近代能楽用語索引Index of Nō-related Terms in Modern Texts

近代芸談における技芸用語

主にシテ方の技芸にかかわる用語の索引。姿勢、視線などの重要と思われるトピックのほか、『能楽大事典』(筑摩書房)に立項される技術用語を対象としました。同表記・別意味の語を別に立項した場合(例:「運び」を歩き方と謡い方で別立項)も、逆に同意味・別表記の語をまとめて立項した場合(例:眼、目、目玉)もあります。

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かえ【替へ】

宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
  • 41「留め」などもさうで、橋掛りで留める曲が続く時は、舞台で留め、舞台での留めが続けば橋掛りで留めると云ふ風に、自由の利く曲もあるから、其れ等は臨機応変で、要するに一番の能、一日の能の美を害さない様にするのである。けれどもこれは替えの形でもなく、小習ひでもなく、珍らしい形と云ふ可きものでもないのである。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第一』(1934)
  • 8オ当流の若い者は、何れも年輩が年輩であるから、まだ決して鋳型を脱して居ないのは、人さんのいふ通りであるし、又仮りに世間の人が口を極めて面白くないとおつしやつても、流儀に於ては型でも謡でも、その定まりを破つたり、無闇に替えをしたりすることは一切しないつもりである。
  • 8ウ「留め」などもさうで、橋掛りで留める曲が続く時は、一方は舞台で留める。舞台での留めが続けば、一方は橋掛りで留めると云ふ風に、自由のきく曲もあるから、それ等は臨機応変で、一番の能一日の能全体から観て時に替の型をするのである。これは習ひ・替え・小習ひではなく、珍らしい型と云ふ可きものでもない。
喜多六平太『六平太芸談』(1942)
  • 100こんな逸話もあります。宝生九郎さんが清経の音取(、笛の特殊な吹き方でそれにつれてシテの出る替の型の小書)をやられたとき、笛はこの森本登喜でしたが、けふこそはおれの笛でシテをうまく引出して舞台へいれてやらうと待ちかまへていた。ところが、九郎さんの幕をはなれて出て来た足が、ちつとも音取になつていない。
  • 104替の型 一体、小書つきとか替の型とかいふものは、本来の曲に何か変つたこと、珍しいことをやつてみたい――それは将軍家や諸侯方のおこのみで、やつてみうといふ御註文などがあつて、さういふことになつたのもすくなくないやうに思はれます。無論御註文といふばかりでなく、能楽演出のおのづからな要求もあつたには相違ありません。
  • 149然し、師匠や先輩は十分おもしろくやるべきものと申しても、強ひておもしろくするために策略を施すべきではありません。或る舞台で、私の若い時分三番立の能がありまして、切能はその舞台の主人公が勤め、初番はその弟子で、三番目物を他流の何某といふのが演じたのでしたが、その時何某は、特に替の、装束を用ひ替の型を舞ひました。それを観た一古老があとでの話に、あの何{某といふ男は自分の地位にも似合はず心得のない男だ、他流の舞台でしかも三番目の栄誉を輿へられたのだから、替の装束や替の型は慎しむべきで、ああいふ時は定めの装束を著け、常の型で、一通りすなほに勤めるのが礼儀といふものだと語つたとのことで、いかにもこれは、舞台の作法としてさうあるべきものと、私もうなづいたことであります。
観世左近編『謡曲大講座 観世清廉口傳集 観世元義口傳集』(1934)
  • 6ウ○蝉丸 替の型となると、摺箔と赤の長袴。
  • 8オ○田村 替装束、替の型、長床机等です。長床机といふと床机にかゝつて居る間が長くなつて形は少くなります。○江口 甲の掛り、これは舞に就てです。○班女 笹の伝、これは曲の上げ迄笹で舞ひます。○鵜飼 早装束、空働です。空働といふは後の「真如の月や出ぬらん」といふ所で橋掛りにて技があるので、替の型になります。早装束といふのは間狂言なしで、ワキの待謡中に物着となるので重い習ですが、シテの方より物着せに腕利きが必要で今日では出来ません。
  • 9オ○小袖曽我 替の型と云ふのがあります。これはシテ地講席の上に座して居つて、時致一人に舞を舞はすことになります。
  • 9ウ○忠度 替の型。「名も忠度の声聞きて」と武ふ所に型の替りがあり、持つて来る柴へ桜の花を添へます。〇二入静 替の形というてシテは橋掛りにて床机に掛り、ツレ一人にて舞をまふのです。
  • 11ウ○蝉丸 替の型。蝉丸の方がシテになりまして技にも違ひがあります。
  • 13オ○熊坂 替の型。「皆我先にと」より床机を離れるので、床机の間が短くなります。
  • 17ウ–18オワキが「自害をせんと」と起つて行くのを追て行き、止めて座し「道を嗜む志」とシッカリとワキを見込みますが、草紙を王に見せた丈の替の型の方になりますと、此所迄草紙を持つて居つて「誰もかうこそ」といふ所で、ワキの前へ捨る型となります。「実に有難き」といふ所でワキと共に立ちてワキの次へ座し、爰にて烏帽子を受け取つて物着になります。他の流義では、花の打衣を着せますが、私の方では烏帽子を着る丈です。これからは所謂一陽来復で愉怏な心持で舞ひます。切の舞も長閑な心持で文句に合せて舞ひ、「守り給へる神国なれば」で正面へ出てユウケンをします。これは王を寿き奉る心持なので、替の型としては王に向つてすることもあります。
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
  • 40当流では沢山の能を早く仕込で、間に合はせると云ふのは大の禁物で、十番の能を好い加減に修業させるよりも、一二番の能を充分に仕込んでやると云ふ方針である。だから一通りの事を弁へぬ者には、替の形などを演じさせるやうな事はない。尤も、替の形でなくても、其曲によつては、曲中に二通り又は三通り四通りの形のある処もある。
  • 41若いうちといふものは、目先の変はつた新らしいものを、得て喜ぶものであるから、替の形などは最も演つて見たいであらう。又見物の方から云つても、同じ曲よりも珍らしいものを希望するであらう。けれども一通りの事も覚え込まないうちに、やれ替の形だ、ソレ珍らしい曲だと云つて騒いで居たら、只先へ〳〵と進むばかりである。
  • 43替の形は初心者の毒 替の形や小書は、近年一種の流行の如くになつて、月並の催しなどにもザラに出る様であるが、私の方では滅多に之を出さないのである。何故かと云へば其れには色々理由がある。由来小習ひものは──一月十七日に政吉に勤めさした融の笏の舞のやうに──囃子方との関係が極密接であるから、其当日になつて囃子方が代る様な事があつては、迚も真個の呼吸には参らない。月並能などは囃子方の掛け持ちが多いから、マア番組通りの役割りの囃子方が揃はないと見た方がよい。月並能に小書きものを出さないのは、一つは玆に起因するのである。何も解からないお素人は、何でも変はつたものさへ見れば喝采するが、吾々の立場から云へば、常の型も満足に出来ない者に、替の形や小書きの型が出来やう筈がない。芸も固まり多少見識も出て来た者になら、其力に応じて替の形や小書きものを勤めさしても毒にはならないが、未熟な者に勤めさしては、芸を乱す基になる。
  • 44昔からの型、即ち師に教へられた処を正確に守つて行くと云ふことは苦しいに相違ない。そして其苦しみを見て呉れる人は少ないのみならず、いつも同じ事ばかり演て居る、と云ふ風に云はれる。其れと正反対に、苦しくて素人に見栄えのしない個所へ、チヨイと息抜きに変つたことでもすれば、大喝采を博すのである。要するに素人に褒められやう、と思つたら、屹度芸は邪道に入るのである。だから未熟の者には替の形や小書などを演せるのは、堅く禁ずべきことである。
  • 45其日の番組に、舞ものがない時に、百万、桜川、源氏供養の類を「舞入」にするとか、又脇能に加茂があり、留めに鵜飼があつて赤頭が重る時は鵜飼の方を黒頭(替の形)にするとか、加茂と野守の時に野守を白頭(小書)にするとか云ふやうなことは、番組に依つては例会でも之を演るのである。
  • 45之れも要するに俗に媚びる結果であつて、どうしたら見物の歓心を買ひ得るだらう、と腐心せる結果であらう。此やうな調子で、盛んに替の形でもやられた日には、世間には広まるかは知らないが、能楽の真の生命は全く亡びて了ひ、手踊りや何ぞと撰ぶ所がなくなつて了まふ。
  • 66由来此能は面白いとか面白くないとか云ふ点が主眼ではなくて、神を敬ひ徳を仰ぎ、天下泰平を祈るのが此曲の本旨であるから、如何にせば荘重に、如何にせば神々しく演じ得られるかと、其処に苦心を要するのである。だから他の曲と違つて此能には替の形などを演じて、目先を替える必要はないと思ふ。左様云ふ理由かどうかは解らないが、当流に於ては、此「翁」に限て替の形とか替の手とか云ものは古来更にないのである。つまり如何なる場合に於ても神を敬ひ天下の泰平を祈るには普通の翁で充分に其目的を達し得のである。
  • 110–111先日の某新聞に、桜間金太郎の忠則を評して、「終におん首打落す」で、扇で頭をさす形をしないで、只曇つた丈けだツたのは、左陣ならよいが、金太郎では未だ少し早い。と云ふ様な事を書いてあつた。其評を書いた記者は、其の形を金太郎が演るには何故早いといふのか、第一其理由が解らない。他流の頭をさす形より外に見た事がない為め、御自身の智識から速断を下して、替の形と早合点されたのか。つまり金太郎が若年の身を以つて替の形をするには早いと云ふ御了見なのではあるまいか。あれが仮りに替の形として、未熟なものに替の形をさせるのは無理だと云ふ理窟は立たなくはないが吾々の目から見ては一寸した替の形位出来ない金太郎とは見えない。況してあれは替の形ではなく、金春流の常の形なのである。其流義の常の形を演るのに早いも遅いもあつたものぢやない。替の形であつても常の形であつてもどうしても未だ早いと云はなけりやならんのなら、金太郎は未だ忠則の能を勤めるに早いと云ふ事にもなる。マサカ如何なる素人でもソンナ事はおツ喋舌りやしまい。(四十五年五月)
  • 148一体お素人方は理由あつて改めた型や謡をばさうとは思はずに唯無闇に替の型とか小書きとかを喜ばれる様である。其れは演らうと思へば誰れにだつて出来る事で、又昔から替の形はいくらもあるから決して難事ではない。けれども当流では余義ない事情でもある時の外は、五十代迄はこれを演らせない事になつて居る。
観世左近『能楽随想』(1939)
  • 135祈りで橋懸へ行き幕際で踏み留めるや否や――幕の方へ向いたまゝ――打杖で後へ払ふ型がある。これは「道成寺」の赤頭と「安達原」の黒頭・白頭の場合に限つて用ゐる替の型である。つまり前は行者留まりで進めない、しかも背後にはワキが追ひ迫つて来て居る。ふりかへつてワキを撃退する余裕がない、止むを得ず、打杖で後へ払ふと云ふわけであらう。この型をやるにはワキがよほどの足の達者なものでないといけない。さうでないと折角この型をやつても一向おもしろい効果を生まない。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第一』(1934)
  • 8オ若いうちといふものは、目先の変はつた新らしいものを、得て喜ぶものだから、替の型などは最も演じて見たいであらう。又見物の方から云つても、同じ曲よりも珍らしいものを希望するであらう。けれども一通りの事も覚え込まないうちに、替の型だ珍らしい曲だと云つて居たら、芸は其時々の借り物で、決して自分の身には芸が付かないものである。借り着の着物は、ゆき、丈けの合はぬのは寧ろ当然である。少々位お粗末でも、チヤンと自分の身に合つた着物の方が着心持もよければ、人の見た目も却つて立派である。
  • 8オ十番の速成よりも一番の完成 当流では、沢山の能を早く仕込んで、早く間に合はせると云ふのは大の禁物で、十番の能を好い加減に修業させるよりも。一二番の能を充分に仕込んでやると云ふ方針であるから、一通りの事をも弁へぬ者に、替の形などを演じさせるやうなことはして居ない、尤も替の形でなくても、其曲によつては、曲中に二通り又は三通り四通りの型のあるものもあるから、これ等は其時の番組の配置上、同じやうな型の重なる場合には、其れを避ける為めに、甲若しくは乙の型を取る事はある。
  • 17オ替の型と小習の事 対手との関係 替の型や小習は、近年一種の流行の如くになつて、月並の催しなどにもザラに出る様であるが、私の方では滅多に之を出さない。それには色々理由がある。
  • 17オ小書濫発を忌む お素人方は、何でも変はつたものさへ見れば喝釆するが、吾々の立場からいへば、常の型も満足に出来ない者に、替の形や小書きの型が出来やう筈がない。芸も固まり多少見識も出て来た者になら、其力に応じて替の形や小書きものを勤めさしても毒にはならないが、未熟な者に勤めさしては、芸を乱す基になる。小書や替の型を濫発したら、必ずお素人方が喜んでくれる。本人も自然その気になつて、今度は一つ廻る処を三つ廻つて見る。常の型にない処を飛んで見る。と云ふやうなことを演るといふやうな事が必ず出てくる。それでは能から一歩踏み外づしたものになることは、火を見るより明らかである。
  • 17オ–17ウ番組に由る替の型 其日の番組に舞ひ物がない時に、百万、桜川、源氏供養の類を「舞入」にするとか、又脇能に加茂があり、留めに鵜飼があつて赤頭が重さなる時は、鵜飼の方を黒頭(替の形)にするとか、加茂と野守の時に野守を白頭(小書)にするとかいふやうなことは、番組によつては例会でも之を演るのである。
  • 17ウ堕落せる替の型 今日ではさうでもなからうが、先年西京のある舞台で、ある人が「藤戸」を勤めた時、其中入に狂言に送られて入る時、シテ柱の処迄来ると、一寸足を留め、ワキ座を振り返へつて、其処で一つ見えをした。随分思ひ切つたことをしたものだと思つてる間もあらばこそ、割れるばかりの拍手喝釆。飽く迄もお目出度いことだつた。斯うなつては、能の趣味と云ふものは何処にあるかと云ひたい。これなどは俗に媚びる結果であつて、能としては何と評してよいであらうか。この種の替の形が盛んに行はれたら、能は俗世間には広まるかは知らないが、手踊りや何ぞと撰ぶ所がなくなり、却つてそれらの通俗舞踊に蹴落されて、終に能楽といふものは滅亡してしまふであらう。(大正三年一月)
三宅襄・丸岡大二編『能楽謡曲芸談集』(1940)
  • 105松風一式之習と云ふのは松風にある習を全部演るのですが、この間は小返、金剛返、本ノ留、本ノ打切、イロエ、見留、脇留、五段之物着と以上八つの習事を演りました。小返は「よせては返る片男波」の打切に替の手を打つのですが、こゝで笛の森田は鶴の一声と云ふヒシギを吹きました。
  • 128今は鎌を持つて木賊を刈る型が使はれますが、本当はあれは扇でやるのです。鎌を使つてやるのは替の型です。けれど仕方はどつちをやつても、難しい点では同じことです。刈つてゐるといふ気分が難しいので、それが観てゐる方に充分感じればよいのです。
  • 140素働がある時はカケリはぬけまして、留は脇留となります。あとは替の型が所々にチョイチヨイある程のもので、格別お話する事はありません。
片山博通『幽花亭随筆』(1934)
  • 375融のワキは一増の鍈ちゃん、もともと武田氏の御曹子だけあつて、型も謡も本職通り、替の型、橋掛での名のりも面白かつた。一層のこと、思立ちの出でもよかつたと思ひました。本当のワキに此の人位の人がほしいと、つく〴〵思ひました。松村氏のシテは大熱演。太鼓のかけ声どほりの謡。所々で、扇のかはりに撥を握らしたい様な風情。全く知る人ぞ知るで、文字には写しがたかつたのですが。
喜多実『演能手記』(1939)
  • 160安坐してまた立つ常の型は却つてやりにくいので、替の型でやる。当分これでやつて行くつもり。
  • 325さて、合掌留なので、「人待つ女」から橋懸へ行つた。前日一度、この替の型をやつて置かうと思つたのに、一寸怪我々したので、それに多分目信もあつてぶつつけにやつてみた。この日はクセが割に地の乗りがよかつたので、橋懸へ行くには一寸忙しかつた。
  • 342–343ただ「両介は狩装束」と肩をぬぐ替の型をやつたが、そのために打切を入れなければならず、入れるとすれば、前から地やハヤシに申合せて置かねばならず、といふことになるので、若し不出来だつた場合には、もう替の型なんかやる興味も熱もなくなつたのに、前に約束が出来て居るばつかりにいやいややらねばならないといふ羽目に陥るのを非常に心配したが、どうにかその不面目さ無しに済んだのは幸ひだつた。かういふ他の役に関係を持つ替の型といふものは、この点非常に都合が悪い。とにかく上出来の部で、この頃中の憂欝がケシ飛んでしまつた。
手塚貞三編『謡曲大講座 手塚亮太郎口傳集』(1934)
  • 13ウシテの「出入りの」は如何にも弱々と閑かに謡ふ。但し調子が乙入らぬ様にせねばならぬ。二の句は、一セイの調子其まゝに謡ふがよい。此処に限つて調子を替へるのは悪い。「深き思ひを」と心持を充分に謡ひ、心で泣くのである。替の型にはシヲリをする事もある。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第二、第三』(1935)
  • 五1オ–1ウこの能は面白い面白くないといふ点が主眼ではなく、神を敬ひ、君を仰ぎ、天下泰平を祈るのが本旨であるから如何にせば荘重に、如何にせば神々しく演じ得られるかと、其処に大なる苦心を要するのである。だから他の曲と違つてこの能には替の形などを演じて目先を替える必要はないと思ふ。左様いふ理由かどうかは解らないが、当流に於ては、此「翁」に限つて替の形とか替の手とか云ふものはなく、如何なる場合に於ても神を敬ひ、天下泰平を祈るには普通の翁で充分に其目的を達し得ると思ふ。
  • 七10オ替の型にも程度先日の某紙能評に、桜間金太郎の忠則を「終におん首打落す」で、扇で頭をさす形をしないで、只くもつたたけだであッたのは左陣ならよいが、金太郎では未だ少し早い。といふ意に書いてあつた。彼処の型を金春流の替の形と早合点をして、金太郎が若年の身を以て替の形をするには早いといふ意味かともとれるが、あれが仮に替の形とし、未熟なものに替の形をさせるのは無理だともいへるが、吾々の目からは一寸した替の形位出来ない金太郎とは見えない。況してあれは替の形でなく、金春流の常の形なのである。其流儀の常の形を演ずるのに早いも遅いもあるまい。出来の善悪は叉別問題である。(大正四年十月)