しょうぎ【床几】
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
- 149鏡の前にジツとして床几に腰を掛け、心静かに面や装束の具合を映し見て、然して面や装束の色合などと、曲中の人物の心持ちを対照して見て、然る後に自分が其心持になつて見る。つまり舞台の心持は此鏡の間で既に定つてしまはねばならぬ。其れだから鏡の間といふものは、舞台を建設する際には余程注意せねばならぬのである。で、今回新築する宝生会の舞台は出来得る丈け鏡の間を広くする積りである。
- 9ウ[「頼政」について]「今は何を包むべき」のクリ節は名乗りグリで、乗つて謡ふ。サシは乗らずに、淀みなく謡ふ。シテは床几にかゝる。「さる程に平家は云々」のクセは手強く、しやんと謡ふ。但し早くと云ふ意味ではない。「愛ぞ浮世の旅心」はしつかりと張り、上げ羽の「寺と宇治との間にて」から愈々しやんと謡ふ。「宇治橋の中の間」と伸びぬ様に切り「引きはなし」ときめて「下は川波」と下を見る心、「上にたつも」と上を見る心で謡ふ。此辺は型によつて謡の心持もあるのだから、能く注意して謡はねばならぬ。
- 18ウ–19オ[「江口」について]クリは優美に謡つて余りはしやがぬ様に注意する。シテは床几にかゝる。サシ、クセは位閑かに謡ふ。クセにかゝる処の「さきの世の報ひまで」としめやか、「悲しけれ」と呂におさめる。此一句粗末になると、クセの謡出しが出難いから其心して謡ふがよい。
- 7–8[「遊行柳を見て」]ワキの待謡がすむと出端となつて作物のヒキマワシが取れる。シテの柳の精が葛桶に坐つてゐる。小格子の着付に渋い緑色の狩衣、茶地の大口をつけ、頭には白垂、柳寂烏帽子を冠る。面は皺尉。手には扇を持つてゐる。たまらなくうれしい気分がする。柳の精は、「沅水羅紋海燕回る。柳条恨を牽いて荊台に到る」と李群玉の詩を閑に謳ふ。堂内は神々しい神秘の境に入る。
- 285はじめつから苦し相ね。 床几にかけてゐて拍子を踏むのに、あんなに肩をうごかしてもいゝんですか。 熊坂の弱つてゐる実感が出ていゝ。
- 294–295[杉浦披露能「卒都婆小町」について]喜之氏の演出は、先に東京で同氏のを見た時と大体同じだつた。次第でのシテの出は、二の松と三の松の間で一度休息して舞台に這入つた。卒都婆にかける時も始めから床几が出してあるのではなく、正中へ行つてから後見が持つて出た。ワキとの掛合は割に強い感じだつた。
- 296[杉浦披露能「景清」について]珍らしい大口の景清である。松門会釈とてシテが「松門」と謡ひ出す前、笛が変つた譜を吹く。「窶れ果てたる有様を」で引廻しが落ちると、シテは床几にかけてゐる。シテの「流され人にとりても苗字をば何と申して候ぞ」に対してトモが「平家の侍悪七兵衛景清と申し候」と言ふ時、シテがトモに向けてゐた顔を少しもとへ戻す心持をするが、ハツト思つて知らず〳〵顔をそむける気持がよく出てゐた。
- 297[杉浦披露能「景清」について]語りは床几にかけてゞある。「景清これを見て」からは立つて常座へ行き型がある。「兜の錏を取りはずし」のところではじめに軽くつかみ後は大きく強くつかんだなど面白い。
- 七5オ–5ウ鏡の前にジツとして床几に腰を掛け、心静かに面や装束の具合を映して見、面や装束の色合などと能柄や人物などを思ひ比べて見たりする。つまり舞台の心持は此鏡の間で既に定つてしまはねばならぬ。それだから鏡の間といふものは舞台を建設する際には、余程注意せねばななぬものであるから、今回新築する寳生会の舞台は、出来得るだけ鏡の間を広くする積りである。
- 45[河原田平助還暦祝賀能について]その謹之介氏の「松風」の時、翁は自身に地頭をつとめたが中の舞後の大ノリ地で「須磨の浦半の松のゆき平」の「松」の一句を翁は小乗に謡つた。これは申合はせの時にも無かつたので皆驚いたらしかつたが、何事も無く済んでから、シテの謹之介氏は床几を下つて、「松の行平はまことに有難う御座いました」と翁に会釈したと云ふ。
- 69隣の居間から見て居た翁の顔色が見る〳〵変つた。某氏を呼付けて非常な見幕で叱責した。「楽屋を何と心得て居るか。子供とは云ヘシテはシテである。シテは舞台の神様で能の守本尊である。そのシテを戯弄するやうな不心得の者は許さぬ。直ぐに帰れ。一刻も楽屋に居る事はならぬ。装束は俺が付ける。帰れ〳〵」と云つたやうな文句であつたと思ふ。某氏は平あやまりに詫まつた。ほかの一緒に笑つた人々も代る〴〵翁に取做したので結局、翁の命令でその笑つた四五人の中老人ばかりが、床几に某氏は平あやまりに詫まつた。ほかの一緒に笑つた人々も代る〴〵翁に取做したので結局、翁の命令でその笑つた四五人の中老人ばかりが、床几に腰をかけてゐる筆者の前にズラリと両手を支えてあやまつた。
- 227–228クセは修羅能では、殆んど皆後にある。そして大抵クリ、サシの順序を踏んでクセとなるのであるが、概していへばサラリと手強くといふ以外難しい注文はない。しかし「実盛」などの如く、床几にかかつたまゝ、型のあるものは、謡ふ方でもかなり心しなければならぬ。
- 247「半蔀」や「松風」は舞クセであるから、型によつて多少とも緩急も心持もあるわけである。そして三番目の本当の位で謡ふのである。但し、「松風」は上羽前は床几にかゝつていての型であるが、それだけ、謡の方は客易でなく、第一品よく優美に謡はねば、床几の型と調和しない。
- 256[「松風」について]クセは閑かに上品に謡ふ。「かけてぞ頼む」までは床几にかゝつての型であるが、こゝから立つて舞ふのである。このあといろ〳〵型もあり謡にも心持が要る。
- 45–46葛桶にかゝる物では女物が一番苦しうございます、深くかければ楽ではありますが形が悪うございます、浅くかけてゐますと、いつ後から床几をひいても後へひつくりかへるといふやうな事はございません。私どものかけてをりますのは腰と膝とでこたへてをりますので、なか〳〵苦しうございます。特にワキに会釈など致しますと、段々に浅くなりましてます〳〵困つて参ります。これがまた強い物になりましても、膝をひらいてをりますので同じやうに腰と膝とでこたへなければならないのでございます。腰がすわつてをれば大丈夫でございますが、若しお素人の初心の方でございましたら人差指一本で押してもよろけてしまひます。かう申しましても、私どもでも力を入れて押されましたら、それこそよろけるより倒れてしまひます。さうならぬやうにと亡父は教へてくれたのですが、なか〳〵むつかしいものでございます。
- 46–47床几にかゝる中でも、ツレではございますが「千手」のツレと「大原御幸」の法皇、この二つは指貫ですので一層苦しいものでございます、大口なれば幾分か楽でございまして膝の具合でかまへますが、前申したやうに膝でこたへてをりますので、立上ると膝がのびて棒のやうになつてしまひます。一寸御覧になりますと床几にかゝつてゐて楽なやうでございますが、実際はつらい役でございます。尤も本当に腰をかけてをるのなら楽ですが、それでは能の役になつてゐませんから問題外でございます。
- 129–130清長さん(清孝さんの先代)だつたかが「松風」を勤められまして葛桶にかゝつて、烏帽子と長絹を持つて「この程の形見とて御立烏帽子」位まで進みました時、急に腰をたゝかれましたので後見の清又五郎老人が後へ行きますと「代り」と申されましたから、直ぐに烏帽子と長絹を受取り、上下の儘で床几にかゝりまして、少しもあわてず、シテを今一人の後見に托して切戸から引かせ、後をすつかり終まで勤めました。さうして、後見座から出て代つたのでございましたから、最後に一旦後見座に戻つたさうでございます。
- 196–197又亡父は「頼政」でお側近くに床几にかゝり 陛下はお座りのまゝでいらせられますので、「あんなに勿体なく思つた事はない」とよく申してをりました。
- 289嘗て清孝さんと、亡父とがこの「二人静」を勤めた時がございました。私どもは「これは観物だ」と楽しみにしきつてをりますと、清孝さんは橋がゝりで床几に腰をかけてしまつて、亡父(ツレ)が舞台で一人舞ふのを、静(シテ)が見て居るといふ風でございましたので、驚いてしまひました。
- 296「卒都婆小町」で、シテが舞台に入りましてから、卒都婆で休みますのに下居しますが又床几にかゝる事もございまして、どちらでもよろしいのでございます。左近さんがお勤めの時は、卒都婆のつもりで床几を置いて、シテは其処へ行つて休みましたが、床几のある方が立派ではございますけれども、私どもは座る方でやつてをりますのです。御覧になる方はどちらがいゝでせうか。とにかく両様になつてをります。
- 181「八島」は二度目かと思ふ。稽古の時よかつた調子又出なくなる。幕離れは宜し。床几のアシラヒ段々身体がずり落ち誠に難儀。
- 282[「井筒 物着]所演について]声がナマだつたので、段々調子が悪くなり、持てあつかつた。自然初同の型もギコチなく、自然に流れ出るものがなかつた。曲は床几でまことに気持のよいもの、陶然と地を聴き楽しんだ。
- 285次ぎに「草紙洗」を粟谷君病気で代役をする。何年か前、梅津君のこの曲を、やはり正月代役したと思ふ。妙な因縁である。前の出十分、謡も楽だつたし、粗忽には謡はなかつたつもりである。但し、大鼓にことわるのを忘れたため、三の松正面向くと同時にヲキを打たれて少々困つた。床几にかかる暇がないのだ。後の出はどうもフラフラで腰が定まらず、王様に大分引離されてしまつた。
- 294[名古屋能における「半蔀」所演について]曲から序の舞、と好調のまま進んで行つたが、さすが汽車中の腰掛けのためか、床几を離れてから、膝頭が稍々ガクガクし始めた。気になり出すと、いよいよ震へは激しくなる。キリになる程、運びは楽でなくなつてしまつた。だが、それ程の破総も出さず、舞ひ了せただらうと思ふ。
- 342[「殺生石」所演について]ここ迄来ればもう心配はなかつた。後は調子も大変楽だつたし、型もすべて思ひ通りやり遂げた。作物が出て床几の位置が稽古より後だつたため、飛下りる時踵が半分台へ残つて危く転びさうだつた、がこんな失敗も一向気にならなかつた。
- 88「藤戸に早く著きにけり」と謡ひ切つて、その、次に著ゼリつがあるべきですが、之は略して直ぐにワキはワキ座へ行つて床几にかけます。そして従者を呼んで入部の旨を布告させます。従者はこれを承けて常座へ行つて佐々木殿入部の由を布告します。
- 93[「藤戸」演じ方について]飽くまでもワキとしての位を外さないことが大切で御座います。ワキは床几にかけた儘で「近う寄つて聞き候へ」と言ひ、「さても去年三月二十五日」と謡ひ出し、シテはその前にシオリの手を下して正面に直し穏やかな気持でワキの語をシホ〳〵として聞く態であります。
- 117 八島弓流の腰帯浅黄地に亀甲文様のある腰帯が型物とされてゐるが、法被は紫地の衿を用ひ、半切は赤地ときまつてゐる。尚この時は小鼓方と床几を取替て用ひることになつてゐる。
- 155–156能の楽屋ではシテのみが絶対権利で、一曲のシテとなると楽屋でも床几にかけてくつろぐことが出来る。外の各役はどんな先輩であつたとしても、そのシテには演能の前後に、よろしくとか有難うとか云つて挨拶しなければならない。又、如何にシテであつても、その場に先輩方がゐられたならば、どうぞよろしくと挨拶してから勤めるのか礼儀となつてゐる。
- 136[「邯鄲の話」桜間金太郎]舞台で、シテが狂言に案内されて正面へ出、床几にかかります。その時フト気がつきますと、丁度自分の真向に英照皇太后様をはじめ、高貴の方々が御並びになつて御出になるのです。それを見まして親父は、思はず知らず頭が下つたと申します。ああ畏れ多い限りである、勿体ないことである。かやうな有難さに遇ふのも、能役者なればこそと、感激いたしまして茫然としてしまつた処へ狂言が、「旅人は何処より何方へ御出で云々」と言つてくれたので初めてハッとして我に返つた。
- 140–141[「弓流素働その他」梅若六郎]それから弓流の時に限つて、床几はいつもの葛桶を使はずに、囃子方の用ひるやうな本床几を用ひるのですが、あれについてかねがね私は疑問を持つてゐるのです。といふのは、この床几にかかる時、小鼓方の床几を葛桶のにかへ、その小鼓方の床凡をシテが使ふかと思ふとさうではなく、シテには別に、蒔絵の立派なのにかけさすので、どうも小鼓の床几をかへる事は何にも意味をなさぬので、実際何のことか分りません。そこで、今度はこんな事をせずに、つまり小鼓の床几はかへずにそのままでやらうと思つて居ります。
- 33–34「殺生石」の石は、随分大きいものでして、真中から二つに割れる、中から後シテが現れるもので正面の方は二つに合せてありますが、後の方は出入りが出来る様になつて居ります。是は割るのに後見の呼吸が中々必要なもので、割つてからも、二つに合せて切戸に持ちこむといふ頗る骨の折れる事が附随します。何にしろ大きいものですから、余程うまくやらないと、扱ひが悪いために、一曲をぶちこわす様な事になります。夫で当今では略して作物なしで揚幕から出ると一の松で床几にかゝります。
- 49–50松本金太郎さん(長氏の厳父)は、酒を飲んで舞台に出られたものです。その頃、私は子供時分でしたが、すつかり装束をつけ終ると「どれおみきを………」といはれました。装束をつけるところが、太夫座の前だつたので先生に遠慮してか、鏡の間の隅の方で床几にかゝりながら、粗相をするといけないから前に風呂敷をかけて冷を茶呑茶碗で吞んだものでした。酒は道中用でせう、錫のズンドヴの器に入れて、あの頃よく医者が持つてゐたやうな手提の鞄に入れて持つて来てゐました。酒飲んでから面をつけます。
- 125すつかり装束が着いたシテは舞台へ出る迄、床几にかかつて待つて居ります。舞台では腰を掛け得る役でもツレや子方は楽屋では床几を用ひない事に昔から定められてあります。
- 210[紅葉狩の話]いや、宝生流には小書はありません。然し、装束附には唐織着流しとありますが、前に着流しものが続いたりすれば、大口壺折りにするかも知れません。大口にしますと座る所は床几にかゝる事になります。面は着流しでも大口でも万媚がきまりです。
- 57雷電は、クセの文句から考へると、どうしても常の装束附けの方――童子の面に著流し水衣――がよくその意味を表している。替装束の中将(面の一種)を掛けて、指貫、黒頭に初冠といふ出立ちで床几に傲然とかかつていちやあ、慈しみ育てられた恩師の許を訪れて来ている恰好ぢやない。尤もそんな考へから替装束の時はクセが省略されることになつたんださうだがね。
- 106仕舞の方で変つたものといへば熊坂の長袴、谷行の素袍、知章と頼政の床几の型などですが、かういふものはフンダンにやるものではありません。結局、最初の稽古にやる湯谷のクセ、「寺は桂の橋柱、立ち出でて峰の雲、花やあらぬ初桜の……」あれをよく舞ふのがほんたうで、一番力がつくのです。孫の稽古などにも、クセを十分仕込むやうに申していますが、基本的なものをそつちのけにして、珍しいものや変つたものをいろいろとやりたがるのは、結局上達の道ではありません。
- 112[松田亀太郎蔵記録による徳川光圀の逸話]そのあご髭のお立派なところから、直面でなさらうとお思ひになつたらしいんだね。それで装束をお召しになると紋太夫を呼べとおつしやつて、御自分は鏡の間で、腰桶に掛つて居られる。すつかりお人払ひになつたところへ、藤井紋太夫罷出て平伏する。そこで光圀公が紋太夫に、今日自分が鐘馗を舞つて見せる気持が判るか、とお尋ねになる。紋太夫その意味がはつきり解らぬので、いかなるお思召によるかとお伺ひする。そこで光圀公申されるには、自分はこのたび鐘馗を直面で舞ふことを家元から許された。直面でやると云ふことは、元来異法なのであるが自分は年も寄つているので、特に許された。
- 125[「定家」について]吾々から申しますと、このやうな曲はいくども稽古をして貰つてやつと出来たとか、何とかいふべきものでなく、年功を経て自然に舞へるやうになつてきたのでなくてはいけないのです。型も何もなく、位だけを見せるなんてものは教へるにも教へやうがないぢやあございませんか。ただ黙つて葛桶に腰を掛けて居る姿とか、何もしないでぢいつと下に居る姿に十分気品が出てくるやうにならなけりやあ、この能を舞ふ資格はまづないわけです。
- 173–174観世新九郎(観世流小鼓家元)といふ人は小柄な品のいいお爺さんでした。楽屋にいると、腰が非常に曲つていたので、舞台に出たらどんな恰好をして鼓を打つだらうとはじめは思つていました。所が舞台に出たのを見たら驚きました。橋掛りへ出る頃から、腰が延びはじめて、さて床几にかけて打つことになるとすつかり姿勢がシヤンとしてしまふので、子供心にもえらいものだと思ひました。とても綺麗な鼓で、調子もなかなかよかつたやうです。
- 215–216かれこれ三四十分もして容堂様がやつと楽屋へ来られ、鏡の間の鏡の前で装束を着けて床几に腰を下している祖父の様子をぢつと御覧になつて、もうよい、卒都婆は立派に出来た、舞台でやるには及ばぬとおつしやつたさうです。若い家元といつても、十二代はその頃四十歳前後、容堂様と年配も同じのはずですが、どんな心持で老女物をやるか、それを試めしてやらうといふお考へもあつたでせうが、さていよいよ舞台へ出るまでの態度を見て、もう出来ているから舞台で舞はないでもよいと言はれたところなどは、さすがに偉いものと思ひます。大名の我儘とばかりは申せません。