うき【浮キ】
松本長『松韻秘話』(1936)
- 11次にウキですが、ウキと云ふものはなるべく生字を出さぬやうに致します。生字を出すといや味になり勝ちです。と云つて生字を出さぬ過ぎては露骨になり、ウキの美が消へ失せて仕舞ひます。それは口の使ひ方次第です。例へば「田村」のロンギ「実や気色を見るからに」のやうに「ら」で俄かに浮き過ぎては余りに幼稚過ぎます。斯様な時はその前の字「か」の字に力を入れてウキを準備し「ら」には倍の力を入れて浮かせるのです。ウキは難かしいものです、これを生かして真に味のあるやうに謡はなくてはウキの本来を損ねてしまひます。要するにウキだからと云つてその字を直ぐに浮かすのは甚だ心細い事です。またアタリもウキと同様で普通に当つては幼稚になり、柔かく当つてはつまり形はよく聞えるが力がなく、本来柔かく確りと聞えるやうに当るのがアタリの型で御座いませう。それからウキアタリ、まア一字オチや二字オチも矢張りウキアタリですが、これも前の字に力を入れて、その余韻で次の字に移る間の字に力を入れてウキを出すやうにしなければいけません。それが往々一字オチとか二字オチは、その字のみに気をかけて仕舞ふから、甚だ拙いものとなつて仕舞ひます。
- 12それと同じに引く場合があります。下音でも上音でもヤヲハとか引越しと云ふやうに引く場合がありますが、それが若し塞ぐ字であれば口を塞いで力を込め、あく字であれば口を開いて声を込めるのであります。これは大事な事でこれが声の美を保つばかりでなく同吟の場合や地を謡ふ場合はそれを欠いては仕方のないものになつて仕舞ひます。そのあとにウキのある場合は、つまりよく引いて浮くと云ふ訳で、浮いて口をあけ放しにして謡ふやうではいけません。これは要するに口の開合の力次第で出来る事であります。
- 62「草木」のウキ当り、「雨露」のアタリ、終りの一字オチ、以下皆同様であります。つまりシツトリと云ふその味を表はすのです。棒に謡つては味が無くなりますが、そう云つた処で何処にでも吟をつけては卑しくなつてしまひます。
- 98詞についで難かしいのは、クセでもロンギでもクリ地でも初同でもなく「サシ」謡であります。サシ謡は詞に節をつけたやうなもので、その節もゴマ節が主で、僅にウキと廻シとフリとハリがある位のものです。このサシは詞についで全くうたひ難いものであります。
- 111「根白ぶし」は「藤栄」の下り羽あとの「根白の柳」のクリ節をいふのであります。あとの「いつかは君と」も同様なうたひ方をするクリ節です。「根」はフリ節にクリを加へたもので、普通ならば「ねーエ」と繰つて少し引きを出せばよいのですが、次の「じ」のゴマがウキ当りですから、単にクツたゞけでは「じ」のウキが謡はれません。「じ」がウキ当リとするには、「根」のクリ節が入りグリでなければならないのですが、入りがありませんから猶むづかしく感ずるのかも知れません。
- 2ウ◯中の上、クリの前の振りウキの所の調子にて四階級目です。中の中、張りの前のウキの調子で五階級目。中の下、入の前のウキの調子にて六階級目。◯呂の上、普通の下と云ふ所の調子にて七階級目。呂の中、下のウキの調子にて八階級目。呂の下、俗にクヅシと云ふ所の調子にて最下級の声。右の外にサシの中落し、下の内の上落しと云ふ特別のものがあります。是れ多くは習ひの節に用る所にて最も研究を要する所であります。サシの内の中落しと云へば、野宮の「物見車の様々に」と云ふ所。下の内の上落しと云へば、通小町の「深草の少将」と云ふ所などです。下のウキと申すのは、メラスと申すことで、通小町の「招くと更に」と云ふ様な所でこれ亦多く習ひ節です。大体は右の通りです。――清廉
- 5オ◯ウ ウキ。
- 124それからシテもウキも外役のある者も装束を着け始めるのです。其間には地謡も後見も囃子方も夫々仕度が出来るといふ順です。
- 158また蟬丸の「わら家の雨の」、井筒の「叉河内の国高安の」の廻し節は、普通ならば廻しの前のゴマ節でウキになつて、然る後に当つて廻すべきですが、こゝは例外に廻しになつてから浮きます。序に御注意申しますが、それに次いで廻しのあとにある下を、往々深く落す方がありますが、総じてサシの謡ひ方の所で、上から出たウキの次にある下は、中に下げるのが常例です。
- 97「今は何たか」と内へとりスラリと運びます。「あり甲斐も」と「あらばこそ」の間と「亡き子と」と「同じ道に」の間は共に心のやうに扱ひます。ウキ詞の「かへり候へ」と「申しつけ候」とはオサメて謡ひます。
- 81その本はたしか安政二年版行の青い表紙で、「ウキ」「ヲサへ」や「ヤヲ」「ヤヲハ」又は廻し節、呑み節を叮嚀に直した墨の痕跡と胡粉の痕跡が処々残つてゐる極めて読みづらい本であつた。
- 75そこで謡にはギンがなくてはなりません。ギンのない謡は力もなく味ひもないといふ事になつて、芸にはならない訳です。このギンは発声と同時に、謡に出てくるので、節を謡ふ時、仮名を扱ふ時、すべてギンを伴はないこをはありません。唯そのギンがハツキリ出る場合と、ハツキリ表面へあらはれない場合と、節により、仮名によつてそれ〴〵ギンの出も上調にも下調にもそれ〴〵ギンがなくてはなりません。けれどもそのギンがハツキリあらはれてくるのは、ヨワ吟の上調の場合で、例へば羽衣のサシ謡のシテの「今はさながら天人も」云々の如き場合、「今は」の「は」、「さながら」の「ら」などはたるまぬやうに力を加へてうたひます。「天人も」のウキ当りの前の「に」などもやはりギンで謡ふのであります。
- 75–76二、ウキのこと ウキは音調の浮きのことで、これは皆さん御承知の通り、ヨワ吟の上調の所でうたひ出される尤もはでやかな艶のある美しい音であります。特例として下調でも下ノ二にはこのウキをうたひますが、これはウキといつても上調の場合とは趣きを異にしてをります。さてこの美しいウキの音は、必ずギンを伴ふのであります。ギンを忘れてウキをうたふことはウキの真の妙味を謡ひ出すことは出来ない。つまりウキとギンとは形と影のやうに不離の関係にあります。例へば前項のギンの所であげました羽衣のサシの場合、「今はさながら天人も」の「人」の「ん」がウキ当りであります。このウキ当りをうたふ場合、一字前の「に」を浮かせるうに扱ひますが、これは真のウキではなく、ギンなのであります。つまり「に」のウキ調子に似た扱ひは、これは力でありまして、ウキはウキ当り節の「ん」の当りにあらはれて来るのであります。「に」から「ん」にうつるまでの扱ひが所謂ギンで「ん」の頭でウキをうたふのです。このギンを忘れて「に」から浮いてうたふと、ウキの妙味といふやうな謡の「うまみ」は出て来ないのであります。序に只今申しましたウキとギンとの関係について、右の羽衣のサシのあとを例にあげて申し述べてみませう。シテの地渡し「せん方も」の「ん」にウキがあり、次の地では「涙の露の玉かづら」の「づ」、「かざしの花も」の「し」、「しを〳〵と」の返しの「を」などにはすべてウキをうたふのでありますが、これ等のウキをギンなしにうたふと、謡がだれて来ます。一字のウキにしても、その一音の大部分はギンでうたひ、ウキはそのギンの終りにのみうたひ出すのでありまして、初めから一音全部をウキ調子で扱つては、ウキは生きて来ず、謡も芸味もあらはれてまゐりません。そのギンのうたひ方、ウキの謡ひ方が乃ち稽古であり、習錬であつて、皆さんが会得されねばならぬ要点であります。つまりウキはのびぬやう、だれぬやう、どんな場合でもギンのあとにつけて謡ふ事を念頭におくべきであります。
- 99先日、或るところで謡会が御座いました。その時蟬丸のツレをやつた人が、「世の中は」の「よ」を当つて謡はれましたので、その蟬丸が済んだ後、その人に「世の中は」のやうにフリ節にウキがある時は当つてはいけません、と直しましたところ、「世の中」といふのは何処にありますかといふ答でした。蟬丸の「世の中」と云へばかんどころです。それを「どこですか」といふ様ではどうもかうも仕様が御座いません。私もそれなり黙つて了ひましたが、要するに芸に対する熱心さが足りないので御座いませう。歎かはしいことです。
- 24芸の自由は一定の、しかも極く小範囲の内に認められるものでありますが、古くは浮キやアタリはその場の心持でやつて、自由に表現して行つたものゝやうです。それだけに面白いものがあつただらうと思ひます。
- 5ウ○振リ浮キ 浮を掛けて振る内に更に一段浮く謡方にて、忠度の「弔ひの声聞て」の聞きの振リなどこの例なり。柔吟にては二つ振リ、強吟にては一つにするが常である。