近代芸談における技芸用語
主にシテ方の技芸にかかわる用語の索引。姿勢、視線などの重要と思われるトピックのほか、『能楽大事典』(筑摩書房)に立項される技術用語を対象としました。同表記・別意味の語を別に立項した場合(例:「運び」を歩き方と謡い方で別立項)も、逆に同意味・別表記の語をまとめて立項した場合(例:眼、目、目玉)もあります。
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しゅちょう【主張】
26実は私もまだ見たことはないんだけれどもね。それでないと流儀の弱法師の心持はどうしても出ないよ。この面はおちぶれた乞食といふ、慘めな気持はよく出ているが、品と柔味が無い。宝生さんの型だと云ふんだけれど、その代り宝生流では、もとは大口(装束)をはいたからね。そこに主張があつたらしいね。それに弱法師一番だけに使ふいい頭(あたまにかぶる毛)があつた。あれはいいものだつたよ。今でもあるかどうか、震災で焼けたんぢやないかね。 48あるとき、この能をやつたところが、あとで桜間の伴馬翁から「尾花招かばとまれかし」のところの招く型はあれでは強すぎて女が逃げてしまひさうだと酷評されたとかで、大変心配して居られたのを、友枝の老人がきいて、なあに御心配なさることはない、最初から女には逃げられてるんだ、それをどこまでも追かける、奈落の底までも跡を追つて行く、離れない、といふのが流儀の主張なんだから、それさへ出来れば流儀の通小町はよよろしいのですといつてね、慰めたさうだよ。面白い話だね。 80昔は楽屋に来てシテが待つている。そこへ役を済ませたものが戻つて来て、坐つて挨拶の取かはしがあつたものだつた。何しろ「大変結構に出来ました」なんていふことは少なかつたもので、大体は喰違ふことが多い。だから、やり直しをすることなどがよくあつた。それがひどくなると、お互に主張があつて何方も譲らないので、しまひには到頭喧嘩になるなんてことがあつた。 206私のやうに、いくたりとなく多勢の師匠をもつたものも、めつたに無からうと思ひます。そして師匠の変るたびに稽古のしかたが違ふばかりでなく、能に対する考へ方が違ふ、主張や型もすべてが同じといふわけにゆきません。これには困りました。 207私の稽古に対する松田や友枝の行き方は後進を教へ導くのに何処までも正しい芸を、型附通りにやる。それにほ稽古のとき、自分で舞つてみせないがいい、自分で舞へばどうしても自分が出る、自分の技巧や主張や味ひが出る、それは若い者にいい結果をもたらさない、とかく上面だけを真似させる惧れがある。 宝生九郎『謡曲口伝』(1915)- 31ツイ此間も某所で、「心持」といふ事に就いて話があつたが、能や謡に於ける心持といふものは、其流義に依つて之を表はす程度が違つて居るかも知れない型や拍子を主とする流義、心持ちを主とする流義と此二つに区分することが出来るかも知れない。何処の流義でも心持を離れて芸をしろとは無論云ひはしまいが、之を表はす上に於ては流義の主張上、必ずしも各流同じとは云へまいと思ふ。
- 34要するに、当流の主張としては、謡でも能でも其心持の表はし方や緩急などが、不自然になることを最も嫌ふのである。芸の未熟な者が、此処は斯う云ふ心持、此処からは急になる処だ、などと其処に至つて急にさうしやうとしたからとて、決して其通りに出来るものではない。
- 154各流義には其主張に基いた特長があるのだが、其特長なり、他流と異つて居る処なりが、果して万人が認めて之を是とするや否やは、吾々には解らないが、然しある一流を榜準として、其他の流儀の型や謡を非認する様な人は、倒底広い能楽を談じ得ない事と思ふのである。
- 164だから宝生座に於て道成寺を勤める時は、常に幸清次郎が小鼓を勤めるのであるが、ある時将軍家の仰せで観世新九郎の対手で勤める事になつた。其時私の先祖と新九郎と、云ひ合はせをした処、鼓の一粒で云ひ合はせが整はない。昔の人は芸に於ては、仮令粒一つにしろ、其主張を徹さねば止まぬと云ふ風で、其れ丈け芸にかけては真面目だツたから、飽く迄も粒一つを争つた末、其趣きを上申した。固より新九郎の失敗と解つて居たのだから、其の為に新九郎は一旦遠島に処せられた。
近藤乾三『さるをがせ』(1940)- 18或る方から「鞍馬天狗」の白頭で、後シテがついて出る撞木杖は音を立てゝつくか、立てないでつくかと尋ねられましたが、自然に音を発する程度で流儀では此の曲によらず、見た目は強く感じる様に、グツと突いて居りますが、音を大きく立てゝその強さを出さうとはしません。音を立てずに強い感じを出す事の方が却つて、主張の様でございます。
観世左近『能楽随想』(1939)- 86お他流の事は存じませんが、当流では凡て力を内へとつてそして品良く強くと云ふのが主張で御座います。謡曲として、能としての気品を損すること無く、そして藤戸の曲の有つ味と趣とを表現出来ますれば名人上手と申されませう。私もさういふ考へで一所懸命に勤めますが、なか〳〵思ふやうには参りません。
- 108男が他所の女の許に通ふのを嫉きもせずに、その通路を心配して歌を詠むほどの優しい心根の持主でありますのに、一方高安の女は品のわるい女ですから、そこに対照されるものがあるのでは無いかと考へるのであります。当流の襟白二つと云ふ主張なども愈々生きて来る次第で御座います。
- 141流儀の主張流儀の主張が斯様云々であるから……と云ふやうなことを言ふと、ひどく偏狭であるかのやうに思はれるらしいが、これは非常な誤解である。流儀の主張といふものに対しては深甚の敬意を払ふべく、苟くも自分一個の思案乃至嗜好に依つて之れを枉ぐべきものではない。現代の人達はやゝもすれば、流儀などと云ふ小さな殻を脱け出して、もつと自由な、公平な道を歩むのが芸術に対して最も忠実な態度であるかのやうに考へ勝ちである。例へば他流の型でも傑れたものは之れを自家の薬籠中に取り入れて一向差し支へない。それを流儀といふ観念に捉はれて敢行しないのは卑劣であるかの如く考へ、また此の自由主義的な考へに反対する者をひどく頑迷な没分暁漢のやうに考へる。流儀の型といふものは総べて流儀の主張で統一され、固定されて居るものである。即ち観世流の型は、みな観世流の主張に依つて統べられ、定められて居るのである。言ひかへれば流儀の型といふものは流是の具体化されたものなのである。
- 172近頃若い人達が盛んにいろいろ書いたり話したりされるのは、能楽界にとつて大いに感謝すべき事でありますが、一気呵成に筆をやると言つた調子のやうに見えます。事苟くも能楽道に関する限り、今少し慎重に分別して公表して頂きたい。流儀の主張やキマリは勿論、家々の系統や格式なども、研究された上にして欲しいのです。その点が少々不足してゐるやうに思ひます。
- 173例へば芸事の上の話ですが、紅葉狩の前シテの装束にしても、観世流では絶対にウロコ模様を用ひませんが、他流では鬟帯とか、腰帯とかにウロコを附けたのを用ひてゐます。又道成寺の唐織は上懸では色入の派手な物を用ひ、下懸では色ナシの地味な物を用ひます。かういふ点で既に夫々の主張が大変ちがひますから、従つて舞台の上でも非常な相異があるのです。
- 210能楽界の元老としての金剛さん、シテ方家元の先輩としての金剛さん、この道の故実に精通してゐた金剛さんの、この度の逝去はまことに残念と申上ぐるより他に言葉はありません。ズーツと以前に能楽協会の仕事として、編纂部をこしらへ、その頭に金剛さんを推戴して、雑誌も発行し、本も作り、各流の異同や主張を調査して、後々のために書き残しておく計画をしたことがありましたが、ある都合から実現しませんでした。あれなど私個人としても甚だ遺憾に思つてゐます。
- 271まだもう一つ苦るしいことがある。それは家元たるもの、たゞ単なる名人上手だけであつてはならないことだ。家元芸と云ふか、大夫芸といぶか、気品を伴つた大まかな芸風にならなければならない。さうして流儀の規範ともならなければならない。極端に云へば、家元が悪達者で技巧を弄し過ぎたならば、さうしてそれが名人上手であればあるほど、その流内のものは、それにならつて流是(流儀の芸術的主張)をめちゃめちゃにしてしまふ。例へば観世流の主張は、形の上へ表情をあらはさないで内へとつて表現する――云ひかへれば外面に喜怒哀楽をあらはさないで、腹芸でこれを見せる——のであるが、もし私が能を舞ふとき、流是を無視して大胆な突つ込んだ演出をして向ふうけをねらつたとする。こんな場合、観世流の将来はどうなるであらうか。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第一』(1934)- 6オ心持表現の程度 先日某所で、「心持」といふことに就いて話があつたが、能や謡に於ける心持といふものは、其流儀に依つて之を表はす程度が違つて居るかも知れない。型や拍子を主とする流儀、心持ちを主とする流儀と、この二つに区分することが出来るかも知れない。何処の流儀でも心持を離れて芸をしろとは無論云ひはしないが、これを表はす上に於ては、流儀の主張上必ずしも各流同じとは云へまいと思ふ。
- 7オ節から響き型から湧く自然の心持 当流の主張としては、謡でも能でもその心持の表はし方や緩急などが、不自然になることを最も嫌ふのである。
三宅襄・丸岡大二編『能楽謡曲芸談集』(1940)- 51舞台上の事に就ても夫々の主張なり、キマリなりを十分に領解し、然る上で議侖して貰ひたいのです。批評は自由でありませうが、それを第三者に発表するときは、そこに責任を生ずるのですから、斬捨御免のやうな勝手な議論は遠慮して欲しいのです。
- 51–52近頃若い人達が盛んにいろいろ書いたり話したりされるのは、能楽界にとつて大いに感謝すべき事でありますが、一気呵成に筆をやると言つた調子のやうに見えます。事苟くも能楽道に関する限り、今少し慎重に分別して公表して頂きたい。流儀の主張やキマリは勿論、家々の系統や格式なども、研究された上にして欲しいのです。その点が少々不足してゐるやうに思ひます。例へば芸事の上の話ですが、紅葉狩の前シテの装束にしても、観世流では絶対にウロコ模様を用ひませんが、他流では鬟帯とか、腰帯とかにウロコを附けたのを用ひてゐます。又道成寺の唐織は上懸では色入の派手な物を用ひ、下懸では色ナシの地味な物を用ひます。かういふ点で既に夫々の主張が大変ちがひますかち、従つて舞台の上でも非常な相異があるのです。
- 150しかし少し主張を云はせてもらへば、舞の中が、普通の曲は三段でも五段でも段々とノリがよくなつて来るものなのですが、ああした曲は反対に、段々とおさへて、そのくせダレぬやうに舞ふものなのです。それが先日の檜垣は二段目からあとが、居つきすぎたと思はれるのです。然しこれは、どこまでも主張の相異だと思ひます。あれだけやつて居つて、しかも破綻を来さないところは、やはりあの人の偉大さなのです。万さんも「随分えらかつた」と言つてゐました。
- 170近頃になつて私が思ふのには、稽古は矢張り松田、友枝のいき方でなくてはならぬと云ふことです。後進を教へ導くのにはどこまでも正しい芸でなくてはならぬ。それには自分で舞つて見せるのはよくないと考へるのです。自分で舞へばどうしても自分が出る、自分の技巧なり、味ひなり、主張なりが出る、それが若い者にはいけない。上つつらだけを真似られるから恐ろしい、自分の舞は見せないで教へ込む、型附通りに正しい道を歩ませるのが本当だと思ふやうになりました。
片山博通『幽花亭随筆』(1934)- 320杉浦御大、流石は貫禄をみせて立派なもの、但し。クセの終り、気力なうして弱々と、と下る足の最後の一歩のみはどうかと思ふ。ひどく強いものだつた。主張があるのだらうが、僕らには異論がある。猩々は時間の都合で残念ながら割愛。(昭和九年三月)
- 380D 「敵大勢ありとても、一番にわつて入り。」此処では左近氏の颯爽味を深く印象づけられてゐるだけに、万三郎氏の内面的な表現がひどくにぶい物の様にさへ思はれた。ハツキリ主張の相違を感じる。
喜多実『演能手記』(1939)- 201二月二十四日、稽古能「白楽天」を勤める。今年度の第二作として、まづ主張通りがつしり舞へた。キリは今少しズカリ〳〵と行かなければいけないといましめられた。
- 248たうとうはつきりした主張を持たないまま演つてしまつた。だから、最初から喧嘩腰の「自然居士」になつてしまつたらしい。何でも宜い。見物に面白く見えさへすればそれでも宜い。この気持でやつたが、中之舞、クセ、をわざわざ面白くなく――ワキへ面当ての意味――演る、と云はれて居るのが、ここでも又矛盾が出来た。ワキへ面白くなく演る面白さ――見物へは――そんなものは到底出せるものではないらしい。
- 248だが多少色気があつて、もし出来ればといふ気持がどこかにあつたため、主張不鮮明なものになつたらしい。兎に角余り考へ過ぎたかも知れない。やはり左陣翁流の芸尽しで、何でも彼でも見物を面白がらせるといふ行き方が一番宜いのかも知れない。
- 273ただかういふ考へ方が決して悪くないことだけは言ひ張れると思ふ。だから、その主張が体によつて現はせる迄練習する必要がある。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第二、第三』(1935)- 七1ウ所謂面白く見られるようにしたら或は流義は盛んになるかも知れないし、叉其方が我々は骨が折れないのであるけれども、数百年間連綿として続いて来た芸の家に生れた私が、世俗に媚びたり、或は流義の主張を枉げたりする事は出来ないのである。