐つてゐる旅僧と同じ様にウツトリと能そのものにとけ込んでゐらつしやいますから。
- 253[「隅田川」について]「皆さん。今日は此の在所で、大念仏と云ふものがあります。坊さんに限りません、サアどなたでも入らつして下さい。」ワキの渡守は此れだけ言つてしまふと、舞台の片脇に座つてしまひます。あとには春の日ざしをうけて、いゝ具合に温つた隅田の川水が、のび〳〵と川はゞを拡げてゐます。
- 268[「鉢木」について]以下舞台経過を簡単に書きつらねて見やう。 先づ何の囃子もなく、ツレ(源左衛門の妻)が登場して座に着きます。夫の帰りを待つてゐる体です。此からいよ〳〵此の曲は始まるのです。
- 273[「鉢木」について]「捨て人のための鉢の木………。 と地謡が気をうけて出ます。シテは梅、桜、松と一本々々切つてワキの前で焚きます。シテ、ワキ、ツレと三人が鼎座して心理的情景を地謡の謡ひにつれて描き出します。三人が別に動くわけではないのですが、見る方の人をして、芝居以上のものを考へさせられる所です。
- 293自分は鉢木と云ふものはガサ〳〵した能だとばかり思つてゐた。事件の展開に過ぎないと思つてゐた。所が意外の所に詩を見出した。それは上歌のところである。「これは雪の軒ふりて憂き寝ながらの草枕、夢より霜や結ぶらん」と鼎座したシテ、ワキ、ツレを包む何とも言へない雰囲気である。三人各ちがつた心持を持つて、しばしの間は無言で坐つてゐたであらう、然もその短い間に万感交々と迫つて来たゞらう、三人の心理的経過………こんな気持が淡いポエチツクな雲に包まれて眼前にひろがつて来る様な気がした。
- 295[杉浦披露能「卒都婆小町」について]「むつかしの僧の教化や」と杖にすがつて立ち、常座へ行く。その常座の方を向く瞬間馬鹿に若いナアと思つた。「影はづかしき我が身かな」で、坐つたまゝ笠を少し前へ出し、かくれる様に面を伏せた時はよかつた。此れから後の型どころは喜之氏らしい美しいものだ。
- 297[杉浦披露能「景清」について]「正しき子にだにも訪はれじと思ふ心の悲しさよ」とツレを抱へたまゝ泣き臥す所は、実にうまい。能であの位実感が生れて来やうとは思はなかつた。
- 297–298(業平餅)上田氏の傘持ちについて一言したい。狂言座で坐つてゐる間のうまみ。トボケた顔をしてあたりを見廻したり何かする所なんかは、シテが真面目に舞をまつてゐるのといゝコントラストだつた。いゝ笑劇だつた。バスターキートンの笑はない喜劇の趣があつた。何もしないであれまでトボけるのは実に巧みだが、あの点までやつてもよいものだらうかの疑問が起る。もつとかた苦しいものではなからうか。氏があまりに巧みだつただけにさう感じられて仕方がない。
- 309–310先づ此の海士は、当代の海士での典型的なものでしたらう。(名人が出て、特別によい能を見せてくれるのは典型的と云へないとするとです)但し、悪口を云はせてもらふならば、林さんは騒々しいと云ふ事です。足さばきがあらい。坐つてゐて、前が開く。これは身体の太い人には一割も二割も損な事ですが、見た眼にはきれいな方がよいときまつてゐます。
- 354–355[モ・ガの見たお能(宮田布禰子)──葵上を見て──]そうすると、こんどは幕の中から、きれいなお姫様が出て来た………そうして舞台の隅にチヨコンと座つてしまつた。これが神子なんですつて。そう思つて見ると、白いものを着て、どうやらそうらしく見えるわ。あの面が可愛いゝね。下ぶくれな、今にも笑ひ出し相な顔、中々愛嬌があるわ。キツト断髪にしたらよく似合つてよ。
- 372[乱能のぞ記(越智 桂・宮田布禰子)──東京にて──]所で、特筆大書しなくちやならないのは、松本謙三君の強力です。これは喜之氏が棄権したので臨時代役だ相ですが、素晴らしい活躍を見せました。物見の時に橋掛りの欄干へ上つて柱につかまり、小手をかざしたり、笈を持つ時に、馬鹿に重さうにしたりした間は、まだいゝ方なんです。ノツトの時ですよ。同山頭が、ドカンと座つたあとから、同じ様に出て来て、後で、弁慶と同じ事をやつたのには驚いちやいました。写真にも出ていませう、こゝが。勿論押し合ひにも出て来ましたよ。
- 374[乱能のぞ記(越智 桂・宮田布禰子)──東京にて──]葵上………鼓屋さんのおシテ、装束がよく身にあつて付いてゐたせいか、とにかく相当なもんデス。例の物着前の動きのあるところには痛快なところもあつたけれど、御当人は至極まじめ。まじめと云へば、おツレはあんまり真面目ぢやなかつたのよ。変なあるき方をしたり、足が痛いと云ふので坐りなほしたり、クスグリにしては頭がよくないと思ふの………どう、笑はぬキートンてことがあるでせう。まじめな所にこそ真のユーモアがあると思ふわ。
- 381[ある中毒者のたわ言(久礼茂七)][「夜討曽我」観能について]F「わるびれたる気色もなく参りて御前に畏まる。」万三郎氏は、エヽイ仕方がないと言つた気持、いはばあきらめきつた心境で静に正中へ行つて両手をつく。左近氏は、エヽイ勝手にしやがれ、と捨て鉢な気持でスカスカツと正中へ座る。
- 1ウ[「初入門心得」]目のつけ所 立つた時は六尺向ふ、坐つた時は三尺向ふと云ふのが規則です。俗に牛眼と云ひまして、上目も使はず伏目にならず閉ぢもせず、全開にして置く事を適度とします。目を閉ぢると頭がかたくなつて、動きがかけます。然し少しでも心にかゝる事があると、目を閉ぢるものです。
- 8オ〇田村 替装束、替の型、長床机等です。長床机といふと床机にかゝつて居る間が長くなつて形は少くなります。
- 9オ〇小袖曽我 替の型と云ふのがあります。これはシテ地謡座の上に座して居つて、時致一人に舞を舞はすことになります。
- 12ウ○道明寺 笏拍子。楽の内にシテがシテ柱の所へ安坐して、笏拍子を打つことがあるのです。
- 15ウ[「三輪 白式」について]クセは普通と違つて居ぐせになるが、上げ羽の「まだ青柳の糸ながく」から舞ふ事もあつて二様になつて居る。
- 16オ[「紅葉狩 鬼揃」について]前半では曲申の「盃に向へば変る心かな」と云ふ所で、シテはワキの所へお酌に行つて其儘、地謡の前へ参りまして坐ります。こゝでツレの一人が立つて、シテの代りに舞の初段目迄を舞ひます。初段を取る所からシテと入り代るのです。其心持は主人公であるシテは、お酌をして維茂の側に侍して居り、侍女をして舞はしめると云ふのです。
- 16オ[「紅葉狩 鬼揃」について]後半はシテは相変らず作り物の内より出て、床机にかゝつて居ります。ツレは三人(五入或は七人、何れ端数ときまつて居ります)同じく赤頭に法被半切の揃ひで、橋掛を出て、舞台と橋掛に分れて居並び、舞働の終り迄はツレのハタラキとなります。
- 16ウ[「草紙洗小町」について]座定りて後文台を持ち出すのは男連ですが、これを躬恒と見立てゝあります。
- 17オ[「草紙洗小町」について]「胸に苦しき」といふ所から小町の側に居つた女連は立つて男連の上へ座を代へます。これは気の毒に思つて小町の側を離れると云ふ心持で、此辺の挙動は注意せねばなりませぬ。「況してや小町が心の内」で正面へ直しますが、最も淋しい心持で居ります。
- 17ウ[「草紙洗小町」について]貫之から「青丹衣の風情たるべし」と言れて、己を得ずといふ心持で正面に直し「兎に角に思ぴ廻せども」と切なき心持で「やる方もなし」とシホリ「なくなく立つて」と徐に立ちスゴスゴと面目なさそうに橋掛り迄行きます。これは宮殿内の廊下を通る様な心持であゆむのです。貫之に呼止められて止り、一の松の所に座し舞台の方を向いて謹んで待つて居ります。
- 17ウ[「草紙洗小町」について]「岸に寄する白浪」とワキ正面へ行き下に居り、「さつとかけて」と扇にて水を汲む型をなして草紙を洗ひ、「洗ひ〳〵て」と二三度も洗ふ型をして「見れば不思議や」で扇を疉み草紙を両手に持ちさゝげて中を篤と見て、「文字は一字も残らで消にけり」と黒主の方に向ひ草紙を見せ、「難有や〳〵」と正面向き草紙を下に置きて合掌し「悦びて」と取り上げて王の前に進み「竜顔にさし上げ」と王に見せて下へ置くと唯見せる丈けと二通りの型があります。
- 17ウ[「草紙洗小町」について]ワキが「自害をせんと」と起つて行くのを追て行き、止めて座し「道を嗜む志」とシッカリとワキを見込みますが、草紙を王に見せた丈の替の型の方になりますと、此所迄草紙を持つて居つて「誰もかうこそ」といふ所で、ワキの前へ捨る型となります。「実に有難き」といふ所でワキと共に立ちてワキの次へ座し、爰にて烏帽子を受け取つて物着になります。
- 21ウ扇を持ちますのも、小指を締めて、前の二本の指は軽るく持ちますが、刀を持つのと同じだと申します。座す時には片膝を立てゝ居るのも、スワと云ふて直に立ち得る体構へ、ヒラク、サス、打込むなど申す名称も皆劒法に基いて居ります。
- 七9ウ四月の寳生会の時はワキ(尾上始太郎)の来やうが早かつたので、テ[ママ。テの直前はインク汚れのような一字]の方では気合ひを挫かれてしまつたのである。此時のワギ[ママ]はそればかりでなく、座付く場所も低く過ぎて不都合多く、従つてシテも演りにくゝ、見た目にも甚だよろしくなかつた。
- 56–57[「野守」稽古について]そのうちに利彦氏の腰付が心気の疲労の為いよ〳〵危くなつて来ると、たうとう翁が癇癪を起して、張扇を二本右手に持つてヒヨロ〳〵と立上つて来た。此の頃から翁は軽い中風の気味で、右足を引擦つてゐたのであるが、利彦氏が突飛ばされた拍子に投出した赤いお盆を拾ひ取ると、翁は自身で朗々と謡ひながら舞ひ初めたが驚いた。その身体の軽い事。まるで木の葉のやうにヒラ〳〵と身を翻へす。赤いお盆がそれこそサーチライトのやうにギラリ〳〵と輝きまはり屈折しまはる。おしまひに三尺ばかり飛上つて座つた翁の膝の下から起つた音響の猛烈だつたこと、板張が砕けたかと思つた。
- 107立居なども腰の力をからなければ身体がぐらつきます。すべて立ち方は腰が大事で、腰さへしつかりしてゐれば立居も運びも乱れません。
- 108老女物などは単に静かであればよいのでなく、立居などにも老いたる乱れがなければならず、老人も若い三番目物のシテなどの静かさと違つて枯木の軽さがなくてはならないのです。唯大事々々とつとめて芸を殺してしまつては何の価値もなくなつてしまひませう。
- 200脇能のクセは、居グセでシテは別に型がなく、全くの謡を聴く処である。だから余程シツカリと上手に謡はぬと、聞き辛いことになる。但、「高砂」は上ゲ端すぎてかち、シテに型がある。又「養老」には、このクセが全然ない。
- 247尤も「居クセ」と「舞クセ」によつて、相違のあることはいふまでもない。「半蔀」や「松風」は舞クセであるから、型によつて多少とも緩急も心持もあるわけである。そして三番目の本当の位で謡ふのである。但し、「松風」は上羽前は床几にかゝつていての型であるが、それだけ、謡の方は客易でなく、第一品よく優美に謡はねば、床几の型と調和しない。「井筒」や「定家」のやうな居クセ(三番目物の居クセは少い)はシテに何の型もないのだから、ラクなやうだが、しかし又謡だけで聴かせ、舞台を引きしめてゆくといふのだから、更に容易でないともいへる。だれぬやう、運びをつけて謡ひ、それで十分優美な気分を出さねばならぬ。要するに、大少の鼓と謡とで緊張させ、満足せしめるやう、謡ひ囃すべきである。
- 248[「鬘物の謠ひ方要領」梅若万三郎]三番目物の待謡は概してシツトリと謡ふ。又「三輪」のやうに、「この草庵を立出でて、〱、行けば程なく三輪の里」と、一般の坐つたまゝ謡ふ待謡と違つて、立つて歩み〱謡ふものは、些か道行のやうな風趣が添ふ方がいゝであらう。
- 341[「素謡・仕舞・囃子」梅若六郎]猶謡ふ時に、視線はどうするか、座りやうは如何、息の継ぎやうは、等々の問題をこゝで改めて述べるのは野暮といふものであらう。たゞ平素能を観て置くことの必要だけは繰返し主張して置きたいと思ふ。
- 345[「素謡・仕舞・囃子」梅若六郎]この道で囃子と称へているのは、つまり三拍子又は四拍子を加へて謡ひ(又その上舞ふ場合もある)且囃すのを指すのであつて、大体二つに分ける。即ち番囃子と普通の囃子、そして普通の囃子は更に分つて舞囃子並に居囃子とするが、概して居囃子といふものは場合稀なもの故、結局番囃子と舞囃子とこの二つになるのである。
- 44–45先代鉄之丞さんを始め義兄の六郎でも、私どもでも、舞台で仕舞の稽古を致します時は、真裸で下帯の上へ袴だけつけて舞はされるのです。これは人様にとても見せられない姿でございます。横に亡父が立つてゐまして「それ首がゆがんだ」「手が下すぎるぞ」「足だ、足だ」と直してくれます。「熊野」や「松風」のやうな女物が主でございましたから随分をかしなものでございますが、これがどの位役に立つてゐるかわかりません。この上へ装束を着けるのですから形もよくなりますわけで、唯装束だけで形をこしらへたのでは、幕へ入るまでに形が崩れてしまひます。その反対に裸で練習しておきますと、ツレのやうに型はなくて下に居るだけのものでも、襟も崩れませんからえらいものでございます。
- 125シテが絶句でもしました折は、確かな人でなくては文句がつけられません。往々地からつけるのを見受けますが、それは元来後見の役でございますから、つけないのが本当で、ツレの方には地からつけてもよいのです。それは大抵ワキ座に居る関係からでございます。
- 126舞台では僅の音でも、必要以外のものは邪魔でございますからよく注意しなければなりませんが、囃子の後見などでも、大皷を持つて来る時に、切戸口から、ドシ〳〵と歩いて来られると困ります。御見物もでせうが、座つてゐるシテにも響いて来るのです。
- 127–128今は余りないやうでございますが、クリからサシを謡ひ出します時に、正中に座つてゐて、サシの謡が、どうかするとつかへて出ない時がございます。さういふ時は、後見が鬟帯を直すやうな風をしてつかへた所をつけるのです。余り遅くてはいけませんから「つかへたな」と直感しなければなりませんが、それにはどうしても前申しましたやうに自分がシテの積りでゐないと、直ぐに文句が出て来ません。若し後見がようつけねば仕方がございませんから地からつけますが、まさしく後見の恥といふ事になります。
- 132又「草紙洗小町」のやうに前シテの舞台へ入らないものがございますが、この時は幕際に着座してゐる事になつてをります。
- 135–136「長い居クセの所などは抜いてしまつたらどうか」などとよく聞きますが、どう致しまして、それはこちらでは大切な所でして、舞はないで唯、座つて居るのだから抜いてもよいと思はれますのは、一応尤もではございますが、シテはあの間をまるで肚を抜いてゐるのではございません。抜いてゐる訳には行かないのでございます。地と一緒にその気持でゐるのですから、言ひ換へれば何もない所であるだけに一番むつかしい大切な所でございます。地謡も、特にこれには力を入れてゐるのでございまして、曲によつてはなか〳〵よいクセがございますから、上手に謡はれますと、シテでゐながらウツトリと聞いてをることもあるのです。芸の方からでなく、身体の方から申しますと、唐織の時などはなるべくならば抜きたいと思ふ程、唐織で座つて居る事は苦しいものでございます。
- 136それに私どもは他の御方と座り方が一寸違ひますから、尚更でございます。当り前は左足の膝を立てゝ座ると、右足の裏に重みがかゝつて楽なのでございますが少しそり身になりますので、私の座り方は踵を浮かして大概立てた左足でこたへて居りますから苦しいのでございます。左足でこたへずに力をかけたままでグツと膝を上げれは楽でございますが、さう致しますと上前が拡がりまして、膝の飛び出す事がよくございますのでそれを避けます。従つて唐織ものは座つてゐるのが一番苦しうございます。
- 143私は随分ワキをやつてゐるやうに思ひましたが、調べて見ますと種類は余り沢山やつてをりません。「隅田川」とか「正尊」とか「安宅」「安達原」「舟弁慶」「鉢木」等良いワキは好んでやりました。が、「松風」のワキ等は御免蒙りたい。役不足を申す訳ではないのですが、余り坐つてばかりゐるワキはどうもいやでございす。
- 177余り身近でございますので取り立てゝいふ事もございませんが、義兄で思ひ出しますのは鉄之丞さんと共に宙返りは上手で、特に座つて膝をついたまゝでせられたのには一同驚いてしまつた事がございました。
- 275当日は「翁飾」と申しまして楽屋に翁の面を御神体のやうに安置しまして神饌を供へ、一同神酒をいたゞきます。これを鏡の間の式と申してをります。シテが正面先で、辞儀をしますのは今日様へ礼拝を致しますので、それから外の者が拝をして座につくのでございます。亡父の話に、昔大奥の「翁」の時、若年寄が正面の階を上つて、一の松へ来られまして、片膝をつき、「始めませい」と申されますと、シテは幕を上げて下に居り、御受けを致します、そして幕をまた下ろしますと、若年寄もこれを見届けて元のやうに立帰られ、それから本幕になつて始まるのでございます。
- 281–282何しろ若い頃には、頭の頂辺から声が出まして、よく姉に笑はれました。さうでございますから、その時分の「勧進帳」は、ドツシリなどゝいふ事はとても出来ません。立つて居つて謡ふのと、座つて謡ふのとは大変調子が違ひます。それに、両手を張つて居りますと手に力がはひるので、声の方が抑へられずに段々調子が上りますから「これだけ声があるぞ」と云ふ気になつて謡つて居りますが、終ひには苦しくなつて来ます。さうすると勢ひ体が崩れて来ますので、なか〳〵むつかしいものでございます。
- 289嘗て清孝さんと、亡父とがこの「二人静」を勤めた時がございました。私どもは「これは観物だ」と楽しみにしきつてをりますと、清孝さんは橋がゝりで床几に腰をかけてしまつて、亡父(ツレ)が舞台で一人舞ふのを、静(シテ)が見て居るといふ風でございましたので、驚いてしまひました。
- 296「卒都婆小町」で、シテが舞台に入りましてから、卒都婆で休みますのに下居しますが又床几にかゝる事もございまして、どちらでもよろしいのでございます。 左近さんがお勤めの時は、卒都婆のつもりで床几を置いて、シテは其処へ行つて休みましたが、床几のある方が立派ではございますけれども、私どもは座る方でやつてをりますのです。御覧になる方はどちらがいゝでせうか。とにかく両様になつてをります。
- 12自分の居る住ひは海に近い――さういふ場合にその住ひを、能では簡単な藁屋のやうなものを拵へて、その内に景清が坐つてをりますが、立ち上つて四力に竹の柱が建ててあるその一本の柱に摑まつて首をかしげてぢつと聴き入る。これなどは、どちらかと言ふと能ではやさしい方ですが、それだけの事をして見れば、見物には十分波の音を聴いて居るのだなと納得出来る。然し上手な人になりますと、そんな仰山なことをしなくてもいいやうになります、もつとシグサを少くして、坐つて居て僅か顔を下に向けるやうにしただけで、却つて立上つてやるよりも含蓄のある深味のある芸を示すのであります。
- 94–95人のことぱかりも言つて居られない。大衆能とか、宜伝能とかいふ名のもとには、随分いかがはしい舞台――のやうな板の間で、名人とか上手とか呼ばれる人が、「羽衣」や「望月」をやらねばならぬ時代ではないか。私たちでさへも、あの金槌と釘で、三時間か四時間で出来上つた舞台で舞はされることは、何か尊い、潔い気持と遠慮会釈もなく、タワシかなんかでゴシゴンこすられるやうに感じる。敷舞台に赤い毛氈か何か敷かれて、その上へ坐らせられる時は冷汗が出る。
- 160[「藤戸」所演について]安坐してまた立つ常の型は却つてやりにくいので、替の型でやる。当分これでやつて行くつもり。
- 177九月二十日、大阪錦風会、「鉢木」。これは一番手に入つて居る能、出来不出来はあつても、それほど醜いことはしないつもり。出来は今までの中で一番悪かつたが、それでもまあ〳〵義理位は果せたつもり。博多へ四五日行つて居ての帰途で、練習不足のためか、坐つてゐてのアシラヒにすつかり大腿部を痛めて、帰京後三四日間立居に不自由を感じた。
- 179–180大小座着くと出て――姉を連れず――地謡前へ坐る。ワキの名乗り、狂言との問答、子方の呼出し、子方の述懐、案内、シテと子方との対話は子方真中、初同終つて狂言同士の問答、狂言下人子方を連れて行き、子方は後見座、シテ次いで中入。
- 180[稽古能「竹雪」所演について]「帰らんと」と竿つきながらシテ柱の方へ行き、「門を閉す」とシサリ、「明けよ」とシテ柱を二つ竿にて打ち、「あら寒むや」と正面へ三四足出、シサリさま竿捨て、下に居正面へ合掌。「実にや無情の」と立ち、作物の方へ行き、大小の方向き臥す。
- 182今度は呼掛から調子よく、占めたと思つた。山姥の前はいつも調子宜く謡へる。これは不思議なことだ。但し困るのは下に居ての長丁場で足がすつかり参つてしまふ事だ。だから中入前が型がよく行つた例は無い。今度はまあ〳〵位の処。処が中入で装束がおそくなつて頭の毛を解くひまもなく幕に掛つて「お幕」だつたので、すつかり気持を荒されてしまつた。
- 189–190四五年前のやはり学生能の時、初めてやつた「安宅」で、非常に調子の苦しかつた事をハツキリ覚えて居るので、今度も調子の事だけが苦になつた。それに今度も大入満員なので愈調子は苦しいに違ひないと予期したが、出てみると楽だつた。従つて謡は自分のものらしく謡へたが、勧進帳になる頃にはやはり疲れのためと、両手を前に出してゐるので胸が圧迫されて非常に息が苦しかつた。此の前も此処で堪へ切れずに下に居てしまつたので、今度はどんなに苦しくても立つて居なければならんと必死に堪へ通した。だから調子は好調でも存分に謡ふ事が出来なかつた。
- 192六月二十八日、道後公会堂での越智茂幸君追善能、「咸陽宮」越智教授、「杜若」観世流の人、「隅田川」僕、「満仲」柴藤君、「紅葉狩」五郎、以上の五番。 舞ひにくい能だつた。腰巻に使つた色紙と短冊のヌヒ箔は同地のもので、実に結構至極のものだが、古いのと、手入れの届かないために、坐つてゐる間にピリピリ綻びて来て困つた。
- 204[稽古能「源氏供養 舞入」初役について]後の初同は真中へ出て角へ袖被ぎ高く見る。ここは型付の通りではない。打切から左へ廻つて一且深く廻り込み、ワキへシカケヒラキ、大小前へ行き、下に居て合掌、舞アトの打上、ロンギの謡出しは打切なし、小鼓ホヽと聞いて「実に面白や舞人の」となる。
- 225–226四月十五日、教育家招待能に「舟弁慶」を真之伝、波間の拍子で勤める。前はイヂケてしまつた。やはり唐織ものはむづかしい。どうしてもこれをこなし切らなくては、自分も人並の顔は出来ない。「舟子共早ともづな」の処は左膝ついて下に居、橋懸へさして振り向き膝立て替へてみたが、うまく行かなかつた。此の前やつた時のやうに、右膝を先きに突いて、左膝に立て替へる方がやり宜い。但し深く橋懸の方迄向き切れない憾みがある。後は十分に手足を伸び切らし得た。
- 237二月二十八日、稽古能「東北」。 前は坐ることがないので、運びもどうやらかうやら、後は曲の謡ひ起し大分位を失つて居たので、せき立てられる気がして不満足だつた。出鼻を挫かれて後の良い筈はなかつた。
- 261–262初演の時と較べれば、大分力が有効に働くやうになつたと思ふ。勧進帳は、中頃からはやはり苦しくなつた。調子は楽だつたが、精力的に少し参つた。途中で下に居たくなつたが、遂に仕舞ひ迄踏ん張つた。調子が思ふやうに出てたから、精力の不足が残念だつた。
- 276[「元服曽我」所演について]それと、こんな苦しい直面ものは初めてだつた。恐らく直面ものの中に、これ一曲だらうと思はれる程、苦しいものだつた。「定家」を舞ふ方がどの位楽だが判らない。まつたくヤマの無い能といふものは、恰度縁の下で力んで居るやうなものだ。坐つたきりで言葉が多く、少しも逃げ道が無い。ワキが中入して、大口僧に姿を改めて出て来た時はとても羨しかつた。
- 277[「元服曽我」所演について]男舞は、余りの長坐に膝が参つてしまつて、足で歩くといふよりは、身体で歩く、といつたやうな始末。舞上げの謡も息が切れて、「海人」の玉之段のあとでも割に息を切らさない自分も、まつたくハーハー言つてしまつた。醜態至極。 もう二度と演る曲ぢやない。
- 294–295[「半蔀」所演について]久し振りに、本格的な能を舞つた快さを味つた。「湯谷」も「松風」も、もう沢山だと思ふ位堪能は出来るが、何といつても本三物の気持は格別だ。雑り気のない、純粋な、無垢なものといふ気がする。上羽を扇捧げたまま下に居てする替をやつてみた。これは、あまり平な型ばかりで、それも東京なら馴染の人も多いので我儘に押通すところを、多少土地の人の眼に対する考慮もあつての心遣ひだつた。
- 300[「安宅」所演について]動けば疲れるので、仕方なく居グセを頑張つた。といふとをかしく聞えるが、このクセだけは石のやうに坐り切れた。動かぬ面白さをしみじみ味つたのは、こんな時にしては大出来だつた。
- 310[稽古能「誓願寺」所演について]初同の運びはよかつたが、一度坐つてからこの間の立廻りはすつかり足が不自由になつてしまつた。後もクセ序之舞ともに運びがガクガクして十分でなかつた。
- 331[稽古能「実盛」所演について]ただ、前はずつと気持よかつた。殊に中入前の廻り込なんか何度やつても快かつた。肥つたので、坐つてゐる間の足の痛いのには予想外に困つたが。
- 337–338十二月二十二日、稽古能、「玉葛」を演る。多分初めてのやうな気がする。若しかしたら稽古能で一度やつて居るかも知れない。最近肥つて益々坐りにくくなつたので、一つは坐る修業にと考へてかかつたのだが、一声で幕をはなれて驚いたのは、足袋がいつもよりぐつと小さい。指先がヘシ折られるやうな感じで、まるで運べない。坐るどころか、立つて居るのも漸くだ。この意外の突発事件で前全体はすつかり混乱に陥つてしまつた。情ない話だが、立上りに機先を制された武蔵山のやうなことになつてしまつた。坐る方も、稽古で大分自信を持てたのが、とてもとても痛いの痛くないのつて、結局普段よりも形を崩してしまつたやうな始末だ。
- 356–357[学生招待能での「三井寺」所演について」クセも坐つてゐることの辛さを少しも感じなかつた。気の入るといふ事は恐しいものだと考へた。上羽以後も悪くはなかつたと思ふが、自分ではもつとじつくり行きたかつたが、文句が少しづつ思ふ程より先へ行つたやうだつた。自分の一番やりよい能でもあるが、この一番上の部であらう。
- 71[「元章自筆の謡本」所載「半蔀」型付の引用]南無当来ト右の方へ二足程出て足留 今もたつときト脇の方へ向て両手を合て拝ミながら下に居 思ひ出られト両手をのけて脇を見
- 78[十七代織部清尚の「清経」型付の引用と本文についての解説]「底の水屑と沈み行く」と跡ソリカヘリ跡へタラ〳〵とさかりへタリとあぐらかき、尤膝つき下に居か吉」安座よりも下居が良いと言つてゐる。恐らく安座によつて形の崩れるのを嫌ふのだらう。
- 80芦刈のシテが、ツレの前へ行き芦をさし出す所は何人がしても難かしい型だが、清尚も「ツレの前にて下に居面さげ芦をツレへ渡すやうに出し、ツレの面を見て芦をすて直くに作物の戸をあけ内へ入り戸をたてあぐらかき居る」と型附して、その次へ「此所仕舞にならざる様にすべき所也」と注意してゐる。仕舞にならざる様とは、自然にやれといふのであつて、所作が所作に見えてはならぬと戒めた訳である。ハツと驚く心持が見えねばならぬが、それが意図されてはイヤ味になるから、それを憂へたに外ならない。
- 81天鼓のキリの型どころ「月にうそむきト空を見水に戯れト正面下を見てワキ正面の方へ面つかひ見波をうがちト下に居ながらワキ正面の下をすくひ上げるやうに三ツ四ツうがつ、水を両手にて上下へすくひかへす。月かげの浪にうつるをうがつ心」とある。終の月影の波にうつる云とは面白い。かういふ所に伝書の伝書たる面目があると言つてよい。この一行の句を味はふことによつて、天鼓の後シテの舞ひやうがハツキリと会得出来る。
- 90[「藤戸」演じ方について]「御前に参りて候なり」と一二足出て坐ります。これから愈々ワキに恨みを言つてやらうと云ふ心持です。ワキは内心の驚きをかくして、何気なく「我が子を波に沈めし恨とは更に心得ず」と突つぱねます。
- 95–96こゝは藤戸一番中のやりにくい所で難かしい型があります。この型には色々ありますが、当流ではまづ三通ございます。泣いてゐる所までは同じですが、其一は—「杖柱とも頼みつる海士のこの世を去りぬれば」とシオつてゐた手を下しまして「亡き子と同じ道になして賜ばせ給へやと」で膝を打つと直ぐ立ち上つてワキへ突つかゝつて行きますが、気ばかりあせつても肝腎の足がもつれて膝をついてしまふと云ふ型であります。其二は—ワきへ真正面から突つかゝつて行つて、ワキに払はれて後へ退つて下に居る型であります。其三は―これは古い型附でありますが、上端を謡ひながら立ち上つてシオリの儘、一旦常座へくつろぎまして、「とてもの憂き身に」とワキを見こみ「亡き子と同じ道に」と両手をひろげながらワキへ摑みかゝつて行く型であります。
- 96[「藤戸」演じ方について]現在では普通第一の方をいたしますが、これは一番難かしい型であります。何れの型をいたしましても「うつゝなき有様を」で下に居て双ジオリをいたしますが、これはワア〳〵泣く心であります。この所は型と謡とがピタリと呼吸を合せていきませんと、見てゐる者を感動さす訳には参りません。
- 96[「藤戸」演じ方について]これに就いて昔の面白い話があります。さるシテ方が狂言の「まづお立ちやれ」のセリフで立たなかつたのです。この場合シテは安座して双ジオリしてゐますから腹をグツと押してゐて随分苦しいもので御座いますが、このシテはそれを我慢してゐたと見えます。狂言は約束通一ペんのセリフでシテが立たないので困つたが、稍々間をおいて再たび「マーヅお立ちやれ」とやつたのでシテも今度はしづ〳〵と立ちました。その呼吸が非常に良かつたさうであります。
- 100[「藤戸」演じ方について]「そのまゝ海に」と三足下つて反りかへりをして下に居て地の「引く汐に」と立つて廻りながら「浮きぬ」と下に居り「沈みぬ」と立ち上ります。「岩の狭間に」は杖を肩にして下に居ります。替之型に杖を肩にしてシテ柱の方へ流れるのもあります。
- 107–108クセは居グセであります。シテはクリの間に大小前から二三足出て下に居ります。前にも申し上げました様にシテは正中に出て坐ります。それを休息してゐるとお思ひになる方もありますまいが、この居グセほど厄介な辛いものは御座いません。肥満してゐる者も痩せてゐる者も足が痛くて堪へられないものであります。クセの文章はシテ女の追憶でありまして、地が代弁をしてゐる訳ですから、シテはその気持で終始せねばなりません。紀の有常の娘が業平との恋物語を述べて居りますから、シテも地と共に優美に素直な心持でなければなりません。ワキも亦その心持で聞いてゐるのであります。シテは安閑としてゐてはならぬ、即ち腹で謡つてゐるのであります。と云ふのはボンヤリと坐つてゐてはゐけない、力をぬいてはならないと申すことであります。居グセの間のシテの姿はいかにも端麗で品の良いもので無くてはなりません。この感じを見る者に与へることの出来るシテは、本三番目物を真に会得してゐると云つて差支ありません。
- 109間狂言は居語でありますが、これも無論井筒の位即ち本三番目の位で勤めるのが本当であります。然し近頃はこの心得の無い狂言を往々見うけますのは誠に聞き辛いことで御座います。
- 119元服の披露に初めて「翁」を舞つてから、今日まで凡そ百に近い数を重ねてゐる私だが「翁」は何べん舞つても、そのたびに心身の新なものを感じる。わけて正月の初会能に勤める時は、われながらまことに目出度い心持に溢れ、よくぞ能の家に生れて来たと思ふ。注連飾りに囲まれた能舞台に坐つて、初春の朝の日を浴びながら「たう〳〵たらり」と謡ひ出す気持は何ともたとへようが無く、その、悦楽は経験した者のみが知るであらう。
- 121だから演奏する方でも、非常に厳粛な態度をもつてする。昔は勿論のこと現在でも、みな前もつて別火潔斎して、身を浄め心を直くし、当日は楽屋へ壇を築き、翁面を安置し、神酒と洗米を供へ、これを大夫以下順次に頂戴して舞台へ出る。橋懸を歩むにも方式がある。大夫は舞台正面に出て坐つて礼をなし、以下も舞台の入口シテ柱で正面へ礼をする。これは昔の神前あるひは君侯の前に、敬意を表する名残であつて、今日では無用のやうだが、私はこれを天地神明に祈禱し奉る心で行つてなる。
- 122–123現在の謡初之式は正月三日の午後一時から行ふが、あの神寂びた東照宮の神前で演ずるので、また別な森厳の気分に浸り得る。徳川公、松平伯を初め旧幕臣の方々にならんで頂き、流儀の清水八郎が旗本の家柄なのでお奏者番を勤め、東照宮の神官諸氏が儀式を執行つてくれる。昔ながらの姿かたちに扮し、拝殿に平伏して四海波を謡ふのは、かなり窮屈ではあるが、またなか〳〵爽快なものである。私は小謡がすむと更に下宝生のワキで老松の居囃子を演じ、次に宝生、金春、金剛三流輪番で東北の居囃子、その次に喜多の高砂の居囃子がある。これが了ると白綸子、紅絹裏の時服を拝領して、それを素袍上下の上に壺折つて、三人で弓矢立合を舞ふこと昔の如くである。
- 125翁の出の時と、翁カヘリと称する最後のところにシテが正先で下に居て礼をするところがある。一般の観者は、これを大抵見物に挨拶してゐるものと取るやうだが、然し全くその意味ではないので、前述の天壊無窮、天下泰平、国土安穏の御祈禱の心持に他ならないのである。
- 131「道成寺」といふ能は御承知の通り難しい能で、自分が勤める分には、さほどには思ひませんが、弟子に披かせる時は真に心配なもので、後見座に坐つて居る丈けで非常に疲労してしまひます。今年は吉井、浦田、木原と三人に披かせましたので、大分寿命を縮めました。
- 135–136「紅葉狩」や「土蜘」の後シテの退場法にはいろ〳〵あるが、流儀の正規の型は正面を向いて安坐して面を伏せたま、ジツとして居て、ワキが留拍子を踏み退場する時、ワキの後に従つて退場する行き方である。
- 136「紅葉狩」の古い型附を見ると、「剣に怖れて巌へ登るを」の型を幕際でやる型がある。つまり揚幕を巌に見立てゝ、例の型をやり、「引き下し刺し通し」と安坐して斬られると、直ぐに立つて幕へ入いるのである。これも一寸おもしろい型だと思ふ。
- 97[「翁の話」観世左近]翁の出の時と、翁カヘリと称する最後のところに、シテが正先で下に居て、礼をするところがあります。一般の観者は、これを大抵見物に挨拶してゐるものと、とるやうでありますが、然し全くその意味はないのです。これは観る人に挨拶するのではなくて前述の天壌無窮天下泰平、国土安穏の御祈祷に他ならないのであります。
- 114[「語り」に就いて 宝生 新]又、「道成寺」「雲林院」などのやうに立つてする「語り」、腰掛けて「鉢木」、坐つて「摂待」「七騎落」のやうにいろいろありますが、何れがやりよく何れを好むかと質されても困ります。この道に入つて居りますと、何れもやりづらく何れも厭だと申上げるより他に仕方がありません。
- 120[「木賊のこと」梅若 六郎]話が前後いたしましたが、物着で子方の扇を持つて舞ひます。この舞の中で扇を左に取り、下に座してしをるところがあります。之は扇を左に取つたその時に、自分の持つてゐる扇が、子供の持つてゐた扇であることに気がついて、子を思ふ心に浸るところです。姨捨の同じ型のところに、舞ふ老女がくたびれて下に座し、そのときふと仰いだ空に、月が皎々と輝いてゐたので美しい静かな気分に浸りますが、同じ下に座すのでも斯うした気分の相違がありますから、その気分をじつくり出すのが至難なところなのです。
- 125[木賊のことども 観世 銕之丞]何しろ木賊の子方は一曲殆んど坐り通しで、退屈で弱つた事を記憶してゐます。ワキが立たして呉れるのを今か今かと楽しみに坐つてゐましたよ。
- 155–156[「道成寺の話」梅若六郎]鐘が上つたら鬟帯が落ちてゐたといふシテがありました。又後を向いて座つてゐた人も、昔ありました。余程落着いてゐないと後向きといふ程でなくとも真正面でなく、少し横を向き易いものです。何しろ中で動くのですから、どつちが正面かわからなくなり易いのです。その上あまり中で動いてお尻でもぶつつけると、すぐ鐘が動いてしまひます。ですから、かうやれば正面向といふことを、倅共にはよく教へてあります。
- 230[「蔭の力」川崎利吉]それから舞台に着座する時、その位置といふ事が父大切なのです。これを誤まると大小前に作り物の出た場合などその中を通るシテ方の後見が大に困まる事にもなりますし、又正面から見て恰好の悪いものになります。それで大の位置とは舞台の棟を左の肩に荷ふやうにして、そして横板一杯に着座すればよいのです。そして後見の通路を取つて小が着座します。そこで私の考としては笛は地謡の通路を開けて成るべく笛柱の方に寄り、次に小鼓が比較的笛に接近して着座すれば旨く行くと思ひます。又大鼓と太鼓も、比較的接近すれば見た目も宜いかと思ひます。尤も舞台の広狭等により多少の斟酌を要する塲合もありますが、各役共着座の位置といふものは各自気をつけなければならない事です。
- 239[「一調」幸 悟朗]舞台での坐り方も変つて、普通の囃子の時は横板一パイに坐りますが、一調の時は横板を二三尺出て打つのです。
- 256[「安宅の間狂言」野村万斎]そして、常座に立ち『皆々承り候へ、今日も山伏達の御通り候はば此方へ申し候へ、其分心得候へ心得候へ』と、関の人々にふれるつもりで、正面から脇正面にふれます。此処は謡本に「狂言シカ〴〵」とある処です。是でワキの下に座ります。
- 259[「安宅の間狂言」野村万斎]是でシテから笈を持つて来る事を命ぜられる迄、用はありません、ワキの方の狂言は鏡板の前で、ワキと向合つて座つて居りますし、剛力は狂言座にクツロいで居ります。御約束通り進んで、シテの発案で剛力の形に判官を仕立てる事となり『いかに剛力』と呼びます。狂言座から剛力は立つて、角に出てシテをウケ下に居て『御前に候』といひます。
- 306[「思ひ出す人々」茂山千五郎(「子の日」について)]最初シテが出て次第、名ノリ、道行とあつて野辺へ着ぎ、一旦笛座の上に座り「春ごとに〳〵」と両袖のツユを取つて立ち上り「子の日の松の縁にひかれて緑の袖を返し返して舞ひ遊ベば、喜びは日々に猶まさり行く、神国なれば君は千代まで民も豊につきせぬ齢、民もゆたかに尽きせぬ齢を松に契りて長生せん」といふ文句につれて舞ひます。
- 153一寸した事ですが「いかに申上候」や「御前に候」「畏て候」などの詞は何れも能であれば下に居て礼をして謡ふ所ですから高い調子で謡つてはどうしても調和しません。これは自然調子をおさめて謡ふやうになつてゐます。それから「や」といふ詞もおさめなくては謡へません。尤もその曲によつて驚く心持や、思ひ出す、といふやうな心持などがありますから夫々多少の差はありますが、先ずおさめて謡ふ方が多いのです。
- 167–168今は既に亡くなりましたが、静座法の大家に岡田といふ方がありました。よく肥満した大男で、門を這入れば遥か奥の座敷で普通に話してゐる岡田先生の声が表までも手に取る程大きく聞えてゐました。それ程普通の話まで大きな地声を出す人でありました。昔の話ですが、亡くなつた濤平さんと二人で岡田氏の門を叩いたことがあります。二十歳時分で元気一ぱいの時でしたが、私共が行くと、何か謡つて見ろ、との事なので、濤平さんと二人で船弁慶を精一ぱいに謡ひました。するとそのあとで岡田氏が、「今のは何んだ、なつちやアをらん、声に力がはいつてゐないぢやないか」と言はれるのです。私共は大に憤慨したものです。すると先生曰く「ホントの腹から出る力のある声はそんなものぢやない。これから大に勉強せねばいかん、君方の先生(九郎先生)は静座法を会得された訳ではないが、静座を完成した人程腹が出来てゐるから、ホントの腹の声か出てゐる。君方のは唯大きい図太い声だといふだけだ」とイキナリこき下ろされた事があります。
- 188–189客 いや私などもその一人だつたのです。クセなどシテが座つてゐるので、一生懸命と謡本に気を取られて居ると、舞台で足拍子の音がするではありませんか。顔を上げて見ますと、座つて居た筈のシテが何時の間にか立上つて、好い形で舞つてゐるんでせう。謡のどこで立たれたのやら全く惜しいと思つた事など度々あります。
- 51–52[「烏頭の切」]烏頭はどうも品をよくはやれません。と云つて阿漕ほどではありません。烏頭の切は一向意味の分らない所が多くて、結局追つたり追はれたりすることになるんです。「羽抜鳥の報か」の所で臥し返し(型の一種)がありますが、あれは正に追はれてる型がついています。
- 63藤堂家には違つた望月がありました。敵が泊り合せたのを知つて、亭主が母子を橋掛へ喚び出し、三鼎に坐つて相談します。それからツレは杖をつかず、子方の肩に手をかけて出て、子方は最初から羯鼓を著げて出るといふのです。他流のを折衷したものです。
- 120–121つまり動けば必ずノリがつく、そのノリが出ちや佇んでる姿にはならない。それぢやあノリが全然ないのかと云へば、あるにはある。だいいち、ノリなしぢやあまるで動くことは出来はしませんからね。然しそのノリはほんたうにかすかなもので、腹の底の底に一寸蔵つてある程度のものですね。こんなことを云つたつて、禅問答みたいで、どなたにでも解るといふわけにはゆきますまいがね。理窟から云へば、それなら最初から動かないで、その気分を出せばいいぢやあないかとも云へますがね。そこが芸でしてね。なかなかあの初同の間ぢつと立つて居られるものぢやあないんです。居曲(クセの間坐り切りのもの)なんかとは意味が違ひますからね。
- 125–126[「定家」について]吾々から申しますと、このやうな曲はいくども稽古をして貰つてやつと出来たとか、何とかいふべきものでなく、年功を経て自然に舞へるやうになつてきたのでなくてはいけないのです。型も何もなく、位だけを見せるなんてものは教へるにも教へやうがないぢやあございませんか。ただ黙つて葛桶に腰を掛けて居る姿とか、何もしないでぢいつと下に居る姿に十分気品が出てくるやうにならなけりやあ、この能を舞ふ資格はまづないわけです。それがなかなか容易なことぢやあないのです。よく見物の方が、居曲は退屈だとか序ノ舞は欠伸が出るとか申されますが、まことに御尤な次第なのですが、やつてるはうぢゃあ唐織を著て、ずいぶん確りしたあの曲の間を坐り通すことが、一番難儀な仕事なんです。
- 126–127尤も定家を勤めるほどの者が、この辛抱が出来ないやうぢやあ仕方がありません。それは全く坐禅をするのと同じことだと思ひます。坐禅の間は蚊に喰はれやうが、それこそ狼に鼻の先きを甜められやうが、心を動かさないとか聞いて居ますが、能のはうで坐るのもやはりその通りです。どんなに足が痛からうがどうしやうが、身体や気持に崩れがあるやうでは駄目です。もつとも最初から足一本折れるつもりで坐つてしまへば、そりやあもう痛いのは我慢出来ますがね、問題はその後なのです。あの中入で立つときになつて、足がしびれて身体がぐらツと来ては、それこそ折角の定家一番台なしになつてしまひますからね、そこがむづかしいのです。
- 127大抵謡のお好きな方は、曲の間は謡本と首引きをしていらつしやる。型の見好者な人達は喫煙室で雑談をしていらつしやるくらいなもんで、苦しんでるのはシテ一人といつたやうな筋合ですが、しかし考へて見ますと、皆さまからは何の張合ももたれないやうなところに、一所懸命力瘤を入れてる、そこに能の生命と申しますか、真骨頭があるわけですね。これがなくなつちやあ、もうおしまひですね。あなたなどは折角かうして能のお稽古までなさいますのですから、どうか型所を御覧になるばかりでなく、ときには今日はシテがこの長い曲の間を、どういふ心持で坐つて居るか見てやらう、と云つた気持で御覧下さいませ。
- 25それからこれも寳生会の月並能でしたが、実盛をつとめました時の事です。橋がゝりで「笙歌遥かに聞ゆ」と謡ひ、「よし〳〵少しは急がずとも」と舞台へ入つてワキに向ひ、中にて下に居て「南無阿弥陀仏」と合掌する型が御座います。その時一寸遅れましたので、私も合掌が具合が悪いと思つてゐましたところ、矢張前の花月を注意して下さつた方から、あゝいふ拝み方はないといはれました。全くきまりが悪かつたので御座います。