近代能楽用語索引Index of Nō-related Terms in Modern Texts

近代芸談における技芸用語

主にシテ方の技芸にかかわる用語の索引。姿勢、視線などの重要と思われるトピックのほか、『能楽大事典』(筑摩書房)に立項される技術用語を対象としました。同表記・別意味の語を別に立項した場合(例:「運び」を歩き方と謡い方で別立項)も、逆に同意味・別表記の語をまとめて立項した場合(例:眼、目、目玉)もあります。

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かまへ【構へ】

斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第一』(1934)
  • 能の時のクツロギ、即ち後見座にクツログ時などでも、寛ぎであるから、汗も拭かうし、後見は又袖を入れたりもするけれども、胡座をかいて休むのとは事が違ふから、無闇に構へを乱したり、居るべき時でないのに下にゐたりする事はならない。
松本長『松韻秘話』(1936)
  • 21–22面をつけるにしても、照つたり曇つたり、はじめに面の構へを極めた時の構へが舞台に出てから定まらなくなつてしまふなども腹の力が足りないためであります。
  • 57処が追つて来た父の姉和は頓着なしにきつと太刀を振り、構へて弁慶に向ひましたが弁慶は起上る事が出来ません。
  • 57これは太刀を構へた姉和が一寸も型を崩さなかつたり、又弁慶も転んだ儘の弁慶で居たからでありませう。
野上豊一郎編『謡曲芸術』(1936)
  • 343次いで腰の工合、体の構へ、足の緩急等に留意して、専らその正しい型を習得すべきである。謡にあつても最初のごく初歩は、心持よりは節や調子が大切である如く、仕舞にしても、先づ体の構へやサス、ヒラク、打込み、左右、カザス等々の如き基本的な型に、心持など除外して、十分に習熟して置かねばならぬ。
  • 344又、仕舞を舞ふ当の人の男女老若によつても種々の心得や身の構へに差異のあることも、いふまでもなからうが注意を要する。
梅若万三郎『亀堂閑話』(1938)
  • 113体の構へも一緒で、目をあいて構へますと自分の曲つてをる事はわからないものでございますが、目をつぶつてやりますと、肩が上がつてゐるか、下がつてゐるかゞよくわかります。
  • 121仕舞の時でも、両手の構へで、装束をつけな時の袖が大きいか、唐織か、壺折かなどいふ形を御見せする事に苦心致してをります。
喜多実『演能手記』(1939)
  • 29槍術の構へから出て居るさうです。
  • 60廻り込んで、身構へして、鐘の近くへ迫り寄る。
  • 213まづ両手の構へをいつも気にしすぎる、その結巣上半身に凝つて下半身がフラフラになる。暫く形に対する意識を去つて両手の構へを忘れよう。――かういふ考で練習した。
  • 228今日は肩から肱へかけて殊更に構へようとすることを避けてみる。
  • 254塚の中、大いに殊勝に構へたつもりが、これは「塚の中で余り構へが大き過ぎる」と言はれたので、「未だし」と合点した。
  • 280初めから慎重に構へて出る。
  • 339–340それに両手を高く構へると狩衣の袖が重くて〳〵、そのために精力を多く費消してしまつて、肝腎の場合に力も出やしない。一体構へなんか他流の人のやうにダラリとさせて居て宜いのだらうか。飽く迄天狗ものの構へで押迫らなければいけないのだらうか。
  • 347不用意によろけたり、ぞんざいだつたりして、身構への足りない、失敗作だつた。
  • 351キチンと構へてぢつと動かないで居ることの美しさ、これを頭に考へながら、その幻想を追ふやうに舞はう、まあこんな気持だつた。
  • 362後の出に思切つて両手を構へずにブラリと力を抜いて垂れてみた。
近藤乾三『さるをがせ』(1940)
  • 208眼の付け所、これはその人の脊格好、構へによつても違ひますから一概には云はれません。
  • 208実際直面の目のつけ処は六ケ敷いもんですが、まあ構へが定まつて来れば自然に眼の置処も定まります。
  • 209で能を稽古してゐる方の仕舞は、仕舞ばかりやつてゐられる方の仕舞と、何処か構へが違つてゐる。
三宅襄・丸岡大二編『能楽謡曲芸談集』(1940)
  • 230大鼓を手先でだけ打つものだなどとは思ふ人もありますまいが、これは先づ身体がきまり、構へが出来て、其処にはじめて正しい音が出るものです。
喜多六平太『六平太芸談』(1942)
  • 102この登喜老人が舞台に出て笛を吹くときの構への立派だつたことが眼に浮んで来ます。
野口兼資『黒門町芸話』(1943)
  • 111立つた時の構へは大事なことですが、手を張りすぎてもいけず、張らないでもいけず、大変むつかしいものであります。腋の下がくつ付くと構へがくづれますから、くつ付けないやうにして、腕を弓なりに構へます。
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
  • 21–22能の時のクツロギ、即ち後見座にクツログ時などでも、寛ぎであるから、汗も拭かうし、後見は袖を入れたりもするけれども、胡坐をかいて休むのとは事が違ふから無闇に構へを乱したり、居べき時でないのに下に居たりする事はならない。斯う云ふ際でも矢張気が抜けてはならないから、油断しては居られないのである。
近藤乾三『さるをがせ』(1940)
  • 176それと、お稽古する時に扇を持つて居ながら、それを腰に差し、鉛筆を持つて稽古をして居らるゝ人があります。或は扇を前に置いて、鉛筆を扇の代りに構へて稽古して居らるゝ人を見受けますが、これも大きな間違ひです。矢張り扇はちやんと持つて、姿勢を正しく謡ふのが本当です。
梅若万三郎『亀堂閑話』(1938)
  • 46床几にかゝる中でも、ツレではございますが「千手」のツレと「大原御幸」の法皇、この二つは指貫ですので一層苦しいものでございます。大口なれば幾分か楽でございまして膝の具合でかまへますが、前申したやうに膝でこたへてをりますので、立上ると膝がのびて棒のやうになつてしまひます。