近代能楽用語索引Index of Nō-related Terms in Modern Texts

近代芸談における技芸用語

主にシテ方の技芸にかかわる用語の索引。姿勢、視線などの重要と思われるトピックのほか、『能楽大事典』(筑摩書房)に立項される技術用語を対象としました。同表記・別意味の語を別に立項した場合(例:「運び」を歩き方と謡い方で別立項)も、逆に同意味・別表記の語をまとめて立項した場合(例:眼、目、目玉)もあります。

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おうぎ【扇】

宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
  • 110金春流の忠則 先日の某新聞に、桜間金太郎の忠則を評して、「終におん首打落す」で、扇で頭をさす形をしないで、只曇つた丈けだツたのは、左陣ならよいが、金太郎では未だ少し早い。と云ふ様な事を書いてあつた。其評を書いた記者は、其の形を金太郎が演るには何故早いといふのか、第一其理由が解らない。他流の頭をさす形より外に見た事がない為め、御自身の智識から速断を下して、替の形と早合点されたのか。
  • 239–240[明治十一年青山御所舞台での道成寺所演について]乱拍子を踏む頃には暑さも何も忘れて居たのです。愈々鐘入りとなつて、鐘の中は→に入つてホツと一と息吐くと、俄かにムーツとして来て目も眩暉んばかり、滝なす汗を拭きながら装束を着けて居ると、誰れが気を利かしたのか、鐘の中へ扇を入れて置いてくれたのを発見した。これを以つて僅かばかりの風を呼びながら、装束を着け、蛇体と変じて再び舞台に表れたのである。終演後楽星で「余りの暑さに地謡に居ながら大へん心配したが、鐘入後に軈て鐘の覆布に小さい波の立つのを見て、扠ては扇子が入つてあつたかと、ホツと安心した」と云つてくれた者があつた。
手塚貞三編『謡曲大講座 手塚亮太郎口傳集』(1934)
  • 3ウ[関寺小町について]△⼦⽅――おほひかつらに⾦丈⻑を結ぶ。浅⻩・紅・⽩の段に⽷霞・花の丸の縫箔。童⻑絹。扇。[中略]シテ――⾯、姥。姥かつら。襟⽩⼆つ、⻩がら茶⼀つ。着付箔。無紅唐織壺折。腰巻無紅縫箔。扇。杖(但し杖は作り物に)
  • 4オ[中略を経て上記の続き]「好ける道とて草の⼾に」と短冊を⼀枚取りこれを左⼿に持ち、「硯をならしつゝ」と扇にて筆を染める。
  • 12オ[木賊について]物着済んで⼦⽅⽤の扇を持ち、盃の如くにして中へ⾏き、ワキに向ひ「如何にお僧たちに申し候ふ」と謡ふ。
  • 12ウ[中略を経て上記の続き]舞は序の舞で、此舞にはトリの序、乱の序と⼆様ある。⼜甲の掛りで舞ふ事もある。此舞は⽼人ものであるから、⼆段⽬⼜は三段⽬のオロシに⼀トクサリだけの休息がある。然して左の⼿の扇を⾒て、⼦の事を思ひ出す。其扇を⾒た⽬で⼀クサリ。あとも⼀クサリでシヲル。つまり最初の休息の⼀クサリと合はせて三クサリになる。あとは常の序の舞に直るのである。唯、三段⽬のあとに⽼⼈の⾜づかひがある。
  • 15オ[弱法師について]「満⽬⻘⼭は」と考へて謡ひ、「⼼にあり」とギクリと胸を扇で打つ。
  • 15ウ[三井寺について]シテは賤しき狂⼥。⼦を尋ねる謀として物狂となつたのである。位は序の破。シテは⾯は深井、着流し⼥。扇懐中し、⽔晶の珠数を持つ。笠を着る事もある。
  • 16オ[中略を経て上記の続き]⼦⽅――着付箔、児袴、扇⼦。脇――⼤⼝僧、ツレ三⼈程出る。ワキの次第はサラリ⽬に謡ふ。けれども、円城寺の住僧であるから其⼼得がなければならぬ。上げ歌が済むと、間狂⾔が⼩舞を舞ふ。後シテ。⾯は前のまゝ、着付箔、腰巻、⽔⾐、扇懐中、笹持つ。
  • 19ウ–20オ[鵜飼について]間の語りはなく、ワキは其処に習ひがあつて、直ぐに待ち謡となる。早笛も段なしであるから、シテは引ツ込んだかと思ふと直ぐに出なければならぬ。其――はワキは待ち謡をうたつて居る――僅々三分間位である。此三分間に装束を着け鏡の間で姿形を整へて幕を揚げさせねばなちぬ。汗を拭いてる間も、扇で⾵を呼んでる間もない。
  • 21オ[西行桜について]シテの出⽴は烏帽⼦、⽩垂、鉢巻、⾯は皺尉、厚板、⾊⼤⼝、狩⾐、⿊⾻扇、⼜は杖突くもある。⼀体遊⾏柳よりは取合せ少なく、⼼持ちは花やかである。
本田秀男編『謡曲大講座 櫻間左陣夜話 附櫻間左陣小話』(1934)
  • 2オ–2ウ[中村平蔵について]正⽉の事、さる御邸のお諷ひ初めに、⾃分逹⼀同が出た。平蔵先⽣は他から廻つてこられるので、お諷ひ初めの式は⾃分逹ですまして、今御膳に向つて御酒下されのところであつた。そこへ平蔵先⽣、⼤分酒を聞召して(⼤酒家であつた)フラ〱して⼊つてこられた。殆んど座にも堪えられない程酔つてをられる。⼀通りの挨拶がすんで、⼜⼤盃⼀つ、息もつがずに飲まれる。⾃分逹は⼀同気づかつていた。その時、家⾂の⼈が先⽣の前に⾏き、御祝儀を⼀番と所望した。⾃分達は⼜⼼配し始めたが、先⽣平気で「かしこまりました」と云つて膝を直し、扇をとつて⻄⾏桜の曲⼀番、今までの酔態はどこへやら、いつもの先⽣と少しもかはらなかつた。
  • 3ウ⾃分が中村先⽣の許に修業して居る頃の事。或時、是界の稽古をして貰つた。イロエのところへ来てから、段のあとワキ正⾯へ出て腰を⼊れジツとワキへのかゝりの込みをとつていると、先⽣は⾃分の後ろに来て、⾃分の腰を押ヘ⼝でアシライ乍ら「マダ〱〱」と云ひながらトツタンツクツクヤアツハツハツとかゝつて、ワキへ⾒込んだ時「こゝだ」とばかり腰を両⼿でどんと突⾶された。その勢で⾃分は、⾞に突ツ込み、⽻団扇にかへて扇を持つていた右⼿のまゝ壁ヘドンとブツかつてしまつた。壁を破ると同時に⾃分の⼿の甲の節々の⽪は破れて⾎が出るといふ仕末。それを拭ひもあへず先を舞ひつゞけた。今思へば有難いことゝ思ふ。
  • 3ウ[上記の続き]⼜、通⼩町の稽古の時、かづきをかついて⼀ノ松に⽴つている間、先⽣は後に⽴つていて、扇の要の⽅を⾃分の腰の脊すぢの⾻にあてゝ、腰が少しでも丸くなると「それア〱」といつて突ツつかれる。ハツと思つた拍⼦に謡の⼒がぬけるすると⼜、腹、腹、と許りに責められる。この位の苦しさはなかつた。
  • 7ウさあ、いつでもいゝから俺の舞つてる扇を取つて⾒ろ(ト翁は舞ひながらいはれたので、私は翁の扇をとつて⾒た。いつでも⾃由にとれる。その軽い握り⽅に驚いた。)⼿に触つて⾒ろ(チヨイと突いて⾒るといつもフラ〱と動いた。)
  • 10オ熊本の故友枝三郎翁が九州の舞台で乱を舞つた。「芦の葉の笛をふき」といふ処で、扇を両⼿に持つて上げ、笛の型をし⽚⾜を引上げた。それを⾒た翁は「三郎でなければ出来ん」とほめた。
片山博通『幽花亭随筆』(1934)
  • 7–8[遊行柳について]ワキの待謡がすむと出端となつて作物のヒキマワシが取れる。シテの柳の精が葛桶に坐つてゐる。小格子の着付に渋い緑色の狩衣、茶地の大口をつけ、頭には白垂、柳寂烏帽子を冠る。面は皺尉。手には扇を持つてゐる。たまらなくうれしい気分がする。柳の精は、「沅水羅紋海燕回る。柳条恨を牽いて荊台に到る」と李群玉の詩を閑に謳ふ。堂内は神々しい神秘の境に入る。
  • 47–48能についての記憶は初舞台の時にはじまる。五つの時、室町の舞台(京都の片山能楽堂)で猩々の仕舞を舞つたのをハツキリ覚えてゐる。長い袂の紋付に裃をつけて、赤い扇──今思へば金地に赤の水巻のものだつたらう──を持つて広い舞台を走り廻つたのを記憶してゐる。
  • 49–50友ちゃん(観世友資君)と小袖曽我の仕舞を別会の時に舞つた。二三日たつてから写真を写したが、晴らして月を、の型のところだつた。僕が五郎で坐つて雲の扇をしてゐるのだが、ピントを合はす間が持ち耐へられず、後につつかへ棒をしてもらつた。
  • 88此の鎮め扇──普通は只単に、扇と云ひます──は長さ一尺一寸がきまりです。然し、所謂お素人方が、謡会だの、お稽古にお用ひになるには、どうも余り長ぎて不便なものですから、ずつと小さいものを御使用になります。此れを素謡扇と申してゐます。此れは略式のもので、玄人筋の人は絶対に用ひません。此の素謡扇に対して、大きい普通の扇を舞扇と云ひます。仕舞や囃子の時に使ふと云ふ意味でせう。
  • 89能では何うした場合に鎮め扇を使用するかと云ふと、鉢木、望月のシテの如く、素袍上下で、直面(面をつけてゐないこと)の時に此の扇を持ちます。望月には特にキマリ扇があります。それは金地に白で群翔千鳥を書いた白骨の扇です。
  • 90葛扇は能の鬘物──三番目の能──に用ひる扇ですから、正しくは鬘扇と書くべきでせうが、一般には此の字を用ひてゐます。勿論中啓です。
  • 93–94食はんが為に彼等は筋肉労働者となつて働きます。(ヨイトマケの土方ばかりが筋肉労働者ではありません。吉原や宮川町の女郎も筋肉労働者と言へるなら、謡屋さんだとて筋肉労働者と言へる筈です。)芸術と云ふブルジヨアの衣を脱ぎ捨てた彼等は、神聖な作業服を身にまとひます。紋付、袴です。これがナツパ服に相当するなら、扇はハンマーです。鶴ばしです。さうして声帯筋肉を護本の枚数を単位として労働させるのです。その枚数の多少がその収入に関係するに、声帯筋肉が悲鳴をあげても、尚それ以上に労働を強ひなければならないと言ふ悲惨な状態にあります。
  • 293(仕舞)みな概してよい出来、吉井君はすがたの悪い人だけに損な所があるが、隅へ来てカザシ扇をした時亀が首を引つこめた時の様に見へた。
  • 295[観世喜之所演卒都婆小町について]物着の後「狩衣の袖をうちかづいて人目忍ぶの通ひ路の」の所で袖をかけ、扇を顔にあてゝ廻つたところは実に美しいものだ。それから「一夜二夜………」のところもいゝ。
  • 375[乱能(融)について]松村氏のシテは大熱演。太鼓のかけ声どほりの謡。所々で、扇のかはりに撥を握らしたい様な風情。全く知る人ぞ知るで、文字には写しがたかつたのですが。最後に愉快なのは附祝言を、小鼓の喜之さんがリードとなつて、囃子方があしらつちやつたこと。
観世左近編『謡曲大講座 観世清廉口傳集 観世元義口傳集』(1934)
  • 1ウ⼜体の前に傾くのや後⽅へ反つたのも⾒苦しいものです。頭が仰向いたり、俯いたりするのも勿論ですが、扇や⼿で拍⼿をとつたり、⾸や体で拍⼦をとるなどは全く以て困つた癖です。此のやうな癖は修業中から注意しなければならない事です。
  • 7ウずつと古い型付を⾒ると、鉢⽊の「雪打ち払ひて⾒れば⾯⽩や如何にせん」とシテが正先の作り物の前に⾏つて扇を以て雪を払ふ型をする処で、⽩紙を細かに切つたのを、パラパラと散らす型などがある。現今は五流とも此様な型を⽤いて居ない(記者⽇、先年⿊川能で此型を⾒て失笑した事があつたが、さうして⾒ると⿊川能創作の型でなく観世流の古い型が⿊川能に残つて居るものと⾒える。
  • 14オ⼸流し。これは「船を組み駒を並べて打⼊れてあし並にくつばみをひたして攻戦ふ」と云ふ所で、⼩皷だけの拍⼦で、扇を以て⼸とし、之を取落し、流れる⼸を拾ひ取る働きがあるので此の名があるのです。⼩皷との間には特別の申合せがあります。云ふまでもなくこの扇は⼸なのですから、ズーと後(曲迄)まで此扇を⼸と⼼得へなければならないので、其持⽅も秘伝となつて居ります。
  • 17ウ[草紙洗小町について]「岸に寄する⽩浪」とワキ正⾯へ⾏き下に居り、「さつとかけて」と扇にて⽔を汲む型をなして草紙を洗ひ、「洗ひ〳〵て」と⼆三度も洗ふ型をして「⾒れば不思議や」で扇を疉み草紙を両⼿に持ちさゝげて中を篤と⾒て、
  • 18ウ[放下僧について]⼩唄の中に「茶⾅は挽⽊にもまるゝ」は扇を直⽴に握つて挽く形をするのだが、その位置が余りワキの側に寄り過ぎるといつて、これも某⽒の御注意であつた。これも前と同じく、昔からの定りであるから急に訂正することは、私としては出来ない。
  • 21ウ[昔の戦乱時と能楽、明治37年、清廉]斯く数々戦場に於てすら⾏はれたのでありますから、今⽇と雖も何も謡や能を遠慮するには及ばないと思ひます。且つ観世流の形は惣て柳⽣流の劒法から出ていると申しますが、扇を持ちますのも、⼩指を締めて、 前の⼆本の指は軽るく持ちますが、⼑を持つのと同じだと申します。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第二、第三』(1935)
  • 七4ウ御⼊りの仕舞扇  ⼗⼀⽉の慈善会当⽇、政吉が⽟の段の仕舞を勤めた。これは番組以外で、其前に何等の沙汰もなく、政吉は葵上の地に出て居り、私は幕内でシテの世話をして居た処、突然六郎⽒から⽑利様のお好みだから、葵上の次に政吉に⽟の段の仕舞を勤める様にとの達しであつた、何れ本⼈に申聞け其上御返事するといつて置き、葵上が済んだ後に政吉へ右の赴申聞けた。然るに政吉は今⽇は地謡のみの⼼得で上下舞扇等持参しない。上下は粗品ながら間に合ひませうが、舞扇に差⽀へるからといふので、其趣を梅若⽒に断はつた処、其れならばといつて万三郎⽒が舞扇を貸して呉れたから、其扇で勤めたのである。斯様の事は仲間同⼠で間々ある事で、斯ういふ場合に他流の扇で舞ふことは⼀向さし⽀へない。(明治四⼗三年⼗⼆⽉)
  • 七10オ替の型にも程度 先⽇の某紙能評に、桜間⾦太郎の忠則を「終におん⾸打落す」で、扇で頭をさす形をしないで、只くもつたたけだであッたのは左陣ならよいが、⾦太郎では未だ少し早い。といふ意に書いてあつた。彼処の型を⾦春流の替の形と早合点をして、⾦太郎が若年の⾝を以て替の形をするには早いといふ意味かともとれるが、あれが仮に替の形とし、未熟なものに替の形をさせるのは無理だともいへるが、吾々の⽬からは⼀⼨した替の形位出来ない⾦太郎とは⾒えない。況してあれは替の形でなく、⾦春流の常の形なのである。其流儀の常の形を演ずるのに早いも遅いもあるまい。出来の善悪は叉別問題である。(⼤正四年⼗⽉)
杉山萌圓(夢野久作)『梅津只圓翁伝』(1935)
  • 52翁は毎朝未明(夏冬によつて時刻は違ふが)に必ず起上つてタツタ⼀⼈で袴を着け、扇を持つて舞台に出て、⾃分で謡つて仕舞の稽古をする。翁の養⼦になつてゐた梅津利彦⽒(現牟⽥⼝利彦⽒)などは遠⽅の中学校へ⾏く為に早く起きやうとすると、早くも翁の⾜踏の⾳が舞台の⽅向に聞こえるので、⼜夜具の中へ潜り込んだといふ利彦⽒の直話である。かうした刻苦精励が翁の終⽣を通じて変らなかつた事は側近者が皆実⾒した処であつた。
  • 71翁が稽古中に先輩や筆者を叱つた⾔葉の中で記憶に残つてゐるものを、云はれた⼈名と⼀緒に左に列記してみる。アトから他⼈に聞いた話もある。[中略]「扇はお前の⼼ぞ。武⼠の⼑とおなじもんぞ。チヤント両⼿で取んなさい」(筆者へ)「イカン〳〵。扇の先ばつかりチヨコ〳〵させるのは踊りぢや〳〵――。⼼が⽣きねば扇も⽣きん。お能ぞ〳〵……踊りぢやないそ」(筆者へ)
  • 95「烏頭」(シテ桐⼭⽒)の仕舞のお稽古の時に、翁は⾃⾝に桐⼭⽒のバラ〳〵の扇を奪つて「紅葉の橋」の型をやつて⾒せてゐるのを舞台の外から覗いてゐたが、その遠くをヂイツと⾒てゐる翁の眼の光りの美しく澄んでゐたこと。平⽣の翁には⼀度も⾒た事の無い処⼥のやうな眼の光りであつた。
  • 95扇でも張扇でも殆んど⼒を⼊れないで持つてゐたらしく、よく取落した。その癖弟⼦がそんな事をすると⾮道く叱つた。弟⼦連中は悉く不満であつたらしい。
松本長『松韻秘話』(1936)
  • 109仕舞の稽古などする時、よく訊かれる事ですが、扇はどんな風に持ちますか、といふ事です。扇の持ち方、つまり何方を何うむきにして、何処をにぎるといふ事は、誰にでもすぐに会得されるのですが、扇を持つ心掛けがわからないのです。仕舞などで左手は常に卵を握る心でかるく保ち、それで袖をかるくさゝへてゐて、右手の扇は小指、ベニサシ指でかるく要尻を持ち、中指、人サシ指、拇指はかるくそへる、さうしてこれを指で持つ心でなくて肱でさゝへてゐる心が肝要なのです。肱で扇を持つてゐる心ですから、指先には力がはいつてゐてはいけません。従つて油断すればポロリと扇は落ちる位でなくてはなりません。手首で持ち、指に力がはいつてゐては、扱ひに無理が生じ、型が生きて来ません。
野上豊一郎編『謡曲芸術』(1936)
  • 344同じ「ユウケン」といつても修羅物と鬘物とではむろん違ふ。前者は⼤きめにし、後者は⼩さめに⽉形になるやうにする。⼜扇の使ひやうでも、同じ「左右」にしても、「胸差し」にしても、鬘物の場合は修羅物や四五番⽬物のそれとは、⼿の加減、⼼持、すべて⾮常な違ひで、柔かに、優美にしなければならぬ。
  • 344仕舞の服装は、普通能舞台にあつては、紋附で上下(裃)、⽩⾜袋が礼装となつているが、⼜紋附に袴、⽩⾜袋でいゝ場合もあらう。舞扇を袴⼜は下(上下の)の紐に差すこと勿論である。
梅若万三郎『亀堂閑話』(1938)
  • 14十八年六月四日、皇太后陛下の芝能楽堂行啓に、「摂待」で鷲尾、同じく十八日には「雲林院」の囃子を舞ひました。この時は御前ゆゑ心配しまして、「降るは春雨か」と扇を上げて見ます時に手が固くなり、ブル〳〵とふるへて困りました。何しろまだ腹に力もなく、手先だけで舞つてゐた頃でございますから、お恥かしい次第でございました。
  • 28周囲の感化にもよるのでせうか、私は躄這の時分から能が好きだつたと見えまして、月並の能の済むのが待遠しく、それが済むと、母や姉に「鏡の間へつれて行け」とせがんだものです。そして弟子が幕を上げますと、扇か打杖かを持つて橋がかりをゐざりばひで舞台の真中まで行つて、立てないものでございますから、踵で舞台をトントンとやつて少し廻つて引つ込んで来るのださうです。それがまた楽しみで〳〵仕方がなかつたと見えまして、いつもそんな事をやつてをつたさうでございます。
  • 124–125これは亡父の話でございますが、曲はたしか「鵜飼」でございまして、鵜の段の「ばつとはなせば」の所で、厳寒でしたので手が凍えてかじかみ、シテの亡父の扇が飛んでしたひましたから、亡父はやむなく扇なしで舞つてをりますと、後見はあわて、扇を拾つてシテに渡さうとしたのですが、何しろあの型所でございますので、あちらへ行き、こちらへ行きで、「面白の有様や」とシテの廻る後から追つかけ廻して、とう〳〵鵜の段全部を一緒について廻つたものでございますから、見所では大評判で、「今日は面白かつたよ、二人のシテが鵜の段を舞つた」と暫しはやかましかつたさうでございます。
  • 125[上記の続き]こんな場合、馴れた後見ならば、シテ柱へ来た時渡すか、又別に入用の扇でない時は渡さなくてもよい事になつてをりますが、馴れない後見ではそれが解りませんし、又解つてゐても都合よくやつてくれません。
  • 129–130清長さん(清孝さんの先代)だつたかが、「松風」を勤められまして葛桶にかゝつて、烏帽子と長絹を持つて「この程の形見とて御立烏帽子」位まで進みました時、急に腰をたゝかれましたので後見の清又五郎老人が後へ行きますと、「代り」と申されましたから、直ぐに烏帽子と長絹を受取り、上下の儘で床几にかゝりまして、少しもあわてず、シテを今一人の後見に托して切戸から引かせ、後をすつかり終まで勤めました。さうして、後見座から出て代つたのでございましたから、最後に一旦後見座に戻つたさうでございます。後見が扇を持つて出ますのはかうした場合のためで、中啓の扇の方はシテのために懐中して出ますので、自分が使ふのではありません。また若し代勤した時は清老人のやうに、止め拍子を踏み、それから後見座に帰る事になつてをります。
  • 165[下野岩苔について]いつか「車僧」が出まして、ワキは尾上良男さんでしたが、例の「コソ〳〵や」でワキを笑はせにかゝりますと、余り上手にやられるものでございますから、ワキは吹き出したくなつて早くやめてくれゝばよいがと思つても、間の方はやるだけやらねばなりませんのでなか〳〵やめません。つひにワキはたまりかねて、扇で打つところをずつと早めて間の仕ぐさを抑へてしまひ、やつとをかしさを忍んでワキの役を守りました。
  • 303この能には「移り拍子」といふ小書がございまして、文字の通りシテが稚児の舞に見とれ、思はず知らず扇で軽く拍子をとるといふのでございますが、やゝ芝居めく所でありますけれども、やはり能として見せた父は父だと思ひました。宝生九郎さんがひどく感心せられて、後でのお話に、御謙遜ではありますが、「自分には到底あのやうに行かぬ」と言はれたさうでございます。
喜多実『演能手記』(1939)
  • 29「シカケ」「ヒラキ」は扇をすぼめて居ることもあります。開いて居ることもあります。孰れも全く無意義な動作であつて、「左右」と云ふのは、両手をかう廻して先づ左へ出、次ぎに右へ出る(実演)。これもやはり、扇を窄めても構はぬ。「左右」つまり、ひだり、みぎ。槍術の構へから出て居るさうです。
  • 58[道成寺について]後見座で前折烏帽子を著ける。この紐の結び方が常と違ふ。後に鐘入の直前、烏帽子を扇で払ひ落す際、左手でグツと引くと、バラリと解けるやうに結んで置かなければならない。花結びでないから、ややもすれば緩んで、落す時迄持たずに途中で落ちる。流儀でも、三四度落ちた。今年も、既に二度も落ちたさうだ。別に芸の下手上手に関係のない事だが、一寸したキズでも気持が悪いし、肝腎な鐘入前の型が出来ないから淋しい。
  • 60[中略を経て上記の続き]廻り込んで、身構へして、鐘の近くへ迫り寄る。「撞かんとする」と扇を上げてこれを打つ態、さて次ぎが左に紐を解いて右手に烏帽子を払ふ。どこへ飛ぶか判らない。足許へ落ちるのは、からまる惧がある。ヒラヒラと舞上つて、白洲へ落ちるのが一番綺麗だ。
  • 97既に名人でない私は、もつとその意味で困難な気転を利かして居る。中尊寺で、「熊坂」の仕舞を舞つて居る時、まだ大分多くの型を残して長刀を折つてしまつた。替は無し。直ぐ扇で後の型をすませたが、どういふ型をやつたか、済んでから思ひ出されもしないが、やりながら自分でも、よくも謡の文句通りの型を、手順よく行れるもんだと感心したものだ。
  • 128–129能の批評家が、段々見方が専門的に、技術的になつて来たやうに思はれる。例へば、二つの招き扇をする。二つとも同じ大きさにやるからいけない、一つを大きく他を小さくやれば宜いんだ、といふやうなことを言ふ。素人がここ迄言へるやうになるのは容易ぢやないと思ふ。だが、玄人なら、何でもなく気が着くことに過ぎない。かういふ批評の仕方は玄人に任せて置いて、もつと玄人に出来ない評を言つて貰へないか知らと思ふ。
  • 180[竹雪初演について]「実にや無情の」と立ち、作物の方へ行き、大小の方向き臥す。一声姉、シテ出で橋懸、「払はぬ」の段で静かに運び、「いつをごさんに」と一の松にて正向き、扇にて二つ打ち左に持ち、「暁」と謡ひながら舞台へ入りさま笠捨てる。
  • 194[朝長初役について]飲んで居る時雪鳥老に批評を求めたら、どうも膝を射られたといふ感じがなかつた。腹位の処だ、もつと下――膝の処へ扇を当てなくちやいかんと思ふ。それに手ばかりで面を切らなかつたのは損だな。もつと強く、グツと来たやうに伴馬の時は思つた」と丁寧に雪鳥老はやつて見せてくれた。その時の雪鳥老の手真似は仲々上手だつた。大変参考になつた。どうしても、もう一度装束で演り直さうと思ふ。
  • 198–199十一月二十四日、稽古能、「兼平」五郎、「野宮」実。次第を今日初めて軽く謡へる。初同の型は何度やつてもやりにくい。それ以外は割合に懸命にやれたと思ふ。初同の「物はかなしや」は鳥居の真中、後の「露打ち払ひ」の型は扇持つたまま。これは扇をのばして持つたので直された。
  • 213–214「班女」は十七八の頃習つたまま今日初めて装束を著けてのもの。子供の頃習つたものは十五六年経過して居ながら、忘れずによく覚えて居る。[中略]ここへ来ればあとは自分の持つて居るものを思ふさま出せる。今迄は有るものすら披歴出来なかつた。この調子を忘れぬやうに何遍も何遍も繰り返して置かう。舞は五段、ツマミ扇。
  • 243[鷺の出立について]白垂長絹で小尉、この姿は余りよくない。後に只円翁の手附の写しを見ると、面は増を用ひて宜いとある。勿論舞衣である。これなら素的だと思ふが、四段目の飛上る型が、この場合は一寸差障るやうに思ふ。扇は「鷺」の性→決まり模様の筈だが、これはこの前作つて置かなかつたらしく見当らない。
  • 270飛込みは此の前枕へ左手が入つて、その手を、たらせたため、一寸怪我々したので、大いに注意をしたにも拘らず、位置が高過ぎて、枕を飛ばしてしまつた。右手扇は柱を抱くことになつた由、これはあとで聞く迄自分で知らなかつた。大体遺憾な出来ではつたが、確かに今度で多少「邯鄲」に自信と味が持て出した。近いうちに遣り直したいと切に思つて居る。
  • 278[砧初演について]「恥づかしや思ひ妻」の背ける扇は今度初めて発明する所があつた。この後を演じ終つて、この所数年、引締め方が足りなかつた事を痛感した。自分の芸が行き詰つて居ると感じたのは道が曲つて居るのでなく、歩き方がいけなかつたと悟つた。いつもベストでなければ進歩はないものと改めて考へた。
  • 294–295[半蔀所演について]久し振りに、本格的な能を舞つた快さを味つた。「湯谷」も「松風」も、もう沢山だと思ふ位堪能は出来るが、何といつても本三物の気持は格別だ。雑り気のない、純粋な、無垢なものといふ気がする。上羽を扇捧げたまま下に居てする替をやつてみた。これは、あまり平な型ばかりで、それも東京なら劇染の人も多いので我儘に押通すところを、多少土地の人の眼に対する考慮もあつての心遣ひだつた。
  • 320名人になつてもこの曲だけは出来まい、といふ一面強がりの一面弱音だつた。その後もこれだけは避けるやうにして来た。それから後、「定家」をやり、「砧」をやり、去年の正月「草紙洗」、今年に入つて「融」、「江口」と勤めて、最近私の肩が一寸程下つたやうに思はれて来た。勿論肩が下つたのは僅か一寸だが、この肩一寸は相当大きな変化を内容として居るのだ。ふと「弱法師」も出来さうに考へられて来た。つひでに舞入といふことにしてみた。梅津君だつたかが大分以前に、父に稽古されて居た時の印象が頭に在る。左に杖、右に扇、その形に風情といふものを感じて居たので急にやりたくなつた。稽古をしてみて、左の杖が容易でないこと、同時に然し出来るといふ自信を得た。やつて居るうちに、とても面白くなつて来た。無論直きに一通り思&通り扱へるやうになつた。
  • 321[中略を経て上記の続き]舞は杖は相当に扱へたが却つて扇が――右手が一向に利かない。これはこの次ぎの宿題になる。クルヒも稍満足と云へる出来だつた。
  • 333–334十一月二十日、稽古能、又「松風」を舞ふ。先づ謡から始まるこんな曲で、相変らずのシヤガレ声では、劈頭第一に感興を滅殺すること夥しいものがある。前半はどうも平押しになつて、柔かみとか潤ひとかがまるで泌み出て来ない。「野中の草の露ならば」などは、父のを見て居ると、真綿のやうな、ふつくりした味が溢れて居るのに、自分のは立ン坊が大八車をウンウン押上げて居るやうな感じしかない。殊に塩を汲む型は、扇に少しも水の重量が見えない。ここらの辺は一向進歩して居ないと思ふ。
  • 341[殺生石所演について]先づ問題は中入前の「闇の夜の空なれば」の型だ。ここで強い印象的な型が必要だと思つた。種々な型が出来る訳だが、面遣ひが最も有効でもあり、やり易いと思つた。それにしても扇を披かずに唐織の褸を押へて居たのではやりづらい。カザシをしないのに扇を披くのは無意味だが、その理窟は抜きにして、やりやすい方に就くことにした。この型は能の三四日前になつてどうやら自信を得た。あとには気になる型は一つも無い。ただ当日のコンデイション如何だ。
観世左近『能楽随想』(1939)
  • 69[元章自筆謡本の半蔀の装束付より]脇 儈⼀⼈⾓帽⼦ 緞⼦ 熨⽃⽬ ⽔⾐ 腰帯 緞⼦ 数珠 右ノ⼿ニ持 扇 腰ニ ⽩⾻墨絵仕⼿ ⼥ ⾯深 ⽩ハ⾐ノ本⾊ナリ 下著⽩地薄 ⾦ニテモ 銀ニテモ 上著 唐織 鬟 鬟帯 扇⿊⾻表⼈形絵 裏草花
  • 71[半蔀について]あの花おれと作物を⾒て扇を出して指 ⽩き扇ト右へくつろきながら扇をひらき正⾯をむき両⼿にて扇をさし出して⾜を留ル 津く〳〵と扇をさけて⾒る うち渡すと左右にて出打込開 あひに扇と⾓へ⾏扇を左に取左へ廻り仕⼿柱のきはにて脇正⾯を向⾜を留 折〳〵尋トたなびく扇の様にして脇の⽅へ出左へフミコミすぐに扇を右に持なむしながら右へ廻つ⼤⿎の前にて正⾯へ開 よるべ末をと拍⼦を五ツふみ ⼀⾸を詠じト脇へ向折てこそと扇をたゝみながら右へくつろき常のごとく舞出す 折てこそ扇をあけるほの〳〵左右にて出打込開 つ井の宿りはト脇へむく 常にはト脇の⽅へ開 ⼣付ト正⾯をむき 鐘もしきりト⾯を下て聞 告渡るト東の⽅を⾒る
  • 78[清経について]「腰より、と左を引き腰を⾒て扇を腰のそばへよせ、ぬき出だし、と物をぬく様にゆたかに出し」とあるなど良く味ふべき書振だ。笛をぬくやうとは書かずに、そしてゆたかに出しが肝要だ。この所作をコセ〳〵とやつては気分も何もあつた物では無い。その次に「⾳もすみやかにと右を引き、ワキ正⾯むき三段⽬の扇とる様に」とあるのも要領を得た巧妙な書振である。「かへらぬは」と⾓シカと取る、と⾓トリの⼼持が⽰してあるのは注意に値する。
  • 78[上記の続き]「⻄にかたむく」と「⻄の⽅へソメイロの扇」とあるのを⾒ると、此頃は雲扇をそめいろの扇と称んだらしい。この型附の他の所にも、同じ⾔葉が⽤ひてある。打込左右とかノリ込とかの術語はあつたが、雲ノ扇の語はまだ無く、⽻⾐の蘇命路の⼭で雲ノ扇をするから、それをその儘の⽤語としたものだらう。
  • 89[藤戸について]シテの装束  ⾯は深井、著附無地熨⽃⽬、無紅唐織を著て扇は持ちません。三番⽬物は摺箔の著附となりますが、四番⽬物は熨⽃⽬が普通であります。藤⼾、安達原は花⾊の無地熨⽃⽬を⽤ひます。
  • 97[中略を経て上記の続き]後シテの出  ⼀声半越の囃⼦で後シテが現れて出ます。⼀声半越と云ふのは越の⼿が半分だからであります。シテは⿊頭に痩男或は河津をかけ、⽩の縷⽔⾐に無地熨⽃⽬、腰帯、⿇の腰蓑の扮装で杖をついて居ります。扇は右の腰に挿してゐます。縷⽔⾐と云ふのは絹を粗く織つて松葉で寄せたものであります。
  • 110[井筒について]後シテの装束 初冠に巻纓追掛をつけ紫地⻑絹に腰巻を著けて扇を持つて出ます。太⼑を佩く場合もあります。
  • 111[中略を経て上記の続き]この「井筒にかけし」「まろがたけ」のシテの型は⾮常に⾯⽩いものであります。シテはツマミ扇をして下から⼟へ持つて⾏きます。これは、丈くらべ⼼持を⾒せるので、扇と⾃⾝とで業平と井筒の⼥との丈を象徴してゐると考へられます。
  • 112[中略を経て上記の続き]「男なりけり業平の⾯影」の型は、薄が井筒の、左側につけてある時は、左袖を返して薄を押退けて⾒こみます。薄が右側にある時は扇で押退けて井筒の中を覗きますが、この型は後で扇の始末に誠に苦労するので御座います。私共はかういふ所で⼈に知れぬ余計な苦労をして居ります。
  • 114[道成寺について]中啓は普通は⻤扇即ち⼀輪牡丹であーるが、家元の勤める時は、⾦ゐ丸め中に草花を描いたのを⽤ひる。この模様は表も裏も同じである。
  • 115安宅の装束  シテは普通は⽔⾐であるが、延年、滝流などの⼩書が附くと、⽔⾐を透素襖に替へ、腰帯は独括模様の品となる。普通の時の腰帯模様は⼋ツ⼿などである。扇⼦は⼭伏扇で表⾯は⽼松に紅蔦、裏⾯は破芭蕉が描いてあるのを⽤ひるが、延年の時は翁扇を持つことがある。
  • 115望⽉の素襖と扇  素袍は欝⾦地に富⽥雲の模様で、その中に宝尽くしがあしらつてある。腰帯は⽩地に獅⼦丸の繡紋を⽤ひる。扇⼦は家元の場合は群翔千⿃を描がいた物、弟⼦家は近衛引を⽤ひると云ふことになつてゐる。
  • 116鉢⽊の素襖と扇  前シテの著る素襖は浜松ざしと云ふので、腰帯は⽩地に釘抜の模様のある物となつてゐる。扇は近衛引を⽤ひ、他流のやうにサスガは使はない。
  • 116鷺  上から下まで⽩⼀式の装束になる。但これは家元に限るので、弟⼦家は⾊⼊になる。即ち何かに⾚を⽤ひるのだが、扇は神扇を⽤ひるから、それ以外に装束に⾊⼊を使ふ訳である。
  • 125それで当⽇になつて、鏡ノ間に翁カザリといつて⾯箱を中⼼に、翁の翁烏帽⼦、千歳の侍烏帽⼦、扇、⼩⼑なぞを飾りつけ、それに鏡餅、神酒、洗⽶、⽣塩などを供へてお祭りする。その供へたものを、舞台への出場前に、シテを最初に三番叟、千歳、⾯箱、四拍⼦、ワキ⿎、シテ後⾒、狂⾔後⾒、地の順で神酒をいただいて⼼⾝を浄めそれから出場するのである。
  • 125–126[中略を経て上記の続き]翁の出の時と、翁カヘリと称する最後のところにシテが正先で下に居て礼をするところがある。⼀般の観者は、これを⼤抵⾒物に挨拶してゐるものと取るやうだが、然し全くその意味ではないので、前述の天壊→壌無窮、天下泰平、国⼟安穏の御祈禱の⼼持に他ならないのである。翁の中には両⼿で扇をオモテに翳し、天を仰ぐやうな型や、⼜少し前かゞみになつて礼をするやうなところがある。これなども、みな祈りであつて、腹中で右の由をとなへてゐるのである。
  • 132[道成寺について]烏帽⼦の落ちた場合でも「思へばこの鐘のうらめしやとて」の型は演ります。流儀の此の型は単に烏帽⼦をハネ落すと云ふ丈けでなく、それが⽴派な画⾯を構成して居ります。実に美しく様式化されて居ります。烏帽⼦をハネ落しながらクルリと廻つて、扇を逆⼿にして鐘を⾒込む、誰が考案した型か知りませんが、実に好い型附ですネ。
  • 139–140例へば「松⾵」の「松島や⼩島の海⼈の⽉にだに影を汲むこそ⼼あれ」の所に汐汲⾞にのせてある⽔桶に汐を汲み⼊れる型がある。型はたゞ扇を辞いて⽔を汲み桶の中へ注ぎ⼊れる事を⼆度くりかへす丈けの事であるが、こゝは家の伝書には実に詳細な記載のある所である。
三宅襄・丸岡大二編『能楽謡曲芸談集』(1940)
  • 26–27[外国人に羽衣を見せ質疑応答したことにつき金剛巌談]序之舞に就いての質問もありましたが、彼等は扇の扱ひに非常に感心してゐたやうです。私が扇の手を一々実演して見せた時には盛んに喝采を送つたほどでした。又羽衣の写真を大きく正面から、或は側面からといろ〳〵に撮つて、能面の照り曇りを説明し、面がいかに様々の表現を含蓄してゐるかと言ふことを教へたのです。これはハッキリとわかつて感嘆の声を上げてゐました。
  • 28–29[中略を経て上記の続き]今一つ、扇の扱ひを実演して見せたのですが、扇にも調子と同じに五つの基本的扱ひがあります。この基本的な扱ひを知つてゐないと、それがいろ〳〵に塩梅されて用ひられてゐますから、他の舞の扇がわかり難いことになります。舞の五段といふことは五節の舞から起つたものでありまして、この図にもある通り、春の節から扇を開いて舞ひはじめ、二段は夏の節、三段は土用といふ訳になります。扇の扱ひも春は霞の扇、夏は常夏の扇、土用は鏡の扇、秋は荻の扇、冬は雪の扇と名づけて、それ〴〵の心持があります。
  • 29–30[上記の続き]能の扇は力道、砕道によつて其の扱ひ方に差異のあるのは勿論で、まづこの力道と砕道の区別を心得てさうして扇の扱ひをせねばならぬ訳です。力道の場合はかういふ風な扱ひ、砕道の場合の扱ひは云々と説明して、それからうき世舞、所謂踊の方の扇の話をしました。一体あちらは本行の砕道の方から出たもので、しかもそれが非常に技巧的に進歩して行つたのです。あのしなやかな扇の扱ひは踊独特の物ですが、能の方から持つていつてあそこまで変化したのは流石です。現在大阪に残つてゐる山村流、あれは観世から出たものであり、藤間流は宝生からおこり、井上流は金剛から生れたものです。一度御覧になれば、その間の消息はよくわかります。これらの踊が本行の能から起つて現在の様式に変化した道筋を話して、その最も難かしいとされてゐる扇の手を演つて見せたのです。外人はその手品的な扱ひを一番興味を持つて見てゐました。
  • 30[上記の続き]私の能を見る前に、振興会の方でこれらの外人に、菊五郎の鏡獅子のトーキーを見せたさうです。それで踊の方の扇の扱ひを説明した私の話が、図らずも鏡獅子の説明をかねたやうな結果になつて、一層彼等を嬉しがらせたらしいのです。
  • 96[翁について観世左近談]それで当日になつて、鏡ノ間に翁カザリといつて面箱を中心に、翁の翁烏帽子、千歳の侍島帽子、扇、小刀なぞを飾りつけ、それに鏡餅、神酒、洗米、生塩などを供へてお祭します。その供へたものを、舞台への出場に、シテを最初に三番叟、千歳、面箱、四拍子、ワキ鼓、シテ後見、狂言後見、地の順で神酒をいただいて、心身を清めます。それから出場するのであります。
  • 97[中略を経て上記の続き]翁の出の時と、翁カヘリと称する最後のところに、シス→テが正先で下に居て、礼をするところがあります。一般の観者は、これを大抵見物に挨拶してゐるものと、とるやうでありますが、然し全くその意味はないのです。これは観る人に挨拶するのではなくて前述の天壌無窮天下泰平、国土安穏の御祈祷に他ならないのであります。翁中には両手で扇をオモテに翳し、天を仰ぐやうな型や、又少し前かゞみになつて礼をするやうなところが二ケ所、合計四ケ所あります。これなども、みな祈りであつて、腹中で右の由をとなへてゐるのであります。
  • 106[松風一式之習について金剛巌談]女体のシテが男体に変る時の物着は、みな五段物着として宜いのでありまして、井筒の物着も之に準う訳です。この物着は勿論後見方の大事で、後見は当日長袜→裃で勤めます。五段と云ふのは、初め水衣を脱ぐ時に一声、次に長絹を着る時に次第、長絹の紐を結ぶ時にクリ、烏帽子をつける時にサシ、終にシテは扇を持ち、物着が立つ時に一声と囃すからです。
  • 120[木賊について梅若六郎談]この物着のときに尉髪を垂らして、小結烏帽子を着けます。前は尉扇を持つて出ます。それからこの度使用します面の阿古父尉は、昨年の暮文部省の重要美術品調査会で、国宝に指定されたものを使用します。話が前後いたしましたが、物着で子方の扇を持つて舞ひます。この舞の中で扇を左に取り、下に座してしをるところがあります。之は扇を左に取つたその時に、自分の持つてゐる扇が、子供の持つてゐた扇であることに気がついて、子を思ふ心に浸るところです。
  • 123[観世銕之丞談]木賊で問題になるものゝ一つは、例の木賊を刈る型ですが、同じ型のある芦刈とは心持などに非常に相異のある事は勿論です。併し形式的な型としては同じで、一体木賊のこゝの型には二通りあつて、芦刈と同じやうに草を立て、扇で二つ刈る型をしてもいゝし、又は鎌で刈つてもいゝとされてゐます。又その鎌で刈るにしても、手前へ引いて刈つても、向ふへ押してもいゝとしてあるのです。
  • 123–124[上記の続き]昔、何とかいふ観世大夫が演じた時、恰度田舎の人がそれを見に来てゐて、演能後にその人が「いやしくも名人といはれる観世大夫もあれは間違つてゐる。鎌を手前へ引いては木賊は刈れないものだ。そんな事をしたら手を切つて了ふ」といふ様な事を言つたさうです。然し私は先刻も申しましたが、能は極端に写実的になる必要はなく、いはゞ唯その形を見せて気持を表現すればよいのでせうから、扇でするのもそんな意味からでせうし、第一そんな事を言ふなら、既に刈つて手に持つてゐる木賊を刈る道理はないぢやありませんか。
  • 127[中略を経て上記の続き]ヤマとでも云ふか、観どころは「木賊刈り」の一段と、家へ坊さんを入れて、自分が子供の舞ひを舞ひ、物狂ほしくなるところ、これらがまあヤマです。子供の舞をみせるところでは、序がはひり、舞の中で扇をみて思ひ出すところがあり、又舞の途中でシヲツて考へつつ泣くところなどがあります。
  • 128[中略を経て上記の続き]今は鎌を持つて木賊を刈る型が使はれますが、本当はあれは扇でやるのです。鎌を使つてやるのは替の型です。けれど仕方はどつちをやつても、難しい点では同じことです。刈つてゐるといふ気分が難しいので、それが観てゐる方に充分感じればよいのです。
  • 140[梅若六郎談]弓流ですから例の、「うち入れうち入れ足並にくつばみを浸して攻め戦ふ」の次に、囃子のクバリがありまして、その囃子方との申し合せの呼吸で扇を落すのです。つまりこの扇は弓のつもりなのでして、これを拾ふのが素働であります。素働は「船を寄せ熊手に懸けて、巳に危く見え給ひしに」の次にはひります。この素働には二通り――難しいのと易しいのとあります。今度は私は難しい方のをやつてみたいと思つて居ります。難しい易しいといつてもつまりは難しい方は型がとみ入つて来るだけのことです。
  • 199[金春光太郎談]昼間は親父が用事があつたり、外出したりしてゐたためでせう。謡は朝晩でしたが、仕舞は朝に限つてゐました。朝暗いうちから起して舞台に引出しました。冬の朝など寒いから、手がかじかんで扇が持てない。指が十分に開かないのです。すると親父は、傍へやつて来て、そのかじかんでゐる手を、とつて板に抑へつけ、その上から自分の拳骨でゴツ〳〵叩くんです。乱暴でせう。万事この調子でした。
  • 248–249[花子について野村又三郎談]シテの装束には真行草の三種ありますが、今度は行の方でいたすつもりで居ります。前は侍烏帽子に素袍上下となり、着附は箔をきます。後は素袍の右肩を脱いで腰に挟み、小刀をとつてその代りに太刀を左手に持ち扇を右手に持つて出ます。襟は緋と浅黄を用ひ、素袍の模様は夕顔がキマリでございます。扇子のキマリもございますが、今度は私の家に伝はる由緒の品を用ひます。[中略]これは曽祖父が花子を舞つたときに用ひました物で、父もこれを用ひて花子を舞つて居ります。今度また〳〵私がこの扇子で花子を勤めますことも何かの因縁でございませう。四代に亘つての扇子で花子を勤めますことは何となく不思議な嬉しさを感じます。
  • 261[安宅について野村万斎談]是で元へ戻つて、シテへ物見の様子を報告します。一通り語つて『あびらうんけんと斯様に仕りて候』といひますと、シテは『汝はこざかしきものにて候、やがて御後より来り候へ』といひます。貝立てない時には是で畏つて狂言座へ下りますが、貝立の時ですと、シテは『やがて貝を立て候へ』といひます。剛力は是を受けて一の松に来て、扇を少しあけ、要の方を口にあて貝の形にして左手で是をうけて、『づうわいづうわい』と吹きます。是だけの事ですが、重い習事にされてあります。
  • 305[冷泉為理作狂言につき茂山千五郎談]何れもよう出来てますが、その中でも子の日と、ほとゝぎすが面白く、殊に子の日は上品で、お目出度く作られてゐます。殿上人が初春の子の日に野辺に出て、小松を曳かうとしてゐると、其処へ若い女が来会はせ、歌のやりとりから、その女に心を引かれるが、大変な醜女なので興がさめて逃げ出すといふ筋です。シテは殿上人で、烏帽子狩衣に白綾の着附、差貫を穿き神扇を持つて次第で出ます。
  • 306[中略を経て上記の続き]アドは乙女、面はオト、女髪に平元結、縫箔の着附に女帯をダラリと後に垂れ、扇は黒骨、小袖を被いで、その両棲は腰に挟んでゐます。[中略]小松を曳く型や、袖を被いで扇で顔を掩ふ翁に似た型などあつて、ユーケンして留ますが、文句も型もまことに祝言になつて居て結構な狂言です。私の家には宮様から拝領した直衣がありますので、いつも狩衣の代りにそれを用ひます。
近藤乾三『さるをがせ』(1940)
  • 8面をつけると面にある目の穴と自分の肉眼での位置の関係から、一寸下を向いた位では身の廻のもの、例へば扇又は杖などを膝の前へ置いた時など、ちやんと見る事は出来ません。充分に下を向けば勿論見えませうが、夫れでは形がくづれて了ひます、杖を見る形はしても心で見るので一種の感じで行くのです。
  • 15–16能の持扇は何れも中啓で白骨黒骨の二種あります。曲によつて持つ扇はきまつて居ります。女物には決して白骨は用ひません。又尉物とか僧などは決して黒骨は用ひません。模様も種々あります。色入、色無、墨絵などです。其他素袍男の時大扇と云つて普通の舞扇のやうなのを用ひます。其他唐団扇を持つ曲もかなりあります。扇は大体は流用がきゝますが、面と同じやうにきまり扇といふものが沢山あります。一々曲によつて並べて見る事も、興味深い事と思ひますが、例外が沢山出て来たり、一寸調べるに暇がいりますから、何れ折があつたらすることに致しますが、一寸思ひついたものを話して見ませう。
  • 16[上記の続き]「翁は竹に孔雀」「乱は立波」「道成寺は飛竜」「鷺は芦」「山姥は白菊一枝」「実盛は月に群烏」「通小町は山に虹」「葵上は簾に葵」「求塚は雨に雲」「砧は木蓮」などの一例です。此のうち変つたものは葵上の扇で、小骨が一本おきに銅で出来たものになつて居ります。見た所は黒骨ですから色が同じ様で分りませんが、持つと相当重いものです。是は舞台で投げるのに役立つので重いためにヒラヒラしないでスツーと落ちる事になります。安宅の延年の舞にも投げる処はありますが、あの扇には仕掛はありません。
  • 16[上記の続き]ツレの女は大口のものは持ちますが、着流のものは概して扇は持たないのです。花筐、松風のツレの如きは扇を持ちません。併し同じツレでも扇を使ふ必要のあるものは持ちます。例へば小督のツレ小督、小袖曽我のツレ母、芦苅のツレ女などは何れも酌をうけるのに扇密使ひますから扇を持つて出ます。子方も大口又は長袴、腰巻のものは持ちますが、唐織着流のものは持ちません。例へば「満仲」の美女、「幸寿」「鞍馬天狗」「唐船」「鳥追」等は扇を持ちますが、「富士太鼓」の子方は持ちません。
  • 17[上記の続き]扇は勿論ですが、守や文又は短尺など懐中して出る時は、余程注意をしないと忘れていけません。或る時どこかの能で「小袖曽我」で母が扇を忘れて出ました。十郎がお酌に立つてそばに来ると扇がないのに気がつきました。仕方がないから、両手をおチヨコにして出したといふ、飛んだ笑ひ話を聞いてゐます。出る時には一通り調べて出なくてはいけません。
  • 69[市川猿之助について]芝居の方では、翁の他は勧進帳一番に限つて出囃子が折烏帽子、素袍で出るが如何いふ訳だらうといふことでした。私がそれは延年之舞から来てゐるのではないかと申しますと、成るほどといつてゐました。延年之舞には御承知の様に千歳の文句が入ります。それに勧進帳の絵看板や一枚摺を見ると、左袖をかづき右の扇を顔の前にあてゝゐます。つまり翁をかたどつてゐる訳です。
  • 72私は一度支那芝居を見たことがあります。一緒に行つた友人は言葉は分らないし、つまらないといひましたが、私は大変面白く見ました。大変能に似てゐます。梅蘭芳などは道具を飾りますが、あれは新派なのでせう。私が見たのは、能でいへば囃子座の位置に楽器を持つた人達が列びます。その前に一畳台のやうなテーブルが一つ出ます。それだけです。私の見た感じでは、卓子掛をかけると室内になり、とると屋外になつた様でした。能と同じ様に後見が出ます。出の囃子も、華奢な音楽の時には女が出て来ます。早笛の様なドンヂヤンヂヤランと急調に囃すと関羽か張飛のやうな武ばつた役者が出ます。そして能でいへば常座に当るところで、何かいひます。恐らく名乗であらう思ひます。関羽の様なのは、片手でひげを撫でながら扇遣ひ、つまりユウケンをやります。ユウケンは盛んにやります。
  • 104–105[藤野濤平とともに深川に通っていた時代の話]その頃の事でした。私達は中形のあらい模様に、袂の長い着物を着て、仕舞扇を帯に挟んでゐるもんですから、中州の渡舟で乗合のものから「お前達はどこの劇場に出てるんだい」と云はれた事がありました。その時は何とも思ひませんでしたが、後で考へて実に厭でした。きつと踊の稽古の帰りとでも思つたのでせう。
  • 125其内囃子方も鏡の間に揃つて音調べを済ませ舞台に出、地謡も切戸口に待つて居て共に舞台へ出る順序です。シテが一番先に出ないものは、ワキがお幕にかゝる時分又はワキやツレが舞台へ出てからシテは鏡の間の鏡の前で面を着け、其舞台姿を鏡に映して其役の心持を頭に入れる訳です。それから物着が衣紋、袖などを直してお幕にかゝります。扇小道具の類は何れも幕にかゝつてから持ちます。前にお話した沓も此処で取つてしまひ出の来るのを待つて居ます。
  • 148[翁の出立について]烏帽子は翁烏帽子であります。これは翁ばかりでなく蟻通、大仏供養等にも使ひます。この烏帽子の紐は長緒でなく、麻糸を心にして紙で探→撚り込んだものを使ひます。大体は白元結でいゝのかも知れません。結び方も長緒の様に結んで前に垂らすやうなことはなく、花結びに結び切りのものであります。扇は孔雀に竹の図で白骨であります。
  • 149[千歳の出立について]千歳が萌黄の直垂、三番叟が黒地の直垂、面箱が淡い浅黄の直垂を着ますと、色も差合がなく非常にうつりがいゝ様です。これに折烏帽子を冠り、小刀をさし扇を持ちます。装束はこれ位にしてをきませう。
  • 149–150[翁かざりについて]翁かざりは宝生会では略してをります。水道橋の舞台披露の時は本式にやりました。これは鏡の間に祭壇をしつらへ、面箱に翁と黒色の両面と三番叟の鈴を入れ烏帽子千歳の折烏帽子扇等を共に祭壇にかざり、神酒と洗米ヒ浪の花をあげ、太夫から囃子方まで順に土器で神酒を頂きます。これは後見が土器と銚子を持つて注いで廻るのです。これがすんで翁の能が初まる訳です。
  • 176それと、お稽古する時に扇を持つて居ながら、それを腰に差し、鉛筆を持つて稽古をして居らるゝ人があります。或は扇を前に置いて、鉛筆を扇の代りに構へて稽古して居らるゝ人を見受けますが、これも大きな間違ひです。矢張り扇はちやんと持つて、姿勢を正しく謡ふのが本当です。
  • 228–229主 昔新宿に〇〇さんといふ殿様がゐました。何時でしたが星ケ岡で謡会のシテを謡つてゐて、クセの上ゲ羽を謡つて、地になると立つて扇をひろげて舞ひ始めたんですね。これには驚きましたよ。この方は変つてゐましたね。宝生会から帰ると、女中を集めて、見て来た能をやつて見せるのださうです。(笑)客 さういふ愛嬌のある人が今ではゐなくなりましたね。白川といふ人がゐましたね。金剛流でしたが、笛座へ向つて上げ扇しちやつたんです。
喜多六平太『六平太芸談』(1942)
  • 6⼀⽉の喜多会の初会に、実と⻑世に⼸⽮⽴合をやらせたが、あれに使ふ扇は流儀のきまり模様があつてね。それ、震災前に⾦地に舞台の松、あの鏡板の松を⼀ぱいに⼤きくかいて、それにちよつと蔦をからませた扇があつたらう。あれが⼸⽮⽴合の扇さ。しかも⼆本おなじ模様が揃はなくちやいけないんでね。なんでも藤堂様がぢい様と⼀緒に⽴合をやらうちやないかと云はれて、舞はれたことがあつたさうでね。その時あの扇が⼆本新しく出来たんださうだ。そして⼀本はぢい様が頂戴し、⼀本は藤堂様のお⼿元へ納つていたんださうだ。ところが亡くなつたあとでお調べになると、この扇は喜多へやつてくれとお書きになつてあつたとかで、到頭⼆本とも頂戴してしまつたやうなわけなんだ。あれがあれば、どんなに良かつたらうと思ふんだが、惜しいことに焼けちまつてつい愚痴も出るわけさ。
  • 37–38[羽衣舞込について]同じ⼩書でも、霞留の⽅は⼭内容堂侯の御註⽂で出来たもので、⼤体似たやうなものだが、幕へ⼊る時は同じやうに袖はかついでも、この⽅は背中を向けたまま⼊つてしまつてワキ留になる。それに「国⼟にこれを施したまふ」と扇を作り物の側へ落したり、序ノ舞の三段⽬以後が直ぐ破ノ舞になつたりする。やはり無理をしてこしらへたやうな跡がある。重く扱ふと云ふ意味ならば、無論絵⾺の⼥体なんかの⽅がよぼど重かるべき筈のものだよ。
  • 40[羽衣霞留について]特別ちがつてるのは「七宝充満の宝を降らし国⼟にこれを施し給ふ」と正⾯先で扇を捨てるところと、囃⼦が⽯橋のやうな留め⽅(残り留)をする。シテは袖をかついで後姿のまま幕へ⼊る。そのへんが舞込とはちがふ。しかし多少無理がしてあるやうだね。
  • 249[豪華な仕舞扇についての言説の結語]然し、究極するところは、さういふ贅沢なものなども、マアどうでもいいわけで、そこらにある粗末な⽩扇、台所にある破れ扇⼀本でも、名⼈が使へばそれで⼗分⾄芸の天地に遊べるわけです。
野口兼資『黒門町芸話』(1943)
  • 51またたれも心得て居られる事でせうが、謡を謡はぬ時は常に袴の下に手を入れて置き、謡ふ時は二句前で手を出し、一句前で扇を右手に取つて、開口をはつきりと、真面目に謡出すやうに心掛けて居なければいけません。姿勢が前かゞみになるのもいけません。膝の上に置かれた双手は入の字形になつて居れば宜いのです。
  • 105扇を持つて居る時に、初心でない方でも、よく人差指の先をはなして居られる方がありますが、これは指先まで気の入つてゐない証拠です。何事る稽古事は気の入つてゐないのが最も悪い欠陥だと思ひます。
  • 106扇を開いて居るところはどこまでも開いて舞つてゐなければいけないものを、どうかすると往々に扇が畳まれて居る事がある。これなどは注意が足りないからである。それから小股過ぎてもいけないが、得て大股になりたがるものだから、これなども充分注意して、顎は常に引付けて居るやうにしなければいけません。
  • 109上をさすにしても、下をさすにしても、扇を畳んで居る時でも、扇の先きまで気が通じて居なければなりません。又サシワケをする時も指の先迄魂が入つて居なければいけません。見廻シにしても腹が這入つて居ないと、たゞフワ〳〵と首ばかり動かす事になる。又扇を左へ取つたら、右手はカラになるものですが、たとひカラになつた時でも絶へず扇を持つてゐる積りで形の崩れない様に握つて居なければなりません。
  • 110扇をカザシて下を見る場合は、例へば桜川の「水も影を濁すなと」や蟬丸の「実に逆髪の影映る」のやうな所は扇の右の方を垂して平になるやうにする、これは常のカザシとは違ふ。常のカザシは田村の「鬼神は黒雲鉄火を降らしつゝ」のやうな所です。
  • 113[仕舞の心得]扇の持ち方は一杯に持たぬやう、前後にゆとりをおいて持ちます。扇の模様も曲によつて違へることはありませんが、模様が荒いものは葛物には用ひません。そこへゆくと五雲や無地のものは何にもつていつても差支へありません。
柳沢英樹『宝生九郎伝』(1944)
  • 31[明治十一年青山御所舞台での道成寺所演について]乱拍子を踏む頃には暑さも何も忘れてゐたのです。愈々鐘入となつて、鐘の中に入つてホツト一と息吐くと、俄かにムーツとして来て目も眩暈んばかり瀧なす汗を拭きながら装束を着けて居ると、誰か気を利かしたのか、鐘の中へ扇を入れて置いてくれたのを発見した。これを以て僅かばかりの風を呼びながら、装束を着け、蛇体と変じて再び舞台に現はれたのである。終演後楽屋で「余りの暑さに地謡に居ながら大変心配したが鐘入後に軈て鐘の覆布に小さい波の立つのを見て、扨ては扇子が入つてあつたかと、ホツと安心した」と言つてくれた者があつた。
  • 108先日の某新聞に、桜間金太郎の「忠則」を評して「終におん首を打落す」で扇で頭をさす型をしないで、たゞ曇つた丈けだつたのは、左陣ならよいが、金太郎では未だ少し早い。といふやうな事を書いてあつた。其評を書いた記者は、その型を金太郎が演るには何故早いといふのか。第一其理由が分らない。