近代能楽用語索引Index of Nō-related Terms in Modern Texts

近代芸談における技芸用語

主にシテ方の技芸にかかわる用語の索引。姿勢、視線などの重要と思われるトピックのほか、『能楽大事典』(筑摩書房)に立項される技術用語を対象としました。同表記・別意味の語を別に立項した場合(例:「運び」を歩き方と謡い方で別立項)も、逆に同意味・別表記の語をまとめて立項した場合(例:眼、目、目玉)もあります。

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かた【型】

本田秀男編『謡曲大講座 櫻間左陣夜話 附櫻間左陣小話』(1934)
  • 5オ◯実さんの芸は、実に和らかい良い芸であつた。狂女物のキリで斯う(その型をして)持つて来た手の、子を抱くやうな型の味ひは、実に結構なものであつた。あれだけはとてもまねられない。今だに目にのこつているが、中々そこまではゆきつけない。他のことなら中々ひけはとらぬと思ふがナア……。
  • 10オ◯熊本の故友枝三郎翁が九州の舞台で乱を舞つた。「芦の葉の笛をふき」といふ処で、扇を両手に持つて上げ、笛の型をし片足を引上げた。それを見た翁は「三郎でなければ出来ん」とほめた。
松本長『松韻秘話』(1936)
  • 7能には四拍子があり、型がありますから、気分の緩急や喜怒哀楽の気合が、四拍子の伴奏や形の変化に依つて明瞭であり、従つて観る人々にも分り易く、謡ひ手も謡ひ易いのですが、素謡では、夫等目に見へる人物の種類や動作、或は伴奏となるものが全然なく、専ら謡其物から人物や気色を彷彿させやうと云ふのですから、全く謡ひぶりに現はれる心持一つに俟たねばならない事であります。
  • 10或は発音に依つては他の字を借りて、例へば「あまの刈る」の「あ」が「ン」の力を借りて「なまの」と云ふやうな場合もありますが是は稽古の折々にやる型であつて、いつまでも「なまの刈る」では余りになま過ぎます。これは本来聞えないやうに借りるものでして、口を塞いで、口をあく支度のために借りるもので、それを本物に出してしまつては音声の美を欠いてしまひます。
  • 11またアタリもウキと同様で普通に当つては幼稚になり、柔かく当つてはつまり形はよく聞えるが力がなく、本来柔かく確りと聞えるやうに当るのがアタリの型で御座いませう。それからウキアタリ、まア一字オチや二字オチも矢張りウキアタリですが、これも前の字に力を入れて、その余韻で次の字に移る間の字に力を入れてウキを出すやうにしなければいけません。それが往々一字オチとか二字オチは、その字のみに気をかけて仕舞ふから、甚だ拙いものとなつて仕舞ひます。
  • 20腹の力と云つても矢張りその人々の力に依るもので、あの人のは面白いがこの人のは面白くないと云ふのもすべて腹の力の程度であります。型にしても同様でシツカリして居るとかシツカリして居ないとかは腹の力がそこに見えて来るのです。これはどうも修業に修業を重ねて、自分で会得するより仕方のないもので、習ふに習はれず、教ふるに教へられないものであります。
  • 21人と一緒に地を謡つても人のあとに自分の声が聞こえたりするのは、腹の力が出来てゐないからで、人の調子に外したり、型ならば文句より先に進んでしまふなどは殆ど腹が空つぽと云つても宜いでせう。
  • 30謡の位といふことは、謡をうたふ時に一番大事な要件で御座います。位をほんとに知るには、能の研究まで行かねばならないでせう。詳しく云へば型の事、四拍子の事、それ等を研究して初めて自然に判る事でありまして、位といへばこんな物だと、つかみ出して話す訳には行きません。
  • 47これは先生(先代宗家)も作り話だらうとは云つて居られた事なんですが、それとも実際にあつたかも知れませんが、或人が八島の稽古をされて居て「磯の浪ン松風ばかりの」所を幾遍やつてみても、それで宜いとは云はれない。「それでは浪や松風を見る型にはならない」と云ふのです。
  • 54昔は後見といへばシテよりえらかつたものですが、それがまたどうした事か、「阿漕」の能の時に後見が竿を引いて仕舞つた事があるさうです。するとシテは突嗟の間に案じた竿のない型を舞つて易々と「阿漕」を勤めたさうですが、その型は家元にも覚書が蔵つてある筈です。今日の人間だつたら竿が無ければ後を向いて後見に「竿を持つて来い」とでも呼ぶ事でせうが、そこが余裕のある芸の力強さでせう。又今日の人間にしても竿のない「阿漕」を舞ひ得ぬ事は無いでせうが、それでは最初から故意に竿のない型に舞ふのであつて、「竿無しの型」とでも小書を付けねばならぬやうな本当の竿無しの型しか出来ないでせう。
  • 55真面目に型の順序を舞つたゞけでは只無事だつたに過ぎません。無事だけでは可も無く不可も無いものです。無事を破る事が一つの啓発です。それは昔の人が突嗟の場合に演つたものが、多く今日の小書となつてゐるのでも察せられませう。小書の多くは無事を破つて居るものです。
  • 57それでも見所には別に怪んで居る人も無い位平静で、後になつてあの時金五郎氏が転んだと云ふだけの話のものでした。これは太刀を構へた姉和が一寸も型を崩さなかつたり、又弁慶も転んだ儘の弁慶で居たからでありませう。同じ様に若し「巴」のシテが転んだとしても転んだら転んだ儘の巴御前でよいのを、周章るから忽ち巴御前が抜けて仕舞ふのです。
  • 73型にしても、謡にしても、先生はあゝやつたが、私は是が正しいと思ふから、斯うするといふ位の見識は備へたいものです。併し、話を早合点して、何んでも先生と異つた行き方がいゝと思つて、無理にさからつてはいけません。ですから、此の間の消息は一朝一夕には申述べられませんが、自分で曲其のものを研究し、心持ちのある所を考へ、その根拠に依つてゆかなければなりません。何の考へもなく、先生のやる通りに、まねて居たのではいたづらに動いて居るだけの事です。謡も同じ事で、只大きな声で、節の変化などにはおかまいなく、のべたらにだら〳〵謡つて居たのでは、何んの面白味もない事になります。と、申して謡本の通り、又は型付の通りを替て舞ふとか、謡ふとかいふのでは絶対ありません。もとより規則正しいものですから、其の範囲を脱する事は出来ませんが、其の範囲の中でする事は自由です。
  • 93元来能楽は他の芸事に比べると、甚だ無表情に作られてゐます。文句にしても型にしても形式にしても、露骨な表情を避けてありますから、謡の文句をよんだばかりや、能の型を見たばかりでは大いした感動はないのです。
  • 94型にしても悲しい時に、涙を啜る訳でもなし、むせぶわけでもなし、身をもがく事も、崩す訳でもなく、唯シオル(顔の前に手をあげる)だけですから、表現法としては至つて簡単なものであります。以上の如く能楽はあらはな写実をさけ実際に近い描写をさけて、型なり、謡なりが一つ〳〵芸術化したものを結んで一つ芸術を作り上げてあるのですから、自分の勝手な表現法を案出して、好き勝手な芸は出来ないのであります。
  • 95以上のこと柄は能楽全体についての私の考へでありますが、節一つ、文句一句についてもやはり同じことであります。一つの廻し節、一つの当り方、一字の発音、それらをすべて約束通りに扱ふことを学ぶのでありますが、何れも皆表情の少ない行き方ですから、あらゆる研究と工夫とを、こらして鍛練しなければ、謡でも型でも上達するものではありません。一字一句、一譜一節もゆるがせにせずに学ばれることを希望するもので御座います。
  • 109肱で扇を持つてゐる心ですから、指先には力がはいつてゐてはいけません。従つて油断すればポロリと扇は落ちる位でなくてはなりません。手首で持ち、指に力がはいつてゐては、扱ひに無理が生じ、型が生きて来ません。かういつた芸のこまかい点について語れば色々の事があります。お話の最初は調子のことなど、総じて謡につれてゞありましたが、いつの程にか型の方のお話に流れましたので、お話を一転して実際の謡ひ方について述べることゝしませう。
  • 137△種々お話したい事もありますから、是非お暇の時に来て下さい。型の話などには随分面白い事がありますから、ゆつくりお話致しませう。
  • 153兎も角も父の力は其辺にも窺へるかと思ふ。晩年の父の「頼政」を見物された先生が日日新聞の能評欄で「長年なんであのやうな一見面白味を殺すに類した演り方を支るのかと考へてゐたが、、今度の頼政を見て略その心持が自分にも同感されるやうな気がした。定まつた型を堅実に運んでゆく中に自然に能らしい趣が現れて来る。それは恰も古いどつしりした家の大黒柱に見るやうな底光のした感じである」といふ意味の評を述べられたことがある。以て瞑すべきだと思ふ。
喜多六平太『六平太芸談』(1942)
  • 7それと、もう一つ変つたことには揚幕だね。あの普段の幕揚をすつかり巻上げて、その前へこれも白の単の揚幕を下げるんだよ。ずいぶん思ひ切つたものだね。しかし型や丈句にはかはりはなく、ただ天地人の拍子の間の足数がずつと詰るんだ。それだけだよ。
  • 25この面(弱法師の面)はね、流儀の型ぢゃないんだよ。よほど以前のことだつたが、森恕軒が宝生流の型を写して置いたとかいふのを持つて来てくれて、失礼だがこれはお家元へ御寄附いたします。
  • 26しかし流儀の本面はこんなぢやないのだよ。なんでも目のところが、も少しふくれていて、大体の型は童子のやうに、ふつくらと柔味があつて、しかも品よく、いかにも由緒ある者のおちぶれたといつたやうな工合のものだつたさうだ。実は私もまだ見たことはないんだけれどもね。それでないと流儀の弱法師の心持はどうしても出ないよ。この面はおちぶれた乞食といふ、慘めな気持はよく出ているが、品と柔味が無い。宝生さんの型だと云ふんだけれど、その代り宝生流では、もとは大口(装束)をはいたからね。そこに主張があつたらしいね。それに弱法師一番だけに使ふいい頭(あたまにかぶる毛)があつた。あれはいいものだつたよ。今でもあるかどうか、震災で焼けたんぢやないかね。
  • 37あそこの型を大廻りをしないで小廻りばかりして幕へ入らうとして途中で目をまはしてひつくり返つた奴があつたとかで、それ以来余り軽く扱はないやうに、誰にでも許すといふことをしないために、わざとそんなに重くしたんださうだがね。なあに元来道成寺を勤めてからといふ程のものぢやあない。
  • 46どうしませうかといつたらね、いや、他にお装束も見当らないやうでございますから、仕方がございません、これで勤めさせて頂きませうといふんで、やれやれと思つて、装束が著き、シテが幕から出ると大急ぎで見所へ廻つて、しつかり見せて貰つた。型はね、少しも違つた所はなかつたがね、なるほど白練、指貫になると、心持、型の扱ひなどがああなるものかなと思つて、とても面白かつた、思ひも寄らぬ儲けものをしたものだつたよ。
  • 48あるとき、この能をやつたところが、あとで桜間の伴馬翁から「尾花招かばとまれかし」のところの招く型はあれでは強すぎて女が逃げてしまひさうだと酷評されたとかで、大変心配して居られたのを、友枝の老人がきいて、なあに御心配なさることはない、最初から女には逃げられてるんだ、それをどこまでも追かける、奈落の底までも跡を追つて行く、離れない、といふのが流儀の主張なんだから、それさへ出来れば流儀の通小町はよよろしいのですといつてね、慰めたさうだよ。面白い話だね
  • 49千歳といふものは中途半端なものでね。万さん(梅若万三郎氏)程の人がやつてもやはり感心しないね。シテ方がやれば狂言の真似をしているやうだし、狂言方がやればシテの真似のやうだし、何とかもつと好い型が出来さうなもんだがね。
  • 50鷺を増(女面の一種)でやる――増ではソリ返りの型(獅子と乱とに特有な型)が折合はないだらう。父の尉がいいんだが、やはり直面に限るね。
  • 51白是界の地(地謡)、あれは駈足で謡はれては駄目です。静かにやらなければ駄目です。所が普段早くやつている大ノリ地を静かにやると、文句は間違へる、間は間違へる、始末にいけません。普通のが口についてますから、ゆつくりは出来ないものです。型でもさうで、撓めきつてますが地が早ければつい乗つちまふ危険があります。
  • 52鳥頭はどうも品をよくはやれません。と云つて阿漕ほどではありません。烏頭の切は一向意味の分らない所が多くて、結局追つたり追はれたりすることになるんです。「羽抜鳥の報か」の所で臥し返し(型の一種)がありますが、あれは正に追はれてる型がついています。
  • 53景清の型 景清の、取外し取外しの型は、型附にも無いし、只円さん(故梅津只円・喜多流師範)なんかも知らなかつたやうだね。紀喜和が飯田さんに教へていたのを只円さんが、ああいふ型は無い筈だがと首を傾げていた。喜真に向つてそのことを只円さんが話したところ、喜真も知らないので、ええ、どうも無いやうですがと云つていた。その後友枝が出て来た時、喜真が、ねえ、取外し取外しの処にかういふ型は無かつたやうだねと訊ねたら、ソラ、隠居(寿山)さんの型に確かあつたぢやあないかと友枝は知つていた。腕の強きとの型もツケ(型附)には無いのだが、喜和なんかもやつていた。やはりあつた型らしいね。
  • 55勿論謡も型も、両方ともおろそかにしてはいけないけれども、やはり自分の得意な方を先きに上手になつてしまつて、不得意の方を後廻しにする方が早いと思ふね。
  • 60けふの小塩は、どうも車の轅をまたいで前へ下りるのが格好が悪いね。今念のため型附を調べたんだが、やはり前から下りるやうにしてある。どうもをかしいね。一体前から下りる曲は外に一つもあるまい。折合が悪いよ。「都辺はなべて錦となりにけり」、型附には据える拍子があるんだが、あれも無理だね。それ程あとがはずまないんだからね。(註)右も稽古能の後での話。
  • 61金剛流に、巴の物著を後見の手を借りずにシテ一人でやるのがあるといふのかい?流儀でも、昔は必ず自分でやつたものだよ。打切を入れて後見座にクツログのは極く新しい型で、元は大小前で後見にうしろから小袖を掛けて貰つて、それを自分で挾み込んでやつていたさうだ。友枝の爺さんの話だが、児玉(蜂須賀家の能役者)なんかは、型が間に合はないので、坪折に著込まず、水衣に太刀を疉み込んで、それを小脇に抱へてやつたことがあるさうだよ。だが、それでは少し謡の意味とは違つて来るやうだが、とにかくクツログのは近頃のことらしいよ。
  • 64イノリのとき観世流ぢやあ随分大きく面を切るが、清孝さんなんかのはもつと思ひ切つて大きく切つたやうだつた。またそれがよく利いてね。眼がピカリと光つたかと思ふやうだつたよ。清孝さんは大体が名人肌の人でね。ものによると恐ろしくいいものがあつた。藤戸の切の句「岩の硲に流れかかつて」と云ふ辺だと思つたが、杖を両手で首へかけて、腰をしつかりグツと伸び上る反り返りのやうな型だつたが、とても凄くつてね。なんだか一たん水の底に沈んだ死骸がモ一度浮び上つてきたやうな、云ふに云へない恐ろしい感じがしてね。今でもよく覚えてるよ。
  • 65私は何しろ若くもあつたし、とにかく教へられた通り般若の面の角でかうワキをひつぱるやうな工合にからだを起してワキを見込むといふと、繁十郎は、「なるほどシテ方の型としては、さういふ気持でやるのだらうが、それだけぢやあおれの方は後へ退かないよ。面を切らうが切るまいが、そんなことはどうでもいいんだ、面をぐつとあげてワキを見込んだとき、ほんたうにワキをにらみ据えればどうしたつて後へ退かずにはいられないものだ、そのにらみ方が大切なんだよ」と聞かされた。つまりは、面を切つても切らなくても、ワキを見込んだ時の面のきまり方が一番大事なわけだね。(註) 面を切るとは、面を定めた一点に対して他の一点から急激に振り向ける型。
  • 68第一型が引立たないしね。それに竜神も幕の中でよく沓の落ちた位置の見当をつけとかないとそれを拾ふときやり損ふしね。白洲へ落ちた方なら、竜神にしたつて替の沓を最初から持つて出るんだから、気分が楽でいいけどね。まあこんな能には見物に知れない妙な苦労があるもんだよ。
  • 70やはり昔の人は偉いと思つたね。少しも驚く気色もなく、その悪い位置にある沓に向つて、激しい働きを始めた。丁度正面の見所を後にして舞つてるんだが、流れ足やそり返りなんかしながら後へ下つてくると、今にも階段の所から白洲へ落ちやしないかと思はせるほどひやひやしたもので、その型の激しさときれいさと相俟つて、見所の入々も覚えず膝を乗出した位だつた。なんのことではない、全然正面を背にして舞つたんだが、それがかへつて非常に面白くて、大変な喝采を博した結果になつちまつたんだ。シテの大怪我がワキの功名になつたわけだね。あんな面白いことはなかつたよ。
  • 72福王繁十郎の野宮のワキも、今でも眼に残つてるよ。あの後シテの一セイの謡の後のワキの謡の処だがね、「車の音の近づく方を」とシテの方ヘジーツとあしらつて、「見れば綱代の下簾」と謡ふんだが、何も型はなくただシテを見るだけだが、何とも云へない上品でよかつたね。今でもありあり眼に残つてるよ。
  • 73尤もよく自分で、今日はシテが車に乗つてるかどうかよく見てやらうなんて云つてたやうだつたが、こんなワキにかかると、大抵のシテは車に乗つてないんだから恥かしい話さ。さう云へば、安宅のワキで長刀を持つてやつたことがあつたが、よかつたね。押出しはいいし、調子もよし、それに云ふに云へない位があつてね。あれぢや大抵の弁慶は通れないよ。(註)あしらふとは、その方へ向く型。
  • 82それならそれほど重いものだから変つた型がある充らうとか、また囃子方のはうにしたつて、どんなにむづかしい手があるだらうかなんて一寸誰もが考へるだらうが、それやあ馬鹿げたことさ。なあにシテのはうぢやシカケにヒラキ囃子方では三ツ地にツヅケ、要するにそれだけさ、簡単に云へばね。そのシカケにヒラキ、三ツ地にツヅケ、それが檜垣らしく、伯母捨らしく関寺らしくやれればいい。
  • 88芝居の方でもやれ団十郎がどうの、菊五郎がかうのといつたところで、みんながみんな団十郎や菊五郎の真実のいい処が解つてたわけぢやない。その時分は今と違つて、劇場の中で菓子や寿司を売つてる仲売とか出方とか云ふ者があつて、そんな連中がこんどの芝居では成田屋がかういふ型をしますからそこをしつかり御覧なさいとか、音羽屋がここでかういふ所作をしますからそこを見逃がしちやいけませんよなんて、いろいろ智慧をつけて教へてくれたもんさ。
  • 95山姥の「金輪際に及べり」といふ型、あれを私が釣のおかげで悟つたといふやうに伝へられたことがありますが、そんなことは後のことでしてね。十三のときに深川の木場で釣つていて、水の中へおつこつたことがあるのです。左の手がヅブヅブとはいつてゆく気持を、ふと震災後に思ひ出して、九段の能楽堂で出した山姥にやつてみたのですが――勿論それは写実的にでなく、心持ですが、それが私の型になつたわけです。山姥のあすこはなかなかうまく行かないところでしてね、誰しも苦心をするのです。
  • 100こんな逸話もあります。宝生九郎さんが清経の音取(、笛の特殊な吹き方でそれにつれてシテの出る替の型の小書)をやられたとき、笛はこの森本登喜でしたが、けふこそはおれの笛でシテをうまく引出して舞台へいれてやらうと待ちかまへていた。ところが、九郎さんの幕をはなれて出て来た足が、ちつとも音取になつていない。
  • 104替の型 一体、小書つきとか替の型とかいふものは、本来の曲に何か変つたこと、珍しいことをやつてみたい――それは将軍家や諸侯方のおこのみで、やつてみうといふ御註文などがあつて、さういふことになつたのもすくなくないやうに思はれます。無論御註文といふばかりでなく、能楽演出のおのづからな要求もあつたには相違ありません。
  • 106そして黒頭のときは木の葉をつける。これもあまり例のないことで、珍しい趣向と申せませう。後の出も橋掛りを千鳥に出るのが変つた型で、これは猩々にもある型ですが、黒頭のは山道をおりてくるおもむきですから、酔態の猩々とは同じ型でも気分がすつかりちがひます。仕舞の方で変つたものといへば熊坂の長袴、谷行の素袍、知章と頼政の床几の型などですが、かういふものはフンダンにやるものではありません。
  • 120それと前シテではあの初同ですね。あそこは動きはしますが、ほんたうは動いてるんぢやない、佇んでるんです。文句にもあります通り、月の澄んだ秋の夜の草庵のほとりに、有難い讃経にしみじみ聴き入つているわびしい女の姿、それをあり僅か(僅かに舞台を一廻りするだけの型)で見せるんですからね。ですからシカケてもヒライてもその一つ一つの型が、どれもこれも動いてる形でなく、佇んでいる姿に見えなきやあいけないんです。こんな無理な註文はありませんね。
  • 121それと中入前ですね。あそこは段々お経をきいているうちに自然に心が和らかになつてくる、和らいでくるとともに仮に人間の姿になつている、つまり女句にある人衣の姿ですね、その人衣が自然に一枚々々はがれて来て、遂にほんたうの芭蕉の姿を現はすと云ふ心持なんですが、そんなむづかしい複雑な気持をどうして型の上に現はしますか。
  • 123次には求塚をお稽古なさるやうにおすすめしておいたが、これほいふまでもなく流儀では非常に重い曲で、それといふのが型はすくないが心持がむづかしいからだ。
  • 125こんどはいよいよ定家のお稽古ですが、これはもう準老女ともいふべきもので、ただ位だけのものです。型なんかごく少なく、ぢつとして居るところの非常に多いものです。吾々から申しますと、このやうな曲はいくども稽古をして貰つてやつと出来たとか、何とかいふべきものでなく、年功を経て自然に舞へるやうになつてきたのでなくてはいけないのです。型も何もなく、位だけを見せるなんてものは教へるにも教へやうがないぢやあございませんか。
  • 127大抵謡のお好きな方は、曲の間は謡本と首引きをしていらつしやる。型の見好者な人達は喫煙室で雑談をしていらつしやるくらいなもんで、苦しんでるのはシテ一人といつたやうな筋合ですが、しかし考へて見ますと、皆さまからは何の張合ももたれないやうなところに、一所懸命力瘤を入れてる、そこに能の生命と申しますか、真骨頭があるわけですね。これがなくなつちやあ、もうおしまひですね。あなたなどは折角かうして能のお稽古までなさいますのですから、どうか型所を御覧になるばかりでなく、ときには今日はシテがこの長い曲の間を、どういふ心持で坐つて居るか見てやらう、と云つた気持で御覧下さいませ。
  • 132–133型に就いてもさういふことが云へます。例へばあの「悪心の起さじと思へどもまた」といふ処で、強く打つ型がありますね。そこは一所懸命おやりになれば割合にそれらしくできるのですが、問題はその後なのです。「思へどもまた」と強く打つて憤りの表現をし、次に「腹立ちや」と打つたままの委を少しも動かさずに居て、しかもその打つた型以上の強い心持を見る人に感じさせる。そして又その次に「所に住みながら」とその気持を抜かずに謡ふ。大抵の者は最初の打つ型まではうまくやれても、その次にはやれやれと気がぬける。またその次まではしつかりとやれても第三段の「所に住みながら」ではすつかり気が抜けてる。かう云つたことが方々にあります。そこまでやれる者も少いが、さて見てくれる人も少い。
  • 141喜多流九代の健忘斎は古能といつた人ですが、中興の祖ともいはれる人で、いろいろの伝書をかいている中に、『悪魔払』『寿福抄』の二冊は、前のには主に謡めことを、あとのには主に型のことを誌してありますが、初心のものにとつても、専門的な方面からいつても、なかなか参考になることがあります。
  • 143型にしても、人間のからだは大小生れつきですから、大きくといつても、野放図もなく大きなからだをウンウン延ばしてそれでいいといふものではなく、小さいからだでも、芸によつて大きくなる。畢竟、芸によつて天性を活かすことが最も大切なところです。
  • 149–150然し、師匠や先輩は十分おもしろくやるべきものと申しても、強ひておもしろくするために策略を施すべきではありません。或る舞台で、私の若い時分三番立の能がありまして、切能はその舞台の主人公が勤め、初番はその弟子で、三番目物を他流の何某といふのが演じたのでしたが、その時何某は、特に替の、装束を用ひ替の型を舞ひました。それを観た一古老があとでの話に、あの何{某といふ男は自分の地位にも似合はず心得のない男だ、他流の舞台でしかも三番目の栄誉を輿へられたのだから、替の装束や替の型は慎しむべきで、ああいふ時は定めの装束を著け、常の型で、一通りすなほに勤めるのが礼儀といふものだと語つたとのことで、いかにもこれは、舞台の作法としてさうあるべきものと、私もうなづいたことであります。
  • 159縁を飛下りといふ所で、春藤では両手で子方を抱き上げて飛ぶ型があるさうで、私は小柄だものですから、申合せの時は、これは抱いてもやれさうだと言はれました。文十郎が、けれども大口を穿かせますからと申しますと、なるほど大口では抱きにくいでせうと当日は抱かれませんでした。
  • 178又右衛門の方が本家で、その分家の又十郎がシテ方だつた。謡も調子の開いた良い謡だつた。型は、足の拇指が反りかへるやうなハコビでね。
  • 190この松田と云ふ人は、ずつと後には皆伝を許されたが、ぢいさまの頃には格別大した家柄のものでもなく、芸も上手とか達者とかいふほどのこともなかつたんだが、何しろぢいさまの腰巾着みたいにくつついていたために、いろんなことを聞いて識つていたので、分家の文十郎ですら識らなかつた鷺の型を覚えていて教へてくれたんだがら、物識りと云ふ点では大したもので、この人が居てくれたことが、私が喜多家を再興するのにどれくらい役立つたかしれなかつた。
  • 203能の型に、すつと脚を上げるところがあります。ソレ、ほんものの鷺は、ああいふ風に足がまげられるから、足をおろすときも、爪先きからおろすのだ、かういふやうにと、いろいろ説明をしてくれましたので、それを真似て、足をぬくことだけは賞められるやうになりまレた。
  • 206私のやうに、いくたりとなく多勢の師匠をもつたものも、めつたに無からうと思ひます。そして師匠の変るたびに稽古のしかたが違ふばかりでなく、能に対する考へ方が違ふ、主張や型もすべてが同じといふわけにゆきません。
  • 207私の稽古に対する松田や友枝の行き方は後進を教へ導くのに何処までも正しい芸を、型附通りにやる。それにほ稽古のとき、自分で舞つてみせないがいい、自分で舞へばどうしても自分が出る、自分の技巧や主張や味ひが出る、それは若い者にいい結果をもたらさない、とかく上面だけを真似させる惧れがある。
  • 212藤堂様は「謡藤堂舞容堂」といはれたくらいで、型も十分堪能であられましたが、謡は殊にお立派なものでした。「舞容堂」の容堂は申す迄もなく山内侯です。この容堂様にも十二代の家元から皆伝をお許しいたしましたところ、藤堂様がこれをお気になすつた。
  • 220明治二十五年三月十三日、芝の能楽堂で催された松村言吉(太鼓の松村隆司父)の追善能に披いたのでしたが、それから四十余年の後、昭和十年四月二十八日、喜多の建流三百五十年記念能を宝生能楽堂に催しましたとき、私はこの道成寺を舞納めといふことにいたしました。謂はば一世一代といふわけで、それまでに何度道成寺を勤めましたことか、はつきりした記憶もないくらいですが、さていよいよそれで舞納めといふことにしてみると一型なども、自分の思ふ通りにすつかりうけ直してやつてみよう、そんなつもりでいたのでしたが、またよく考へなほしてみますと、いやいやそれはよくない、もし私が自分の創意創案によつてさういふことをしたとすると、そのために流儀の型が崩れてしまふかも知れない。さうなつたら一大事だ。流儀に対しても、一門のものに対しても、この際こそ却つて厳格に型通りをやっておくべきだ、さう思ひ返しまして、すつかりもとのまますこしも変へずに舞つて、それを舞納めといふことにいたしたのです。
  • 221乱拍子は、御承知の逼り、小鼓の一調に時々笛のアシラヒがはいつて、その小鼓の音と一種底強い掛声とがシテの動作と相互にせりあふといふやうな意気込みのもので、位は極めて静かなものですが、内に籠る力の実にはげしいものです。シテが一歩片方だけ踏み出して、しつかりと踵をとめます、それから爪先きをあげる、その足をやがて外へひねつて、また元に直す、それから今度はその爪先きを下ろして、踵をあげ、ついと足をひく。かういふ型を左、右の足でたがひちがひに繰り返しその型が左足から右足へ戻るたびに右足で拍子を一つ踏みます。
  • 237流儀の芸が、謡にしても型にしても、一体に骨格の逞しいのを尊ぶのは、謂はば能楽を武家式楽とした流祖の武士気質、武道精神から来ているものと思はれます。それでも京都へ上る途中、馬子を切つたといふ初代の逸話、舞台で人に殺されたといふ二代目の逸話などを考へますと、戦国時代につづいたその頃の荒ツボさに比べて、当世は、実におだやかなもので、マア鼠の尻尾のやうなものですが、然し芸の上では、いつでも真剣勝負の覚悟をしています。
柳沢英樹『宝生九郎伝』(1944)
  • 41十五、六歳は最も稽古盛りの少年期で、最早や子方の足は洗つて、謡に型に一番の能の稽古に忙しい時期である。殊に宝生流では前年静岡より帰京した松本金太郎が、神田猿楽町にさゝやかな稽古舞台を設けて、毎月稽古能を試みてゐたので、こゝには九郎は最初出なかつたが、豊喜は時々出演して、シテを勤める事も数回あつた。
  • 58長でも政吉(変調前の)でも、桐谷でも孰れも豊富なる美調であつたが、それをあのやうな地味な謡を謡ふやうにしたのは、当時未だその技倆が未熟であつたからばかりでなく、彼等の将来の大成を期したのである。型に於いても同様で、全て地味な質実な基本を間違なく豊に演ずる事を第一義としてゐた。
  • 59九郎の遺した宝生流の芸格は堅実であるが、不器用であるといふのが一般の定評であつた。謡に就いては前述の如くであるが、その型に就いても小技巧に捉はれず、華美に流れず、軽跳に陥らず、極めて質実を以て建前としてゐる。一例を挙げれば、運びの如きも足使ひが荒らく、序破急をクツキリつけるので、キタナイといふ定評さへあるが、これは彼が宝生流の型が小さく纏まることを嫌つたからである。他流の者はそれは九郎の不器用な所が弟子に伝つたのだと悪評するものもあるが、その謡を聴く如く、九郎自身は何をやらしても器用で、また徹底するまでやり通す男である。
  • 72二代目善次郎が多年に渉り名人に就いて謡に型に懇切な稽古をうけ、観能にも幼少より親しみ、芸事の研究に於いては殆ど蘊奥を極めるに至りながら、自ら舞台に立つて衆評を博さうとする、素人の当然赴くべき、所謂天狗鼻にならなかつたのは注目すべき所である。殊に晩年には余程親しい間柄でなけれぼ、彼の謡を聴く機会はなかつたやうである。
  • 89三十、三十番の整理と型の改正 九郎は宝生流二百十番から三十番の能を整理して当分勤めない事に定めたが、明治十一年青山御所の御舞台が出来て、御能御用掛を仰付られた時、既に、これだけは除いて百八十番の書上を差出したのであつた。
  • 91型に就いても彼の代になつて改めたものは相当にあるが、孰れも弟子達の失態を慮つての上の改正で、彼自身の御都合主義に依るものは殆どなかつた。その一例を挙げれば、序之舞や中之舞などに右袖を被ぐ型はその長絹の袖の露が天冠や烏帽子に引掛つた時に後見が立つて直すのが間に合はぬと往々失態を演ずる事があるので、彼は袖を被ぐ型は凡て巻き上げる也に改正して了つた。これならば醜態を演ずる虞れは絶対にない。
  • 99同年五月八日の別会には自らが「鸚鵡小町」を舞ひ、長に二度目の「道成寺」替之型を舞はせてゐるのでも分かる。同年秋の別会には金五郎のワキで「摂待」を演じ、政吉には「望月」長には「阿漕」といふ好番組を以てこの難局を切抜けてゐるが、然し当事者の苦心は一通りではなかつたであらう。
  • 108先日の某新聞に、桜間金太郎の「忠則」を評して「終におん首を打落す」で扇で頭をさす型をしないで、たゞ曇つた丈けだつたのは、左陣ならよいが、金太郎では未だ少し早い。といふやうな事を書いてあつた。其評を書いた記者は、その型を金太郎が演るには何故早いといふのか、第一其理由が分らない。他流の頭をさす型より外に見た事がない為、御自身の知識から速断を下して替ノ型と早合点されたのが、詰り金太郎が若年の身を以て替ノ型をするには早いといふ御了見なのではあるまいか。未熟な者に替ノ型をさせるのは無理だといふ理屈は立たなくもないが、吾々の目から見て替ノ型出来ない金太郎とは見えない。況してあれは替ノ型ではなく、金春流の常の型である。其流儀の常の型を演るのに早いも晩いもあつたものではない。どうしても未だ早いと言ふのなら金太郎は「忠則」を勤めるに早いといふ事になる。(九郎談)
  • 135九郎は玄人弟子の稽古には熱心であつたが、素人の稽古は殆んどしなかつたし、流儀の普及宣伝に就いては頗る冷淡であつたので、この間に於ける事務は殆んど彼が主となつて働いたのである。また彼には人望があつた。芸は謡も型も地味で、孰れかと言へば渋い小味の芸であるが、その教へ方が懇切で、然も熱意が徹してゐたので、一度その稽古を受ければ忘れられぬといふやうに、情意が籠つてゐた。物欲には恬淡で、性格は磊落、竹を割つたやうな江戸ツ子気質が、殊に弟子達には人気があつたやうである。
観世左近編『謡曲大講座 観世清廉口傳集 観世元義口傳集』(1934)
  • はしがき○各章各段の謡ひ様(斎藤香村編)謡のうたひ方を科学的に分解して研究せよとは編者が多年強調し来れるところであるが、本書は謡曲の各章各段の根本的謡ひ方を、各流諸名家に口述せしめ、懇切に筆録したものであるが、本回は先づ「次第」に就いて、その謡ひ方は勿論能の型、囃し方まで諸名家の説を網羅する。蓋し今日までのあらゆる謡ひ方の著述中最も巌正細密な極むるものである。
  • 6ウ○蝉丸 替の型となると、摺箔と赤の長袴。
  • 7オ型の変遷 去る十日の行啓御能には、私は放下憎のシテを仰せ出されて、未熟な芸ながら、台覧を忝なうしたのは誠に身に余る光栄と存じて居ります。此放下憎の型に就いてある御熱心家から一二の忠告を受けて居りますし詳しい事は次号に申述べますが、型といふものは各流其れ〳〵に定まつて、動かす可らざる処があるので、未熟で其処に到り兼ねれば其れ迄であるが、専断を以て型を改めると云ふ事は私逹としては一寸出来兼る場合もある。今回某氏の御忠告も至極御尤なお説と私は賛成して居るのであるが、今直ぐに改めるといふ事も出来兼ねますので、他日の参考として置き度いと思ふ。
  • 7オ由来能の型は五年や十年の短い間に急に大成したものでなく、観阿弥以来五百有余年の間絶えず研究されて、今日の謡や能になつたのであるから、其間の変化は、之を古書に照して見ると明かである。他流はいざ知らず、観世流にあつては代々の宗家の型付が秘本として珍蔵されて居る。其れを見ると先代は此処を斯う舞つたが私は斯う演つたと云ふ様な、種々の変つた形や珍らしい型が残つて居る。だから仮りに放下僧を演ずるにしても、昨年は何代目の型で演じたから、今回は何代目の型に基いて舞ふと云ふ様な事も出来る。尤もこれは、初心の者や未熟な者で一通りの型さへ満足に出来ぬ輩の為すべき事ではない。熟逹してからの事である。又一通りの型を其通りに演じ得なかつた事を強弁する為めに、ナニあれは昔の型です、などと胡麻化すやうなことがあつては以つての外である。マサカ斯う云ふ陋劣な人もあるまいが注意しておく。
  • 7ウずつと古い型付を見ると、鉢木の「雪打ち払ひて見れば面白や如何にせん」とシテが正先の作り物の前に行つて扇を以て雪を払ふ型をする処で、白紙を細かに切つたのを、パラパラと散らす型などがある。現今は五流とも此様な型を用いて居ない(記者日、先年黒川能で此型を見て失笑した事があつたが、さうして見ると黒川能創作の型でなく観世流の古い型が黒川能に残つて居るものと見える。)此様な型は今日から見ると何となく滑稽に思はれるが、然し古い処の型には、これよりも一層芝居がゝつた様な写実な型が少なくない。其れを観ると芝居に先んじて能楽が写実を演つたものかも知れぬ。そして芝居は能の写実がゝつた処ばかりを取り、能楽は愈々進んで写実を超越したものかも知れない。要するに昔からの型を年代を追うて研究して見ると単に能の型の相異を発見し得るばかりでなく、能楽大成の経路を観る事を得て此上なく愉快である。現今当流の用いて居る型は、廿代の宗家清暘の型であつて、京阪には極古い型も残つて居る。(明治四十五年)――元義
  • 8オ○田村 替装束、替の型、長床机等です。長床机といふと床机にかゝつて居る間が長くなつて形は少くなります。○江口 甲の掛り、これは舞に就てです。○班女 笹の伝、これは曲の上げ迄笹で舞ひます。○鵜飼 早装束、空働です。空働といふは後の「真如の月や出ぬらん」といふ所で橋掛りにて技があるので、替の型になります。早装束といふのは間狂言なしで、ワキの待謡中に物着となるので重い習ですが、シテの方より物着せに腕利きが必要で今日では出来ません。
  • 9オ○小袖曽我 替の型と云ふのがあります。これはシテ地講席の上に座して居つて、時致一人に舞を舞はすことになります。○
  • 9ウ○蟻通 故実といふがあり、イロエの型が替ります。○忠度 替の型。「名も忠度の声聞きて」と武ふ所に型の替りがあり、持つて来る柴へ桜の花を添へます。○熊野 村雨留といふは舞に付ての習ひ。膝行といふのは短冊をワキへ渡す時の型。読穢?といふは文をワキと分けて読むのです。○遊行柳 青柳の伝。舞についての脅ひです。私の流義では舞を四段に舞ひますが、これは四季に傚へたもので初段門?は春の心持ですが、此青柳の伝となるとその春丈を舞ふといふ心持なので、初段のオシロの所で舞を止めるのです。
  • 10オ○鸚鵡小町 是は謡はうたひますが、型は致しません。老女物の内何か一番丈けは、代々にせぬものがあります。私はこの曲をいたさないのです。
  • 11ウ○蝉丸 替の型。蝉丸の方がシテになりまして技にも違ひがあります。
  • 13オ○熊坂 替の型。「皆我先にと」より床机を離れるので、床机の間が短くなります。
  • 14ウ型や其他の詳しい事に就いては研究中で未だ十分と云ふ処迄は調べ尽くして居ないから、其れは追つてお話しするとして、並?には懺法に限つて用いる装束の事についてお話しよう。装束と云つても普通の朝長の時と種類が変るのではなく、其品即ち法被が変るのである。観世家には懺法に限つて用いる法被があるのである。
  • 15オ三輪の白式は政通公の御創意で、私の三代前の九郎右衛門に御相談があつて謡や型を御作りになり、笛は平岩勘七、小皷は関口富之丞(幸流)、大皷は石井仁兵衛(一斎の親)、太皷は観世左吉の弟子小寺正蔵に御相談あらせられて白式が出来上つた。然してこれを片山家へ下されたのだが、観世流に無い小書ぎであるから、片山家ばかりに之を許されたのである。だから今でも宗家の小書にはないのである。
  • 15ウ白式の時は作り物が定座の上へ白の引廻しで出て、ワキは置皷で出る。シテは三度の次第で出で、面は深井、装束は唐織着流しで前は型は余り変らない。後は面は増髪、喝食鬘、白綾、白大ロ、白狩衣で、「女姿と三輪の神、ちはやかけ帯引きかへて只はふり子の着するな」から文句が抜けて「神体あらたに見え給ふ。忝けなの御事や」と変る。クセは普通と違つて居ぐぜになるが、上げ羽の「まだ青柳の糸ながく」から舞ふ事もあつて二様になつて居る。
  • 17ウロンギとなりまして其文句に合せての形もありますが、別段なこともありません。「涙は袖にふりくれて」といふ所で草紙は大切に左に持ち右の手でシホリます。がこの時袖でシホリといふのが他に無い珍らしい型であります。「住吉の」と正面を見、「久しき松を洗ひて」と其の景色を心の内に浮かまして見ます。「岸に寄する白浪」とワキ正面へ行き下に居り、「さつとかけて」と扇にて水を汲む型をなして草紙を洗ひ、「洗ひ〳〵て」と二三度も洗ふ型をして「見れば不思議や」で扇を疉み草紙を両手に持ちさゝげて中を篤と見て、「文字は一字も残らで消にけり」と黒主の方に向ひ草紙を見せ、「難有や〳〵」と正面向き草紙を下に置きて合掌し「悦びて」と取り上げて王の前に進み「竜顔にさし上げ」と王に見せて下へ置くと唯見せる丈けと二通りの型があります。
  • 17ウ–18オワキが「自害をせんと」と起つて行くのを追て行き、止めて座し「道を嗜む志」とシッカリとワキを見込みますが、草紙を王に見せた丈の替の型の方になりますと、此所迄草紙を持つて居つて「誰もかうこそ」といふ所で、ワキの前へ捨る型となります。「実に有難き」といふ所でワキと共に立ちてワキの次へ座し、爰にて烏帽子を受け取つて物着になります。他の流義では、花の打衣を着せますが、私の方では烏帽子を着る丈です。これからは所謂一陽来復で愉怏な心持で舞ひます。切の舞も長閑な心持で文句に合せて舞ひ、「守り給へる神国なれば」で正面へ出てユウケンをします。これは王を寿き奉る心持なので、替の型としては王に向つてすることもあります。
  • 18オ「あすこは芝居になつた」とか「あまり味をやり過る」などの批難は、多くの場合現在曲に起るかと思ふ。放下僧、望月仲光などは、斯ういふ批難の起り易い能である。「芝居になる」といふのは型が写実に失し、心持が露骨になるといふので、一言にいへば能が卑しくなるのであらう。
  • 18ウワキの「さて向上の一路はいかに」を受けて、ツレが「切つて三断となす」と謡ふところは、ツレがせツ込んで謡ひ、且つ刀に手をかける。ワキは驚いて矢張り刀に手をかける。シテは悠々迫らざる熊度で「暫く、切つて三断となすとは禅法の言葉なるを……」とツレを制しワキをなだめる、その呼吸がむつかしい。気がかゝり過ぎれば所謂芝居になり、さうかといつて型の如くに演じ、筋通りに謡つた壁?けでは気合がなくなる。先日ある方の御忠告に「切つて三段となす」は「切つて」からかゝらずに、「三断となす」とかゝつた方がよからう、とあつたが、当流では矢張り「切つて三断となす」とかゝつて謡つているから、御最ではあるが、即座に私見を以て改正することは出来ない。
  • 19オロンギの中には月を見る型などもあるが、この処の心持も寂しく陰気に、「思ひ明石の浦千鳥」で思ひが迫つて今まで操つていた糸の手をハタと止め、「音をのみ独り泣き明す」とシヲルのである。このロンギのキリは謡は余り締めないで、サラリと謡ふ。
  • 20オ然しながらこの点に於て、私自身の考へ方に柔盾がある事を、私自身でも気がつきました。それは、私の考へを忌憚なく云へば――どちらかと言ふに見物として恐るべき人は寧ろ京都、又は他の地方に於て多くあると信ずるからである。能を見る機会が少いだけに、地方の人は熱心に芸を見て、いつまでもその印象を失ふまいとして努めている。先代は恁ういふ型をした。
  • 23ウ所が其後小野組の御連衆の御稽古を親爺がする様なりまして、高木、西村、辻、奥村、丸岡、唐橋、伏原などいふ人々が何とか法を立て清廉にも修業をさせねばならぬといつて下さつて、月々三十銭宛出して老楽講といふのが出来ました。其会員が二十名計りあり、六円程の金が寄ることゝなりましたので、私は給仕を止めて稽古をすることゝなりました。又平岡さんといふ方の御尽力で梅若と和解も出来ましたので、謡は弥石重五郎の所へ行き、型は梅若へ行きました。
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
  • 31ツイ此間も某所で、「心持」といふ事に就いて話があつたが、能や謡に於ける心持といふものは、其流義に依つて之を表はす程度が違つて居るかも知れない型や拍子を主とする流義、心持ちを主とする流義と此二つに区分することが出来るかも知れない。何処の流義でも心持を離れて芸をしろとは無論云ひはしまいが、之を表はす上に於ては流義の主張上、必ずしも各流同じとは云へまいと思ふ。
  • 32固より能には心持ちは大事だ。大事だけれども心持以外に見どころのない芸ではない。能は元来型ものであつて拍子と謡とを結びつけた其処から芸術といふ響きが出て来る。其響きが心持ちとなつて表はれて来るのである。
  • 32–33能を見て、表情に乏しいとか、心持の表はれ方が足りないとか、女の装束をつけて居ながら女らしくは見えないとか、其他これに類した非難をする人は、──其時の能にもより出来栄えにもよるが──他の芸即ち歌舞伎芝居とか新らしい芝居、又は現代の小説など云ふものを観る目、否寧ろそれ等のものに支配された頭を以つて能を視るから、心持の表はれやうが足りないと思ふのではあるまいか、何にしても能楽といふものは、古来一定された型や拍子によつて演ずるのであつて、芝居の如くに時の演者の技倆や考へを以つて「今度は此処は斯うして見やう」と云ふやうな事は許さない。飽く迄も流義に伝はる処を以つて堅実に之を演じ流義の定むる型や間拍子と寸毫の差なきを以つて無難な出来とするのである。
  • 34要するに、当流の主張としては、謡でも能でも其心持の表はし方や緩急などが、不自然になることを最も嫌ふのである。芸の未熟な者が、此処は斯う云ふ心持、此処からは急になる処だ、などと其処に至つて急にさうしやうとしたからとて、決して其通りに出来るものではない。無理にさうすれば頗る不自然な所謂木に竹をついだやうなものになるより外はない。だから順々に順序を踏んで稽古して行つて、謡や型や拍子の関係を熟知した上に、自然に其処に出て来る心持ちを心持ちとして舞ひ且つ謡ふことを期すべきものである。夢にも付け匂ひの心持などをすべきではない。
  • 36–37此点に就いては毎度私の云ふ通り当流では昔から定まつてある型以外には、決して勝手な事を許さないのである。狐が飛び上つたり何かする様なことを演て見せたら、お素人はそれで大に満足するかも知れないが、当流には無論さう云ふ型もなしさう云つた様な調子のものを歓迎する人を標準として能をする事は断然演ない意である。世の中が一般に露骨な表情や派手な型でなければ観たやうな感じがしない、と云ふ風な傾向になつて来たのかも知れない。若しさうだとして、これ等の俗受けを目的にして能を演るやうになつたら、能と云ふものは生命を断たれたも同然であつて、能の形をした芝居になつて了ふ。能と云ふものは、飽く迄も昔の型を守つて行く処に価値があるのである。(大正四年六月)
  • 38処が各流の謡や型や間拍子が定まつては居りながら、扱て舞台に出て見ると中々うまく行くものぢやない、何処かにアラが出易いものである。其処で催しの前に各役の者が申合せをする必要が起つて来る。尤もいつも出る曲などは、別に申合せをする必要もないやうなものゝ、不時の出来事もないとは限らないから、厳密に申合せをするのが本式である。
  • 43–44何も解からないお素人は、何でも変はつたものさへ見れば喝采するが、吾々の立場から云へば、常の型も満足に出来ない者に、替の形や小書きの型が出来やう筈がない。芸も固まり多少見識も出て来た者になら、其力に応じて替の形や小書きものを勤めさしても毒にはならないが、未熟な者に勤めさしては、芸を乱す基になる。一方からは何も解らないお素人が煽動される、本人もツイ其気になつて、一つ廻る処を三つ廻つて見る。常の型にない処を飛んで見る。と云ふやうな事を演る。お素人は、あの型は常と変つて非常に結構だツたと油をかけるので、本人は愈々其気になつて了ふ。昔からの型、即ち師に教へられた処を正確に守つて行くと云ふことは苦しいに相違ない。そして其苦しみを見て呉れる人は少ないのみならず、いつも同じ事ばかり演て居る、と云ふ風に云はれる。
  • 46芸の事に就いて、素人が口を出すのは、極よくない事であるが、其れに盲従するやうでは、吾々の芸の権威が全く無くなつて了ふ。新派の芝居や浪花節などの如くに、ツイ近頃生れたばかりの芸ならいざ知らず、三百年の長い月日の間、吾々の先祖が練りに練り、鍛へに鍛へて来た能の型や謡の曲節が、五年七年の慰み稽古をしたお素人が見たとて、何で非難すべき点があらう筈はない。若しもさう云ふ人の言を容れたら、それこそ大変、型や曲節の上に一大改革を施されて了ふのである。実に危険千万な事だ。
  • 48旧幕時代には、碁所、将基所といふものがあつて、大橋宗桂といふ人の子孫が代々将基所として扶持を責つて居たものである。此宗桂は天正年間の人で信長の前で将基を指し、桂馬の指し様が妙を得たといふので宗桂といふ名を貰つたものださうだ。或る時此宗桂の手合せの書物を市郎兵衛が見た。処が非常の名人であらうと思つて居た宗桂は、案外にも時の(文化文政の頃)初段位の力しかなく甚だ幼稚なものである。其れから見ると今の人の駒の使ひ方はズーツと巧みになつて居る。と市郎兵衛は語つた。能楽も、昔の人は芸は勝れて居たには相違ないが、型や謡には多少の無理あつた事は覆はれぬ事実である。能楽の創作以来吾々の先祖の代々が、親が開き子が開き、洗練に洗練を重さねられたのだから、型にも謡にも拍子にも無理は少くなつた。又処によつては拍子の配りなどが無理であつて却つて一種の妙味のある処などもあるが、其れは例外である。私の代になつてからも、謡や型に改めた処もある。芦刈の「つれ〴〵もなき……」の片地などは其一例である。維新前には此処を無理に本地の配りに押し付けて謡つたものであるが、其れでは一尺の処へ一尺五寸のものを無理にはめ込んだ様なもので誠に無理である。要するに昔に比べれば、謡でも型でも無理はなくなつて居る。
  • 49他の芸道の事は知らないが、我が能楽は、単純な説明や、表面上の考ばかりでは迚も其蘊奥を極める事は出来ない。斯麼事は今更らしく云ふ迄もないが、充分に鍛へに鍛へて行つてすら、上手、名人になる事は難かしい。由来能楽は一定の法則があつて、其法則が充分に腹に入つた其上で更に自分の技倆を加へて行かねばならぬのである。一通のきまつた型の中に其人々々の巧拙が顕はれれて来るのだから、自分の才を能楽の上に応用しやうと云ふのは、不世出の名人でゝもなければならぬのである。况して一定の型さへ充分でないものが、何で自分の才を芸の上に応用する事が出来やう。だから一定の型や謡を覚え込む迄の修業が最も肝要である事は云ふ迄もない。若し修業期を空しく終つたならば、其人は最う立派な楽師になる資格を失つたものと云つてもよからう。
  • 62所謂お素人考へと、吾々の考へと違ふことは、毎々申述べてある通り、お素人に褒められたときでも、私の目から見れば、又演り損つたナ、と思ふ事が度々あるのである。私の所論としては寧ろ型に当てはめた様にキチンと立派に行けばよいのであるが、中々私の望み通りに行かない事がある。
  • 67場合によつて異るものは、唯、面ばかりである。其れは勧進能などの折に数日間翁の続く時で、初日は普通の翁の面、二日目は千々の尉、三日目は延命冠者を用ゐる。此時は二日目も三日目も千歳の謡の文句が少し違ふのである。シテは面が違つても装束も、謡も型も普通の時と毫も異る処ない。勧進能で十五日間毎日翁のあつた時でも四日目からは、普通の面を用ゐるのである。
  • 75「翁なし」と云ふものは、ワキ方の習ひであるから、吾々は其型などの詳細い事は知らぬが、ざつとお話しをする。此「翁なし」は徳川時代は勿論、太閤時代からあつたものだと云ふ事を聞いて居る。「翁なし」は独立した一番の能ではない。本ワキ能のワキが翁の様な事をするのである。だから此時は無論翁は無い。然してワキが此翁なしの仕型をしてから、シテが出て来るのである。ワキの、装束は常の脇能の三大臣の通りであつたと思ふ。昔幕府時代の此翁なしの時は、翁のある時の如くに、若年寄が階から上つて舞台で橋掛りへ向いて、「始めませい」と云ふ儀式をしたものださうである。
  • 95全体此処の節はどうの、サシはサラリだの、足の運びはどうのと云ふ事は、細かに調べるには口授を待たねばならず、又其曲々によつて、同じ節でも同じ型でも様々に変はつて来るのだから一様には云へない。それよりも光づ其曲全体の精神、云ひ換へれば其主眼とする処をきはめなかつたら、折角の美音も名調子も反故になつて了はねばならぬ。そして能楽に於て其曲の主眼点を語りつつあるものは、面と装束の二つである事を忘れてはならぬ。
  • 104善知鳥の型と囃子流義が違ふと謡でも何でも、其れ〴〵に違ふのであるから、型とても無論各流義々々に依つて違ふのである。囃子方なども、甲の流義では三ツ地を打つ処を、乙の流義では態とツヅケを打つ事にしてある。と云ふ風に、一つの手にも表裏の違ひがある。謡や型でも矢張其通りで、甲の流義で強く行く処を乙の流義では弱く行き、乙の流義の荒ツぽく演ずる処を甲の流義では華やかに演ると云ふ様なことは、ザラにあるのである。だから下懸りを噛りかけた者が、下懸り本位の頭や目を以つて上懸りの能を見て、「此処は斯うあるべき筈だ」などとお師匠さんぶツたからとて、何のタシにもならない。況してさう云ふ色眼鏡で観たまゝを、能評で御座候と公にされては、たまツたものぢやないのである。
  • 105「立ち別れ行く其あとは」の処、趣きは可なりに出た。然し地の謡に対して僅か型が先に立ちかけた丈けは惜しかつた。此処ワキの尾上氏は手に入つて居て申し分がなかつた。その前の袖を渡す際、シテが之を捧げて渡した仕方は一寸異様に感じた。と。色眼鏡も斯うなつて呉ると、噴飯出さずには居られない。「此処ワキの尾上氏は手に入つて居て申分なかつた。」と。あの時の尾上始太郎のワキを何処から見たら、ソンナ事が云へるだらう。尾上が此評を見たら、果して喜ぶであらうか。マサカ喜びはしまい。冷評されたと思ふか、それとも記者は盲目だと思ふか、それともお世辞を云つてる、と思ふか、其うちの一つであらうと思ふ。記者が知らないだらうから、参考の為めに其処の型を教へておく。
  • 108「春日竜神は橋岡氏調子もよく型も豪壮で気持が宜かつた。素人中でも生粋の素人たる吾輩は、小原御幸だの砧だのといふ物より、斯ういふ能の方が本当のお能の様な気がする。従つて斯ういふ能を面白く見せる人が本当の名人だらうと思ふ。と云つて今日のおシテに対して貴方は名人ですとお太鼓を叩くのでは決して無い。脇は加藤氏、先月の宝生会でも此役をしたが、切の地との掛合が甚だ振はない。如何にも脾弱さうで気になつた。』
  • 131御維新前の喜多流には、俊寛の能がなかつたが、山内容堂侯が此事を惜み、先代の六平太に相談して此能を喜多派に加へる事となつた。尤も曲名は俊寛ではなく「鬼界ヶ島」と変へたのである。で謡も型も喜多流として出来上つたが、扠此能を演るとなると、其時迄は喜多流になかつた曲だから、これに用ゐる面も喜多にはなかつた。其処で私は、山内侯と先代六平太の二人から、俊寛の面を貸して貰ひたいと云ふ依頼を受けた。
  • 148一体お素人方は理由あつて改めた型や謡をばさうとは思はずに唯無闇に替の型とか小書きとかを喜ばれる様である。其れは演らうと思へば誰れにだつて出来る事で、又昔から替の形はいくらもあるから決して難事ではない。けれども当流では余義ない事情でもある時の外は、五十代迄はこれを演らせない事になつて居る。然るに、宝生流は同じものばかり繰り返して変つたものを演らぬと云ふ非難もあるかも知ぬが、其れでお厭やな方には、無理に観て下さいとお勧めは致さぬけれども、有難い事には、宝生会の舞台新築に就いても、皆さんの多大の御同情を得て貸資金なども予定額の四万円に達し、既に地所も買人れ舞台の設計も略々出来上つた。
  • 154各流義には其主張に基いた特長があるのだが、其特長なり、他流と異つて居る処なりが、果して万人が認めて之を是とするや否やは、吾々には解らないが、然しある一流を榜準として、其他の流儀の型や謡を非認する様な人は、倒底広い能楽を談じ得ない事と思ふのである。能楽のあらゆる流儀と云へば中々広くシテ方、脇方、各囃子方、狂言等各数流に分かれて居るのであるから、能楽の全流儀に就いてお話しする事は容易でない。況して特長に就いてのお話に於てをやである。だから、シテ方五流の各々異つた点の一二を挙げるだけに留めて置く。
  • 158宝生流の飛ぶ型 飛ぶ処の型、たとへば道成寺の「深淵に飛んでぞ矢せにける」などの飛ぶ型は、観世流はで一足に飛ぶが、私の方では足を二度に使つて飛ぶのである。下掛り宝生なども矢張り一足飛びにはしない様だ。
  • 160打切と云ふものは、諸流共大体同じ処にあるものだが、然かし能の型などの都合で、諸流必ず同じ処とは云ひ兼ねる。当流では、「葵上」の恨めしの心やあら恨めしの心や」に、打切りがあつて、それから「人の恨みの深くして」と謡ひ出すのである。其外松風の上げ羽の前、「すみしもことはりや尚ほ思ひこそ深かけれ」と打切りがあつて、それから「宵々にぬぎて我がぬるかり衣」とシテが上げ羽を謡ふのである。これ等は他流とは変つて居る。
  • 190斯の道で世の中に立つて行くには、どうしても幼少の時から謡や型の稽古をせねばならぬのは、昔も今も変つた事はないが、然し旧幕時代の能役者の養成法は今日よりも、ずーツと厳格であつた事は誰も知る処である、殊に宗家に生れた私などは、中にも苦辛は嘗め尽くして居る。
近藤乾三『さるをがせ』(1940)
  • 2八島の中で「磯の波松風ばかり」といふところは、ぐず〳〵謡つていかず、まあ八島の中でも難しいところでせうね。波を見、松風をきく型があり、しんみりした心持がなければなりません。よく話が出ますが、昔ある人がどうしてもこの「磯の波」が出来ない、その内急にゐなくなつた。暫らくすると帰つて来て、又「磯の波」を謡ふと今度はよく出来た。その人は小田原へ行つて、波の音を数日聞いて、「磯の波」を会得して来たといふのです。
  • 6能の場合は直面で勤める時と、面をつけて演る場合がありますが、何誰も御存じの様に仕舞や囃子の時は面をつけません。処で、斯うした時、無表情であるべき顔が、意識的、無意識的に種々と変化するのを、お見受けする事があります。是れは困つた問題で、型の稽古をなさる方は特に御注意ありたいと思ひます。
  • 9–10流儀の「山姥」は白頭が普通の型になつて居ります。他流では姥鬟で、白頭は小書になると用ひて居る様ですが、撞木杖との釣合ひからいつても白頭がいゝやうに思ひます。何時頃から流儀の型が白頭になつたか、はつきりは存じませんが、大分前からさうだつたらうと思ひます。お流儀によりますと白頭の小書の時、前シテが姥になる事があるさうですが、流儀では姥を用ひる事はありません。山姥の面の色が赤すぎるとの事を或る方からききましたが、「面の色は、さにぬりの」とありますから、赤いのがいゝのでせう。尤も山姥の面には替り山姥を云つて白つぽいのもあります。山姥の面といへば、波吉家に素晴らしい山姥の面があります。私も近頃拝見致しましたが、誠に結構な品で山姥としては可成り強い顔で替り型です。深川の先生が山姥の話が出ると、その面を所望して居られました。先生が御執心だつたのですから、随分いゝものだつたのでせう。
  • 19杖で思ひ出した事があります。余程前のことになりましたが、私が名古屋で松本長氏の「望月」のツレを勤めた事があります。子方は孝さん(松本長氏の息)でした。敵討の計略がきまつて花若は八撥、母は盲御前小沢の刑部は獅子になる事になります。是は橋懸の型でして、シテの「某は酒を持ちて参らうずるにて候」で、シテは後見座にクツロギます。とツレは橋懸で後向きにクツロギます。
  • 20流儀では望月のツレが中入で入る時、杖を横板で後見に渡し、そして盲御前でない事になつて、揚幕へ入る事になつて居ります。揚幕まで杖をついて入る型が他流にはあるさうですが、それは場面の解釈から来て居りませう。流儀では横板に来ると、望月の部屋の外に出た事になるのでせうね。何方がいゝかは別問題で、解釈の仕方で面白い事になると思ひます。
  • 66弥五郎さんは仕舞衿の仕立がうまかつたですね。弥五郎さんの仕立てたものが、今私の処へ残つてゐます。深川の先生も袴は弥五郎さんでした。その他に何といひましたか、屋号は忘れましたが亀沢町の交叉点の横に仕立屋がありました。そこへも頼んでゐました。その頃三須錦吾さんは革屋でしたが、先生は革屋に仕立てさせた事はありません。穿いてみて違ひますね。弥五郎さんの型は、安田善衛さんの奥様、三川清君の母堂などに伝はつてゐます。弥五郎さんがどうしてさういふ型を知つてゐたか分りませんが、その型が江戸の型ではないかと思つてゐます。或ひは金沢へ隠棲された紫雪さんあたりから伝はつたものでせうか。調べて見れば面白いと思ひます。
  • 68外題は何といつたか一寸覚えてをりません。その脚本の幕外の引込みに「もぢり葉の六方」といふのがありました。如何いふことをするのかと訊ねますと、型はまだ考へてゐないが、文句がいゝので入れたといつてゐました。「解脱天狗」の折同君と「二十年振りですね」と話したことでした。
  • 68勧進帳をやる時も、私のところへ参りまして、型の出処を研究したいからといつて、能の安宅について二時間ばかり聞いてゆきました。その時の話に、芝居の方では、翁の他は勧進帳一番に限つて出囃子が折烏帽子、素袍で出るが如何いふ訳だらうといふことでした。
  • 86九月になると袴能(宝生会月並)があることになつてゐたので、先生はそれが気にかゝり出したと見えて、袴能の型の稽古を少しづゝ暇々に私と濤平さんとに教へて下さいました。もう其時分には先生の御病気もかなり、癒くなつて来ました。
  • 87私は岩船で、濤平さんが経政でした。型の稽古の際はシテの謡までも先生が謡はれるのが例なので、私も濤平さんも暇々の型の稽古を退屈凌ぎに喜んでゐた位でした。稽古の時に廊下の方で女中の足音でもすると、先生はスグ謡をやめられ、稽古を中止されました。その時の間の悪さ加減つたらありませんでした。先生は芸をはなれて一歩表へ出た場合は、うたひのうの字もにされないといふ人で、宿にゐても「謡」のうの字も口にされないでゐましたが、九月の能に私達の能の稽古が間に合はなくなることを心配されて、宿の者へ内緒で稽古をはじめられたものです。
  • 87型の方の稽古は心配はありませんでしたが、充分に「謡」を調べてないので、「うたひ」の稽古をすると云はれはしないかといふ事が其時の濤平さんと私との気苦労の種でした。しかし帰るまで謡の稽古がなかつたので、私達は叱られないで済みましたが、考へてみる型の稽古をそつとしてゐて、女中の足音でやめられる位だから、謡の稽古ならば表へ洩れて知れますから、ないにきまつてゐたのですが、当時の私達にはそこまで考へつきませんから心配だつたのです。
  • 116師匠について謡の稽古をしてゐる方は、私共の子供時代、青年時代を同じやうに、いつでも師匠にきく事が出来る、教へて貰へる、といふ依頼心があるのではないでせうか、良師についてゐる方が、案外何も知らないで、吞気に稽古をつゞけてゐられる、といふやうな傾向があるのではないかと思ひます。稽古事は特に、又この次に教へて貰へるといふ風な、翌日の修業を考へることは、私の経験から禁物と言ひたいのです。その時その時で、確実に謡ひ方なり仕型なりを十分に会得する事が肝要でありませう。
  • 167仕舞(型)の稽古に於ても、下腹に力を入れて体の重心を落つけ、手足は軽やかに捌く、といひますけれども手足にホントに力がぬけてゐては駄目です。かるく保つ処にも何処かに力がぬけないでゐる風態でなくてはならないのです。下腹に力を入れるといふ事が又容易なことではありませんが、修業すれば誰れでも段々に丹田に力をあつめることが出来るものです。
  • 174謡でも型でも、癖て云ふものは始めから其人にあるものではありません。手ほどきの師匠の如何によるものと思はれます。癖は直ぐに伝染するもので師匠の癖は直ぐ真似出来ますが上手な人の宜い所は中々真似する事は出来ません。ですから稽古にはとしてもほどきから本筋を踏んで来た者について稽古するのが一番宜いと思ひます。初めに悪く固まつた癖のある人についたら伝染した其癖は容易に取れません。そこで是非選ぶべきは手ほどきの大切であると云ふ事です。
  • 188客 先日はお能を拝見させて戴きました。主 それは結構でした。如何です。型をお習ひになつてからお能筍見られると、又別な面白味がありませう。客 全くです。大変面白く拝見させて戴きました。今迄は舞となると早く謡になればよいと思つたのですが、近頃型のお稽古を願つてからは段々とお能の面白味が判つて参りました。主 そうならなくてはいけません。お能を御覧になるには、型を習ふ習はぬに拘はらず、謡本と首引ではいけません。大概はお能を聞きに入らつしやる方が多いのですからネ。
  • 192客 どうして略すのでせうか。主 あるに越した事はありませんが、略しても能が出来得る為め、月並能などでは用ひずに勤めるのです。客 型等も少しは替つて来るでせうね。主 殺生石などは替つて来ますが、胡蝶、藤、呉服などはかはりません。
  • 198さうすれば視線にも身体にも無理が出来ないで、大変自然の格好を作り得る事になります。ですからお稽古の時もなるべく謡本は遠くへ置いて、その姿勢を作る事に心掛けるのがいゝと思ひます。私なんかは幾分上を見る癖がありましてね、これは若い時、能の地謡の後列に出た時、前列の人の頭上からシテの型を熱心に見た癖が残つてゐるんですね。その頃の地謡の前列は皆年寄ばかりでしたから、座つた丈も低く、どうしても頭越しに見る様になつたんです。それに私が肥つてゐるので、うつむき勝ちより上向きの方が楽のせいもありませう。
  • 209下を見るとか、横を見るとかしても、顔をそつちに向けなければなりませんから、眼玉を動かす事は出来ず、従つて視線も目と面の穴とを通した直線の延長にやらざるを得なくなり、チヤンと定つて来る訳です。で能を稽古してゐる方の仕舞は、仕舞ばかりやつてゐられる方の仕舞と、何処か構へが違つてゐる。つまりしつかりしてゐます。要するに、仕舞に於ける眼の付け所は、その仕舞の活殺を握つてゐる程大切なものであります。大左右、打込とか云つた事は鏡に向つて型を直す事も出来ますが、是は鏡ではどうにもなりませんから、矢張り師匠によく教はるのが宜しいでせう。
観世左近『能楽随想』(1939)
  • 77守を受とつて能く意を入れて見て「これは中将殿の黒髪」を謡へとある。「夢になりとも」とワキが正面を向く時守を袂へ入れる、とある。此処まではツレの型、これから後はシテ清経になる。
  • 77–78以下の型どころは随分と詳しく細かに書いてあつて、何人でも舞へるやうになつてゐる。「秋の暮かな」と手をうち「さては」と間へ手をうつなり。とあつて、始めの手をうちの肩に吉の一字が添へてある。この始めの打合が良い、〓へてゐるのは織部の頭の良さを証明すると思ふ。元来打合の型そのものは、「さては」の文句に即するのだが、「さては」と謡つて打合せるよりも、一呼吸先に打合の型をして、その後へつけて直ぐ「さては」と謡つた方が余情がある。能の型はかういふところが大切である。
  • 80芦刈のシテが、ツレの前へ行き芦をさし出す所は何人がしても難かしい型だが、清尚も「ツレの前にて下に居面さげ芦をツレへ渡すやうに出し、ツレの面を見て芦をすて直くに作物の戸をあけ内へ入り戸をたてあぐらかき居る」と型附して、その次へ「此所仕舞にならざる様にすべき所也」と注意してゐる。仕舞にならざる様とは、自然にやれといふのであつて、所作が所作に見えてはならぬと戒めた訳である。ハツと驚く心持が見えねばならぬが、それが意図されてはイヤ味になるから、それを憂へたに外ならない。
  • 81天鼓のキリの型どころ「月にうそむきト空を見水に戯れト正面下を見てワキ正面の方へ面つかひ見波をうがちト下に居ながらワキ正面の下をすくひ上げるやうに三ツ四ツうがつ、水を両手にて上下へすくひかへす。月かげの浪にうつるをうがつ心」とある。終の月影の波にうつる云とは面白い。かういふ所に伝書の伝書たる面目があると言つてよい。この一行の句を味はふことによつて、天鼓の後シテの舞ひやうがハツキリと会得出来る。
  • 85初めの出から此処まで、次第くに昂奮して来る状態を表現するのが眼目でありまして、誘にしましても、型にしましても此心的経過が大切なので御座います。後シテは自分を理不尽にも殺した相手に崇をしようと思つて現れて出るのでありますから、初めから陰惨な気分で凄味十分に演ずるので御座います。然し注意せねばならないのは鬼では無いから荒くなつてはいけない、どこまでも陰惨な強味であると云ぶ事で御座います。
  • 87これから一節〳〵に区切つて謡ひながらお話いたしまして、且つ型どころもお目にかけます。ワキの次第からワキツレの布告まで。ワキは武将でありますから恰好は安宅のワキと同じであります。安宅は浅黄の切カネ文様の直垂長袴ですが、藤戸は黒地に鶴亀の小紋の直垂長袴で梨子打烏帽子に白鉢巻で従者ワキツレ二人を伴れて登場いたします。
  • 88道行の前に大小鼓の打切があります。何故此処で江切の手を打つかと申しますと、ワキは「只今入部仕り候」と達拝の型をいたします。この達拝の手を下す間を塡めるためと、次への気分を転換するためとに必要なので御座います。「藤戸に早く著きにけり」と謡ひ切つて、その、次に著ゼリつがあるべきですが、之は略して直ぐにワキはワキ座へ行つて床几にかけます。そして従者を呼んで入部の旨を布告させます。従者はこれを承けて常座へ行つて佐々木殿入部の由を布告します。(以上演奏)注意すべぎ謡ひ所「今日は日もよく候ほどに」以下を簡簞に謡ふ人もありますが、こゝは型もありますのでタツプリと議ひ納めます。納める場合には常の所よりも確かりと抑へめに謡ふのであります。ワキツレ「何事も訴訟あらんずる者は罷り出で、申し候へ」と軽い内にもオサメをつけることが肝要であります。
  • 92初同上歌まではシテの腹で謡ひ所謂腹で行く所でありますから、この点を特に御含み下さるやう申上でおきます。シテにこれと云ふ型はなく、極めて微細な面の扱ひ、心持だけで此老母のやる瀬ない心情を表現するところに能の真骨頂が存するので御座います。所作が無いと御覧になる方も気をゆるして謡本と首つ引が多いやうですがい何もせずに居る時ほどシテの苦心してゐることは無いのであります。シテは一所懸命になつてゐるのであります。腹で能を舞つてゐるので、一言一句もおろそかにして居りません。ヂツとしてゐるのは腹にウンと力を入れてゐるのであります。何もしてゐないシテをヂツト見究めて頂きたいのであります。(以上の所演奏)
  • 93この「二刀刺し」でその型をやるワキがありますが、これはシテとしては非常に邪魔になります。かう云ふ所でワキが派手な所作をするのはシテの領分侵害と言ふべきであり-ます。ワキの語は老母を慰める心がありますけれど弱くなつてはなりません。凛としてゐて、その中に同情の心持が含まれてゐる訳であります。単に強味だけでも勿論不完全であります。
  • 95–96こゝは藤戸一番中のやりにくい所で難かしい型があります。この型には色々ありますが、当流ではまづ三通ございます。泣いてゐる所までは同じですが、其一は—「杖柱とも頼みつる海士のこの世を去りぬれば」とシオつてゐた手を下しまして「亡き子と同じ道になして賜ばせ給へやと」で膝を打つと直ぐ立ち上つてワキへ突つかゝつて行きますが、気ばかりあせつても肝腎の足がもつれて膝をついてしまふと云ふ型であります。其二は—ワきへ真正面から突つかゝつて行つて、ワキに払はれて後へ退つて下に居る型であります。其三は―これは古い型附でありますが、上端を謡ひながら立ち上つてシオリの儘、一旦常座へくつろぎまして、「とてもの憂き身に」とワキを見こみ「亡き子と同じ道に」と両手をひろげながらワキへ摑かゝつて行く型であります。
  • 96規在では普通第一の方をいたしますが、これは一番難かしい型であります。何れの型をいたしましても「うつゝなき有様を」で下に居て双ジオリをいたしますが、これはワア〳〵泣く心であります。この所は型と謡とがピタリと呼吸を合せていきませんと、見てゐる者を感動さす訳には参りません。実に面倒千万な型所、謡所と申さねばなりません。その代り何人が見ても此所は印象に残るに相異ありません。
  • 99「水馴れ棹」とメラシ「さし引きて」は心持し「生死の海を」と以下気をかへてスラリと謡ひます。「彼の岸に到りいたりて」の初句は型があり足拍子がありますからノリよく謡はねばなりません。返句はノラズにタツプリと「到り〳〵て」とメラシてシメます。「得脱の」のハリは扱ひバリに謡ひます
  • 100型の説明 「たぶべきに」とワキへ二足ツメ「召されし事は馬にて海を渡すよりもこれぞ希代のためしなる」と杖をついてワキを見こみます。「さるにても」と正面へ直し胸杖して、前シテがワキに教へられて見た所と同じ所へ目をつけまして「我をもつれて行く波の」と常座まで行きますが、こゝはつれて行く波のと、連れられて行くやうな心持を表はす所で難かしいのです。「氷の如くなる」と次の型所ですが、これは二通ありまして、初めから刀を見るのと、「刀をぬいて」と一度刀をぬく型をしてから見込むのとあります。杖を刀の心で「刺し通し刺し通さるれば」と手を上げて左脇へ挟みこむ型をしますが、手首の加減が非常に難かしいのであります。二度目の刺す型が殊に面倒であります。二刀刺してしまふと同畤に「気も魂も消え〳〵と」とガクリとなる心持を表現せねばならぬから実に厄介千万な話です。おしまひまで杖を大事として舞ひますが、これがなか〳〵難かしいのであります。「そのまゝ海に」と三足下つて反りかへりをして下に居て地の「引く汐に」と立つて廻りながら「浮きぬ」と下に居り「沈みぬ」と立ち上ります。「岩の狭間に」は杖を肩にして下に居ります。替之型に杖を肩にしてシテ柱の方へ流れるのもあります。
  • 103能では井筒の作物を出します。囃子方地謡方が座りますと、後見が薄をつけた井筒を持出して来て舞台の正面先に据ゑます。見所から向つて右の方へ薄が立てゝありますが、時によつて反対に左側へつけることもあります。シテの好み次第となつて居りまして、左側へつけた時は後の「業平の面影」と井筒の中を覗く型が替となるので御座います。この簡単な井筒の作物が、いかにも曲の風情を添へてゐるのでありまして、今更ながら作者の偉さ、能の作物の重さに敬服させられるのであります。
  • 105他流では段唐織をツレに用ひる様でありますが、当流では絶対に用ひません。段唐織はシテに限ることになつて居ります。又下懸では襟は紅白を用ひて居ります。当流でも物によりまして白、紅、白とする場合があります。これを匂はすと申して居ります。幽玄の風情を尊み、気品を主とするのが当流の主張でありまして、派手な型や突つこんだ所作を致さないのが観世流の立前で御座います。キリの井筒を見こむ時にも静かに見こむのでありまして、他流に見うけます様に面を切つて井筒を覗くと云ふやうな事は絶対にないので御座います。かういふ点は流儀の謡を謡ひ、型を学ぶ上に於いて非常に重大なことであります。シテの次第は打切のあとを承けて、シツトリと優に淋しく謡つて、秋夜の寂莫さを表現する心でなくてはなりません。然し色入の著附をした若い女性でありますから、品よく淑やかな中にも優婉な風情を出さねば十分ではありません。サシは前をうけてシツトリメに粘らず、居つかずにスラリと謡ひます。次第でもサシでも仮名のならばよいやうに注意して、美しく荒びぬ扱ひが大切であります。上歌はのびやかにシツトリと謡ひます。「行方は西の山なれど眺めは四方の秋の空」と上を見る型がありまして「松の声のみ聞ゆれども」と松風の音を聞く心持をいたします。次の「嵐はいづくとも」では遠くの方を見つめる、心持がありますから、これらのシテの型を考へて謡はねばなりません。「何の音にか覚めてまし」と正面へ直しまして、見付柱の下の方に古塚がある心で、常座から二三足出て木の葉を下に置き合掌いたします。
  • 106平物の初同としてはシテに大切な型がありますので地謡の難かしい所であります。初同は地頭の腕の見せどころ、地謡の力量の知れる所でございます。総体的にはシツトリと粘らないでスラリと謡ひまして、この津々たる情趣を表現するのであります。初同は何の曲に限りませんが、重くてはなぢす、軽すぎてはゐけない、確かりと謡つてそしてスラリと運ぶので無くてはいけません。本三番目物の初同は殊にそれでないといけません。
  • 107「いつの名残なるらん」と足をネヂリまして「草茫々として」とワキ正面を遠く見廻し「露深々と」と面を少し下へつけて見廻しながら、「古塚の」と正面の古塚へ目をやります。そして「まことなる哉」と、正面へ直し左へ廻つて常座へ戻ります。この一段は最も大切な所でありまして此型を巧く演りますれば、まづ井筒は成功と云つても差支へないと思ひます。
  • 109中入の型は「いふや注連縄の」と常座へ行きまして正画へ二三足出て「井筒の陰にかくれけり」と退つて面を伏せ身を沈めます。物著の小書の時には型は写実になりますが、一度後見座にくつろぎましてから、作物の前へ出まして「井筒の陰にかくれけり」と井筒の前で踞まる型があります。そして中入せずに後見座で物著をいたします。この時は間語も待謡も省きまして直ぐに一声の囃子で謡ひ出すのであります。
  • 110「われ筒井筒の昔より」以下はウツキリと調子を稍ん張つて謡ひます。「形見の直衣身に触れて」は著てゐる長絹の袖を見入る型がありますから、その心持で型に調和するやうに謡はねばなりません。「恥かしや」以下はカラリと気を更へてスラリと運び次の序之舞にかゝる準備が必要であります。地の「雪を廻らす花の袖」は閑かに節をタツプリと謡つて序之舞の位に渡すのであります。
  • 111ワカは暢び〳〵と大きく謡ひます。ノリ地「寺井に澄める月ぞ」以下は前とは別にスラリと乗つて謡ひます。シテの「月やあらぬ」はノリを外して閑かに出て「つゝ井筒」は気をかへて下から出て閑かにノツて謡ひます。この「井筒にかけし」「まろがたけ」のシテの型は非常に面白いものであります。シテはツマミ扇をして下から土へ持つて行きます。これは、丈くらべ心持を見せるので、扇と自身とで業平と井筒の女との丈を象徴してゐると考へられます。「さながらみ見えし」と地は閑かにノリをつけてスラリつと運んで行きまして「冠直衣は女とも見えず男なりけり業平の面影」と大切な型になるので御座います。シテは作物の井筒に出まして、薄を押し分けて井筒の中を覗きこみ、昔を想ひ忍ぶところの後シテ唯一の型どころでありますから、地もその心でシテの型を生かすやうに謡はねばなりません。心持や気合の肝腎な所であります。シテはヂツクリと力を内にこめて美しく、品よく動くのであります。
  • 112「亡婦魄霊の姿は凋める花の色なうて匂残りて」はまた大切な難かしい型がありますから、地もその心得が要ります。このキリは一句〳〵にシテに型と心持がありますので、謡ひ方も大変難かしく、シテとしましても型をいかに扱ひこなすかに並々ならぬ苦心を払つて居るので御座います。シテ、地謡、囃子の三つが揃ひませんと、このキリは滅茶〳〵になつてしまひます。いかにシテ一人が一所懸命になりましても鼓や謡の方で心得がなければ問題になりません。「男なりけり業平の面影」の型は、薄が井筒の、左側につけてある時は、左袖を返して薄を押退けて見こみます。薄が右側にある時は扇で押退けて井筒の中を覗きますが、この型は後で扇の始末に誠に苦労するので御座います。私共はかういふ所で人に知れぬ余計な苦労をして居ります。
  • 113「亡婦魄霊の姿は」云々の型は、袖を捲いて双手を前へよせ肘をすぼめまして花の凋む心持を見せますが難かしい型であります。又「在原の寺の鐘も」と鐘を聞く型をいたしますが、面を僅につかつて心持するのですから、余程上手く行きませんと効果が挙がりません。次の「ほの〴〵と」へ四つ拍子を踏みます。どれは実に皮肉な型でございまして、何もこゝで拍子など踏まなくても宜い訳でありますのに、その皮肉な拍子を踏むことによつて却つて効果を生むので御座います。邪魔にならぬやうに踏んでそして感じを出さねばなりません。シテの技も難かしいが、舞台全体の空気がそれ以上に大切であります。
  • 126翁の中には両手で扇をオモテに翳し、天を仰ぐやうな型や、又少し前かゞみになつて礼をするやうなところがある。これなども、みな祈りであつて、腹中で右の由をとなへてゐるのである。かう云つたやうな心持で勤めるのであるから、翁の能を観られても、あすこの型が良かつたの、うまかつたのと讃められるやうでは不可いのではないかと思ふ。どこまでも神聖といふか、荘厳な趣の中に終らなければいけないと思ふ。それは前にも云つた通り、舞つてゐるには違ひないが、それをもう一歩超越したものが、翁の上には現れて出るものだからである。
  • 132烏帽子の落ちた場合でも「思へばこの鐘のうらめしやとて」の型は演ります。流儀の此の型は単に烏帽子をハネ落すと云ふ丈けでなく、それが立派な画面を構成して居ります。実に美しく様式化されて居ります。烏帽子をハネ落しながらクルリと廻つて、扇を逆手にして鐘を見込む、誰が考案した型か知りませんが、実に好い型附ですネ。
  • 135祈りで橋懸へ行き幕際で踏み留めるや否や――幕の方へ向いたまゝ――打杖で後へ払ふ型がある。これは「道成寺」の赤頭と「安達原」の黒頭・白頭の場合に限つて用ゐる替の型である。つまり前は行者留まりで進めない、しかも背後にはワキが追ひ迫つて来て居る。ふりかへつてワキを撃退する余裕がない、止むを得ず、打杖で後へ払ふと云ふわけであらう。この型をやるにはワキがよほどの足の達者なものでないといけない。さうでないと折角この型をやつても一向おもしろい効果を生まない。
  • 135–136「紅葉狩」や「土蜘」の後シテの退場法にはいろ〳〵あるが、流儀の正規の型は正面を向いて安坐して面を伏せたま、ジツとして居て、ワキが留拍子を踏み退場する時、ワキの後に従つて退場する行き方である。この外、斬られると直ぐに笛の横を逋つて切戸口から楽屋、へ退く型や、作り物の中に入つて作り物ごと退場する型などがある。然し能の精神から云つてもワキに続いて堂々と橋懸から退場するのが本当のやうに思はれる。「土蜘」のやうにワキヅレの居る場合には、ワキ、シテ、ワキヅレといふ順で退場する。これは土蜘の死骸を大勢で都へ引いて行くやうな趣があつて面白いと思ふ。「紅葉狩」の古い型附を見ると、「剣に怖れて巌へ登るを」の型を幕際でやる型がある。つまり揚幕を巌に見立てヽ、例の型をやり、「引き下し刺し通し」と安坐して斬られると、直ぐに立つて幕へ入いるのである。これも一寸おもしろい型だと思ふ。
  • 139宗家の伝書なるものは実に詳密なもので、しかも非常に芸術的なものである。伝書は私に能の型を伝へてくれるばかりでなく、能の精神を伝へてくれる。曲の内容とか情趣とかいふものに対する深い理解を与へてくれるのである。此の点では宗家の伝書といふものは弟子家に伝はる型附の無味乾燥なのとは全く天地雲泥の相違である。例へば「松風」の「松島や小島の海人の月にだに影を汲むこそ心あれ」の所に汐汲車にのせてある水桶に汐を汲み入れる型がある。型はたゞ扇を辞いて水を汲み桶の中へ注ぎ入れる事を二度くりかへす丈けの事であるが、こゝは家の伝書には実」に詳細な記載のある所である。
  • 140先づ最初に一つ汲みこむ。汐は未だ水桶に半分ばかりである。その中に清らかな月の影が映つて居る。これをジツと見て、二つ目を汲み入れる。汐があふれて桶の外へ流れ出る。月影が千々に砕けて流れる、その美しさにしばし見とれてゐるといふ心持だとある。それが実に美しく巧みに書き記されて居るのである。私は此の記載を読む度に詩的な感興に打たれる。これなどは確かに此処の型を教へてくれる丈けでなく、この場の情景といふか情調といふか、さういふものまでハツキリ呑み込ませてくれるのである。
  • 141現代の人達はやゝもすれば、流儀などと云ふ小さな殻を脱け出して、もつと自由な、公平な道を歩むのが芸術に対して最も忠実な態度であるかのやうに考へ勝ちである。例へば他流の型でも傑れたものは之れを自家の薬籠中に取り入れて一向差し支へない。それを流儀といふ観念に捉はれて敢行しないのは卑劣であるかの如く考へ、また此の自由主義的な考へに反対する者をひどく頑迷な没分暁漢のやうに考へる。流儀の型といふものは総べて流儀の主張で統一され、固定されて居るものである。即ち観世流の型は、みな観世流の主張に依つて統べられ、定められて居るのである。言ひかへれば流儀の型といふものは流是の具体化されたものなのである。然るに他流の型を取り来つて自流の型の中に嵌めこむが如きは、取りも直さす芸術としての統一を破壊し、邪道への第一歩を踏み出すものと言はねばならない。
  • 142イソツプに、烏が孔雀の羽の美しさを羨んで、孔雀の羽を一つ拾つて来て自分の身体に結びつけて得意になつて居たが誰れも見向かうともせず、却つて馬鹿な奴だと嘲笑したと云ふ話は私達に大きな暗示と反省とを与へるものである。他流の好い型を取り入れる事は全く此の愚なる烏の所行に類するもので、心ある者は必ずや其の愚昧を笑はずには居ないだらう。
  • 142抽象的な話でなく具体的な例を取つて話さう。片山家の二代目に幽室といふ人かあつた。芸の達者な人だつたらしいが、この人の型附が関西地方には随分広く流布して居る。いま坊間に流布して居る(能楽蘊奥集)なるものは実にこの幽室の型附なのであるが、この型附の巻頭に数ケ条の遺訓がある。その中に「他流の型といへども、好きはこれを用ふべし」といふ意味の事歩書いてある。この一句がどれほど害毒を流したかは正に想像以上であらう。この為に関西の観世流といふものは全く滅茶苦茶に混乱してしまつた。十数年以前の京阪地方の観世流の能を見られた人は思ひ当る所があらうが、実に珍型続出噴飯に堪えないものがあつた。これは偏へに幽室の「他流の型といへども、よきはこれを用ふべし」の一言に災されたものであると思ふ。
  • 208伴馬さんは愛想よく迎へてくれて、さて、この間の蟬丸を拝見した、位なり、型なり結構のやうに思ふが、たつた一つ足の運びが十分で無い、御流儀の足はあゝでは無い筈だ、も少し和らかな所がなくては……と云ふ意味のことを親切に教へてくれられた。私はこの時の伴馬さんの忠告を忘れない。
  • 250自分が殆んど自得してこさへ上げた芸でしたが、お弟子の稽古は懇切丁寧を極めたものでした。型と心持の連絡といふことを、実に巧い工合に教へました。私など傍で見てゐて何時も感心したものです。京都では六歳の六月の六日に、稽古始をすると、芸が上達するといふ慣習がありまして、その日には幼い子供が多勢お稽古に来ます。その小さい子供を二十人位一団にして、自分は坐つた儘で教へるのです。それが左ギツチョで教へるので、子供には大変よく分ると見え、六つやそこらの小さい子供がよく覚えます。祖母の教へ方の上手いのには皆がいつも感心しました。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第一』(1934)
  • 2オ黒人の修業は、どうしても十歳未満の頃から此道に入つて、朝に晩に稽古を励まなければならない。これ古来の慣例である。十歳未満ぢや、どんなに教へたつて立派な芸は出来やう筈はないが、それは土台を築くのであろて、それから十七八歳の頃までには一通りの謡を終へて、型や四拍子の心得も多少出来て居らねばならぬ。
  • 3ウ美声は寧ろ危険 これと反対に昔から、美音家といばれる人で、謡にも型にも達した人は先づ少ない。声がよくて芸が達者なら、それこそ鬼に金棒で此上もないが、如何してかさう云ふ人は極めて少い。つまり斯う云ふ人は自分の美声を頼みにするから、芸に身を入れないからであらう。
  • 6オ心持表現の程度 先日某所で、「心持」といふことに就いて話があつたが、能や謡に於ける心持といふものは、其流儀に依つて之を表はす程度が違つて居るかも知れない。型や拍子を主とする流儀、心持ちを主とする流儀と、この二つに区分することが出来るかも知れない。何処の流儀でも心持を離れて芸をしろとは無論云ひはしないが、これを表はす上に於ては、流儀の主張上必ずしも各流同じとは云へまいと思ふ。
  • 6ウ近来お素人方で、能や謡の中の彼処の心持はどうの、此処は如何のと仰つしゃる方が多い。従つて能を見ても矢張りそんなことをいふ人が多くなつて来たやうである。能を見る人が心持をうるさく云ふやうになつて来たことは、斯道の為に果して喜ぶべきことであるかといふに、私は寧ろ能楽の為には斯ういふ要求の多くなつたことを悲しむものである。固より能には心持は大事だ。大事だけれども、心持以外に見どころのない芸ではない。能は元来型ものであつて、拍子と謡とを結びつけた其処から芸術といふ響きが出て来る。其響きが心持ちとなつて表はれて来るのである。
  • 6ウ何にしても能楽といふのは、古来一定された型や拍子によつて演ずるものであつて、芝居の如くに時の演者の技倆や考へを以て「今度は此処を斯うして見よう」といふやうなことは許さない。飽く迄流儀に伝はる処を以て堅実に之を演じ、流儀の定むる型や間拍子と、寸毫の差なきを以つて無難な出来とするのである。
  • 7オ節から響き型から湧く自然の心持 当流の主張としては、謡でも能でもその心持の表はし方や緩急などが、不自然になることを最も嫌ふのである。芸の未熟な者が、此処は斯ういふ心持、此処からは急になる処だ、などとその処に至つて急にその通りにする時は、頗る不自然な所謂木に竹をついだやうなものになつてしまふ。さういふことは一切考へずに、只順々に順序を踏んで稽古して行けば、謡や型や拍子の関係も自づとわかり、心持も自然に其処に出て来る。それを心持として、舞ひ且つ謡ふべきである。心持は節や拍子の間から自然に発散するのだから、夢にも付け匂ひの心持などをすべきではない。(大正四年三月)
  • 7オ花は始めから匂ひを出さうと思つて開くのではあるまい。開かうとする時に、他から匂ひを附けて行くものでもない。小さい蕾が所謂雨露の恵みを受け、相当の日がらを経て花も咲き匂も発する。それと同じに、声も練磨され、曲節にも達し拍子にも通じ、型も円熟して来さへすれば、心持や位と云ふものは其処からひとりで出てくるのである。其自然の心持でなければ、当流では能や謡に於ける心持とは云ひたくはないのである。
  • 7ウ先づ一定の型に 宝生流の能はいつ見ても珍らしい変はつた型はなく、鋳型に鋳込んだ様で面白くない、と批難する人がある。斯う見られゝば私の本望である。
  • 8オ若いうちといふものは、目先の変はつた新らしいものを、得て喜ぶものだから、替の型などは最も演じて見たいであらう。又見物の方から云つても、同じ曲よりも珍らしいものを希望するであらう。けれども一通りの事も覚え込まないうちに、替の型だ珍らしい曲だと云つて居たら、芸は其時々の借り物で、決して自分の身には芸が付かないものである。借り着の着物は、ゆき、丈けの合はぬのは寧ろ当然である。少々位お粗末でも、チヤンと自分の身に合つた着物の方が着心持もよければ、人の見た目も却つて立派である。
  • 8オ当流の若い者は、何れも年輩が年輩であるから、まだ決して鋳型を脱して居ないのは、人さんのいふ通りであるし、又仮りに世間の人が口を極めて面白くないとおつしやつても、流儀に於ては型でも謡でも、その定まりを破つたり、無闇に替えをしたりすることは一切しないつもりである。又歩む可き道を歩ませない中に、年輩不相応な術をさせる様な事も、断然しないつもりである。けれども年輩も相当に芸も上達した暁には、又それ〴〵の仕込方がある。(明治四十五年三月)
  • 8オ–8ウ十番の速成よりも一番の完成 当流では、沢山の能を早く仕込んで、早く間に合はせると云ふのは大の禁物で、十番の能を好い加減に修業させるよりも。一二番の能を充分に仕込んでやると云ふ方針であるから、一通りの事をも弁へぬ者に、替の形などを演じさせるやうなことはして居ない、尤も替の形でなくても、其曲によつては、曲中に二通り又は三通り四通りの型のあるものもあるから、これ等は其時の番組の配置上、同じやうな型の重なる場合には、其れを避ける為めに、甲若しくは乙の型を取る事はある。「留め」などもさうで、橋掛りで留める曲が続く時は、一方は舞台で留める。舞台での留めが続けば、一方は橋掛りで留めると云ふ風に、自由のきく曲もあるから、それ等は臨機応変で、一番の能一日の能全体から観て時に替の型をするのである。これは習ひ・替え・小習ひではなく、珍らしい型と云ふ可きものでもない。
  • 9オ其結果、型は一寸器用に出来ても重みがなかつたり、拍子は半の間に踏んだりする。現に流儀のお素人で、鼓も能もなさる人ですら、楽などは満足に行かぬことがある。
  • 9ウ観世流近代の名人といはれた清又五郎は、性来の不器用に加へて調子が悪るく、能をしても形は非常に拙づかつたのであるが、終には名人と称されるまでに至つた。昔当流の弟子に矢田八郎左衛門といふのがあつた。これも不器用な上に猫背であつたが、若い時から謡にも能にも熱心であつた。けれども如何せん猫背では、芸に熱心なだけでは、その不ざまな姿は直らない、熱心に稽古すればするほど、傍の見る目が不憫なので、時の大夫丹次郎(金剛家から養子に来た人で、名人丹次郎と呼ばれた人)は、ある時矢田に向ひ、「謡はとも角、型の方は将来の見込が立たないから、一層その稽古の精力を謡だけに集注してはどうか。」と親切に言つて聞かした。矢田はこれ聴いて非常に悲み、如何にもして一ぱしの能役者になりたい、型がなくては一人前とはいはれない、のみならず矢田といふ古い家に対して相済まぬ、と自らこれを深く心に誓つた。
  • 10ウ一番は勿論、本なしであつたら、小謡一番満足に謡へる人は、まアないといつてもよからう。況して型に至つては、東北のクセ、羽衣のキリなどの最も初心の人の舞ふものですら、満足に舞ひ得る人は、他流は知らず、私の流儀には殆とないのである。
  • 11ウ宝生会の方は、私が番組を定めるのだから、同じものが去年も今年も出たと云ふ事は知らないではない。これには多少の理由があるのである。お素人の能を見る目と、我々が其の弟子共の能を見る目とは、多くの場合非常な違ひがあつて、所謂お素人考へと、吾々の考へと違ふことは、毎々申述べてある通りで、お素人に褒められたときでも、私の目から見れば、又演り損じたナ、と思ふ事が度々あるのである。私の所論としては寧ろ型に当てはめた様にキチンと立派に行けばよいのであるが、中々私の望み通りに行かない事がある。
  • 12ウサ行とタ行と 前項の「シェ」は、今日では特種の発音法ともいへるが、謡といふものはすべての発音に深き注意を払はねばならぬもので、昔から名人上手といはれた人は、皆発音には深き注意を払ひ、その一音一節もゆるがせにしなかつたものである。私などの年になつて、且つ総入歯同様になると、殊にサ・シ・ツなどの発音には大に苦心する。故梅若実なども、「ツ」の音がむづかしいといつて居たこともあつた。老年になると、型の上ばかりでなく、謡の上にも義歯などの関係で、よけいの苦労をしなければならない。が前項の「セ」は年との関係ではなく、流義古来の定めである。(明治四十四年六月)
  • 16ウ洗練されし型と謡 葛野市郎兵衛が、安政の頃に将棋の話をした時に、「昔の人よりも今の人の方が駒のつかひ方が巧みになつた」といつてゐた。その話で思ひ出されるのだが、能楽も昔の人は芸は勝れて居たには相違ないが、型附や謡本を見ると、昔に溯るほど無理があるやうに思ふ。それは当然なことで、創成当時から今日のやうに完全したものではなく、先祖以来、子々孫々が伝承して、親が開き子が開き、洗練を重ねられて、型・謡・拍子等も無理は少くなつたのである。けれども今でも中には拍子の配りなど、少々無理だな、と思ふところもある。けれどもこれは何故に故人はそのまゝに残しておいたかを十二分に考察しなければならない。さう斯うして研究を重ねて見ると、ハタと按を打ろことがある。其無理が却つて曲中の山になつてることもあれば、それほどでなくても一種の妙味を与へる急所になつてゐるところなどもある。それだから、お素人方などの容嘴を許さないのである。
  • 16ウ私の代になつてからも、謡や型に改めたところもある。芦刈の「つれ〴〵もなき……」の片地などはその一例である。こゝは維新前には無理に本地の配りに押しつけて謡つたものであるが、それでは一尺のところヘ一尺五寸のものを無理にはめ込んだやうなもので、誠に無理である。(明治四十五年七月)
  • 17オ替の型と小習の事 対手との関係 替の型や小習は、近年一種の流行の如くになつて、月並の催しなどにもザラに出る様であるが、私の方では滅多に之を出さない。それには色々理由がある。小習ひ物には色々ある。一月十七日に政吉に勤めさした融の笏舞のやうに、囃子方と極密接な関係を有するものもあるから、当日になつて囃子方が代るやうなことがあつては、迪もほんとの呼吸には行くものではない。それが不安では斯ういふ小書物は出したくとも出せない。皆さんもおわかりだらうが、月並能などは囃子方の掛け持ちが多いから、マア番組通りの役割りの囃子方が揃はないと見た方がよい。さうなると、月並能には先づ小書き物を出さないのが一番安全である。
  • 17オ小書濫発を忌む お素人方は、何でも変はつたものさへ見れば喝釆するが、吾々の立場からいへば、常の型も満足に出来ない者に、替の形や小書きの型が出来やう筈がない。芸も固まり多少見識も出て来た者になら、其力に応じて替の形や小書きものを勤めさしても毒にはならないが、未熟な者に勤めさしては、芸を乱す基になる。小書や替の型を濫発したら、必ずお素人方が喜んでくれる。本人も自然その気になつて、今度は一つ廻る処を三つ廻つて見る。常の型にない処を飛んで見る。と云ふやうなことを演るといふやうな事が必ず出てくる。それでは能から一歩踏み外づしたものになることは、火を見るより明らかである。
  • 17オ番組に由る替の型 其日の番組に舞ひ物がない時に、百万、桜川、源氏供養の類を「舞入」にするとか、又脇能加茂があり、留めに鵜飼があつて赤頭が重さなる時は、鵜飼の方を黒頭(替の形)にするとか、加茂と野守の時に野守を白頭(小書)にするとかいふやうなことは、番組によつては例会でも之を演るのである。
  • 17ウ堕落せる替の型 今日ではさうでもなからうが、先年西京のある舞台で、ある人が「藤戸」を勤めた時、其中入に狂言に送られて入る時、シテ柱の処迄来ると、一寸足を留め、ワキ座を振り返へつて、其処で一つ見えをした。随分思ひ切つたことをしたものだと思つてる間もあらばこそ、割れるばかりの拍手喝釆。飽く迄もお目出度いことだつた。斯うなつては、能の趣味と云ふものは何処にあるかと云ひたい。これなどは俗に媚びる結果であつて、能としては何と評してよいであらうか。この種の替の形が盛んに行はれたら、能は俗世間には広まるかは知らないが、手踊りや何ぞと撰ぶ所がなくなり、却つてそれらの通俗舞踊に蹴落されて、終に能楽といふものは滅亡してしまふであらう。(大正三年一月)
  • 17ウ–18オ時流圏外芸事に関して素人方が口を出すのを時々耳にする。「彼処の型は斯うがよい」とか「此処の節はそれではいかん」などといふのは、誠によくない事である。それにもかゝはらず、その言に盲従する専門家があるとしたら、少くとも私は、以ての外だといひたい。新派の芝居や浪花節などの如くに、つひ近年生れた芸ならば、未だ〳〵改めたり直したりする余地は沢山あるだらうけれども、わが能楽は創成時代から六百年といふ長い年月を経てゐる。その六百年の間には、われ〳〵の先祖が練りに練り、鍛へに鍛へ来つたもので、型でも節でも、五年十年のお慰み稽古をしたお素人に、何で改訂する余地が見出せよう。それ等のお素人の眼や耳には、その稽古を標準とした改訂余地は映るのであらうけれども、それが芸術としての能楽の真随に触れやう筈がない。一歩譲つて触れるものがあるとしても、原の型や原の節に潜むところの芸術味と、それから拍子や狂言、脇に対する関係等を、逐一精査して見たら、決して迂濶に訂正などが出来るものではない。(大正三年一月)
  • 18オ此点に就いては毎度私の云ふ通り、当流では昔から定まつてる型以外には、決して勝手な事を許さない。狐が飛び上つたり何ぞするやうなことを演じたら、お素人は大に満足するかも知れないが、当流には無論さう云ふ型もなし、さう云ふ風な行方を歓迎する人を標準として能をする事は断然しないつもりである。
  • 18オ–18ウ世の中が一般に、露骨な表情や派手な型でなければ観たやうな感じがしない、と云ふ風な傾向になつて来たのかも知れない。若しさうとして、これ等の俗受けを目的にして能をするやうになつたら、能と云ふものは生命を断たれたも同然であつて、能の型をしながら芝居になる。能と云ふものは、飽く迄も昔の型を守つて行く処に価値があるものと思ふ。(大正四年六月)
  • 18ウ処が各流の謡や型や間拍子が定まつては居りながら、扨舞台に出て見ると、中々うまく行くものではない。何処かにアラが出易いものである。其処で催しの前に各役の者が申合せをする必要が起つて来る。尤もいつも出る曲などは、別に申合せをする必要もないやうなものゝ、不時の出来事もないとは限らないから、厳密に申合せをするのが本式である。
野上豊一郎編『謡曲芸術』(1936)
  • 200クセは、一曲の中心、一番の要であつて、最も肝腎な謡ひ処である。一段グセ、二段グセ、片グセなどあるが、こゝに掲げた神舞物は、みな一段グセの剛吟である。節扱ひも剛吟が一等難かしいもので、剛吟のクセを立派に謡ひこなしたら、その人はもう卒業で、立派なものと言つてよい。脇能のクセは、居グセでシテは別に型がなく、全くの謡を聴く処である。だから余程シツカリと上手に謡はぬと、聞き辛いことになる。但、「高砂」は上ゲ端すぎてかち、シテに型がある。又「養老」には、このクセが全然ない。
  • 211「絵馬」は、前の三番に比べて、余程本格的な構成をもつている。前シテは尉で、姥をつれて真ノ一声で出て来る。そして文章も明瞭に聖代を寿いでいるが、クセを柔吟とし、後シテを女性の神体としたゝめに、大変違つて来るのである。後シテは中之舞をまひ、ツレの方が男性の神体で、急之舞を舞ふことになつている。そしてツレが今一人出て、これは天女舞を舞ふ。但この後ツレは二人とも、謡は一句もない、型だけである。
  • 218又同じく修羅能の中でも「巴」はその主人公が女性であるから、多少趣を異にしているやうだが、しかし、その一曲の構成からいつても純粋の修羅能であつて、男の武者とちつとも異るところがない、従つて三番目物即ち葛物の女性とは厳密に区別さるべきである。又「朝長」は御承知の通り、前は、現実の女性であつて、青墓の長者が、朝長の墓へ参詣し、ゆかりあるワキ僧と朝長の事を語り、我家へその僧を招くといふのであるが、これは、修羅能の行き方としてはまるで型外れで、他の一般の修羅能とは一つには出来ない。しかし後半は全く修羅能の型式を踏んでをることではあり、現在では純粋の修羅能として演じられてをる。
  • 220カケリは、「角田川」のやうな狂女物にもあれば、又「正尊」のやうな現在物、「善知鳥」のやうな怨霊物にもあつて、それ〲その物次第で囃す手も違ひ、型も異なつているが、修羅物のカケリは、現在物の如く、現に太刀打するところを見せるのでなく、霊がその生前の太刀打を舞ふて見せるのであるから、そこによほど醇化されたところがなければならない。従つてカケリの時のシテ方と囃子方との関聯は、現在物のカケリなどと比較すれば、よほどピツタリとしたところがあるべき筈である。
  • 226後ジテの出は、大抵一声であるが、後ジテの出の一声は、前ジテの出の一声とは、型も囃子も違ふところがある。前ジテの出の一声は片越、又は不越の一声、又「踏みとめる一声」といひ、後ジテの出は本越の一声又は「開いてとめる一声」といふ。一声の中の「越の段」といふのがいろ〱囃子に変化があつて、それによつて型にも違ひが多少出来るのである。
  • 228クセは修羅能では、殆んど皆後にある。そして大抵クリ、サシの順序を踏んでクセとなるのであるが、概していへばサラリと手強くといふ以外難しい注文はない。しかし「実盛」などの如く、床几にかかつたまゝ、型のあるものは、謡ふ方でもかなり心しなければならぬ。
  • 229これはひとり足拍子に限つたことではなく、謡ひ方にも同様な事がいへるのであるが、しかし、修羅物の謡ひ方の概要はあくまで上述の如くであつて、その根本は断じて変らない。例へば「清経」に「恋の音取」といふ小書がつき、又「朝長」に「懺法」といふ小書がついてこの道の大事となり、位が非常に重くならうとも、修羅能は依然修羅能であつて、たとへ全体に又は一部分に型や謡ひ方又内面的な心持の変化があつても、謡ふ根本の性根は変らないのである。「顔持ち、正体に、強々として、身なりすく〱と」(金春禅鳳)すべきである如く謡ひ方もサラリと手強く、すく〱と淀まず謡ふがいゝのである。
  • 229こゝの同吟は、その前に大きくシツカリと謡ふシテの語りがあり、続いて気のかゝつた掛合となつて、「互ひにえいやと引く力に」と手強くかかつて謡ふのを隙さず受けて「鉢附の」となるのであるが、こゝは所謂錣引といつて、最も大切な型どころであり、緩急も頗る多いので、謡ふのもかなり骨が折れるところである。
  • 244二の松のところが中々苦しく、一の松までくると更に苦しい。又後見座の前を歩むところが妙に歩きにくいものである。観衆の中で、こんなところまで気をつけて観ている人はないかも知れないが、演じている当人にとつては中々どうして大変なのである。突込んだ型をやるところや、心持を謡ふところなどは、右の苦労に比べれば何でもない。
  • 247クリは、三番目物にあつては、あまり調子が高くならぬやうに注意し、サシは運ぶやうに、しかしシツポリとした気持を離れぬやう、クセになつてはその曲柄にもよることであるが、概して閑かに、位を失はぬやう、しかし、居着かぬやう謡ふのである。尤も「居クセ」と「舞クセ」によつて、相違のあることはいふまでもない。「半蔀」や「松風」は舞クセであるから、型によつて多少とも緩急も心持もあるわけである。そして三番目の本当の位で謡ふのである。但し、「松風」は上羽前は床几にかゝつていての型であるが、それだけ、謡の方は客易でなく、第一品よく優美に謡はねば、床几の型と調和しない。「井筒」や「定家」のやうな居クセ(三番目物の居クセは少い)はシテに何の型もないのだから、ラクなやうだが、しかし又謡だけで聴かせ、舞台を引きしめてゆくといふのだから、更に容易でないともいへる。だれぬやう、運びをつけて謡ひ、それで十分優美な気分を出さねばならぬ。要するに、大少の鼓と謡とで緊張させ、満足せしめるやう、謡ひ囃すべきである。
  • 251序の舞すんで、「実相無漏の大海に」をシツカリと謡ひ、漸次呼吸を押し詰めて来て「あらよしなや」で一段落となる。この間は舞の型も頗る多く、謡も大ノリの事であり、引立てゝ調子よく謡ひ進むのである。
  • 252「江口」から見ると、「野宮」の如きはまだしも心持も多く、型も多く、謡ひどころも多いだけ、却てラクかも知れない。少くともやり映えがする。むろん「野宮」も至難の曲であるが、第一性根に於ても掴み易いところがあるので、焦点がハツキリしている。又閑かなうちにも恋慕、嫉妬の情を湛えて、情切なるところもあり、又強くかゝつて行くところもあつて、変化がある。
  • 256クセは閑かに上品に謡ふ。「かけてぞ頼む」までは床几にかゝつての型であるが、こゝから立つて舞ふのである。このあといろ〱型もあり謡にも心持が要る。「三瀬川」以下は、十分静めて謡ふが、次いで「あらうれしやあれに」以下は気をかへ、かなり張つて謡ふ、このところシテには一種の狂乱の心持がある。シテとツレとの掛け合ひは、だから、かなり外へ張つて謡ふので、それがだん〱押されて行つて、「立ちわかれ」で一段落となる。「いざ立寄りて、磯馴松の懐かしや」のところは恋慕の情切なる趣を描き出すのであつて、型にも突込んだところがあり、謡ひ方にも心持がなくてはならぬ。次に破の舞があつてそのあとキリとなるが、「暇申して」のところで十分鎮め、以下型に応じて、心持をつけて謡ふ。余韻なくては叶はぬ。
  • 262前段は心淋しきを旨とし、もとよりごく閑かでなければならぬ。ワキとシテとの問答のうち「偽のなき世なりけり神無月」のところは、時雨の音を耳にしたかと怪しまれるやうに謡ふ。初同はごく抑へて謡ひ、「庭も籬も」のところ緩急もあり、心持もあるところ、型もむつかしい。中入前については既に前に述べたと思ふが、この曲第一の難所で、謡としても大変なところである。よく〱注意して謡はねばならぬ。後ジテは、老女物へ一歩踏み出したもので、それだけやりにくく、表現の程度も難しい。
  • 267「三井寺」は文章も瑰麗で、節付も変化があり型もうまくついている。謡ひどころ、聴きどころの多い曲として、持て囃されるだけに一面また難かしいと言へる。前シテは愛子の行へを心配して、ひたすら観世音の仏前に祈誓を籠める母親で、まだ些しも狂はない物静な淋しいところのあるシテだから、そのつもりでシツトリと、敬虔の念を持つて謡はねばならぬ。然し、それかと言つて声調が低すぎて、他へよく聴きとれないのは勿論いけない。
  • 268後も前も扮装は「三井寺」と同じだが、笹の替に美しい網を持つて出るのが異なつている。型も謡も徹頭徹尾桜花を中心として、麗はしく長閑に、いかにも春の物狂といふ感じがハツキリしている。謡ひ方も即ちそれを旨としてよい。
  • 270都鳥の一段は、このシテとしての唯一の狂ひがゝりとも言ふべく、前半中の妙処でもあるが、緩急、抑揚の多い扱ひで、かういふ箇所は、能を見て十分にシテの型なり、心持なりを味はゝぬと、会得は難かしい。落着いて、あせらずに、しかも引立てゝ運びよく謡ふのである。師伝によらねば完きを得ない難処である。
  • 273前は静に優雅の風情を旨とし、文は虔しみ懐かしむ心で読む、しかもスラリと居つかぬやうに謡ふ。中入は形見を抱いて里へかへる処であるから、静に情味シツトリと謡はねばならぬ。後は、爽やかに美しく、総体に気品を忘れぬやう、それ〲の心持を謡ひ、クセは抑揚緩急に心して、幽玄の情趣を表はすのである。此クセは相当に骨の折れるクセで、シテに難かしい型があり、心持もさま〲である。
  • 288地は、シテとワキの型を考へて、サラリと運ぶうちにも、シツトリとした心持が要る。「総じてこの粟と申すものは」の一章は、自からの境涯を述懐するのだから、閑かに、しかも重くれぬやうに、確かりと謡ふ。こゝは心持は十分に、それを腹に蔵めて、表面へ露骨に出さずに、シツカリと扱はねばならない。その句々の持つ情意による、気分の変化が大切である。
  • 288「捨人のための鉢木、切るとてもよしや惜しからじと」から、クセへかけての謡ひ処はシテに、鉢木を伐る大切な型のあること故、謡ひ方もそれをよく心得て扱ふがよい。この一段は、鉢木一番の謡ひ処で、節附も面白く出来ているが、何しろシテは、秘蔵の鉢木を焚木にするので、そこに愛著の心があり、型にも面をクモラスなどの、細かい所作があるから、そのつもりで謡はねばならぬ。
  • 289後シテの出は、かなり長い詞であるから、ダレヌやう気をつける。また、気がかゝり過ぎて、騒々しくなつてもいけない。大きく、シツカリと扱ひ、緩急抑揚の妙を見せねばならぬ。こゝの詞には、重ねの詞が多い。例へば思ひ思ひの、飼ひに飼うたる、打ち連れ打ち連れ、等である。これらはみな前と後が、同じ扱ひにならぬやう、或ひは大きく、或ひは小さく、或ひは伸ばし、或ひは縮める工夫を要する。同じ言葉を、或ひは同じ型を、続ける時は、それが同じ扱ひになつてはならぬ。「打てどもあふれども」の一節は、シテに馬を駆る型があり、鞭を振るふから、そのつもりで謡ふ。
  • 292起請文の謡ひ方は、こゝには説かないが、これは特に拍子あたりなどの、面倒な関係があつて、師に就て十分なる稽古を積むことによつて、その真諦が会得されよう。後シテは、手強く、こと〱しく扱ひ、キリのところは、烈しくかゝつて謡ふ。こゝはワキ、ツレ、シテが、舞台で太刀打をする処だから、その型に合せて、それを生かすやうに、緩急よくシツカリと謡はねばならぬ。
  • 302「山姥」は、現実の鬼女ではあるが、兇悪なところはなく、凄味はあるがどこか人間らしさも持つているといふ不思議な存在で、且つ老いたる鬼女でもあり、誠に捕捉し難く、位取りもむつかしい。内容は象徴的で、切能としては珍らしく深みのあるものである。手強く謡ふけれど、サラリとは扱へない。型にも謡にも難所が頗る多い。クセの中でも、「金輪際に及べり」のところなど、いくらでも深い表現が出来る筈である。謡ひ方も一々挙げては言ひ難い。
  • 303前段優雅に居着かず謡ふのだが、早く既に鵜使ひの亡霊であることをワキ僧に告げているのであるから、鵜の段など緩急もあり、型も謡も面白く出来ているが、その点心せねばあまりに浅いものになつてしまふ。後は最初シツカリめに、ロンギは気をかへてサラリと、キリはかゝりめにキビ〱と謡ふ。キリはどの曲でも大抵さうだが大鼓の間(上の句)は乗り気味に、小鼓の間(下の句)はサラツと軽く捨て気味に謡ふがいゝ。
  • 304「殺生石」は、重くれず幾分陽気なのがいゝ。前ジテも妖艶の趣あるべきであるが、「紅葉狩」の如き現在物でないだけに、そこに心持の違ふところがあるわけで、又後ジテは現実の兇悪さでなく、昔語の中の悪業である故、そこにも差異がある。ワキは、曲の位は重いものではないが、名ある僧である故、落ついてシツカリ謡ふ。待謡の後の喝、(「汝元来殺生石」以下)は心持が要るであらう。シテの呼びかけや、クセのところは、謡つてそこに多少とも妖気の漂ふやうであれば成功である。キリは型多く、謡又ノリよく型と併行して謡はれねばならぬ。
  • 305天狗物即大ベシ物は、切能の中の一つの立派な存在である。天狗物の前ジテは必ず直面の山伏姿であり、ワキは必ず大口僧ときまつている。後ジテはむろん大癋見に狩衣・半切の装束で、大ベシといふ非常に静かな力強い囃子によつてノツシ〱と登場してくるのである。(喜多流だけにある「葛城天狗」といふ曲は、一寸右の型には、はまらない天狗物であるが、これは廃曲になつたと聞いている)天狗物はすべて豪壮で、拘泥のない線の非常に太い一本筋のところが特色であつて、ドツシリと構へて謡ふことが何より必要である。
  • 308「春日竜神」は太い線で手強く、規模雄大に取扱ふがいゝ。特に後段に於て然りとする。。「海人」は前の「玉の段」が主眼で、又謡ひどころでもある。あまり重くならぬやう、しかし強みに、緩急よろしく謡ふ。玉の段がすんで、「かくて浮みは出でたれども」のところ、能であれば、シテはかなり激しい型を続けたあとなので、随分苦しいところである。そこを又あとすぐごく静かに謡はねばならぬ故、ラクでない。しかもその謡ひどころ相当分量があるのだから大変である。「母蜑人の幽霊よ」の地渡し、真情を以て心を打つところで、静かに心をこめて謡ひ、地は又これを十分抑へて受ける。後段は強く乗つて謡ふ。「熊坂」は、熊坂長範といふ盗賊が、稀代の大盗賊である故、剛腹な、ドツシリしたところがなければならぬが、しかし又所謂幽霊能であるから、その強剛な、太い線の中にもどこか物淋しい、殊勝な心持がありたい。前段に於て特にさうである。「打物業にて叶ふまじ」以下は型もいろ〱あり、謡も変化があつて、面白い代りに、相当厄介である。
  • 309「融」は快適な非常によく出来た能である。閑かに品よく、まことに趣の深いもので、謡つていても舞つていても、おのづから感興の乗つてくる曲である。「詠めやるそなたの空は白雲の」以下のロンギは、景情兼ね備はる面白いところで、のどかにスツキリと謡ふ。後のロンギの「あら面白の遊楽や」以下のところは型の多いところである故、乗つて美しく謡ふがいゝ。
  • 313ではどういふ風に難しくなつて来たかといふに、─型の事にはこゝでは触れないが、謡といふ点からばかりで言つても、流儀流儀で声の調子が違ふ。発声の方法が流儀によつて違ふのである。上掛と下掛とは勿論同じでない。同じ上掛でも、観世流と宝生流とでは、格段の隔たりがある。ワキ方としては、それらいろ〱違つた流儀のシテ方のお相手をして、それ〲調和のとれるやうに謡はねばならない。しかも自分の流儀の謡ひ方を歪曲することは、もとより些かなりとも許さるべきでないし、又不可能である。
  • 315この事は型についても同様である。例へばユウケンとか左右とかいふ舞の手がワキにもあるけれど、ワキはなるべくそれらを舞らしくなくしなければならぬ。舞らしく動作すれば、艶がつくからである。尤もワキ方にも仕舞と称しているものがありはするが、(例へば、「鷺」「羅生門」「大蛇」「春栄」など)それらは本当は仕舞でなくて、型なのである。ワキといふものの能楽に於ける演伎者としての位置は、この辺からも興味深い問題が導き出されさうに思はれる。
  • 318「翁附開口」といつて例へばその日の演能が「翁附開口」、「高砂」、「八島」、「羽衣」、「蘆刈」、「船弁慶」といつた順序で行はれるとすると、先づ「翁」があり、(三日間続けてお能があるとすればその「翁」にも初日の式、二日目の式、三日目の式等、毎日多少文句にも型にも又装束にも変化がある)、それに続いて狂言の方にて「三番叟」があり、並びに「何々風流」と称して、狂言で能の真似のやうな演伎をする事がある。そのあとワキが出て、その時の新作の祝言謡を謡ふのである。それから「高砂」以下の演能があるといふ順序である。
  • 329シテやツレなどの相手のある時の外は、場合によれば、十分に謡ひ廻すこともあり得る。本来花やかに謡つてはならぬ役柄であるが、全然例外がないわけではない。しかしそれも内に、能ふ限り艶消しに謡ふのが本当である。型に於ても同様で、シテが動作している時はワキは動作しないのがいゝのである。尤もシテとの応待上動作しなければならぬ場合もあるが、そんな時は出来るだけ内輪に、外に出さぬやう動作するのが必要である。地方に行くと、当流儀の人の中にも徃々にして、なすべからざる動作をし、シテの邪魔になるやうな事があるやうに聞いている。これは技倆の不足をみづから裏書しているやうなもので、つまり内輪にやつていたのでは持堪えられず、誇張した不要な動作をするといふことにもなるのである。技倆進めば、型は多くとも外に出さぬやうになるものである。「檀風」や「谷行」や「羅生門」のやうなシテの演技の少いものになると、ワキはシテとの応待といふものが非常に少いからして、種々型も多いわけで、これらの曲はそこに一種特別の能の境地を持つているといふ事が出来る。ワキ方にとつて重要視されるのもつまりその辺の消息によるのである。
  • 334能の時には、何といつても、四拍子(又は三拍子、つまり太鼓が加はれば四拍子で、太鼓なしの大・小・笛の場合は三拍子)といふものがあつて、一曲の韻律を調へるわけであり、面といふものが位を定め、更に装束によつて一層ハツキリ規定される故に、謡は間違なく位や心持を把握することが出来、又シテなりワキやツレなりの動作即ち型によつて、地謡で謡はれる以上の描写や解説も可能であれば、又余韻もそれによつて生じ、すべてが相俟つて渾然たるものが完成されるのである。
  • 342仕舞といふものは、玄人の立場からいへば、やはり素謡同様難かしいものである。丁度素謡で、どんな些細な声や調子の破綻でも暴露されるやうに、仕舞にあつては、装束をつけていない為に、一切のごまかしがきかず、ハツキリ腰の据はりも見え、型の一々が何の潤色もなく露出するので、全く油断が出来ない。真に純粋に、何らの夾雑物なしに、能楽美のエツセンスだけを味はせるといふのであるから大変なのである。大家巨匠の仕舞など実に何ともいへぬ美しさのあるもので、一番の能を見るより見応へのすることがある。能と能との間に数番の仕舞のあるのもまた変つていゝものである。素人方からいへば、仕舞は型の初めであり、第一の階段であるが、本当にやらうとなれば難かしいもので、大家巨匠の円熟した芸の力でなければ、本当の鑑賞に堪え得るものでない。丁度「花月」や「経政」のやうな能は、能としては初歩のもので、通例青少年の演ずる曲ではあるが、その清々しい本当の淡々たる滋味は大家に俟たずしては味へないと同じ理屈である。
  • 343仕舞は先づ「熊野」だとか、「紅葉狩」だとかのクセのやうな、ごく易しいものから始める。最初は師の教へるところに従つて理屈なしに稽古を励むことが肝要である。そして第一に足の運び、第二に手の動作、之を十分に習錬する。次いで腰の工合、体の構へ、足の緩急等に留意して、専らその正しい型を習得すべきである。謡にあつても最初のごく初歩は、心持よりは節や調子が大切である如く、仕舞にしても、先づ体の構へやサス、ヒラク、打込み、左右、カザス等々の如き基本的な型に、心持など除外して、十分に習熟して置かねばならぬ。(昔は仕舞などを稽古する時は素裸で袴をつけて舞つたものである。形がそのまゝ露出するし腰、心、気分等がすぐわかるからである。)
  • 344仕舞の地謡は、中々油断のならぬもので、地謡のよしあしで、むろん立方の人の出来にも影響するわけであり、立方をして快く舞はせるやう心して謡はねばならない。従つて型の心得も十分になければならずこの道のいろ〱の事に明るいことが必要である。
  • 345番囃子とは、一番の曲を最初から最後まで全部謡と三拍子(又は四拍子)で演奏するものであつて、つまり能からその立方の部分、即ち型だけを抜き去つたものである。そして囃子方の方を眼目とするものであるから、囃子方は舞台の正面に着席するのが普通であり、役方並に地謡は、素謡と同じ配列に従つて囃子方の左斜めに着座するのである。
  • 346–347舞囃子は略して単に囃子といふ。舞囃子は、一曲の全部を囃すのでなく、例へば「高砂」ならばシテのサシ「然れどもこの松は、」以下キリまでを囃し、又「実盛」ならば、後段のシテのカタリのあと「洗はせて御覧候へと、申しもあへず首を持ち」以下キリまでを囃すといふやうに、曲の最も主要な、型の多い面白い部分を、囃し且つシテは舞ふのであつて、これは囃子方と同様にシテの演伎に俟つところの多いものである。概して一曲のクリあとのサシから演ずるのが普通である。シテは、仕舞から更に一段進んだ人の演じ得るところで、よほどシツカリした芸力のある人でなければ不可能である。合方に就ての心得など考慮する必要のない位に頭に叩きこんだ人でなければ渾然たる囃子は舞へないものである。地謡亦むろん番囃子に於ける以上、難かしく型に就ての理解がなければ到底謡ひこなせない。つまりシテをして十分に舞はせるやう謡はねばならず、しかも囃子方に引ずられぬやう又囃子と不即不離の関係を保つてよき調和を得るやう謡ひこなさなければならない。合方が確実で、曲の理解が間違はず、心持や気合を十分に会得し型も一通り心得ていて、しかも節扱ひ、調子その他が申分ないといふのでなければ、到底完全に役目は勤まらない。つまり能の地謡と何ら差別なき芸力を必要とするのである。地頭に於て特に然りとする。
  • 347さて囃子のシテの舞であるが、仕舞と囃子との型は同じだけれど、能になれば、それが多少変るといふことは、面、装束の有無はもとよりその演伎の性質上当然である。囃子の舞や型はやはり、能のエッセンスの表現に近く、夾雑物は比較的少いのだから、仕舞に近いわけである。
三宅襄・丸岡大二編『能楽謡曲芸談集』(1940)
  • 24舞台の方向については古来、北正面と決められてありますが、これによつて出来た型には仲々いゝのがありますね。方向の味が型のうちにもり込まれてゐて、何とも云へないものがあります。昔は見所と舞台は離れてゐたものでして、その恒離は五六間だつたのだらうと思ひます。現に佐渡にあるのはそのやうになつてゐます。
  • 39えゝ、一回もいたさぬのもかなりあります。脇能は矢張り手がけるのが稀で、志賀、白髭などはまだ一回もつとめません。然し稽古は父に二百十番全部して貰ひました。父は稽古がすきでしたから毎日朝は謡、午後は型と教はりまして、翌朝それを繰返してなほして貰ふといふ風で到頭二百十番全部を三回宛繰返して、稽古いたしました。
  • 55先ず最初のワキヅレの名宣を省いて、アヅサから始めます。一の松で一セイを謡つて舞台に人り、次第とサシをぬいてすぐ「あらはづかしや」の謡出となります。といふのは、この曲の次第とサシには殆んど型らしい型がない為なのでせうが、能の面白さは却つてかう言つた何もしない所にあるのではないかと思ひますし、少くとも、この様な静止の美も能にはあるといふ事を知らせるだけにでも必要だと思ふのですが……
  • 60この三番の中で、定家には埋留、安達原には白頭、長糸の伝、急進の出といふ小書がついて居ります。一体私は以前から小書をつけてやる事は余り好まなかつたのです。小書のものだと、謡が変つたり、型が崩れやすくなつて居りますので、能を余り見て居られない方は、たとへば安達既に今度のやうな小書がついて居るのを、初めて見た方などは、安達原の誘はあゝいふものだ型はあゝしたものだと思はれる。所が実際はこの小書の為に謡や型に非常な緩急をつけてやつてゐるのですから、本当の安達原とは違つたものを見たわけです。それを異つたまゝに思はれるといふ事は、私にとつていやな事なのです。それで以前から小書をつける事に不賛成の方だつたんですが、此頃は能も非常に数多く演出され、従つて観る方の人も多少飽きて来たと考へます。それで今度はあの様な小書をつけた次第なんです。
  • 61普通は前シテは中年の女で、面も深井なのですが、白頭急進の習物ですので、前シテは老婆で面は姥に白いかつら、後シテは白頭といふことになります。長糸の伝といふのは、普通の型は長い間糸を繰つてゐないのです、けれど今度のはクセからロンギまで、間にちょつと休むことはありますが、まあ殆んどずうつと続けて永い問繰ります。中入も替つて、一の松でワキを見込み、そして幕の内へ走り込むのです。ロンギの所で少し謡が進みます。
  • 70菊五郎は、それからすぐに新富座で土蜘を芝居にしてゐます。土蜘が菊五郎、頼光が先代の家橘、胡鳏が菊之助、独武者が先代の芝翫でした。この芝居で菊五郎の工夫であの僧智籌が珠数を口に銜へる型です、あれは長霊べしみがら思ひついたのです。あそこで、あの型は、全く芝居として生きてゐますよ。流儀では土蜘に長霊べしみをつかひます。尤も祖父は安政二年の江戸城本丸のお能で土蜘があたつた時、土中の蜘蛛を捕へて、それを虫めがねでのぞきながら、自分で面を打つて、蜘べしみと名づけ、それを用ひましたさうです。
  • 76それに能は泣く型にしろ芝居のやうに写実的ではありません。ただシヲル型においてそれを表現するのですから、初めて能を観る人は喰ひ足らなさを感じてくるのでせう。それらが能を見てゐて退屈してくる一歩だらうと思つてゐます。
  • 77言葉も文字も解さない外国人は、日本人のやうに筋を先らうとしないことが、その原因を為してゐるのであらうと思ふのです。先にも申しましたやうに日本人は先づ文句の意味を知らうとし、それに伴ふ型を見て、その写実的でないのに満足感を得られず、退屈して来るのです。
  • 97翁中には両手で扇をオモテに翳し、天を仰ぐやうな型や、又少し前かゞみになつて礼をするやうなところが二ケ所、合計四ケ所あります。これなども、みな祈りであつて、腹中で右の由をとなへてゐるのであります。かういつたやうな心持で勤めるのでありますから、翁の能を観られても、あすこの型が良かつたの上手かつたのとほめられるやうでは不可いのではないかと思ひます。どこまでも神聖といふか荘厳の中に終らなければいけないのではないかしらと思ひます。
  • 100型としてはクセの上ゲ端後の型が非常に難しいところです。「搔けども落葉の尽きせぬは」などは、ひどくやり難い型です^これは左から一つ搔いて、又右を二度かきます。それが字にすと丁度久しい、即ち「久」の字を逆にみた形になるのです。かういふことをみると、能の一番は随分種々とよく考へられてゐるものだと思ひます。余談ですが、あまり御存じがないと存じますのでつけ加へておきます。
  • 104松風一式之習、定家一式之習、経政古式。絃上楽入、道成寺古式、枕慈童後、海人変成男子、殺生石玉藻前、橋弁慶扇之型などは流儀独特の物でせう。これらの中で面倒ではありますが、演者側にとつてやり甲斐のあるのは松風一式之習や定家一式之習です。松風の一式はつい此間も京都で舞ひましたが、囃子方との申合せが上手く行きさへすれば、なか〳〵面白く一寸気持を良くすることが出来ます。
  • 109前半は、御承知の逋リ初同からロンギの辺など、大変好いものです。ワキとの掛合、クドキ、クセ、と型にも謡にも、少しの無駄もなく出来て居ります。たゞ難を言へば、少々長すぎる感がないでもありません。あんまり長いので、今度は一つ時間短縮の意味で、真ノ一声のあと、舞台へ這入つてのサシ声「影恥しき」の地を略して、すぐ「寄せては帰る」の型どころにしようと考へてみました。それに就いては種ゝ議論も出たのですが、かうした曲は型どころだけでは、どうも気分が出ないのです。前にヂッとしてゐるから「寄せては帰る」の型どころが一層好いものになるので、その静かな間をポッカリとぬいて仕舞ふごとは、どうも旨くないやうです。
  • 110今度の松風は灘返で舞ひますが、これはロンギのところが平生と違つて来るのです。流儀ではシテとツレの連吟になつてゐるのを、灘返になると、「灘の汐くむ」のところ丈を、シテが独吟して、そして此処へ汐を汲む型が入ります。後の句からは又ツレと連吟になります。この灘返は流儀では久振に出すのです。この汐を汲む型が、なか〳〵難かしいのです。殊に自分で謡ひながら汲み入れるのは、その心持なり、形なりに、他人の知れない苦心をいたします。
  • 120話が前後いたしましたが、物着で子方の扇を持つて舞ひます。この舞の中で扇を左に取り、下に座してしをるところがあります。之は扇を左に取つたその時に、自分の持つてゐる扇が、子供の持つてゐた扇であることに気がついて、子を思ふ心に浸るところです。姨捨の同じ型のところに、舞ふ老女がくたびれて下に座し、そのときふと仰いだ空に、月が皎々と輝いてゐたので美しい静かな気分に浸りますが、同じ下に座すのでも斯うした気分の相違がありますから、その気分をじつくり出すのが至難なところなのです。
  • 123木賊で問題になるものゝ一つは、例の木賊を刈る型ですが、同じ型のある芦刈とは心持などに非常に相異のある事は勿論です。併し形式的な型としては同じで、一体木賊のこゝの型には二通りあつて、芦刈と同じやうに草を立て、扇で二つ刈る型をしてもいゝし、又は鎌で刈つてもいゝとされてゐます。又その鎌で刈るにしても、手前へ引いて刈つても、向ふへ押してもい、としてあるのです。
  • 124でも私はやはり鎌を逆に向ふへ押して刈りました。それは先代もやつた型ですし、又今の様な話もありますのでさうしたのです、先代からはこの型については別に秘伝といつた様なものも受けませんでした。たゞ芦刈の方は若い男、コチラは老人で、刈る工合にもその心持があるのみです。
  • 128これは長い間考へに考へたところですが、父親が岩人であり、子供は子方ですから、一番難しいところはこの二人が親子であることを、型から心持へ出さなければならないところです。どうも老人ですから孫に見えたいところです。それを父として見せなければならず、父になつたために、老人であることを忘れては大変です。どこまでも、老人と、その子供でなければなりません。大抵、部分々々の型は定まつたものなので、さうした型のやり方一つでさうした気持をピッタリと出さなければならないのです。そこがこの曲の一番難しいところではないかと思ひます。今は鎌を持つて木賊を刈る型が使はれますが、本当はあれは扇でやるのです。鎌を使つてやるのは替の型です。けれど仕方はどつちをやつても、難しい点では同じことです。刈つてゐるといふ気分が難しいので、それが観てゐる方に充分感じればよいのです。
  • 131此間は、おシテが金春になるか、観世になるか、はじぬのうち分明しませんでしたがら、つい此こともウッカリしてゐたのです。それがいよいよとなつて、銕之丞さんに決つたといふわけで、井伊様の時の型を用ひたのです。どうもあそこで「慈悲のおん手に髪を撫で」と、ワキが型をするのはをかしなものですからね、ああなりますと、ツレの出た方が始末はよろしいやうです。あの時御覧になつた方は御存じでせうが、後見が、子方にかける衣の世話をいたします。
  • 140弓流ですから例の、「うち入れうち入れ足並にくつばみを浸して攻め戦ふ」の次に、囃子のクバリがありまして、その囃子方との申し合せの呼吸で扇を落すのです。つまりこの扇は弓のつもりなのでして、これを拾ふのが素働であります。素働は「船を寄せ熊手に懸けて、巳に危く見え給ひしに」の次にはひります。この素働には二通り――難しいのと易しいのとあります。今度は私は難しい方のをやつてみたいと思つて居ります。難しい易しいといつてもつまりは難しい方は型がとみ入つて来るだけのことです。よく存じませんが、何でも話にきくと、この弓流、素働の流足をとつて張良の流足となつたものだといふ事を聞いた事があります。素働がある時はカケリはぬけまして、留は脇留となります。あとは替の型が所々にチョイチヨイある程のもので、格別お話する事はありません。
  • 141小書といへば今度私は大阪で羽衣の瑞雲之舞をやらうと思つてゐます。この瑞雲之舞といふ小書は、皇太子殿下のお生れ遊ばした節、私が御誕生を寿ほぐ為に作りましたもので、主なものを言ひますと、クセの中で橋懸で型をしたり、序の舞が三段で、二段目から盤渉調となり橋懸へ行つて瑞雲を見上げたりします。そして和合の舞とは違つて、ワカがありまして、「さいふ颯々」から位が進み、破の舞はありませんで、キリも亦緩急があります。脇留となるのです。
  • 144私は先年この楊貴妃玉簾を舞ひましたから、今度は二度目です。先年私が楊貴妃玉簾を出した時の話ですが、シテがあの作物の中で、長いことヂッとして動かないので、見所のある人が、傍の人に「あのおシテは中から出るのでせうか」と訊いたさうです。型らしい型が殆んど無いから、大抵の人は退屈してしまひます。無理もありません。然し其動かない所が大切なのです。そこを見てくれないと苦心の甲斐がありません。舞つてゐる方でも、何もしないで、ヂットしてゐるのは随分辛いのです。
  • 146それからこの間の田村(註四月末日九段軍人会館の靖国神社奉納能上演)ですが、あの型は流儀では小原御幸にあります。「青葉がくれの遅ざくら初花よりも珍らかに」で双の手を上げて見わたします。寸難かしい型です。田村の方は「天も花に酔へりや」と右の方ワキ正へ向いて咲き乱れてゐる花を眺めるのです。あれはカザシの型です、カザシの替です。片手でやるのを両手を使つてやるので、何か大変異つた感じを与へるのでせう。邯郸の「日月遅しといふ心をまなばれたり」で両袖を上げる型も似てゐます。型はちがひますが心持は同じものがあります。あれは祝言の心ですから脇能のトメの袖を捲いて常座へノリ込むのと同じです。能の型はそのやり様によつて随分と、意味を取りちがへられる事があります。演る方がそもそも穿きちがへてゐる場合もあるし、又見る方で全く別な意味に解釈する時もあります。簡単な型に複雑な心持を盛るところが、能の長所です。
  • 148その後京都で一度、又東京で一度、合計三度卒都婆を勤めたことがございます。今度武雄に披かせましたのも、あの年ではまだ早すぎるには相違ないのですが、一遍勤めさせてもらひ、その時に型も謡もすつかりやつて置いて、それから本当の味はひが出るやうになつてからちやんとしたものを演る。さうした意味であつて、だから型の自由、謡の技巧を錬ることなどは少しも許さなかつたのです。
  • 152先づ幕の中で、大小に合せての足使ひがあります。これはまだ橋懸へも出ず、幕のうちでありますから見所の人達には全然見えないのですが、かうしたところにも型があるのです。ここで囃子は次第があつてツヅケがあり、ツヅケゐ間にコイ合が這入ります。これを幾鎖目に入れるかは、その時のおシテと囃子方がきめるわけです。
  • 161あの小書がつきますと楽が変るのです。初段をいくらか締めておいて二段目から調子は盤渉になります。従つて位もすとし宛引き立つてきて、だんだんと狂乱の心持になるわけです。それで二段目と三段目のはじめに、拍子をわざと外して踏むのですが、ここらでハッキリと狂ひの心を見せるわけでせう。拍子は踏み出しを普通に、踏みかへしを外します。段目で橋懸りへゆき、一ノ松へ出て内の太鼓を見こむ型があります。
  • 165松田は柔かい円い親切な稽古でしたが、それでなかなか底意地のわるいところがありました。然し教へ方は上手でした。自分では滅多に舞つて見せないで上手に稽古してくれました。尤も不器用な舞でしたが。それに比べると文十郎は稽古は下手でした。ただガンガン怒鳴つてばかりゐました。それでも立つて舞ふと立派で、松田とはまるで違つてゐました。ですから直きに斯ういふ風にといつて自分で演つてくれました。梅津も文十郎の型でしたが、友枝は松田式でした。
  • 172真つ裸で、型の稽古をしましたことるありますが、さういふ時は、足がひらかぬといつて、股へ棒を差こんでなほされました。また張扇や、煙管の飛ぶことは、よくありました。毎日のお稽古でしたが、謡の方が多いといふよりも、さきになつて、この方は二百番全部を教へて頂きましたが、型の方は謡のやうに全部といかないで残りました。今でも、教はつたのがやりよう御座います。
  • 174一度ですが、剛情を通したことがあります。頼政の稽古をして頂いた時です。型ではありません、謡です。謡つてゐるうち鼻血が出ましたが、それを拭ひもせずかみもせず到頭終りまで血の流れるままに謡ひました。終つてから、漸く先生はお気がつかれたと見え、鼻血が出たのか、それなら早くさう言へばいいぢゃないかと仰有つたのですが――。ナニ、行灯ではあるし、お互に顔を見合せてゐるわけでもないから、先生にも、わからなかつたのです。
  • 197そんな時、盃を置いて起つて型などまでやつてくれる事さへありました。意外な事を聞いたり、演つて見せて貰へたのは、全くこの酒席にゐる時だつたのです。だからあの盃を重ねながら、ぽつぽつ話し出してもらつた時の事は、今だに懐しまれます。
  • 206夏の稽古はシャツ一枚に帯を巻いて袴をつけるといふ一寸異様な姿でしたものですが、かういふ恰好だと型を稽古する際に体の曲つた所がよく見えるのです。そのシャツ一枚の上から、父はハリ扇でピシピシよくなぐりました。
  • 222懺法には常の出端のうち上貫、中貫、下貫と一あります。そして上貫のうちに仮に六クサリといふ寸法があり、上貫で八つ打つとか、中貫を七つ打つとか、下貫を六つ打つとかいふやうな定があるのです。恰度「清経」の音取のときに笛の音につれてシテが出て、その笛をきくのと似て、この上貫を打つ時はシテは三ノ松でその太鼓を聴入る型があり、以下、中貫では中の松で、下貫では一ノ松で聴入りまして、その上貫、中貫、下貫の手の間は、キザミでつなぐのです。
  • 246「花子」一番の主意は、妻を騙らかして花子の許へ逢ひに行くところにあります。全体が長丁場であつて、さうして型どころもあり、議ひどころもあるのでかなり骨が折れます。あの小唄は習になつて居りますが、あれとても唄を聞かせるのでなく、惚ろ気を聞かすのですから、柔かくてそのうちに十分に色気がないといけません。堅くてはもとより駄目、といつて品がわるくてもいけません。あそこからは一種の物狂ひとなるので、そのつもりで演じます。物狂ひものに限つて諷ひ出す時の足に口伝がございます。諷ひ出す時の足づかひで、その役者の心得の有無が知れませう。
  • 276私は型などは覚えてゐませんが、謡は六平太も余り上手だつたとは思ひません。有名な白井平蔵はその時来てゐたかどうか知りませんが、地謡も下手でしたから、多分ゐなかつたのでせう。
  • 280金剛は飯倉の瑠璃小路にありまして、私は先代に唯一の烏帽子折を打ちました。この時はキリは地を打つてさへゐたら宜いので、舞台の型を見ながら打ちましたが面白かつたのです。右京さんのお父さんの泰一郎さんと私の姉が同年で、しかも近所にゐたので私もよく遊びに行つた覚えがあります。貝汁で昼飯を御馳走になつたのを忘れません。
  • 306最初シテが出て次第、名ノリ、道行とあつて野辺へ着ぎ、一旦笛座の上に座り「春ごとに〳〵」と両袖のツユを取つて立ち上り「子の日の松の縁にひかれて緑の袖を返し返して舞ひ遊ベば、喜びは日々に猶まさり行く、神国なれば君は千代まで民も豊につきせぬ齢、民もゆたかに尽きせぬ齢を松に契りて長生せん」といふ文句につれて舞ひます。小松を曳く型や、袖を被いで扇で顔を掩ふ翁に似た型などあつて、ユーケンして留ますが、文句も型もまことに祝言になつて居て結構な狂言です。私の家には宮様から拝領した直衣がありますので、いつも狩衣の代りにそれを用ひます。
  • 322先日の卒都婆小町の写真をみましても、今までの卒都婆とは随分違つて居ります。今までは杖をにぎつてゐる指が、皆同じ様でしたが、今度のをみますと、おやゆびが一本だけ上になつてゐて杖のはしをしつかりとにぎつておいでです。あの杖はああせねばならないものなので、私共も代々さうつたへて居ります。いつ御勉強になつたのか、それがちゃんと型通りになつて居ります。
杉山萌圓(夢野久作)『梅津只圓翁伝』(1935)
  • 48明治四十一年頃から翁の身体の不自由が甚だしくなつて、座つて居られない位であつたが、それでも稽古は休まなかつた。その明治四十一年か二年かの春であつたと思ふ。梅津朔蔵氏が「隅田川」の能のお稽古を受けた。それは翁の最後のお能のお稽古であつたが、翁は地謡座の前の椅子に腰をかけ、前に小机を置いて其上に置いた張盤を打つて朔蔵氏の型を見てゐた。地頭は例によつて山本毎氏であつたが、身体は弱つても翁の気象は衰へぬらしく、平生と変らぬ烈しい稽古ぶりであつた。
  • 54中の舞の初段の左右の型の処で気が掛からないと云つて十遍ばかり遣り直させられてスツカリ涙ぐんだあとで、利彦氏が同じ稽古(男舞)で又やり直し十数回の後、たうとう突飛ばされてしまつたのを見て、「出来ないのは自分ばかりぢや無いな」と窃に得意になつた事もある。
  • 65そんな目に毎日々々、会はせられるので筆者は、「もう今日限り稽古には来ぬ」と思ひ込んで家に帰つても、又あくる日になると祖父母に叱られ〳〵稽古に行つた。そんな次第で、やつと「小鍛冶」の上羽の謡になると型の動きが初まるので、蚊責めの難から逃れてホツとした。
  • 70前述のやうな数々の逸話は、翁一流の天邪鬼の発露と解する人が在るかも知れぬが、さうばかりでは無い様に思ふ。翁は意気組さへよければ型の出来栄えは第二第三と考へてゐたらしい実例がイクラでも在る。現在の型では肩が凝つたり、手首が曲つたり、爪先が動いたりする事を嫌ふ様であるが、翁の稽古の時には全身に凝つていても、又は手首なんか甚だしく曲つてゐても、力が這入つて居りさへすれば端々の事はあまり八釜しく云はなかつた様である。
  • 71只円翁門下の高足、斎田惟成氏なんかの仕舞姿の写真を見ても、その凝りやうは可なり甚だしいものがある。記憶に残つてゐる地謡連中の、マチ〳〵に凝つた姿勢を見てもさうであつた。凝つて〳〵凝り抜いて、突つ張るだけ突つ張り抜いて柔かになつたのでなければ真の芸でないといふのが翁の指導の根本精神である事が、大きくなるにつれてわかつて来た。だから小器用なニヤケた型は翁の最も嫌ふ処で、極力罵倒しタヽキ付けたものであつた。そんな先輩連の真似をツイうつかりでも学ぶと、非道い眼に会はされた。
  • 85翁は普通の稽古を附ける場合には袴を穿かなかつた。これは謹厳な翁に似合はぬ事であつたが事実であつた。荒い型をして見せる時には着流しの裾の間から白い短い腰巻と黒い骨だらけの向脛が露出した。
  • 93甚だ要領を得難い評かも知れないが、翁の型を見た最初に感ずる事は、その動きが太い一直線といふ感じである。同時に少々穿ち過ぎた感想ではあるが、翁の芸風は元来器用な、柔かい、細かいものであつたのを尽く殺しつくして、喜多流の直線で一貫した修養の痕跡が、何処かにふつくりと見えるやうな含蓄のある太い、逞しい直線であつた様に思ふ。曲るにしても太い鋼鉄の棒を何の苦もなく折り曲げるやうなドエライ力を、その軽い動きと姿の中に感ずる事が出来た。
  • 94–95梅津朔蔵氏の「安宅」の稽古の時に翁は自分で剛力の棒を取つて、「散々にちゃうちやくす」の型の後でグツと落ち着いて、大盤石のやうに腰を据えながら、「通れとこそ」と太々しくゆつたりと云つた型が記憶に残つてゐる。梅津朔蔵氏が後で斎田氏と一緒に筆者の祖父を見舞ひに来た時に、祖父の前で同じ型を演つて見せたが、「此処が一番六かしい。私の様な身体の弱いものには息が続かぬ。……芝居では無い……と何遍叱られたかわからぬ」と云ふうちに最早汗を掻いてゐた。それからずつと後、先年の六平太先生の在職五十年のお祝で「安宅」を拝見した時に、同じ処で行き方は違ふが、同じやうな大きな気品の深い落付きを拝見して、成る程と思ひ出した事であつた。大変失礼な比喩ではあるが、とにかく恐ろしく古風な感じのするコツクリとした型であつたやうに思ふ。
  • 95只円翁の「山姥」と「景清」が絶品であつた事は今でも故老の語艸に残つてゐる。これに反して晩年上京の際、家元の舞台で、翁自身に進み望んで直面の「景清」を舞つたが、此時の「景清」は聊か可笑しかつたといふ噂が残つてゐるが、どうであつたらうか。「烏頭」(シテ桐山氏)の仕舞のお稽古の時に、翁は自身に桐山氏のバラ〳〵の扇を奪つて「紅葉の橋」の型をやつて見せてゐるのを舞台の外から覗いてゐたが、その遠くをヂイツと見てゐる翁の眼の光りの美しく澄んでゐたこと。平生の翁には一度も見た事の無い処女のやうな眼の光りであつた。
  • 95扇でも張扇でも殆んど力を入れないで持つてゐたらしく、よく取落した。その癖弟子がそんな事をすると非道く叱つた。弟子連中は悉く不満であつたらしい。夏なぞは弟子に型を演つて見せる時素足のまゝであつたが、それでも弟子連中よりもズツトスラ〳〵と動いた。足拍子でも徹底した音がした。平生は悪い方の左足を内蟇にしてヨタ〳〵と歩いてゐたが、舞台に立つとチヤンと外蟇になつて運んだ。型の方は上述の通り誠に印象が薄いが、之に反して謡の方はハツキリと記憶に残つてゐる。謡本を前にして眼を閉ぢると、翁の其の曲の謡声が耳に聞こえる様に思ふ。ところが自分が謡ひ出してみると、思ひもかけぬキイ〳〵声が出るので悲観する次第である。
  • 97又、梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)は翁の型についてかう語つた。「二十歳ぐらいまではたゞ鍛はれるばつかりで、何が何やら盲目滅法でしたがそのうちにダン〳〵出来のよし悪しがわかつて来て、腹の中で批評的に他人の能を見るやうになりました。只円の力量もだん〳〵わかつて来るやうに思ひましたが、同じ力と申しましても、只円は何の苦もなく遣つてゐる様ですから、その積りで真似をしてみるとすぐに叱られる。なか〳〵其通りに出来ないし、第一お能らしく無い事を自分でも感ずる。只円の通りに遣るのにはそれこそ死物狂ひの気合を入れてまだ遠く及ぱない事がわかつて、その底知れぬ謹厳な芸力にヘト〳〵になるまで降参させられ襟を正させられたものでした。」
  • 336連載開始に当たって、その第一回目の冒頭に、「記述の順序」と題されて、「能とは何ぞや」の内容目次が紹介されている。参考のためにここに引用しておこう。「能ぎらひ……能好き……能の真面目……非写実の写実……能の向上……能の起原……脚本……囃子……仮面……装束……造り物と小道具……出演者……狂言……後見……向上の目標……曲の発達……家元制度……流派……曲の難易……家元の組織と仕方……家元の世襲制度……能の型……型、節等の洗練……作曲の精神……能と人間性……謡ひの要素……謡ひの位……位と霊性……位の本体……謡ひの声……声と全身……合唱の中心……声と霊……囃子の組織……囃子の使命……舞ひの根本義……静止と無表情……無表情の軌範……絶対の模倣写実……基督の言葉……舞ひの足……リズムの扱ひ方の原則……全身の表現……無表情の表現……無心と実際……リズムの破綻……仮面と装束……仮面とリズム……仮面の成立……能の女性……男性美が生む女性美……装束……能の習得……能楽師の正体……暗記と理解……現代文化と能……等等」
  • 340いささか細かい事実に拘わることになるが、右に引いた「夢野久作氏とは」に並んで、やはり無署名の短文「邯鄲の団扇に就いて」が埋め草記事として掲載されている。これは、「能とは何か」のなかの「家元の世襲制度」の項において、久作が「邯鄲」について言及した部分に対して、やわらかい反論を試みたもので、その全文は次の通りである。「古名人が忘れて置いたので、後人は之に倣ひ得ないといふ夢野氏の説は珍しい。禅に明るい同氏の事であるから素人の差出口を許さないが、アレは悟を開いた場所に何か一つ残して置くといふ慣例に従つた型であると古書には記してある」
片山博通『幽花亭随筆』(1934)
  • 9「これは老いたる柳色の」で今まで大気焰を上げてゐたが、若い柳の事を言つた事から急に心に暗いかげがさして気焰もどこへやら、ハツと冷静にもどると老いたる自分をまざまざと見せつけられる様な気がする。こゝの型で角とりながら二三足よろ〳〵として急に力を入れて止まる所などはよく此の気分を現はしてゐる。柳の風に吹かれる形であり、又老人のよろ〳〵としてハツと気をとりなほし、何クソと力を入れる気分である。
  • 44また能楽の謡や、型の段落にある打切、打上などの囃子の手配(つまり伴奏)は映画の溶暗、溶明、または二重焼附の切換などの如く、和やかな場面転換の役をつとめてゐる。或は、時にはカツトバツク的な鮮やかな転換にも使用されることがある。
  • 48その頃望月の子方をした。羯鼓がいくらやつてもいくらやつてもうまく行かない。親父の稽古はとてもきびしく、出来ないと足蹴にされたり、張り扇でひつぱたかれたりしたものだ。その時も散々にしかられたが、叱られる程、出来なくなつて泣いてしまつた。その自分を励まして、一つ一つの型を分る様に、何時までも何時までも、母が教へてくれた。さうして無事に子方をつとめた。
  • 49友ちゃん(観世友資君)と小袖曽我の仕舞を別会の時に舞つた。二三日たつてから写真を写したが、晴らして月を、の型のところだつた。僕が五郎で坐つて雲の扇をしてゐるのだが、ピントを合はす間が持ち耐へられず、後につつかへ棒をしてもらつた。
  • 125客 いや、その滑稽なんです。勧進帳や、方々は何故にかほどいやしき強力に、等の所は余り見ない型がありました。それに面白いのは同山が岡持をぶらさげてゐた事なんです。
  • 127客 御幸の法皇は立派なもんでした。但し花の帽子の鬱金色が気になりましたよ、絃上は余り感心出来ませんでした。もつと期待してゐたゞけにね。後シテの出は装束が立派だけに一寸よく見えました。この前の関寺の時、サシ込開キなどの型が馬鹿に小さいと思つてゐたが、あの時ばかりでなく、常にも可成り小さい様ですね。昔からですか。
  • 130そこが可愛ところさ。さう云ふ一本気が人に可愛がられる所以だね。それにしても今の梅若と観世ぢや大して違ふまい。何が。すべて型でも謡でもさ。で独立となると型を変へなくちやなるまい。各流家元の前で型の試験があるとするね。ふん。そこで梅若が一つのものを舞ふとする。うん。さうして各家元がこれなら梅若流と言つてよろしいとなる。待ち給へ。サシ込開キするね。そりや観世にある。小廻リする。そりや金春にある。かざす。そりや宝生にある。さうなると梅若流は、はしごにでも乗らなくちやなるまい。馬鹿‼
  • 132–133草紙洗のある型 草紙洗の中の一寸した型に私は非常な面白さを感じた事がある。それは、ワキがシテの歌を古歌だと言つてから掛合があつて地どころとなる。此の中の「わが身にあたらぬ歌人さへ」辺のところになると、小町の後に坐つてゐた女ヅレ二人が、立つて地謡座の前、男ヅレの間へ這入つて坐る。此れを面白く思つた。此れより後のシテの型や舞の邪魔になるから立つて、向ふへ行つたと言へばそれ迄だが、私は此の型を見てゐて、こんな風に思つた。「小町さんは美人だし、歌は上手だし、あたし達は尊敬してゐましたわ。黒主さんが古歌だとおつしやるけれどうそだと思つてたわ。だけど矢張り………ぢや本当なのネ。あら嫌だ。」そこで立つて行くのぢやないでせうか。古歌だと言はれても直ぐ立ち上がらず、しばらく様子を見てから愈々本当らしいので、ツイと立つて行くのです。女の気性をよく現はした型だと思ひます。それとも私の勝手な想像でせうか。
  • 231–232第二は専門的鑑賞法です。これは言はゞ玄人的の見方でありまして、多少ともお能を御覧になつて居れば、どなたでもこの鑑賞法をとられる様になられます。あの型は面白いとか、あゝ下手な謡だとか、誰々はあんなやり方をしなかつたとか………こんな風に御覧になる様になると、もうお能を見て居ても決してあくびは出て参りません。第三には余り感心した方法ではありませんが、聴覚的鑑賞法がございます。これは舞台にはどんな面白い型をやつて居ても、決してその方を見ないで耳ばかりを働かしてお能を聴く方法です。謡のお稽古をなすつて居られる方はどうかすると、この方法をとられます。どうか出来るだけこの方法はお取りにならない様におすゝめ致します。
  • 250さうして最後に、「江口の君の幽霊ぞと声ばかりして失せにけり、声ばかりして失せにけり」と、女は舞台から姿を消します。だが、芝居の様にスツポンの中へかくれたり、松之助の忍術の様にすつとなくなつたりするのぢやありません。橋掛り際のところ(シテ柱)で、くるりと小さく廻つてヒラキ(型の術語ですが、舞台面を見ていたゞいたらお分りになるでせう)をして、静かに元の橋掛りを歩いて這入るのです。この橋掛り際の簡単な型一つで、如何にも消え去つた様に思へるのが、洗練されきつた能と云ふ芸術の特色であり、又これが様式化された、レアリズムの極致ではないでせうか。
  • 252とにかくそれは皆様方におまかせ致しますが、どうか謡本だけは見ないで下さい。どうもそれを見てゐると、能を充分に見る事が出来ませんから。舞台上の人達の動かない一節々々に何とも言ひ様のないスバラシイ型がひそんでゐるのを見つけ出して下さい。そこに能の面白さがあると思ひます。
  • 264「東遊の駿河舞。東遊の駿河舞、此の時や初めなるらん」の地謡から後がその舞なのです。これからが尤もお能らしい、美しい所なのです。以下終まで、地謡のうたふ、叙事と抒情をかねた本文につれてシテは優艶華麗な型をつゞけて行きます。
  • 269【第三節】 いよ〳〵シテの出です。素袍の裾をパサ〳〵とさばいて橋掛の真中まで来てとまります。此の素袍の模様は「浜松ざし」と言つて、観世流で鉢木のみに用ひるキマリ型なのです。
  • 279もう一つ面白く感じたのは、物着の間である。舞台の真中で水衣をとつて長絹にかへる。その間、大小がゆるやかな調子でつゞけてゐる。西洋の音楽で言へば、立派に幻想曲とか、間奏曲の役目をしてゐて、これから起るべき曲の性質を明にしてゐる様に思はれた。然も後見が出てシテの水衣をかへてゐる、これが又一つの型の様な気持で見られる。こんな所が、能の他にない特徴の一つである。
  • 283あたしこわかつたの。何が。すべつたでせう。あれは型だよ。うそ、すべつたのよ。クセの応答があつたね。何処です。
  • 291(嵐山)前は見ず。浦田君と大西信彦君の後ヅレ天女舞はチツトモ面白くなかつた。脇能らしい感じが持てなかつたのが何よりの原因らしい。始め二人の合舞がよく行つて居たが、中程からは全く駄目。浦田君が笛のホウホウヒイー一杯に型をやらうとする。信彦君は率直にやる。こんな所に楽屋的興味がないでもなかつた。
  • 295「影はづかしき我が身かな」で、坐つたまゝ笠を少し前へ出し、かくれる様に面を伏せた時はよかつた。此れから後の型どころは喜之氏らしい美しいものだ。「なう物たべなうお僧なう」とワキの前へ笠を出し、最後に右へ笠をひいたのは面白い。たしか先に橋岡氏のやつた型だと思ふ」
  • 297「かしまし〳〵」は耳をおさへず、右袖を出して左へ顔をそむけるだけであつた。何時もの耳をおさへる型よりこの方がいゝ様だ。「悪心は起さじと思へども又腹立ちや」の腹立ちやの型は宗家独特の気分。「山は松風」と上を見る心、松風を聞く心。「荒磯に寄する波も」と立つて作り物の柱に両手をかけて聞心する所などはタマラなく嬉しい所。「正しき子にだにも訪はれじと思ふ心の悲しさよ」とツレを抱へたまゝ泣き臥す所は、実にうまい。能であの位実感が生れて来やうとは思はなかつた。語りは床几にかけてゞある。「景清これを見て」からは立つて常座へ行き型がある。「兜の錏を取りはずし」のところではじめに軽くつかみ後は大きく強くつかんだなど面白い。宗家の景清ときたらタマラないうまいものだ。前の卒都婆をうけて比較的派手であつた事もこの曲を面白くした原因かも知れない。何も型をしないで居て多くの事を言はうとする所などは宗家独特のところであらう。
  • 301藤戸。ワキの中村弥君。この人、いゝ師匠に就いて真面目に勉強せられたらキツトいゝワキになられるだらう楽しんでゐる。押し出しも立派、調子もいゝ。只、型所になると、お父さんソツクリの悪い癖がチヨイ〳〵顔を出す。ともかく大いに自信あり相な様子が馬鹿に嬉しくなつた。最近観た、恋重荷、草紙洗、安宅などみな素直ないゝものだつた。ともかく君の未来に非常な期待をしてゐる。──悪い処を二個所指摘しやう。「あゝ音高し何と何と」の処と、「とつて引きよせ二刀さし」の処だ。前者はまるで気合がこもつてゐない。後者は型がセカ〳〵してみにくかつた。
  • 303「恋重荷」此れは感心出来ない。「軽荷」と云つた感じだつた。舞台上のイキがまるでチグハグだつた事が自分には面白くなかつた。殊に中入前のロンギあたり、此の能での一番見せどころであるところで、地謡とシテのイキが全くくひちがつてゐた。この不愉快さが最後まで自分の頭にこびりついて離れないので、何を見ても聞いても面白くない。こまかい型に気をつけると云つた注意力も失つてしまつた。
  • 315シテ。巌氏としては中位の出来だつた。それでも二時間もの長い間、退屈せずに見られたのは全く前シテの技倆の致すところだつたらう。非常に感心するほどの所はなかつたが、後シテになつてから、橋掛りから舞台へ這入るなり「紫雲たなびく夕日影」とワキ正へ受けて右袖を強く巻いたのは、大変効果のある型だ。ここの文句を率直に、しかも品よく型にしてゐると思つた。それから舞がすんで「各々帰る法の庭」と一の松へ行つたから、キリは橋掛りで型をして、舞ひ込みにでもなり、ワキの合掌留になるのだらうと想像したら、すぐ舞台へもどつたので、何んだか軽い失望をした。いはゆる能通の猟奇性が致すところだつたらう。
  • 318高砂 囃子 鈴木君は非常に元気だ。型の所々に故林喜右衛門氏をしのばせる節々があつたのはなつかしい。隅田川 独吟 塚本和兵衛氏。仲々に落ちついたもの。謡つてゐる当人が非常に楽し相なのは聞いてゐてもいゝものだ。仕舞 三番 塚本章雄君の玉之段。この人は大変にいゝ素質を持つてゐる。勉強次第で将来のびる事の出来る人だ。型は杉浦氏のかげ法師の様によく似てゐる。一個処「玉を押し込め」の型は解しかねた。今井君の笠の段。可もなく不可もなし。但し右の肩が上つたのは気になる。矢川君の熊坂、長刀の扱ひ方は、一工夫も二工夫もありたい。終りに、この仕舞は通じて三番とも、活気にとぼしい。若い人の勉強ならもつと〳〵力演してもらひたかつた。砧
  • 319羽衣 山田君は当日第一の殊勲者だ。穴を拾へばいくらもあるが(型のくばり方が第一わるい)熱のある点を買ふ。ともかくはじめて能をやつて、あれだけの大物を無難にやれたら大成功といふべきだ。このよきデヴユウに気をよくして大勉強してほしい。あまり大物を手がけず軽いものでミツチリ修業してほしい。それから、杉三次郎、光田、谷口喜代三、前川の諸氏の序之舞はノリのよい気持のいゝものだつた。
  • 326最後の「柱立」美しいのを四人まで揃へてのこの踊り物。はねにもつて来いの代物だ。藤間流を思はせる型が処々にあるのが面白く思はれた。最後に肩をぬいだが、あれは余計な事だと思ふ。これも道具と着物の配色がよくない。道具は黒塗の障子をならべ、ぼんぼりでも出して、昔のお茶屋の大広間を思はせる様なものゝ方がよかつたらうと思ふ。
  • 375融のワキは一増の鍈ちゃん、もともと武田氏の御曹子だけあつて、型も謡も本職通り、替の型、橋掛での名のりも面白かつた。一層のこと、思立ちの出でもよかつたと思ひました。本当のワキに此の人位の人がほしいと、つく〴〵思ひました。松村氏のシテは大熱演。太鼓のかけ声どほりの謡。所々で、扇のかはりに撥を握らしたい様な風情。全く知る人ぞ知るで、文字には写しがたかつたのですが。
  • 379万三郎氏の鉢木を見て、左近氏のそれと比較してみたくなつた──といふより両氏の芸格を検討してみたくなつた。万三郎氏はあくまで堂々と、それが芝居に過ぎるまでやつて而もそれが芝居に墜ちないで完全な能になつてゐる──此処に氏の威大なる芸の力が存在してゐるのだ。又、左近氏は反対に、あくまで細心に、一挙手一投足に到るまで悉く神経そのものゝ様に働かして、型それ自体によつて大きな演出を試みようとしてゐる。次に二三の例を挙げて両者の相違を眺めてみよう。
  • 386経験がお浅いだけに不熟練なところが所々眼につきますが、それでも元気に殆ど夢中で演了された事は嬉しい限りでござゐました。キリの型など十分とは申せませんが、ある程度までは気分も出て居りました。どうか此の意気、此の元気で、今後大いに勉強して頂きたいと存じます。
梅若万三郎『亀堂閑話』(1938)
  • 32九郎さんの御相手の中で「望月」で、「敵を手ごめにしたりけり」とワキの肩を抑へて昆念刀をもつての型を初めて教はりました。観世では「古式」の小書の時の型になつて居りますが、私はそんな事を知らぬ時代ですから大変珍らしく思ひました。謡は流儀が違ふので、ツレと連吟の所はツレだけに頼みましたものです。
  • 33この染井様が「竹の雪」をお勤めの時、私が子方を致します事になりましたが「竹の雪」は流儀にございませんので、謡も、型も九郎さんに教へていたゞきました。
  • 41かうしていゝ方が大勢見えてゐましたので私も小皷を清水さんに一年程願ひ、川井さんに太鼓を一番長く、二三年御稽古していたゞき、笛も一噌さんに願つたりしました。アシラヒを打ちますのも、コイ合、ツヾケを打つてをれば間に会ひますので、それで他の人の役の時は永年アシラヒをつゞけました。私としてもかうした囃子は充分稽古も致したかつたのではございますが、何分型の方に追はれてそれに一生懸命になつてをりましたので、僅の間でやめてしまひました。
  • 42稽古も、伜や弟子達は、自分の役だけでいゝのでございますが、私は謡を聞いたり、型を見たり、合方を聞いたり、皆やらせてしまつてから、後ですつかり直しますのですから、なか〳〵骨が折れて洵に大変疲れます。大抵正七時に始めて、三番致しますと可成の時間がかゝりまして、十二時半にやつと済むといふ位です。
  • 45この上へ装束を着けるのですから形もよくなりますわけで、唯装束だけで形をこしらへたのでは、幕へ入るまでに形が崩れてしまひます。その反対に裸で練習しておきますと、ツレのやうに型はなくて下に居るだけのものでも、襟も崩れませんからえらいものでございます。
  • 83弟子どもへの心得は常々やかましく言つてをるのでございますが、師匠の癖は一番お弟子にとられやすいものでございまして、師匠が弟子に癖をとられるやうではまだ出来上つてゐない証拠ですから、癖のない、いゝ型や謡になれといつも申してをります。何処か悪い所があるから取られるのでございますので、何処へ行つて聴きましても「ハヽア、是は誰々の稽古を受けた人だな」と云ふ事が直ぐ解ります。第一声が似て来ます、型の具合も、右が上がるとか、下がるとかいふ癖など観面に現れます。
  • 85これを通り過ぎまして、今度は能も度々舞ふ程に、まづ上手と言はれるやうになりますと、兎角自分の器用で、声を作つたり、はき違への型をしたりするのでございます。
  • 89–90地謡方は余り目立たぬ損な方でございますが、舞台上の責任は重大で、いかにシテが出来ましても地が悪ければ何にもなりません。昔から地謡のシツカリした座は大抵盛でございました。「型をやつて、地も謡ふのが宜しい」といふ事を言ひますが、宝生九郎さん等は「どうも型を知らない者が地を謡ふと、型に合はせる事が出来ないから困る」といふお話をしてをられました。相当な方は型を知つて居れば、型が早いと地謡が進んで後から合はせて行きますし、職分なれば囃子の合方も心得てゐますから、地謡とシテと両方から合せて行きますが、同じ職分でも型を知らない者が謡つてくれますと、早くなつたり、遅くなつたりして困ります。何かの都合で、型の出来ない者は地拍子は勿論、型をも十分に研究してゐなければなりません。観
  • 95ところが、いつ何処から、どう変つたのか、文句が「八島」になつてゐるのです。ハツとして急に「八島」の型を舞つてしまひまして、後で皆様大笑ひでございました。清廉さんも別に間違つたとも思つてゐなかつたのですが、飛んだ御余興になりまして、穴にも入りたいやうな気が致しました。まあそんな失敗はなかつたやうな顔をして澄ましては居りますが、皆様はよく御存じでいらつしやいます。
  • 119この手を膝の上から上げるのならば、容易くシヲレますが、右手に笠と笹とを持つのが常なのでむつかしいのです。尤も笹を先に捨てる型もございまして、亡父が勤めました時、池内信嘉さんが「笹を捨てたのは実の考へだらうが、をかしい」と申された事がございますが、父は「狂つてゐる中は笹が入用だが、舟に乗る時には別にいらぬ物である」と申して捨てゝをりました。
  • 124これは亡父の話でございますが、曲はたしか「鵜飼」でございまして、鵜の段の「ばつとはなせば」の所で、厳寒でしたので手が凍えてかじかみ、シテの亡父の扇が飛んでしたひましたから、亡父はやむなく扇なしで舞つてをりますと、後見はあわて、扇を拾つてシテに渡さうとしたのですが、何しろあの型所でございますので、あちらへ行き、こちらへ行きで、「面白の有様や」とシテの廻る後から追つかけ廻して、とう〳〵鵜の段全部を一緒について廻つたものでございますから、見所では大評判で「今日は面白かつたよ、二人のシテが鵜の段を舞つた」と暫しはやかましかつたさうでございます。
  • 147ある能楽師の方は「弟子や伜達に芝居を見せると型が崩れる」と言つて、お弟子達に芝居を見る事を禁じられたといふ事を聞きましたが、亡父はそんな事はございませんでした。
  • 150又以前、泉祐三郎とかいふ有名な今様能の一座があつたと聞いてをります。私は見てをりませんが、何でも能らしい所から一転して、三味線の入つた踊になつたりして面白く、大変評判が良かつたさうで、こちら(東京)でも、渋沢さん(栄一子)などはお好きであつたやうに承つてをります。一通りは能の型を稽古して、その上に四拍子まで心得てゐたらしいので、一度は見ておきたいと思ひましたが、遂にその機を失ひました。
  • 156いつも能が済みましてから「あそこはよかつた」「誰々のあそこは悪い」などと言ひます。私どもはいつも後で大層らしく批評されたものでございますが、此頃になつてやつと余り悪く言はれる事が無くなりまして、「あそこは何だか、文句を忘れたが良い型だつた」とよく言はれます。
  • 157一寸舞台での型などが前と変りましたのですが、姉はよく見ますから「如何にも是はいけない」と思つてゐますと、段々やつてゐます中に私どもは何も申しは致しませんが、ずつとまた変つて参りまして、まあ辛抱の出来る程度になりました。誰しも一度はある事でござ昔からいゝ人のを随分見たり聴いたりして、舞台の土の約束もなか〳〵詳しく知つてをりますから、舞台上の不作法な人の事は特にやかましく申します。
  • 167私は一度、清孝さんに稽古をつけていたゞいた事がございます。それは遠い曲で「舎利」でございました。「梅檀沈瑞香の上に立ちのぼる雲烟を立てゝ」の型をいつもは目附柱でするのですが、それを一の松でやる型をつけていたゞいたのを今でも覚えて居ります。
  • 171厩橋の舞台で「盛久」をお勤めの時、橋がかりでロンギの「三保のいう海、田子の浦」と申します所で、右ヘウケて見る型を亡父が口をきはめてお褒め申したことを、今も覚えて居ります。
  • 195それはどういふ訳かと申しますと「流儀に依つて型がどう違ふか、それが見たい」との陛下の仰せで、このやうに同じ物を二流で勤めたのでございまして、この一事を以ても、如何に陛下の御鑑賞眼が御高くあらせられたかといふ事が拝察致されたす。何しろ、こんなに沢山の番組を御聴会あそばすだけでなか〳〵でございますのに、この他に御好みなどもございましたのですから、どれほど御嗜好あらせられたかを恐察し奉るに難くございません。
  • 198一日の御用を勤め終へると、御食事を戴きましたが、御茶碗を始め全部、御紋章つきの御器で勿体ないことに思ひました。そして退出の節に翌日の御番組を拝見致しましてそれから宿の養心亭に帰つて謡や、型を調べるのでございます。
  • 204普通の謡本と同様で、本文四枚に表紙のついた、なか〳〵気のきいた本でございました。内容は、総督の宮様が侍臣に命じて司令官を召され、大勝の模様をお聞きになつた上、司令官は立つて喜びの舞を舞ふといふ颯爽としたものでございましたが、大変皆様に愛好されまして、「是非、能に――」とのおすゝめが所々からございましたので、型をつけ、舞台にかけました。
  • 219そのうちに益田様もすつかり御元気になられましたので、その御祝のお催の際に、私が御礼のつもりで「最上川」の節を訂正致し、型をもつけまして舞台にかけて御覧に入れなし丸所、大変お喜びでございました。
  • 227先の家元清廉さんも、亡父の所へ見えましたが、清廉さんには型も、謡も相当お手直し致しましたやうでございます。
  • 235惣領の美雄は二十歳で大正六年十二月二十二日にチブスで亡くなりましたが、一寸芸も出来ましたし、声もございましたし、型も亦良い方でございましたので、数々の御前能にも出勤させてゐまして、私も将来を楽しんでをりましたのに、と惜しい心が一杯でございます。
  • 265事変で流友の方々も随分御出征なさいました事でせう。私の方では猶義が御奉公の機を待つて居ります。軍隊と能でございますか、さうですね、あれが除隊になつて帰つて来ました頃は、少し型が堅くなつてをりましたが、もう此頃は何ともございません。
  • 282この曲には、「勧進帳」以外に、「滝流」、「延年ノ舞」、「酌掛」などの小書がございますが、これは皆舞の習ひで、それ〴〵にむつかしさがございます。簡単に申しますと、滝流は流れに盃を浮めてそれを見る型があり、酌掛はワキから受けた盃の酒を捨てゝから舞ひますし、舞の中の心持も亦違ひます。
  • 287私の養父、梅若吉之丞の事は余り知られて居りませんが、亡父の謡によく似て居りました。その上に型までそのまゝだと言つて皆さんがよくお褒めになりましたものでございます。
  • 298弄月の型を中心に、えも言はれぬ詩情といふ風なものを感じる能でございます。こゝまでは亡父に稽古をしてもらひましたが、後の「檜垣」と「関寺」とは全部型附によつて自分で工夫して舞ひました。実はこれは無理でございまして、間々のむつかしい所は皆「口伝」と書いてございますから、手を取つて教へて貰はなければ解りません。
野口兼資『黒門町芸話』(1943)
  • 12さて、今日一寸感じたことを申し上げます。何でも同じ事でありますが、今日坊さんが一人で立つて、色々儀式を執り行はれました。其の間のお経、あれを謡で云へば呂の調子せ申しませうか、落着いた底力のある低い調子で、ちやんと乙甲があり、運びの具合も遅からず速からず、誠に結構に思ひました。又一寸した動作もありましたが、型でいへばヒラキと申しませうか、一寸緩めて一寸詰めるといつたやうな所にもその加減が誠に結構でした。芝居などでもよく一足詰めたり、一足緩めたりする所を見受けますが、あゝいふ動作は総て我々の型の精神と同様だらうを思ひます。
  • 16安川さんは最初は深川の先生(寳生九郎先生)に通つてゐられたのです。上京のたび毎に先生の所へ来られたものでした。ですからもう随分古いものです。四十年以上になりませう。その頃、深川の先生に安川さん、私も御一緒で箱根の奈良屋、修善寺、有馬などへ行つたことなどもありました。先生が逝くなられてからずつど私が参つてをります。私が福岡へ参りますと、安川さんは戸畑の本邸から福岡へ出張されます。最初は謡だけでしたが、後には型も始められました、鼓も三須平司さんや幸悟朗さんについてやつてゐられました。
  • 19先日文楽に行きました。暑い頃の年中行事の一つで、来ると大概行きますが、何時見ても面白いと思ひます。二の替で「逆櫓」が出てゐましたが、実際結構なものです。流石に長い歴史があるから、面白く見られるんでせう。型などでも研究が届いてゐて、主役の人形などは手の動かしやう一つでも、大きく見せる工夫がしてあります。
  • 24佐渡の能 佐渡の本間氏の舞台で能をした時、面白いと思つたのは、時々見所で拍手する事です。何うしてするのかと思ふと芝居でいへば、型とか、見得を切るとか、思入れをするとかいふあたりで、拍手が起るのです。勿論、能にはそんな所はありませんが、見て居る方ではさう見えるんですね。何か特殊の会などで、時に終演の節、手をたゝかれて驚く事がありますが、こゝではのべつですがら、実際驚きました。
  • 24見所の評先日の寳生会月並能に、私は花月をつとめましたが、これは御承知の様に「よつびきひやうど」で正先に出て弓に矢をつがへ、射る型をするところが御座います。その時に、左の手首が上向いてゐましたさうで、或る人から御注意を頂いたので御座います。弓の事は私はよく存じませんが、弓を射る時には手首を下げ、肩から手の線を平らにし、掌に卵を持つてゐるつもりで軽く弓を持たねばならないさうで御座います。あの時は、私も少し高いなと思つたのですが、御注意をうけました。大変有がたい御注意で喜んでをります。
  • 25それからこれも寳生会の月並能でしたが、実盛をつとめました時の事です。橋がゝりで「笙歌遥かに聞ゆ」と謡ひ、「よし〳〵少しは急がずとも」と舞台へ入つてワキに向ひ、中にて下に居て「南無阿弥陀仏」と合掌する型が御座います。その時一寸遅れましたので、私も合掌が具合が悪いと思つてゐましたところ、矢張前の花月を注意して下さつた方から、あゝいふ拝み方はないといはれました。全くきまりが悪かつたので御座います。
  • 26これは誉められた話で、気がひけますが、先日同友会の能で俊寛を勤めました。そのキリのところで「唯手を合せて舟よなう」と合掌してワキを見る型が御座います。その合掌してワキを見る型が非常によくかなつてゐたと、これも矢張り前のと同じ人ですが、ほめられました。
  • 36命尾与作は桐谷正治君の父、鉞次郎の弟ですね。型はやらず謡だけでしたが、ふくみ声で結構でした。私が小さい時たしか摂待の子方を私が謡ひ、与作がシテを謡つてゐて「いかに鶴若」の一句が非常によかつたのを覚えてゐます。先々代の安田善次郎さんは与作の弟子でした。
  • 101謡と型など ○謡の文句と型との関係は大事で、その合はせ方で型が生きたり死んだりするのであります。一般に型が文句に遅れ勝ちといひますか、文句が型より早いいひますか、何れにしても型の方が文句よりあとになるのが、一般の傾向でありますが、これは注意すべきことです。鳴物もなく、運びもゆるやかになる様な処でも、兎角早くつけ過ぎるのが一般の弊かと思はれます。極くせはしく行く処などは、型を早めにとる事もありますが、大体に於ては、文句が出て型をそれに伴はせる位が可いのですが、型がおくれるのも困りものです。
  • 104型も女物はやはらかに、男物又は劇しいものはやはらかではいけませんが、往々その反対になり勝ちです。
  • 106型のお稽古について二三心付いた事を申し上げよう。進む時には大概二足目まではゆつくりと、そして段々につめて行くやうにして、ヒラキの前、たゞ踏み止まるところ、角トリでも、左へ廻つて角を付けるところでも廻り返しの前でも、何れもみんな運んで来るやうにしなくてはいけません。
手塚貞三編『謡曲大講座 手塚亮太郎口傳集』(1934)
  • 3ウ次第よリサシ迄 左に簡略にこの曲の習ひどころ型どころを記述します。囃子方が座に着くと、シテは藁屋の作り物(引廻し掛け)に入つて出る。作り物は大小の前に置かれる。
  • 4ウワカ・キリ・鐘がしら・送り留 ワカ「百年は」から切りかへかけて型があります。「あら恋しの古やな」と下に居ますが、以下留までいろいろの型があり。心持が肝要であります。
  • 5ウ凡そ能には舞物、業物の別がある。舞物とは舞のあるもので、業物とは仕形であつて舞でない物をいふ。景清は即ち業物のうちで謡と腹とを以つて仕形をするのであるから、誠に六ケしい。この能の型は、文句の説明であるから、謡の説明の通りを型にすれば、則景清の能になるのである。全曲は述懐であつて、其位は、始めは序、中段は破、後半は急である。留前から又序に帰る。造物は藁屋に引廻はしを掛け、柱に杖を掛けて置く。杖は藁に結び付けて置いてもよろしい。扮装は、シテは着流し無地熨斗目、水衣、沙門帽子、面は景清である。此面は、流義によつては髯があるが当流では髯のない型の面を用ゐる。姫即ちツレは、小面に、紅入唐織着流し。供、脇何れも素袍男。
  • 6ウ上げ歌の「とても世を」は地のとり方洵にむづかしい。極静かに淋しく、シテの心持ちを謡ひ出すのである。此処シテには別に型はない。ヒメの「不思義やな」云々、シテの「秋来ぬと目にはさやかに」云々、ヒメの「知らぬ迷ひの」云々シテの「又いづちとか」云々、これ等の掛合は、謡も詞も掛合の調子には相違ないが、普通の掛合の如く、ヒメからシテ、シテからヒメと段々に問答するのではない。姫は姫、シテはシテで各独り言を云ふので、両方の独言が自然と連絡するのであるから、両方の心持がお互に通はぬをよしとする。此処の心持を取り違へぬ様に注意せねばならぬ。
  • 6ウトモから「平家の待悪七兵衛景清と申し候ふ」と尋ねられて、シテはハツと思つたが、面にも出さず此処は心持あつて「げに左様の人をば」と落付いて謡ひ「さもあさましき御有様」と、自分の身の上を他人に紛らし「委しき事をば」と逸らしてしまつて、聞いて聞かぬ心持。だから能の型も「委しく」とトモを見「余所にて」と、正面に外して相手にならぬのである。
  • 7オ「なかなか親の」は文句に伴れた心持でうたふ。シテの仕草は、文句につれての心持丈けで、型は更にない。心持ちで形を見せねぱならぬから、此一段は余程難かしい。トモの「如何に此あたりに」云々以下、トモとワキとの掛合には、シテは何事もない。シテの詞「かしまし〳〵」は曲中でも大事な処である。今真実の娘がはる〴〵尋ねて来たのに、名乗らでそれを帰したばかりで、もの思ひに耽つて居た処だから、怒る心で「かしまし〳〵」と謡ふのである。此時にシテは左手を後ろに突き、右の手で耳を覆ふ型をする、此型は弱からず又強からぬ様にする。
  • 7ウシテの「目こそ暗らけれ」は上げ羽の如くのんびりとうたひ「一門のうちに」の入り廻し軽く、「山は松風」と景色を思ひ、「すわ雪よ」と中間の空を眺める心、「さむるの夢の」と身の上の昔を思ひ、「扨又浦は」と気を替へ、近くの海浜を眺める心持、「よする波も」とシテは竹の柱に取り付き波の音を聞く型があるから、地も亦其心を謡はねばならぬ。「さすがに我も」は体も心も直して昔の景清に立ち帰り、杖を持ち、作り物から出る。シテと地との心持がしツくり合はねば、此杖の段の型は出来ない。シテの「如何に申し候ふ」は低く目に出る。「短慮を申して候ふ」と心持あり、「御免あらうずるにて候ふ」と低く目に謡ひ止める。
  • 8オ「景清は三保の谷が」と何心なく、「首の骨こそつよけれと」と心強く、「笑ひて」と気合を抜き心をやわらげる。少し前よりこれ迄にシテの型いろいろあるが、余りせぬ型然るべし。「左右へのきにける」は呂に下げておさめる。
  • 8ウ此処はツレとシテと別れる難かしい型があるから、地が悪るかつたら景清の趣を表はす事が出来ぬ「只一声を聞き残す」はシテに大切な心持ちがあつて、景清父子の別れの大切な処で、ツレも心を残して幕に入る。此ツレは余程芸の達した者でなくては勤まらぬ。
  • 8ウ又「御身は花の姿にて」と云ふ処は稽古の時は、板の間を撫でる様にして、ツレの裾から段々とさすり上げて、肩先迄探り、ツレ(私)の顔ヘシテの頬をヒタリとくツ付けられた。其時私はぞツとした。然し当日にとんな型をされたら面と面が疵だらけになるだらうと余計な事迄考へて居たが、当日は斯様な型はなく、只心持ばかりで演ぜられたが、あふるゝ愛情はしみじみと感じられた。其後私は「ハハア前日は其処の心持を、口に云はず、姿に於て私に相伝されたのだ」と、思つて有難涙に咽んだ。
  • 9ウ「なう〳〵族人」からシテは気を替え、「あれ御覧ぜよ」と東の方を見る型があるから、其心して謡ふ。初同の「月こそ出づれ云々」は、ゆるりと謡ふ、シテの語りは、下に居て語る。「かやうに申せば云々」はしツくりと謡ふ。中入前の「夢の浮世の中宿の」の地は閑かに謡ふがよい。
  • 9ウ但し早くと云ふ意味ではない。「愛ぞ浮世の旅心」はしつかりと張り、上げ羽の「寺と宇治との間にて」から愈々しやんと謡ふ。「宇治橋の中の間」と伸びぬ様に切り「引きはなし」ときめて「下は川波」と下を見る心、「上にたつも」と上を見る心で謡ふ。此辺は型によつて謡の心持もあるのだから、能く注意して謡はねばならぬ。
  • 10ウワキは僧三人。子方も僧の姿、「信濃路遠き云々」の次第は百万などゝ同じには相遠ないが、能柄によつて重く謡ふ。此脇ばかりでないが、人物に位のあるのと、能柄の位によつて重くなるのとの別がある。注意すべき事である。木賊は三老人のものの一つである。三老人とは西行桜、遊行柳、木賊を云ふ。此三番のうち西行桜は真、遊行柳は草、木賊は行である。何となれば他の二番は、柳や桜の精であるが、木賊は現在のものの狂人であつて型が多いからである。
  • 11オシテは「胸なる月は曇らじ」と閑かにおさめて謡ふ、「実にまことよりも」と地は閑かに突ツ込んで謡ひ「真如の玉ぞかし」と力あつて気を込めて謡ひ。「思へば木賊のみか」と気を替へ、「我も亦木賊の」とざんぐりと寂びて謡ひ、「身を古」の「を」の入り、大きく細く謡ひ、「磨けや」と切り、返し「みがけ」と運んで謡ふ。此時シテは腰の鎌を抜き、正面の中へ出て「木賊刈りて取らうよや」と木賊を刈る型をする。此処は曲中大切な秘伝のある処である。
  • 11ウこれに就いて有名な話がある。昔観世太夫が此能を演じた時、此処の型を見た百姓が声をたてゝ笑つた。大夫は楽屋に引込んでから、其百姓を呼んで、笑つた訳を問ふと、其百姓は信濃の木賊を刈る男であつたが、恐る〳〵答へて云ふには、あれぢや鎌の持ち様が違ふから、木賊は刈れずに足を切る、木賊に限つて鎌を逆に持つのだと云つたさうだ。大夫もさる者、其百姓を厚くもてなして帰し、然来此処の型を替へたといふ事である。事の真偽は兎に角、面白い話である。
  • 11ウ私は其話を子供の時分に聞いて知つて居たが、それに就いて、も一つ話がある。故実翁が此の能を勤められた時、梅若舞台で稽古があつた、前にも云ふ通り私は其ツレを勤めたのだから、舞台に座はつて居ながら、実翁の演ずる事を見て居た。肝腎の木賊を刈る処に来たが、翁は鎌を普通に持つて其処の型をした。生意気盛りの私は、ハハア実翁ともあらう者が真の型を知らんのだナ、と思つて居た。処が当日青山御所の御舞台で勤めた時にはチヤンと逆手に持つて勤められた。其処で始めで私は、成る程と、翁の苦心をよむ事が出来た。此木賊を刈る型は、鎌の持ち様ばかりでなく、鎌を当てる文字や、其呼吸等に難かしい習ひがある。
  • 12ウ此曲を「舞曲にあらずして舞ふ曲」と云ふのは即ち此点であつて、シテ自らが、其力を以つて舞ふのではなく、今は行衛不明になつた其子供の昔舞つた舞を思ひ出して、其真似をすると云ふのであるから、常の舞曲の様に此処から立つて舞ふのだと云ふ風に其態度を示すのでなく、只我を忘れていつとはなしに立つて舞ふ、即ち地謡に舞はせて貰ふのである。その舞はずに舞ふのが実に難かしい。就中「我子は斯うこそ」から「颯々の袖を垂れ」の辺迄は型も謡も難かしい。
  • 13オキリの「かくて親子に」とサラリと乗つて謡ひ出し、「仏種の縁となりにけり」迄サラリ。「あとに伏屋の物語り」と吟を替へ、のんびりと謡ふ。此処のシテの型、足づかひ、気合等総べて難かしい。斯ういふ処は心から心に伝へるより外はない。「浮世語り」と閑かに浮やかに抑さへ、沈まぬ様に謡ひ続けて留める。
  • 13ウ–14オ私は此主義で弱法師を勤めた処が、京都の新聞で「大西の弱法師は謡が高く若過ぎる。型にもしつとりした位がなく誠に粗末な品のない弱法師だツた。束京の某大家のはもつと品もあり位もあつた」と云ふ意味の評が出た。之を読んで私は、新聞記者が弱法師と云ふ能の位を知る知らぬのは問題外として、兎に角私の芸を正直に見て呉れた点に於て満足した。右は大体の心持を話した丈けであるが、以下謡ひ様に就いて述べよう。此曲の脇は年輩を選ぶ必要がある。先づ五十歳以上の人に勤めさせるが適当である、三十歳前後の人では俊徳丸の父として釣合がとれぬ。シテの「出入りの」は如何にも弱々と閑かに謡ふ。但し調子が乙入らぬ様にせねばならぬ。二の句は、一セイの調子其まゝに謡ふがよい。此処に限つて調子を替へるのは悪い。「深き思ひを」と心持を充分に謡ひ、心で泣くのである。替の型にはシヲリをする事もある。これは観世十九代清興師の型である。常はシヲリをせず、心持ばかりで演ずる。
  • 14ウ「花をさへ受くる施行の」の地の付け様肝要である。初同に於て、一番の位が定まるのであるから、此処の謡ひ様は常の時は少し強き方、「盲目の舞」と云ふ小書の付く時は、重めに謡ふ。何れにしても、シテの心中を能々玩味して謡ふべき処である。「見る心持する梅が枝の」は味のある処で、謡も型も注意を要する。
  • 15オ「今は入り日や」と一寸切つて「落ちかゝるらん」と謡ふ。「日想観なれば」は、たつぷりと、抑さへて繰る。この処花やかになつては、騒がしくなるから注意を要する。「見えたり見えたり」と心で遠く見る。尤も眼で見るのでなく胸を突き出し、胸に眼のある心持ちを以つて謡も型もするのである。「満目青山は」と考へて謡ひ、「心にあり」とギクリと胸を扇で打つ。謡も其心持でうたふ。「あふ」は軽く前の文句につけて謡ふ。鼓の合ひ方を云ふと、此処はツゞケの間であつてツヅケの止めのボの粒が「あふ」に当るのである。返しの「見るぞとよ」は、しつとり留める。
  • 15ウ此「実にも」の謡ひ出しを注意しないと、乗り過ぎて陽気になり、シテは踊り出す様に拍子を踏まねばならぬ事になつて、聞き苦しく見苦しくなるから、「げにも」と如何にも心持を緊めてじつくりと、乗りを外して謡はねばならぬ。前の調子から行きがゞり上、これは無理な注文の様であるが、然し謡から行つても、型から行つてもどうしてもじつくりと緊めねばならぬ処である。
  • 16ウシテは「夜庚公が」と閑かに、落ちついて謡ふ。「今宵の月に鐘つく事」の一段能く〳〵工夫を要する。「ましてや拙き」と軽くかけて謡ひ「狂女」と伸べ、「なれば」ど軽く謡ふ。「ゆるし給へや」の一段、浮き〳〵と謡ふ。かけ合ひは、シテは少し緩め、地は軽く謡ふ。「百八煩悩の」で鐘を撞く型がある。「真如の月の影」と、月を見る心。
  • 17オロンギはサラリと謡ふ。此ロンギの末に「鐘」と云ふ事四ツある。其のうちの、「此鐘の声たてゝ」と「鐘ゆえに逢ふ夜なり」とのニケ所、シテは作り物の鐘を見る型がある。キリの「かくて伴ひ立ち帰り」以下は、祝言になるから、軽くスラ〳〵と謡ひ、目出度く留める。此能の鐘の作り物を、大小前、若しくは笛座に置く事がある。作り物の位置がかう変はると、シテの型も自然変はつて来て口伝もある。然し此型は余り用ゐられない。
  • 18ウ此中入迄は謡に謡ひ所もなく、又型もない。唯位取りが肝要である。けれども只の里女であるから、定家のやうな位があつてはならぬ。脇の待謡も位がなければならぬが、威厳あつてはならぬ。ザングリと静かに謡ふべき処である。
  • 19オクリは優美に謡つて余りはしやがぬ様に注意する。シテは床几にかゝる。サシ、クセは位閑かに謡ふ。クセにかゝる処の「さきの世の報ひまで」としめやか、「悲しけれ」と呂におさめる。此一句粗末になると、クセの謡出しが出難いから其心して謡ふがよい。クセの「紅花の春のあした」は下の呂に極閑かに謡ひ出す、「凡そ心なき」の張りを高く張つて「草木の」を呂におとして謡ふ。謡も型も心持も大事であつて恋慕、無常、釈教を含蓄して、幽女の最たるものである。序の舞に平調返し、九品の序等ある。弱法師は春で双調。江口は秋で平調である。
  • 19オ「いさめし我なり」と余情気高く謡ふ。こゝは形も謡も心持のある処である。即ちこゝから全くの普賢菩薩となるから、飽く迄気高く謡はねばならぬ「舟は白象となりつゝ」で少し廻る型あり「白雲に打ちのりて」と乗り込む。此辺は地謡と心持が合はなかつたら、シテはとても舞ふ事が出来ないから、地は其心して、能くシテの心持をも汲みとり、充分にシテを舞はせる様にせねばならない。此切り地は極閑かに、徐うに留めるのであるが、謡ひ様や舞ひ方に別義ないのである。唯品位と声曲とを吟味して謡ふことが肝要である。
  • 20オ後の謡ひ出しは、常は一の松であるが、舞台の正先まで出て「夫れ地獄遠きにあらず」とうたひ、下つて座す。「真如の月や出でぬらん」で「空の働き」となる。働きの型も常とは変つて中には鬼足といふものがある。これは一口に云へば飛んで出るので口伝の一つ。石橋、舟弁慶の前後の替などにも此足がある。位は一体静かに、段が済んでから急になり、留めで安座をして了まふ。それでロンギは安座のまゝで、型は一つもなく「実に往来の利益こそ」から、謡を静かに謡はせて大小は流しを打つ。シテは此処で始めて立つて、切りの謡一ばいに幕に入る。ワキは合掌して留める。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第二、第三』(1935)
  • 五1ウ場合によつて異にするものは、唯、面ばかりである。それは観進能などの折に、数日間翁の続く時で、初日は普通の翁の面、二日目は千々の尉、三日目は延命冠者を用いる。この時は二日目も三日目も千歳の謡の文句が少し違ふのである。シテは面が違つても、装束も謡も型も普通の時と毫も異る処はない。観進能で十五日間毎日翁のあつた時でも四日目からは初日に戻つて、普通の面を用いたのである。昔の観進能十五日間の翁ですら、当流では以上の如くであるから、今日の如く観進能のやうなことのない時代に、三日間以上に亘つて、同じ流儀の翁が続くといふことは、まづないと云つてもよからう。だから今日では干々尉、延命冠者の面を用いることは殆どなくなつて居る。千歳に「御前掛り」といふのがある。これは昔将軍の御覧の時などに用いられたもので、型は別に変つた処はないが、千歳は前後とも礼をして居る。シテは無論普通の時と同じである。つまり式である。
  • 五3オ「翁なし」と云ふものは、ワキ方の習ひであるから、私等はその型などの詳しいことはいへぬが、ざつとお話しをする。この「翁なし」は徳川時代は勿論、太閤時代からあつたものだといふことを聞いて居る。「翁なし」は独立した一番の能ではない。本ワキ能のワキが翁の様なことをするので、これを勤める時は無論翁はなく、ワキがこの翁なしの仕型をしてから。シテが出て来るのである。つまり翁が無い代りに、ワキが翁のやうなことをするのである。
  • 五6ウ全体此処の節はどうの、サシはサラリだの、足の運びはどうのといふことは、口授を待たねばならず、叉その曲々によつて、同じ節でも同じ型でも様々に変はつて来るのだから一様にはいへない。それよりも先づ一曲の精神、いひ換へれば主眼とする処をきはめなかつたら、折角の美音も名調子も反故になつてしまふ。
  • 五8ウ景清は随分久しく出ない。当流には此曲を勤める者がないからで、別に此曲に限つて出し惜みをしたのではない。けれども何しろ大曲であるから景清らしい能を演ることは、凡手には望み得ないことである。凡そ難づかしい能に二種ある。其一つは型が多くて難かしいもの。モ一つは型が少くなくて難かしいもの、即ち腹で行くものである。景清の如きは後者に属するから、型が少し器用に出来る位の程度では之を勤めることが出来ない。仮りに勤めたとしても型の上に見せ所が少ないから、型のない処は隙間だらけになつて、迚も見られたものではない。どの能でもさうであるが、殊に此能の如きは器用や場当りの芸ではこなし得ない。そこで当流では、四十歳を越さねば勤めさせないことになつて居る。
  • 五9オ–9ウ何の流義も同じに、謡も能も老女物を最も重くしてある。何の為めに重くしてあるか、それはいふ迄もなく曲節なり型なりが悉く老熟の芸に俟たねばならぬからである。能でも謡でも、重い物に限らず、如何なる端物でも一人前以上の専門家のする苦心は、多くの観客には到底充分には解からない。況して老女物などとなると、これを勤める者は、それはそれは苦心を重ね努力を積むのであるが、その心持ちや型の巧拙等は恐らく解かる人は少なからう。それと同時に老女物として申し分のない能を演じ得る人も、何十年に一人或は百年に幾人より外出ないかも知れない。
  • 五10オ私が常にいふことだが、他流はいざ知らず私の流義では、敢へて考女物に限らず、位や心持は、此処は斯ふいふ風に彼処は彼いふ風に、などとは一通りの者には教へない。それは未熟な者が邪道に陥ることを恐れるからである。処が老女物を許してもよいといふ者は、謡でも型でも一通りのことは出来るのだから、老女物についても心持の表はし方や、位の取り様などは先づ大体は心得て居る。それを尚ほ厳正に叱りもし教へもして行くのである。
  • 七2ウ此点に就いてはいつかの本誌にも述べてある通り当流では、昔から定まつてある型以外には、決して勝手な事を許さない。狐が飛び上つたり何かする様なことをして見せたら、お素人はそれで大に満足するかも知れないが、当流には無論さういふ型も無しさういつた様な調子のものを歓迎する人を標準として能をする事も断然しないつもりである。世の中が一般に露骨な表情や派手な型でなければ観たやうな感じがなしい、といふ風な傾向になつて来たのかも知れない。若しさうだとして、これ等の俗受けを目的にして能を演ずるやうになつたら、能といふものは生命を断たれたも同然であつて、能の形をした芝居になつて了ふ。能といふとのは、飽く迄も昔の型を守つて行く処に価値があるのである。(大正四年六月)
  • 七2ウ其処で乏を纏めて行つて一の欠点もなく勤めなければならない。処が各流の謡や型や間拍子が定まつては居りながら、扨て舞台に出て見ると中々うまく行ものくではない、何処かにアラが出易いものてある。其処に催しの前に申合せをする必要がある。
  • 七6ウお素人の中には能といふものは、昔から番数なり型なりは一定不動であつて、増減も改竄も敢へて為すべからざるものと心得て居る人もあるらしいが、これは大きな間違ひである。
  • 七9オ流儀が違ふと謡でも何でも、其れ〴〵に違ふのであるから、型とても無論各流儀々々によつて違ふのである。囃子方なども甲の流儀では三ッ地を打つ処を乙の流儀では態とツヅケを打つことにしてある。といふ風に、一つの手にも表面の違ひがある、謡や型でもその通りで、甲の流儀で強く行く処を乙の流儀では弱く行き、乙の流儀の荒ッぽく演ずる処を甲の流儀では華やかに演ずるといふ様なことはザラにある。だから下懸り本位の頭や目を以て上懸りの能を見て、「此処は斯うあるべき筈だ」などといはれては演者は迷惑する。四月の寳生会で演じた政吉の善知鳥の時事新報の能評が余りに当流の意を得ないから、参考の為に其処の型の概要を述べておく、先づ「木曽の麻衣の袖を解きて」と水衣の左袖を取つて、「これをしるしに」と、両手にて水衣の袖を持ちワキへ向いてさし出し、少し下げて、「涙を添へて」と、水衣の袖でシヲリをする。
  • 七10オ替の型にも程度先日の某紙能評に、桜間金太郎の忠則を「終におん首打落す」で、扇で頭をさす形をしないで、只くもつたたけだであッたのは左陣ならよいが、金太郎では未だ少し早い。といふ意に書いてあつた。彼処の型を金春流の替の形と早合点をして、金太郎が若年の身を以て替の形をするには早いといふ意味かともとれるが、あれが仮に替の形とし、未熟なものに替の形をさせるのは無理だともいへるが、吾々の目からは一寸した替の形位出来ない金太郎とは見えない。況してあれは替の形でなく、金春流の常の形なのである。其流儀の常の形を演ずるのに早いも遅いもあるまい。出来の善悪は叉別問題である。(大正四年十月)
喜多実『演能手記』(1939)
  • 3能楽は今日一般の方々からは「古い物」といふ風に考へられて居るやうであります。勿論その形式に於て決して新しい芸術ではないのでありまして、装束も古い衣裳を着けてをりますし、謡はれる文章も古い文章であり、その節も声明などから転化して来たものであるさうでございますから、極く古い節廻しによつて謡はれて居る。又三百年も前に定つた型をその儘にやつて居るのでありますから、これも無論古い型をそのまゝやつて居る訳でございまして、つまり条件としてはすべて古物づくめの伝統芸術であることは間違ないのであります。
  • 7所が、その能なるものが徳川時代になつてから、悉く封建制度の余波を受けて、所謂家元といふのが置かれ、すべて家元のやつた事を皆やらなければならないといふ制度になつてからは、一寸した型の末まで頑固に約束づけられてしまつたのであります。弟子家の者は新しい型をやつて見るやうなことはいけない、それは御法度といふことになつて、恐しく窮屈なものになつてしまつた。さうしてそれは今日から言へば幸ひであつたか不幸であつたか分らないのでありますが、その制度――つまり古人の拵へた型を否でも応でもやらされるといふその窮屈さが、自然外面的に新しい事を創作することを許さなくなつた結果として、勢ひ内面的に精進し鍛錬して行くやうになつたのであります。つまり一つのものを何度も何度もやらせる結果、勢ひその一つの型の根本である元素とでも言ひませうか、その技術の一番の髄を会得させるやうなことになつてしまつたのであります。
  • 7–8今日でも吾々はやはり最初から定つた型を与へられて、それを何百回何千回と繰返して、さうしてそこに技術の一番の真髄になる所のものを会得するまで修行を重ねるのでありますが、この一つの型が何遍も繰返されるといふことが、何時の間にか能楽を今日のやうな磨きに磨いた、洗練された、無駄のないものにしたのであります。それで下手な人がやりますとそのやつた型が少しも利かないで、効果を現はさないのでありますが、名人がやられますと、一寸動いただけで非常な深い意味を現はすのであります。
  • 13物を見るといへばただ首を心持廻すだけのことで、それで十分物を見る感じを起させるのであつて、凡そ目で物を見るといふことは出来ない。つまりすべての型の原素を摑んでしまつたのですから、これ以上鳞へる必要が少しも無い訳であります。
  • 14現に今日の上手とか名人と謂はれる人とは、それを立派に実現して居るのであります。この頃「創造」といふことを申しますが、それはただ新しい形を造り出すといふ意味に過ぎないやうです。然しもう一歩進めて申しますと、創造と云ふことは、自分の個性を何物にか託して飛躍させることだと思ひます。ですから、能のやうな原素的な型を持つたものだつたら、古い型であつても、新しい生命を盛り込む事は可能だと思ひます。
  • 15私などは特に荒つぽい修業をして居る方ですが、古い型は与へられてありますけれども、その型を出来るだけ自分の我儘でやつてのけるといふ練習をするのであります。前に申した林長二郎式に、うんとぶつた斬るといふ修業をやるのです。我儘をし抜いた結果やつと自分で気が付いて、あゝこれはこんなにやらないで、もつと動き方が少くても効果を現はすことが出来るのだといふことが判つて来て、段々その与へられた型と自分との調和が取れた時に、初めて良い型が出来るのであります。決して初めから物を矯めたり拵へたりして修業するのでない。思ふ存分外へ力を出させる。それが次第に自分でその必要を感じなくなつて、動作が段々要約されて来て、そしてそれが舞台や装束と自然に一致した時に、初めてそこに能が出来るのである。
  • 20型の意義 能楽は特殊の表現様式を具へた舞台芸術であります。その科なり動作なりは、我々の日常の挙止動作とは大変趣を異にして居ます。例へば泣く場合に、能の方ではシヲルと称して、かういふ科をやつて見せます(実演)。これを下手に演ると、何か、近眼の人が本でも読んで居るやうにも思へますし、又手相を観て居るやうにもとれます。然し上手な人が演りますと、泣いて居るなといふことがはつきり判ります。然し上手に演らなければそれと判らない位日常の行り方とは変つて居るのであります。
  • 24要するに劇には劇としての立派な表現様式がある、それが私の云ふ型なのであります。ところが映画は劇よりも更に実際に近く、殆ど事実の再現と云つてよい位我々の日常に近い動作がそこに行はれます。然しそんなら映画は何でもないぢやないか、我々だづて平生の通りの科をやつて見せればいいんちやないか、さういふやうに考へるでせうが、、やはりさうは行きません。さてこのやうに、三者の比較研究をして見ますると、結局演出上には多少の差こをあれ、皆それぞれの表現様式――型――があります。ところでこの映画といふものは、非常に面白いもので、第一見て居て退屈しない。興味を感じると云ふ点では第一でありますが、少し考へて見ますと、どうも劇と比べて印象が薄い、恰度ラヂオや蓄音器で聞いた音楽が肉声のそれより印象が薄いのと同標であります。
  • 26総合芸術と云ひ条、その内容に於ては、その九分通りの権利と責任とをシテ一人が背負つて居るのであります。そしてそのシテの演技をも極度に制約してなるべく動かない、そしてある中心に来た時にぞの曲の精神を最も端的に現はすやうな型をやつて見せて、印象を強くする、何にも無い所に光つたものが一つある、さう去ふ極端な象微的な演出法をとつて居るのであります。
  • 26能は恰度、その彫刻のいくつか連続したものと見て頂けば宜いかと思ひます。その一つ一つの型に多くの名人上手と云はれる人たちが血於吐くやうな刻苦と共に刻み込まれた魂が飛躍して居るのであります。見て居る人がその演者の魂に打たれて、演者と同じ心の高さに達した時、初めて演者と同じ歓びにひたることが出来るのであります。
  • 27能の型には大体二つの方面があると思ひます。一つは、謡の文章なり、言葉なりの意味を説明する表示する型、もう一つは、謡はれる謡の文章や言葉と少しも関係のない、全然それとは別の、少しも意味の無い動作に過ぎない動き、さう云ふ二種類があります。然し、その意味を現はすと云ふ方の型にも、こまかく分けますと、又二つの行き方があるやうに思はれるのであります。意味は現はしますが、その現はし方が、一つは非常に写実的な行き方、殆ど誰が見ても成程あゝ云ふ意味をなして居ると云ふことの直ぐ判る、露骨な現はし方をして居る型と、もう一つは、意味を現はすのではありますが、その現はし方が多少暗示的な、形容的な現はし方をして居るものと、かう二つございます。例へば「安宅」と云ふ曲で弁慶が富樫の眼を眩ますために主君の判官を富樫の面前で打据ゑる所があります。その塲合、金剛杖を取つて判官の被つた笠を三つ四つ打つのであります。さう云ふ型は申すまでもなく露骨な写実的な型であると云つて差支ない。
  • 28それからもう一つの形容的にそれを現はすと云ふ型の例としまして、「羽衣」に「七宝充満の宝をふらし」と去ふ文句があります。この時は、両手で以て(実演)かう招くやうな型をします。それはその言葉がなければ何の動作をやつたのか意味が分りませぬが、然しそれを「七宝充満の宝を降らし」と云ふ謡に付けてやられますと、成程其処らあたりが非常にきらびやかなものに充ち満ちてゐると云ふやうな感じを、受取れば受取ることが出来るのであります。かう云ふ場合には、これは決して露骨な写実ではない、形容的な現はし方であると思ひます。
  • 28そこで写実的にしろ形容的にしろ、ともかく意味を有つた型の方を「シグサ」と仮に言つて置きます。全然意味のない型、これを「舞ノ手」と言ふのが適当ぢやないかと思ひます。その「舞ノ手」と申します意味のない型にはどう云ふ種類のものがあるか、それは極く僅かしかありませぬ。「シカケ」と「ヒラキ」。「シカケ」は斯うやるのです(実演)。
  • 30それから「鉢木」で、雪を払つて木を伐るところ、「松風」で、形見の衣裳を懐しむところ、「班女」で、「欄干に立尽して」のところなど、さう云つた風な型が私の申上げる「シグサ」に当るだちうと思ひます。さてこの通り能の型に「舞ノ手」と「シグサ」と両様あると云ふことは、どう云ふことを意味して居るかと申しますと、能その物に二つの方向があることを証拠立てて居るだらうと思ひます。つまり、全く意味のない「舞ノ手」があると云ふことは、「筋のない能」があると云ふことに当るだらうと思ひます。私がここに題目として提出しました三番目物と云ふものはそれに当ると思ひます。無意味な型の連続ですが、その舞の美しさを見るのが主である所の能であります。それから「シブサ」は多少劇的なもの、それが題目の四番目物に相当するのであります。さう云ふ二つの方面を能は持つて居ると思ひます。
  • 33どう云ふ所を一番大事にするかと云ふと、子供を探ね慕つて来てその子供が死んだと云ふ悲痛、さう云ふ沈んだ重苦しいやうな気分を先づ一曲の精神として、やる方でも、そのつもりでやらなければならぬ。その上に所々で肝腎な、山とも言ふべぎ型があります。「シグサ」があります。所謂能通の人はさう云ふ「シグサ」とか、一曲の精神とかを先づ観どころとして居ます。例へば、業平の歌を思ふにつけて「名にしおはばいざ言問はん都鳥我思ふ人はありやなしやと」と云つて、都鳥に問ひかける型。或は又「船こぞりてせばくとも乗せさせたまへ渡し守さりとてはのせ給へや」と云つて船頭に迫つて行く型、又終ひの方では「此土を返して今一度此世の姿を母に見せさせたまへや」と感情を激発させて慟哭すると云ふやうな、局部々々の型を観どころとして居ます。又実際にうまく演出されれば、非常に面白い所で、その狙ひ所は何処までもその曲に即して居ます。
  • 36私達がこの三番目物をやつて見まして感じますことは、成程四書と云ふものは、型としてやりにくい「シグサ」もありますし、又その曲の心持も出さなければならず、その型の意味も表はれなければならず、観る方でも、それだけ非常に興味をもつて見られるのですが、仮にその技術が上手に出来たとしましても、上手に出来た場合には、多少の満足を感じますが、その後でこれでいいか知らんと云ふやうな気持が頭に浮んで来る。何となしにそこに多少空虚な感じがする。
  • 37先に申しました「シカケ」、「ヒラキ」、「サシ」、「を右」一と云ふやうな型の連続であります。全く白紙のやうなものであります。それに向つた時に自分の心持を全部それに傾け尽す。それが出来て初めて本物だと云ふ気持がします。相撲で言へば堂々押切つて勝つた、又は自分の力で向ふを投げ倒した、本当の勝であると云ふやうな安心さを自分逹は体験するのであります、ですから三番目物と四番目物と同じく特色があると申しましても、これは対立的のものではない。
  • 47これなんかも直面物で且つ現在物でありますけれども、決して筋其物を一番の中心とせず、舞台上の舞とか型とか云ふものを見物に鑑賞させる方が主になつて居ます。所謂お芝居を立派に避け得て居るのです。
  • 58後見座で前折烏帽子を著ける。この紐の結び方が常と違ふ。後に鐘入の直前、烏帽子を扇で払ひ落す際、左手でグツと引くと、バラリと解けるやうに結んで置かなければならない。花結びでないから、ややもすれば緩んで、落す時迄持たずに途中で落ちる。流儀でも、三四度落ちた。今年も、既に二度も落ちたさうだ。別に芸の下手上手に関係のない事だが、一寸したキズでも気持が悪いし、肝腎な鐘入前の型が出来ないから淋しい。
  • 83日本の最も高い芸術界を代表して来て居る、といふ気位を示して貰はなければならない。自分の芸の能ふ限りの努力をして、その真価を紹介しなければならない。同君は調子もあり、型も佳い。恐らくこれだけの先生を迎へるのは、単に喜多流ばかりでなく、各流を通じて米国としては最初だらう、と威張つても間違ひはない筈だ。
  • 97ある新聞に、ある有名な大衆作家が、菊五郎君礼讚をして居るが、その内で、舟弁慶の後に、薙刀を肩に花道を出る時、匁先が二階に当つた瞬間、クルリと薙刀を廻して、この小さな失敗を、逆に一つの型と気勢を作つて進んだことを非常に驚嘆的に讚めて居る。そんな小さい所に目の届くその作家の眼も相当玄つぽいと云つて宜からうし、菊五郎君の気転も感心されて差支ないものに相違ないが、少々讚め方が大仰なので、あれで林讚めれらあ菊君も却つてくすぐつたからうと察せられる。
  • 97後へ廻る型は無いのであるが、坪折を挟むために後へ向く、それを一つの美しい型にする。これなんが菊君の場合と同じ即妙的気転で、更に妙なるものであるが、これ程のことは、どこ迄も気転に過ぎないので、名人でなければ出来ないといふ技ではない。既に名人でない私は、もつとその意味で困難な気転を利かして居る。中尊寺で「熊坂」の仕舞を舞つて居る時、まだ大分多くの型を残して長刀を折つてしまつた。替は無し、直ぐ扇で後の型をすませたが、どういふ型をやつたか、済んでから思ひ出されもしないが、やりながら自分でも、よくも謡の文句通りの型を、手順よく行れるもんだと感心したものだ。
  • 136野口さんの謡には、殊に敬意を感じた。大牢の滋味とはこれを謂ふのであらうと思はれた。一般の人には、あの苦渋の声調が邪魔になつて、その味に迄到り得ないだらうと思ふが、官能を超越して、ひたひたと心を以て心に接し得たなち、そこに自由な伸び伸びとした、謡の躍動を感ずることが出来るだらう。大きな謡だと思ふ。皆、もうすこし、あの謡を珍重すべきだと思ふ。型に対しては、学而不思則罔、思而不学則殆といふ論語の章句を考へさせられた。
  • 136後見や地議の挙動と雖も、勿論型を崩すことは絶対に怪しからんものと思ふ。宝生の立衆やツレを見てよく訓練されて居ることを床しく感じたが、後見をした人で、肩をゆすぶつて、恐ろしく昂然と歩いて居た人があつた。その動作のうちに、何か驕慢の気が見えた。深く戒しむべき事と思ふ。
  • 159十月二十三日、稽古能に初めて「藤戸」を舞ふ。何となくものになすさうな予感がしたので、やつて見る気になつたもの。一番やりにくいところは、やはり曲のアゲハ後の型、到頭当日まで手に入らないでしまつた。ほかには型としてとなれにくさうな処はない。一ところ、一番大切な眼目の型がものにならないので、一向伸び伸び舞へなかつた。一番最初に稽古したときが一番よくやれた。
  • 160熱情が足りない。つまり型が気になる程度を出でない。もつともつと度重ねる必要がある。そして型を離れなければ駄目だ。後は思つたよりやりよい型ばかり。但し出端の謡は実に退屈、我ながら。「人目も知らず」とシサリ、右付き、左右と膝行で出、一寸面切り――この面の切り方曇りすぎ――あとじつとワキへかかる。手順は判つたが、そいつの連絡がたりよく行かない。安坐してまた立つ常の型は却つてやりにくいので、替の型でやる。当分これでやつて行くつもり。
  • 162「昭君」のツレ和谷、子方和島。ざの日調子殊に悪し。水衣の肩を上げたが、これは上げぬ方が宜いやうに思はれる。心を慰めるための庭掃きだから、上げては商売の庭掃きのやうに見える。「散りかかる花や」の地のかかり方足らず。然し型を運ぶ上からは追ひ掛けられることなくてやりよかつた。
  • 163後は脱ぎ掛けの予定だつたのを「花筐」と続くために腰巻にする。着附鱗箔、白頭、黒塚でなくて白塚だと誰かが云ふ。柴は抱いて出る。前よりは思ひ通りやれる。「黒塚に隠れ棲みしも」の見込はやはり失敗。従つて型おくれ以下は狼狽の気味、蛇尾に終る。
  • 164あれから恰度十年になつてゐるが、果してどれ位進歩したかと顧みると忸怩たるものがある。真の一声あと舞台へ入るとごろ、大鼓のシカケが早くて、つい浅くとまつてしまふ。初同の正先へのシカケ、まだギコチない感がある。上羽あとの型は昔からやりよかつたが、今度はシカケ右へ開いて角の方へ二度掃いてみる。さもないと、作物へ向いたとき正面へ真向に背を向けることになるので。
  • 171後の一声は調子楽に出る。前は謡が難儀だつたのに、此の頃は声を外へ出すと楽に出て来る。今迄はやはり内攻しすぎて居て、引く息が全然無かつたのに相違ない。流儀の謡はともすればかういふ危険に陥る惧がある。「序の舞」は幕の内でサラリと太鼓に注文したため大変速かつたが、ノリはよかつたので、五段舞つても何ともなかつた。しかし「序の舞」は気持よく舞へたと思ふ。但し「曲」が速すぎて、たうとう手も足も出ずに終る。一体この「曲」、文句が短かすぎて型の処置に困る。
  • 172五月十七日、福岡警固神社にて学生鑑賞能、「羽衣」を勤める。前半は大変よく行つたが、後半は型を運び切れず、粗末なものになる。天冠が重く、腰が軽くて、どうにもならなくなつてしまふ。天冠のカネのやつは困る。他に「船弁慶」、前を正利、後を兄。
  • 173声を嘎らしてしまつて、謡は苦しかつたが、型は馴れた曲なので、演りよかつた。然し調子が悪いと、一番大事なワキとのカケ合に気が入つて行かず、一曲がそのために生きて来ないやうな気がする。
  • 174「羽衣」は最初からの持役。直面で一番舞つて置いたので、「羽衣」も大変楽に行く。初同橋懸から舞台への運びは最もノリ好く行く。曲も宜し。舞は多少運びめにやつて貰つた。破の舞以下は例によつて満足とは行かず。切になるほど型を運び切れぬ破綻を暴露する。まあ然し僕の「羽衣」としては一番宜かつた方、キリを物にする事が大切である。キリさへ自分のものにすれば、やりよい曲の一つにならう。
  • 178十月五日、同第二日、巴(柴藤)、小袖曽我物着(両梅津)、松風見留(粟谷)、望月(実)。此の日は本当にしつかりやれた。名乗りがうまく行つたので好い気持になつたのが最大の原因。唯アイが素人のため「望月の秋長」の呼吸悪く、裾を蹴る型はキツカケを失つて失敗。獅子は安福、越智、佐藤の諸君が居てくれるので本気でやれた。笛は金内さん、無難に吹いてくれた。
  • 180大小座着くと出て――姉を連れず――地謡前へ坐る。ワキの名乗り、狂言との問答、子方の呼出し、子方の述懐、案内、シテと子方との対話は子方真中、初同終つて狂言同士の問答、狂言下人チ方を連れて行き、子方は後見座、シテ次いで中入。狂言子方へ橋懸で(子方一の松)切諫坪折を脱がせ竿を置き去る。子方竿を取り、引きずり、舞台シテ柱先に立ち、「さりとては」と謡ふ。
  • 181一月二十五日、喜多会「絵馬女体」粟谷、「八島」実、「東北」父、「土蜘」梅津。「八島」は二度目かと思ふ。稽古の時よかつた調子又出なくなる。幕離れは宜し。床几のアシラヒ段々身体がずり落ち誠に難儀。「鉢附けの」〇型たうとう稽古で出来なかつたもの。此の日両手の力を抜くと不思議に身内に油然と力が籠つて来て思はず「左右へくわつと」の面遣ひまで夢中でやつてしまふ。こんな陶酔状態で型をやつてしまつた事は特異な例。いつも意識を離れることの出来ない歎を飽いて居たので非常に嬉しく感ずる。この段地謡辷り過ぎて型の運び思ふままに行かず。概して前は不十分だつたと思ふ。
  • 182今度は呼掛から調子よく、占めたと思つた。山姥の前はいつも調子宜く謡へる。これは不思議なことだ。但し困るのは下に居ての長丁場で足がすつかり参つてしまふ事だ。だから中入前が型がよく行つた例は無い。今度はまあ〳〵位の処。処が中入で装束がおそくなつて頭の毛を解くひまもなく幕に掛つて「お幕」だつたので、すつかり気持を荒されてしまつた。杖のつき方が今度こそはうまく行く筈だつた。
  • 184四月二十二日、稽古能、敏樹さんが珍しく「江口」、僕は、「鉄輪」。これも装束では初役。次第は割合にずつと一ト息に出られた。中入前の型は稽古の時ほどにも十分に行かなかつた。ギゴチなく且つ腹の中からの力が無かつた。
  • 187よく出来たと思ふのではない。現に父から「荒くつて仕方宏ない」と云はれた位だから。然し身内にあるものをすべて出し去つたと思ふ。これで宜いんだと思ふ。これで数を重ねて自然に熟して来て、自然に更に力が深まつて来るのを待つのが宜いんだと思ふ。雪鳥老に「強さが足りませんかね」と訊ねたら、「さう、強さつてつまり型と型との間をねつとりとした強さで繫ぐその執拗さがなかつたと思ふ」と云つた。成程これもさうだつたらうと思ふ。硬い強さ(父の所謂荒さ)ばかりで柔い強さにまで力が深まつて居ないに違ひ無い。
  • 188六月十日、稽古能「烏頭」僕、「花筐」兄。いつの間にか消極的になつてゐる自分だつた。余り自身を意識し過ぎるために型を運ぶ一つ一つに破綻を恐怖する気持が邪魔になつて仕方がない。もつと伸び伸びと、「烏頭」にならうがなるまいが、思ひ切つてやつて行かなければ止つてしまふ、一つは知らぬ間に大家芸を気取り出したのがいけないと思ふ。
  • 190子方が呼び止められてからのワキとの問答になつて、調子が急に楽になつた。いつもがかういふやうに楽に謡へて居なければいけない。その代り子方を金剛杖で打つ型が恐ろしく変になつてしまつた。
  • 192今日幕離れ先づ宜し。調子は痛めては居たがこれも宜し。初同は未だしと思ふ。唐織着流し物の初同、特に前へ出てシカケ開キ、これだけの型が手に入るやうになるのは何年先きの事だらうと考へたのは十四五の時でもあつたか。爾来約二十年に垂んとして今日まだ完う出来ないのは何等の凡骨であらうと思ふ。
  • 193全部安福君独りで頑張つてくれた。「朝長」は初役。最初の稽古の時後が荒くていけないと云はれた。次ぎの時から気をつけた。演つた後で考へて見ると、一向詰らない気がした。恐らく観て居る人――見物は無いが――に、何らの印象をも与へ得ないやうなものだつたらうと思つて、恥かしく思ふ。型は少い。然しその一々の型はそれぞれに相当異つたある感じを与へる性のものの筈である。処がどれもが無難に了つてしまふ。それでは「朝長」を何のために舞つたか判らないではないか。静かに考へてみる。どの型も手に入つて居ない。
  • 194殊に「あぶみを越して」と左右へ身を廻す処が一番いけないと思ふ。「馬の太腹に射つ附けらるれば」の型は、荒くなることを承知ならどうにか行きさうだつた。が荒くなつていけない、の一言が気を挫いた。思ひ切つてやり得なかつた。
  • 197なほこの俗情的な曲を演じるについて、一つの野心を蔵してゐた。それは人によつてその扱ひ方に多少の違ひはあるだらうけれども、私は出来るだけ所謂写実を離れてやつてみたいといふことだつた。出来れば型の意味を頗る暗示的な行き方で表はしたいと思つてゐた。
  • 198尤も装束では初めてである。調子に不自由して語はいけなかつた。後の型はこの前より多少よくなつた。中将を掛けながら、型は相当強いもので、ややもすれば平太になりたがる。一つ一つの型をやりながら、ハテナ、今のでは平太だぞと思つたりする。それに型付には後は「八島」と同じやうに心得て宜いなんかとあるので、愈に迷つて来る。この間のは矛盾は結局解けずに終つたと云つて宜い。尚ほ出端の位が相当しつかりして居るので、「あら貴との懺法やな」の謡が出にくいこともそのまま未研究として残してしまつた。
  • 198十一月二十四日、稽古能、「兼平」五郎、「野宮」実。次第を今日初めて軽く謡へる。初同の型は何度やつてもやりにくい。それ以外は割合に懸命にやれたと思ふ。
  • 199初同の「物はかなしや」は鳥居の真中、後の「露打ち払ひ」の型は扇持つたまま。これは扇をのばして持つたので直された。◇十二月十九日、ハヤシ方同友会、九段舞台、「小鍛冶の白頭」を勤める。金春との合同青年能の行はれて居た頃初めて勤めて以来のもの。その時の稽古が積んで居ゐので相当自信はあつた。但し今度は前を十分に演りたいと考へて居たが、思ふやうに行かなかつた。中入前の気分なども物足りなかつたし、曲の型もみんな利かなかつたと思ふ。やはり後の方は楽に伸び伸びと舞へた。
  • 200今迄数度の乱の内今日のが一番十分だつた。もう一二度やれば余程思ふやうにやれさうな気がする。毎年一度づつ舞はうと思ふ。ハヤシ方も大分流儀の乱に馴れて来て居た。下り羽はまだまだ速すぎるやうだ。追つかけられて余裕が出ない。気持がよかつたので六段目で思ひ切つて足上げたまま頭振つてみたら見事によろけた。カカリの笛の方へ倒れる型はまだこはくてしつかりやれない。
  • 209六月十一日、学生鑑賞能、九段、「邯鄲」実、「羽衣」父。「邯鄲」は伊勢で一度、松山で一度、東京は今度初めてだ。尤も稽古能で十五六年前にやつたことはある。やりにくい能であることをつくづく思つた。楽を舞つて居る時は三番目ものを舞つて居る、時と同じ一筋な気持でやれた。舞ひ上げてからはさうはいかない。意味のある型が次々とせせこましく重つてくる。かう云ふのが一番僕には苦手だ。
  • 212概して前半は春よりどうにか良かつたが、楽は一畳台が自家のよりも半足づつ狭くて参つた。ハヤシはさぞかし速いことと覚悟をして居たら、これは反対に遅かつた。遅いのと狭いのを喰つてたうとう最後まで暗中摸索の態に終つた。仕舞の件も流暢さを欠き、型は一つ一つ単なる型にのみ堕した。橋懸の型も一向に利かず、ただ合評会の時云はれたので特に「皆消え〳〵と」面遣ひの後暫く留つて見ることは忘れなかつた。そのためか飛込みは今度の方がうまく行つなやうだ。少し奥の方へ飛び過ぎたやうだが、結局楽と仕舞の部分が出来る迄は機会ある毎にやり直すことにぎめた。子方長世。
  • 213一体自分は唐織着流しが一番やりにくい。唐織を着て立つと、身体のほんの一部分にしか力が入らないで、我ながら情けない心細さを感ずる。今度は一つ舞台へ根が生えたやうに立ちはだかつてやらう、外から見た恰好なんかどんなに変でも構はない、まづ両手の構へをいつも気にしすぎる、その結巣上半身に凝つて下半身がフラフラになる。暫く形に対する意識を去つて両手の構へを忘れよう。――かういふ考で練習した。身体全面に力が平均して入るやうになつた。運びも軽く弾力を持つて来た。一つ一つの型を今迄のやうに銃角的にやることを止めて、つとめてフワリと全身でやるやうにした。そしたら型と型との接ぎ目が初めて調和するやうになつて来た。
  • 214シテ柱で定則通り角を立てたんでは折角のこの型破りの型が無意味になつてしまふ」といふ注文を受けた。此のことはやりながら角を立てずに入るべきぢやないかとの疑念もあつた。
  • 215後はどうか仕舞の時のやうに思ふ存分やつてみたいといふ希望が、どうしても遂げられないのが残念だつた。私一人ではないのかも知れないが、何だか人のを見て居ると、思ふ存分余裕をもつてやつて居るやうに思へて仕方がない。何しろ息が苦しくなつて、無念残念と思ひつつ力の入らない型を次ぎへ次ぎへと逸してしまつたやうに見える。満たされない感じだ。然しこれ以上私の体力はないとすれば、もつと楽に、しかももつと充実したやり方があるのかしらとも思ふ。
  • 215十一月十二日、学生鑑賞能に「鬼界島」を舞ふ。前半は初演の時相当にやれたもの。今度はどうもあの時のやうには行かなかつた。此の前は綱を出して、それを探すために失敗したので、今度は綱無しでやつてみる。この方が型は自由に行く得がある。大体に於てガサツな出来。
  • 217型の一つ一つはとてもむづかしい。仮令いかに技の器用な、頭の良い人間が出て来ても、あの父の一つ一つの技巧を真似出来るものではない。ところが吾々は余りにも強くあの恐ろしい技術を目に烙きつけて居るので、殆どあれ以外の「景清」なるものを想像することが出来ない。やれば必ずあの真似の下手なものになつてしまふ。余りに立派なお手本を持つ人間の不幸さがここに在る。
  • 218有難いことに私は父の「景清」を見過ぎる位見過ぎた。印象しすぎる位印象した。単に型のみではない、型を通して、その型の持つ心持をもう沢山だといふ位頭にしみ込ませてしまつてゐる。型を手本とせず、あの心持を手本としょう。一気にあの心持を頼リに、そのまま演じれば宜い訳ではないか。勿論あの型の一々が頭を離れない。さうしてそれ以外のやり方の想像出来ない現在、あの型の下手な真似の端々が盛んに飛び出すだらう。だが、私は何もあの型を目的として居ない。あの型の心持をしつかりつかんでやらうとしてゐる。ここ迄来て私はホツとした。
  • 221何遍舞つても飽きの来ないものは、ヤマのない単にサシ、ヒラキ、左右等定石通りの型ばかリのもの。「東北」、「誓願寺」等の類である。謡に対して型の多いものは嫌ひで舞ひにくい。「杜若」なんか何遍舞つても舞ひにくい。来年からは無論こんな仕舞の練習位を記録なんかしない。その代り一日に五番でも宜いから毎日万遍なしに舞ひたいと思ふ。勿論千番以上舞ふつもりだ。
  • 223その他すべての型の一々、まづ水準迄のことをやり遂げたが、演後何となし満ち足らぬ感があつた。畢竟この曲は技術的の能であつて、力で舞ふべきものでないためかも知れぬ。
  • 229稽古能ではやつたととはあるが、公開のものとしては最初である。この日、最初の間は調子難潞であつたが、次第に恢復して、後半誠に楽であつた。型の方も大いに油が乗つて、地方の能としては十分に舞ひ得たやうに思ふ。九十八度の酷暑ではあつたが、演了後もさして疲労を覚えず、今一番位舞ひたい程の余裕を残し得た。
  • 234不勉強の報い観面で、今年はいつもいつも調子の好かつたことなく、特にかういふ曲で謡の悪いことが官身の気持を損ずること一方でない。語、従つてよからず。後半の諸の型みな中心からの興味の湧出によらず、つけ景気的に気を入れたに止まつた。空疎の感のみで曲を終つた。
  • 239「夫婦の老人のかたじけなさ」と手を突く型のある事を知つて居たが、尉の姿に取り合はないからやるまいと考へて居たが、前の食ひ足りなさを取り戻したいためにたうとうやつてしまつた。演つてみれば、それ程悪い型でもないかしらとも考へた。中入前のシカケ開キ、一曲中一番十分の思ひをした。
  • 240「名残さへ涙の落魄るゝ事ぞ」と正先下を見詰めて後へしさる辺は最も会心であつたが、曲に至つてまつたく不安な型を続けた。曲中「現や夢になりぬらん」と右廻り笛座の前迄行き「猶懲りずまの心とて」と角へ行き、「又帰り来る」と地謡の方ヘクツロギ、「思の色や」と左へ廻り大小前にて左右打込、「柳桜」とヒラキ、以上随分変な型ではあるが、型附の通りを演つてみたが、あれで宜しいとのことであつた。この型は「又帰り来る」と云ふ意味だけのものと思ふが、かういふ演り方は他に余り無いと思ふ。
  • 241「霧のまがきの島隠れ」の右へのヒラキは稍不十分で、気合の籠り方不足かとも思つた。「忘れたり」の打合せは気合、型とも今迄のこの型より一歩出た出来と思はれる。中入は少し走り過ぎたが、時のはずみ、止むを得なかつた。
  • 242切りは、初演の時、多い型を持て扱つた、と非難されたことを覚えて居る。今度は一つ一つ丹念に、納得の行くやうにやりこなせたつもりで居る。
  • 243後に只円翁の手附の写しを見ると、面は増を用ひて宜いとある。勿論舞衣である。これなら素的だと思ふが、四段目の飛上る型が、この場合は一寸差障るやうに思ふ。扇は「鷺」の性まり模様の筈だが、これはこの前作つて置かなかつたらしく見当らない。
  • 244この日声を痛めて居るところへ講演会があつて遂に四十分程しゃべつて来たので、謡は工合悪かつたが、型は近来会心の出来だつた。後は問題でないが、前の運びが気になつて居た。出てみると非常に楽で、思ふ存分に舞ふことが出来た。
  • 246「舟弁慶」に引続き、この日も運び出し良好、中入前の文句少く、型多い無理な処も十分にやれた。間は山本晋君で本式の女体の間、随分長いシヤベリだつたが、それで装束がいつぱいの処だつた。楽はバンシキ、特に静かにと囃子方に頼んで置いたが、やはり乗つてしまつた。大体バンシキを静かに吹くといふことが無理な注文なので、これは黄鐘にして静かにやつて貰ふより仕方がない。以来は黄鐘にしようと思ふ。
  • 253「阿漕」は二度目、共に稽古能に於て勤めたものだが、中入前の型は依然として手に入らぬままである。特に「繰り返し〳〵」のところは型そのもののやりづらさもあるが、もすこし何とかなりさうに思へるが、どうもならない。手先でやらずに身体で左右へ乗り込むんだな、と迄考へては居るが、実際になると綱糸と竿とがこんがらかつて煩はしい。兎に角不満足のまま残つてしまつた。
  • 255最後の「元の如く這ひまとはるるや」の型は、自分では最初から演りよい型であつたし、自然好きでもあつたので、何度も繰り返したから、一番中での自信ある型と云つて差支あるまいと思ふ。初め教を受けた時、柱の周りを一遍廻るだけであつたのを、不足の感を以て不審に思つて居た処、型附に二度廻るとあつたので、扨こそと二度廻つて見たら、とても出入が多過ぎ冗漫でやれるものでないことを発見した。成程一度で十分のものと納得した。ギリギリと執拗にからみつく感じ、これは痩女の運びによつて初めて出し得られるものである。
  • 256も一。つ、しくじつた。「捨てても置かれず」と長絹を左へ外して次ぎの型へ移らうとした時、見事にヒヨロツとよろけてしまつた。それも明瞭によろけてしまつた。面の下ながら赤くなつてしまつた。
  • 259「石橋」は三つ台である。十二代能静以来出たことのない大秘曲三つ台だ。その先代すら暗闇で百遍も練習したといふ程のものを、未熟の自分が二十遍やそこらの練習でやるのは僭上の沙汰ではあるが、震災で記録を失つて居るのを再録する、かねての宿志を初めて達成するのである。父が居てくれたからこそ出来た仕事だが、さうでなかつたら、この喜多流にのみ存在する三ツ台の型も永久に滅びるところだつた。
  • 263後は少し気分を静め、引締めてかかつたら、序の舞はよく舞へた。切の型も一通り纏つたものだつた。ところが、能が済んで時間が経つにツレて、段々その一通り纏つた出来が気に喰はなくなつて来た。個性の薄い、誰が演つたか判らないやうな無難なものだつたやうな気がする。
  • 265なるべく気をくさらせまいと自らいたはりながら後にかかつたが、「牛の小車の廻り迴り来て」が例のやうにギリギリ廻れず、ここも失敗。切の「鳥居に出入る」も地との呼吸合はず更に大失敗。たうとうここだけは十分といふ型一つも無しで無念残念で終つた。せめてもの心やりは、序の舞だつた。いつもだけのことはやれたらしい。深くとり込んでいつぱいに舞つて行くことが先づ出来たと思ふ。
  • 267中入前の「ましろの鷹」と「水」の型だけ少し我が意を得たかと思ふ。後は少しヤケ腹のまま暴れる。終つて坂元氏と色々話して居たら、父が入つて来て「田舎の竜のやうだつたよ。坂元さん、さう思ひませんでしたか」と。
  • 267先づ前の一声から運びは大いに困難であつた。息を引いて辛うじてよろけはしなかつたものの……。初同以後稍立直つて型を拾つたが、到底余裕のある芸ではなかつた。精一杯といふ形だつた。後に父から、前はもう少しサラリ浮立つべし、語の中から位変るべしとの教示があつた。雪鳥氏も前はもう少し可愛らしいのではないですか。少し初めから位過ぎると云つてくれたが、その謂ふ所の義は一つであつた。「その時妾思ふ様」の位の変り目が鮮明でなかつたと聞いて、成程さうであつたらうと肯かれた。
  • 268「刺し違へて」の型は到底父のやうな、グイとした鮮かな業は出来兼ねるので、これはハツと心持だけを腹に引込んで、あと緩かに体を伸ばしたが、自分としてはかういふ道を選ぶことが賢明であるとして、更に工夫を要すると思ふ。中入は十分だつた筈である。塚の内、「亦恐ろしゃ飛魄飛び散り」の面遣ひ、これは雪鳥氏から最も賞讃を得た。同じく「すがり著き」の型は、もつと如実に両手にしがみつくんではないですか、と質問されたが、成程さう云へば自分のは大きく柱を抱擁したに過ぎなかつた。恰も隅田川の「此土を返して」の時のやうに。但しハツと退る工合は塚の内が広く見えて佳かつたとのことだつた。
  • 270面白や不思議やな、の所は橋懸へ行かず、台へ退つて腰を下した。これは左足を台へ載せて腰を掛ける型をやつて見たかつたんだが、尻餅をついてしまつたので、計画画餅に帰した。飛込みは此の前枕へ左手が入つて、その手を、たらせたため、一寸怪我々したので、大いに注意をしたにも拘らず、位置が高過ぎて、枕を飛ばしてしまつた。右手扇は柱を抱くことになつた由、これはあとで聞く迄自分で知らなかつた。
  • 274乱を見て、見物の誰もが暑苦しい感を抱いたらしい。自分も演りながら、重苦しいナ、と思ひつつ舞つた。自分のは未だ乱の型を演つて居るに過ぎないで、乱にはなつて居ない。乱はもつと擒縦自在に人を陶然とさせる筈だが、自分のは見物を無理心中させる性のものらしい。見物の一人が帰途で「今の一番ですつかりくたびれちやつた」と云つてたさうだ。思はず苦笑せざるを得なかつた。
  • 281「都の秋」の段は曽て一度だつて型と型のつながりがしつくりしたことはなかつた。これは練習の不足によるとのみ思つて居たのが、はからずも、一遍に出来てしまつて嬉しかつた。それよりも何よりも、曲の舞が、まつたく自分の理想とする通りに出来たことは、自分にとつて夢のやうな幸福だつた。放心的な、夢幻的な、ただ、水が緩かに流れるやうな調子が、まつたく、その通りに表現出来たことは、自分を有頂天にした。この前の仙台の時に稍々それを捉へ得たやうに思はれたが、今度は完全に自分の存分に為し遂げた。
  • 282–283声がナマだつたので、段々調子が悪くなり、持てあつかつた。自然初同の型もギコチなく、自然に流れ出るものがなかつた。曲は床几でまことに気持のよいもの、陶然と地を聴き楽しんだ。物著後になつて調子も少し取戻したし、型も心配はなかつた。序の舞も十分に舞へたらしく、汗をかいてしまつた。切の型では作物へ袖をかける時少し見当を測りかねて、ガサツだつた外は、心持はいつぱいに演じ出せた。だが初同が思ひ通りにならぬ以上、まだ「井筒」をこなしたとは云へない。
  • 286唐織を著た恰好がハダケて、決して見よいものでないことは、自分でよく知つて居るし、肩が怒つて、型が剛くなることも人に言はれなくとも、自分が一番気にして居る。だが、それを改めようとしないのは、そのために、思ふさま気の入つたことがやれなくなることを惧れるからだつた。角を矯めて牛を殺す逆結果を招くこそが必然だからだつた。
  • 288クセの型所で「放つ矢に手応して」と二つの技は出来たと思ふが、「はたと当る」の打合せは、研究が足りないままだつた。以下は全部思ひ切り突込んで演れたと思つて居たら、合評の時、雪鳥氏から、松明の扱ひが、光焰が線となつて曳かれる感にならなかつたとの非難があつて、これは言はれて見ると、確かに不徹底だつたと思ふ。その代り「啼く声鵺に」の右廻りは前半中の白眉であつたと讃めてくれたが、ここの廻り方の充実して居たことは自分でも肯けるところだ。
  • 289中入前の「恐ろしや」の例の型、ここは当日迄遂に解決出来ながつた型である。ここの非難は全く兜を脱ぐ次第だ。だがこの次ぎには必ず解決出来ると思ふ。何だかボンヤリ判りかけてゐるやうに思はれるから。後は白頭。思ひ残すところなく動いた。ただモギ胴の形が依然腰から下が淋しいさうだ。これは大分気を著けて居たつもりだつたが。
  • 290中入後、急にたつてからの型、面はよく切れたが、退り方、笠のカザシ方、シテ柱際の笠の捨て方等、未だギゴチなく未熟さを脱せず。後は大いに努力したが、果してどうだつたか、今日のは妙に見当がつかない。自分では気持よく舞つたつもりなのだが、一向当りが判らない。こんな時こそ、誰かに、誰にでも宜い、聞きたいと思ふ。「江口」得三。
  • 291見留は囃子方が大変せき込んだので、型はチグハグになつて失敗。止は残り留にしたが、型附通り、「暇申して」と立、直ぐ幕へ入つて行くのに、「吹くや後の」と常の型通りの心持があつたりして、スラリ〳〵入り兼ねた。これは「後の山嵐」迄型をしてから入らねば折合はぬことが、演つてみて始めて判つた。「小袖曽我」修一、芳文。
  • 292三段の舞の三段目に引付けて、跡へ少しシサリながら花を見過した型は、出る前になつて教へられた扱ひ方なので、不安だつたが、悪くなかつたやうに思ふ。大体不出来でない「湯谷」だつたと思ふ。
  • 293これは初役である。子方は度々勤めて居るが。好きな前シテだが、此頃直面物はいよいよ演り辛くなつてしまつた。どうも本当に気が乗らない。後半切の腰が淋しいと始終云はれるので、大いに踏ん張つた。型も重味をもつて舞つた気で居るが、どうだつたか。やらうか、やるまいか、中途半端でやつた幕際の仏仆れは醜態だつた。やはりこんなつまらんことはやらぬが宜いと後で悔んだ。立衆の訓練の行届かぬは流儀の恥と思つて、大分練習させたのが方々から賞められて何より嬉しかつた。
  • 294上羽を扇捧げたまま下に居てする替をやつてみた。これは、あまり平な型ばかりで、それも東京なら劇染の人も多いので我儘に押通すところを、多少土地の人の眼に対する考慮もあつての心遣ひだつた。
  • 297–298「景清」はこれで二度目。切の方で、「四方へばつと」の型を除いては、どの型もその心持にさへなれば、身体は自然についてくる、その心持も、うまく誘ひ込むことが出来るといふ自信があつたので、稽古は一度に止めて置いた。十分覚悟の上で出たので、自分の出来得る範囲のことは成し遂げたと思ふ。この前初めてやつて、後で雪鳥氏から、型が鮮かすぎると云はれたことを覚えて居る。手先の要領ばかりうまくのみ込んでしまつたといふことらしかつた。さう云はれてみると、そんな気もしないではない。初めてのことだつたので、部分々々の型の工夫は相当した。今度は型を型としてやるよりも、先づその心持になることを第一として、型はそのハズミだと観念してかかつた。
  • 300いつもどんなに調子が悪くても、ここだけは稀代に楽になる「あゝしばらく」のところもさつぱり声が出なかつた。「その切つたる山伏」は、この匍の時大いに自信を得た呼吸であつたが、気合悪く、おまけに面の利かないのを補強するつもりだつたか、馬鹿に指す手を大きく振り延し過ぎて失敗だつた。押合ひは左右一度づつにした。この型、今度初めて教へられた型で、これは常に好い型だと思ふ。勿論その型を生かせ得なかつたが、他日きつと物にしようと楽しみにして居る。
  • 312初同も、もつと外柔内剛にやるつもりだつたが、相変らずの外剛内剛になつてしまつた。誰かの言ひ草ぢやないが、生硬無比らしい。クセの型は此の間喜之さんの「高砂」を見て、巧いと思つたが、仲々あゝいふやうに柔かく技を利かせられない。何もあゝいふのばかりが能でもないが。
  • 324一体、腰巻もので、長絹を著けたら大概やりよくなる筈なのに、このクセは文句にくらべて型の多いのが大変舞ひにくくして居る。それも一番初めの、シカケ、ヒラキ、左右、サシ廻シヒラキ、ここ迄が最も消化しにくい。これば稽古で毎日やつたに拘らず当日迄出来なかつた。
  • 325ところが、当日はどうにか辛うじて、一通りには行つたらしい。第一の難関をパスして急に楽になつた。さて、合掌留なので、「人待つ女」から橋懸へ行つた。前日一度、この替の型をやつて置かうと思つたのに、一寸怪我々したので、それに多分目信もあつてぶつつけにやつてみた。この日はクセが割に地の乗りがよかつたので、橋懸へ行くには一寸忙しかつた。元来こつちの型が重いので、面遣ひなど甚だ拙劣だつたと思ふし、あとの型との接ぎ目も不自然だつた。やはり一度は是非やつてみて置くべきものと、つくづく考へた。
  • 329「思ふ心の無かるらん」の打つ型が、たしかにこの前の時は造作無しに出来たやうに憶えて居るのに、今度は呼吸を忘れてしまつたか、うまく行かない。大概、最初のよい時は最後まで好調な筈なのに、此の日はどうしたか終ひになる程気持が白々とし出した。どうも我々忘れるやうにならねば駄目だと思ふのに、段々我をはつきり意識して来て、結局竜頭蛇尾に終つてしまつた。
  • 331それに舞物をやるのと違つて、意味のある型が次ぎから次ぎへと続いて居るものは、練習しても直ぐ鼻について来て困る。今度も、途中で余り気持が行詰つたので、練習を打ち切つてしまつた。あとの日は仕舞ばかり舞つて居た。ただ、前はずつと気持よかつた。殊に中入前の廻り込なんか何度やつても快かつた。肥つたので、坐つてゐる間の足の痛いのには予想外に困つたが。切で、「二疋が間に」と手を組んで廻り込むのに、足をどう扱ひ違つたか、「どうど」と落ちる型がやり様が無くなつてしまつた。暫く困つてそのまま考へてゐたが、急に思ひ付いて二三足タヂタヂと退つたら、よい呼吸でトンと膝がつけた。詰らぬ出来事だが、咄嗟の間に啓けた考へには仲々名案があるものだと思つた。「枕慈童」和島。
  • 332名曲たらざる所以は、筋以外に無駄が無いので、芸をやることが出来ない。仕方がないから筋のうちで、佳い型を二つ三つ考へるより仕様がない。型付の結果それだけの自信は出来た。
  • 333守を子方の首にかけてやる型と、「いまだ若木の見桜」のユウケンが自分として最も佳い型だと思つて居るが、「帰れと叫ぶ」のアフグ型が大変好評だつたさうだ。もつとも技そのものも当日のはうまく行つたが。まだ二三改めたい私案もある。まあ成功だつた。子方節世、満一佐藤。
  • 334前半はどうも平押しになつて、柔かみとか潤ひとかがまるで泌み出て来ない。「野中の草の露ならば」などは、父のを見て居ると、真綿のやうな、ふつくりした味が溢れて居るのに、自分のは立ン坊が大八車をウンウン押上げて居るやうな感じしかない。殊に塩を汲む型は、扇に少しも水の重量が見えない。ここらの辺は一向進歩して居ないと思ふ。ただ「蘆辺の田鶴」をいつも下から真直に上へ見上げ居て、これは我ながら、電信柱を見上げるやうにしか受取れまいと感じて居たのを、今度ヒヨツと面遣ひをしながら段々と見上げて行くといふ仲々むづかしい型を試みて、どうにかこの型を物に出来たやうに思へたのは嬉しかつた。この型は「葵上」の「沢辺の蛍」で父が独創のもの、誰も真似の出来ない技だと常に考へ、無論自分など一生かかつても駄目ときめ込んで居たのだが、もしやと思つてやつて見たら、満更でもなかつた。但し「松風」のやうに静かな場合なればこそで、「葵上」の急調な中でこなせるかどうかは未知数である。
  • 337曲水は、大阪の時より遥にハヤシが手揃ひであり、十分申合をしてあつたにも拘らず、最も拙なかつた。引返して角へ出、両バチになるところ、恰度半クサリ半端になつて金春氏に気の毒な思ひをさせた。早舞も、大阪の時より悪かつた。実は早舞がものになりさうだつたので、そこに一番興味を持つて居たのだが、型と型との連絡点がやはり硬かつた。キリになつて疲れが大分加はつたが、たうとう頑張り通した。
  • 341先づ問題は中入前の「闇の夜の空なれば」の型だ。ここで強い印象的な型が必要だと思つた。種々な型が出来る訳だが、面遣ひが最も有効でもあり、やり易いと思つた。それにしても扇を披かずに唐織の褸を押へて居たのではやりづらい。カザシをしないのに扇を披くのは無意味だが、その理窟は抜きにして、やりやすい方に就くことにした。この型は能の三四日前になつてどうやら自信を得た。あとには気になる型は一つも無い。ただ当日のコンデイション如何だ。
  • 342初同も相当に行つた。クセの間はやはり足が痛かつたが動かずに我慢出来た。さて「闇の夜」の型だが、これは稽古の時よりクセの座が大分高かつたので、前へ出て右ヘうけたら舞台はいくらも余らなかつた。危いと思つた。稍気勢を殺がれて、この型はいつもより不出来、その代りワキへ巻ザシの前先づ面を強く切つたら、巻ザシが大変工合よく行つた。本当に気が入つて我を忘れたからだ。
  • 342–343ここ迄来ればもう心配はなかつた。後は調子も大変楽だつたし、型もすべて思ひ通りやり遂げた。作物が出て床几の位置が稽古より後だつたため、飛下りる時踵が半分台へ残つて危く転びさうだつた、がこんな失敗も一向気にならなかつた。ただ「両介は狩装束」と肩をぬぐ替の型をやつたが、そのために打切を入れなければならず、入れるとすれば、前から地やハヤシに申合せて置かねばならず、といふことになるので、若し不出来だつた場合には、もう替の型なんかやる興味も熱もなくなつたのに、前に約束が出来て居るばつかりにいやいややらねばならないといふ羽目に陥るのを非常に心配したが、どうにかその不面目さ無しに済んだのは幸ひだつた。かういふ他の役に関係を持つ替の型といふものは、この点非常に都合が悪い。とにかく上出来の部で、この頃中の憂欝がケシ飛んでしまつた。
  • 343直面ものは嫌ひだが、楽なのと出来に間違ひが無いのとの二つの理由で、演つても宜いといふ気になる。その中で「満仲」だけは、写実を逃げて、より以上の深味を見せることの出来る型が二三あるので、これだけは除外例として扱つてゐる。一体直面ものは余り度々やると鼻についてくるので、練習も多くはしないのだが、今度はいろいろの事があつて、たうとう当日ぶつつけだつた。
  • 348装束を著けたら気分もシヤンとしたので、一先づ安心。前は大体予定通りの出来、ただ中入前、ワキを巻ザシて出る時の瞬間の型が稍不自然だつたやうに思ふ。咄嗟に私の頭にはその醜い形がはつきり映つた。後は全然失敗であつた。中途からはつきりと疲労を感じたし、疲労を警戒しながら舞つたためのひ弱さも暴露したし、型と型との接続点がギコチなく、一気に舞へないで、単なる型の羅列に終つたし、どこからも取柄のない不出来なものになつてしまつた。
  • 349「神遊」の時が一番ひどかつたらしいが、何より第一に曲がいけないし、切りもただ追立てられるに過ぎない。一体この曲の上羽後は謡が型に比へて短いために、大変佳い型付なのだが、一つ一つの技を十分にやつて居る暇がない。まあ精々神楽だけが、どうにかまとまつて舞へて居ただけである。
  • 350左右をした時力がすつと抜けて、次ぎの打込との接続点が大変調子がよかつた”さうすると打込のあとのヒラキも伸び伸びとやれて、又力がすつと自然に抜けて行つた。かういふ風に好調になつたについては多少クセの舞出しのやり方を注意したためでもある。いつも余り力を入れ過ぎて型の線を鮮明にしないと気が済まなかつたのを、この日は、線はクツキリしなくても宜い、柔かい気分でかかつて、型はそのあとから軽くついて行きさへすれば宜いと、まあかういつた行き方を考へてみたのがうまく調子を引出したらしい。岩戸の舞は甚だ相違した二つの型があつて、「蟻通」のやうに舞台で舞ふのと神遊のやうにイロヱで橋懸へ行くのとの二つである。父は橋懸へ行つては神遊と同じになるし、暗闇をさぐりさぐり歩く心持だから、成るべく作物を遠く離れたくないから舞台中の方が宜いといふ話だつたが、太鼓観世方の控へがみな橋懸の方になつて居るので、仕方なくその型に従つた。尤もこの方が心持は出しよいし――私には――当日の出来もまとまつたものでもあつた。がこの次ぎには是非今一つの型をやつてみたいと思つてゐる。
  • 351キチンと構へてぢつと動かないで居ることの美しさ、これを頭に考へながら、その幻想を追ふやうに舞はう、まあこんな気持だつた。だがさうはいかなかつた。相当にギゴチない所もあつたし、破綻も見せた。殊に上羽前の型は至難な技である。済んだら父が、「コミを取らなかつたのかい」と訊かれたので、入れてなかつた事を返事すると、「大きい〳〵」と首を振つて行つてしまはれた。大きいとは尨大の意味である。この一言で完全にギヤフンとなつた。
  • 353「熊坂」の場合だと、一生懸命になればなるほど、力を入れれば入れる程、徒に荒々しくなるばかりなのだ。二三年前に演つた時も、雪鳥氏から「随分ハネを上げたね」と云はれた。すベての型が皆要点を外れて力が徒費されてゐたからである。
  • 354その二分に型ののび、ふくらみ等いふやうなものが一時に現はれて、光彩陸離たらしめる所のものなのだが、此の点自分として大変遺憾なのである。だが練習が足りなかつたら、これだけにも出来なかつたし、それに体力的条件さへ良好なら相当に舞へるといゑ所迄漕付けたことは、まあ満足すべき事だつたかも知れない。勿論「春日竜神」のやうな醜態ではなかつたのだから。
  • 354九月二十八日、稽古能、「竜田」実、「松虫」友枝。今度舞つてみて、この曲がとても好きになつた。前が何とも言へない気持なのだ。だがその気持を人に感じさせる迄には少し距離があるだらう。出来は自分の力としては可も無く不可も無し位の所だらうか。ただ唐織ものの運びに一寸会得出来た節があるので、此の次ぎの「野宮」が楽しみになつて来た。「光を放ちて」の型は未完成のまま。
  • 355一体この初同の、作物迄行つて木の葉を置いて元の所へ立帰り、改めて正へ出るといふ順序が甚だよくない、といふか、頗る演りにくいものである。その辺から思ふやうにいかなくなつて来た。「今も火焚き屋の」と角へ見る型も一向栄えなかつた。
  • 361肉にもそれ程所期しなかつた後は、今迄より遥かによく舞へた。終りまで疲れもせず、十分に内へ取りながら手足を伸ばした。「打物抜き打ち」と長刀を振りかぶる型、又太刀を抜いて橋懸から舞台へ入る等の処では、いつか土岐さんが世阿弥の言葉を引いて、能はすべての曲が幽玄でなければいけないのではないか、と云はれたのを思出して、この尾能の荒い後でも、やはり幽玄の趣を示し得るぞと、思はぬ発見をしたやうに感じた。ホンの曙光に過ぎないが、これも大きなものを引出す機縁になりはしないかと思ふ。
  • 362昨日から咽喉がかれたので、調子が楽に出るために身体迄がほぐれて来るその便宜が失はれてしまつた。つまり謡を利用して型を好調に導くといふ術がなくなつた訳だ。それどころか、逆に謡の苦しさが型に迄影響して来ることにさへなる。だから初めから声の出ない事なんか気にやまないやうにと覚悟して出た。どうも稽古の時のやうに身体が楽に行かない。でも三番目ものと違ふから、大してボロも出さずに前をすませた。
  • 363「頼政」はずつと若い頃に舞つて居る。だが、ここ二十年近く、舞ひもせず、舞はうともしなかつた。前は佳いが、後は型ばかり――それも意味のある型ばかりが馬鹿に多く続いて居て、キラキラするのが嫌やだからだ。人のを見ても感心した事がない。それを今度、一つキラキラさせずにやれないものかしらと考へたら、急にやつてみたくなつた。前は何もしないで深い味を出す。これは無論むづかしい事には違ひないが、自分には演り易いと思ふ。後の方は技術的で、前よりも目的が一段低い、と一応云へるが、それをさう感じさせないで、あの数多くやりにくい型の間を弥縫する何ものかによつて従来の「頼政」の後を一段と高めることが出来たら、それは演り甲斐もあり、前よりももつと困難なものだぞと、まあ、こんなことを考へて演つてみることにした。簡単に云へば、型ばかりのところを、幽玄にやつてみようと云ふ魂胆だつた。
  • 364練習中は、果して前はじつくりと陶酔的にやつて居た。後は幽玄どころか、型を手馴づけることが先づ必要だつた。「田村」にもある型だが、「宇治の川橋打渡り」の打込が一番出来なかつた。どうにか一通り型が自分のものになつたら能の日が来てしまつた。
  • 338坐る方も、稽古で大分自信を持てたのが、とてもとても痛いの痛くないのつて、結局普段よりも形を崩してしまつたやうな始末だ。
松本長『松韻秘話』(1936)
  • 93昔からよく腹芸といふことが言はれて居ります。腹芸といふのは何んな芸かといふことは、一寸言ひ表はし難いことですが、つまり仕科に表はさないで、腹に考へてゐることが芸となつて表にあらはれるものだといふ事も出来ませう。仕科乃ち動作や形で表情するものは、腹芸とは言へず、無動作、無表情の中に、人の気持を刺戟したり、感動させたりする芸の力が腹芸なのであります。
観世左近編『謡曲大講座 観世清廉口傳集 観世元義口傳集』(1934)
  • 10オ○俊寛 落葉の伝。「落つる木葉の盃」といふ所に形の替りがあります。 ○松風 戯の舞。作物に短冊を附けこれに行平の歌が書いてある積りでやるので、中の舞のあとの謡に「立別れ」から謡ひます。見留、破の舞の終りに橋掛りへ行き、作物の松を行平と見る心持で形があります。
  • 14オ次に素働ですが、この小書付になる時は、カケリが抜かれます。「其折しもは引く潮にて、遥に遠く流れ行くを」と云ふ所へ一種のハタラキが入るので、皷の拍子の流しにつれて、浪に押し流さるゝ弓を取返す心持なのです。終りには膝行して弓をとり上げる形もあります。
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
  • 16昔当流に矢田八郎左衛門と云ふ人があつた。これも不器用な上に猫脊であつたので時の宗家丹次郎(金剛から養子に来た人で名人丹次郎と云はれた人)は、矢田に向つて、謡は兎も角、形の稽古は迚も難かしいと云つたさうだ。すると矢田は非常にこれを悲しみ、如何にでもして一ぱしの能役者にならねばならぬと自らこれを心に誓つて、毎夜寐る時には脊中に薪を入れてこれをグル〳〵と身体に縛り付けて寐たさうだ。すると其精神が徹つたと見えて、如何とはなしに猫脊は全治つて了ひ、形も謡も、弟子内では名人と称されるに至つた。私の亡父や已野喜松なども此八郎左衛門の取立てださうである。其れと反対に調子もよく形もよく其上に極々器用な者でも、半途にして他の職に転じ其れも満足に為し遂げなかつた人もある。要するに芸の上達如何は決して器用不器用の問題でない。(四十四年六月)
  • 40–41当流では沢山の能を早く仕込で、間に合はせると云ふのは大の禁物で、十番の能を好い加減に修業させるよりも、一二番の能を充分に仕込んでやると云ふ方針である。だから一通りの事を弁へぬ者には、替の形などを演じさせるやうな事はない。尤も、替の形でなくても、其曲によつては、曲中に二通り又は三通り四通りの形のある処もある。これ等は其時の番組の配置上同じ様な形の重なる場合に、其れを避ける為めに、甲若しくは乙の形を取る事はある。「留め」などもさうで、橋掛りで留める曲が続く時は、舞台で留め、舞台での留めが続けば橋掛りで留めると云ふ風に、自由の利く曲もあるから、其れ等は臨機応変で、要するに一番の能、一日の能の美を害さない様にするのである。けれどもこれは替えの形でもなく、小習ひでもなく、珍らしい形と云ふ可きものでもないのである。
  • 41若いうちといふものは、目先の変はつた新らしいものを、得て喜ぶものであるから、替の形などは最も演つて見たいであらう。又見物の方から云つても、同じ曲よりも珍らしいものを希望するであらう。けれども一通りの事も覚え込まないうちに、やれ替の形だ、ソレ珍らしい曲だと云つて騒いで居たら、只先へ〳〵と進むばかりである。かうなると芸は其時々の借り物で決して自分の身には芸が付かぬ。
  • 45其日の番組に、舞ものがない時に、百万、桜川、源氏供養の類を「舞入」にするとか、又脇能に加茂があり、留めに鵜飼があつて赤頭が重る時は鵜飼の方を黒頭(替の形)にするとか、加茂と野守の時に野守を白頭(小書)にするとか云ふやうなことは、番組に依つては例会でも之を演るのである。
  • 45之れも要するに俗に媚びる結果であつて、どうしたら見物の歓心を買ひ得るだらう、と腐心せる結果であらう。此やうな調子で、盛んに替の形でもやられた日には、世間には広まるかは知らないが、能楽の真の生命は全く亡びて了ひ、手踊りや何ぞと撰ぶ所がなくなつて了まふ。
  • 58其れだから吾々は、甚麼に厭やな顔をされても、充分に出来る迄にお稽古申上げる事は出来なくなる。其結果として能などをやつても、形は一寸器用に演り得ても重みがなかつたり、拍子を半を間に踏んでも、御当人が気が付かない。
  • 66由来此能は面白いとか面白くないとか云ふ点が主眼ではなくて、神を敬ひ徳を仰ぎ、天下泰平を祈るのが此曲の本旨であるから、如何にせば荘重に、如何にせば神々しく演じ得られるかと、其処に苦心を要するのである。だから他の曲と違つて此能には替の形などを演じて、目先を替える必要はないと思ふ。
  • 69此能は昔天覧又は将軍の御覧になる時には、御前掛りと云つて、一層謹みかしこんで勤めたものである。舞の形は普通のと別に変つた処もなく、千歳の舞は破の位で勇壮に舞ひ、翁の舞は静粛に壮厳に舞ふのである。
  • 110–111先日の某新聞に、桜間金太郎の忠則を評して、「終におん首打落す」で、扇で頭をさす形をしないで、只曇つた丈けだツたのは、左陣ならよいが、金太郎では未だ少し早い。と云ふ様な事を書いてあつた。其評を書いた記者は、其の形を金太郎が演るには何故早いといふのか、第一其理由が解らない。他流の頭をさす形より外に見た事がない為め、御自身の智識から速断を下して、替の形と早合点されたのか。つまり金太郎が若年の身を以つて替の形をするには早いと云ふ御了見なのではあるまいか。あれが仮りに替の形として、未熟なものに替の形をさせるのは無理だと云ふ理窟は立たなくはないが吾々の目から見ては一寸した替の形位出来ない金太郎とは見えない。況してあれは替の形ではなく、金春流の常の形なのである。其流義の常の形を演るのに早いも遅いもあつたのぢやない。替の形であつても常の形であつてもどうしても未だ早いと云はなけりやならんのなら、金太郎は未だ忠則の能を勤めるに早いと云ふ事にもなる。マサカ如何なる素人でもソンナ事はおツ喋舌りやしまい。(四十五年五月)
  • 176喜多では黒川一郎右衛門と云ふ男が、謡も形も相応に演つた。其れから白井平三と云ふ男は形はないが謡は甚だ器用であつた。
片山博通『幽花亭随筆』(1934)
  • 8「蹴鞠の庭の面、四本の木影枝垂れて暮に数ある沓の音」の形を面白く見た。正中にて下へサシ回し開いて「数ある」で右拍子、右一足をチヨツト出し、つま先を上げて「沓の音」と聞心をする。
野口兼資『黒門町芸話』(1943)
  • 37能の所作は非常に緩慢なものであるが、決して静止してゐるものではない如く、氏の画上の人物は決して静止してゐない。前の形から次の形へうつる、瞬間の美がよく現はれてゐる。
  • 109上をさすにしても、下をさすにしても、扇を畳んで居る時でも、扇の先きまで気が通じて居なければなりません。又サシワケをする時も指の先迄魂が入つて居なければいけません。見廻シにしても腹が這入つて居ないと、たゞフワ〳〵と首ばかり動かす事になる。又扇を左へ取つたら、右手はカラになるものですが、たとひカラになつた時でも絶へず扇を持つてゐる積りで形の崩れない様に握つて居なければなりません。
  • 112拍子を踏むと形がくづれますが、それは膝が伸びるから腰がくだけるのです。膝と腰とは非常に深い関係があります。
  • 113仕舞の海は大体能の形と同じであるが曲によつて違つてゐることもあります。つまり能にはワキへあしらふといふ形がありますが、仕舞にはワキがゐませんからありません。さういつた違ひはありますが形そのものは同じと思つて差支へありません。ですから仕舞の稽古をされる方は、特に能を見て正確な形を悟り自分の参考になさるやう望みます。最後に、形も謡と同じやうに、腹に力が入つてゐなければなかません。腹に力が入つてゐないと腰もふらついて形が崩れます。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第二、第三』(1935)
  • 五1オ–1ウこの能は面白い面白くないといふ点が主眼ではなく、神を敬ひ、君を仰ぎ、天下泰平を祈るのが本旨であるから如何にせば荘重に、如何にせば神々しく演じ得られるかと、其処に大なる苦心を要するのである。だから他の曲と違つてこの能には替の形などを演じて目先を替える必要はないと思ふ。左様いふ理由かどうかは解らないが、当流に於ては、此「翁」に限つて替の形とか替の手とか云ふものはなく、如何なる場合に於ても神を敬ひ、天下泰平を祈るには普通の翁で充分に其目的を達し得ると思ふ。
手塚貞三編『謡曲大講座 手塚亮太郎口傳集』(1934)
  • 6オ上歌の「やつれ果てたる」で引廻しおろし、其打切りで引廻しを片付けるのである。前者即ち引廻しを先におろして松門を謡ひ出す時には「肌はげうこつと哀へたり」と両手で肩から胸へかけて、さすり下ろす形がある。これは景清が自分の痩せ哀へて、昔の併の失せた事を嘆く心持ちで、観世十五代の大夫普観院師(元章)相伝の形である。