たつ【立つ】
手塚貞三編『謡曲大講座 手塚亮太郎口傳集』(1934)
- 3ウ[「関寺小町」について]次第で、子方を先に立て、ワキはツレニ人を従へて出ます。
- 7オ[「景清」について]トモは「扨は此あたりにては」と断念して、シテより外して了ふ。此処でトモは後見座にクツロぐ。或はもとの所に立つてる事もある。此時は「名のらで過ぎし」でシテの前を通つて橋掛りへ行き、ワキに掛合ふのである。
- 8オ–8ウ[「景清」について]「昔忘れぬ物語り」から調子を替え、閑かに少し浮いてうたふ。「早立ち帰れ」は張りであつて、口伝、習である。此処でシテ杖を取り立つ。ツレも立つ。
- 11オ[「木賊」について]ツレは二人が常であるが五人も六人も大勢出す事もある。扮装は段熨斗目に水衣(両肩揚げ)、或は素袍男にして右肩脱いでもよい。シテと同じく木賊をかつぐ。シテはツレと一しよに、一声で軽く出て舞台に立ち並び、「木賊刈る」と謡ひ出す。一体が重い曲であるから、此一声を真の一セイと聞違へる人もあるが、これは真の一セイではない。
- 12ウ[「木賊」について]「などや添ひもせぬ」の打切は心ある所で、「親は」の謡ひ出しは引き出さるゝ如くに謡ひ出す。シテは其謡に引出されて覚えず立つて舞ひ出す。と云ふ風に行かなければ此曲の妙趣は表はれない。此曲を「舞曲にあらずして舞ふ曲」と云ふのは即ち此点であつて、シテ自らが、其力を以つて舞ふのではなく、今は行衛不明になつた其子供の昔舞つた舞を思ひ出して、其真似をすると云ふのであるから、常の舞曲の様に此処から立つて舞ふのだと云ふ風に其態度を示すのでなく、只我を忘れていつとはなしに立つて舞ふ、即ち地謡に舞はせて貰ふのである。その舞はずに舞ふのが実に難かしい。就中「我子は斯うこそ」から「颯々の袖を垂れ」の辺迄は型も謡も難かしい。
- 17オ[「三井寺」について]「月落ち鳥ないて」と上げ羽閑かに謡ふ。「浪風もしづかにて」の「しづか」をしづめて謡ふ。上げ羽あとはシテが立つて舞ふのであるが、位は矢張り閑かに謡ふ。
- 20オ[「鵜飼」について]それでロンギは安座のまゝで、型は一つもなく「実に往来の利益こそ」から、謡を静かに謡はせて大小は流しを打つ。シテは此処で始めて立つて、切りの謡一ばいに幕に入る。ワキは合掌して留める。
- 3ウ又、通小町の稽古の時、かづきをかついて一ノ松に立つている間、先生は後に立つていて、扇の要の方を自分の腰の脊すぢの骨にあてゝ、腰が少しでも丸くなると「それア〳〵」といつて突ツつかれる。ハツと思つた拍子に謡の力がぬけるすると又、腹、腹、と許りに責められる。この位の苦しさはなかつた。
- 5[「遊行柳を見て]「なうなう遊行上人の御供の人に申すべき事の候。」この「なうなう」の一句はこの一番の能の成功不成功の分岐点であらう。この一句で私の心は嫌応なしに詩の殿堂の中にグングンと引き込まれて行く。シテは橋掛りに居、ワキはワキ柱に立つてゐる。「橋掛り」これは能になくてはならないもゝ一つである。「橋掛り」は能の舞台効果を倍加する力を有してゐる。芝居の花道とは全く別である。
- 5[遊行柳を見て]只自分は今の橋掛りを讃美するものである。世界にこれ程の舞台効果をおさめるものは無いと言つてよい。青い松、紅白の切幕(たまには他色のものがあるが紅白がいゝ)よく拭きこんで上品な光沢のする手すり、その前に立つ尉、何の不調和もない。こゝで二三の問答があつて老人は僧等を前の遊行上人の通つた、朽ち木の柳と言ふ名木のある、旧道の方に道しるべする。
- 132–133[「草紙洗のある型」草紙洗の中の一寸した型に私は非常な面白さを感じた事がある。それは、ワキがシテの歌を古歌だと言つてから掛合があつて地どころとなる。此の中の「わが身にあたらぬ歌人さへ」辺のところになると、小町の後に坐つてゐた女ヅレ二人が、立つて地謡座の前、男ヅレの間へ這入つて坐る。此れを面白く思つた。此れより後のシテの型や舞の邪魔になるら立つて、向ふへ行つたと言へばそれ迄だが、私は此の型を見てゐて、こんな風に思つた。「小町さんは美人だし、歌は上手だし、あたし達は尊敬してゐましたわ。黒主さんが古歌だとおつしやるけれどうそだと思つてたわ。だけど矢張り………ぢや本当なのネ。あら嫌だ。」そこで立つて行くのぢやないでせうか。古歌だと言はれても直ぐ立ち上がらず、しばらく様子を見てから愈々本当らしいので、ツイと立つて行くのです。女の気性をよく現はした型だと思ひます。それとも私の勝手な想像でせうか。(昭和四年秋)
- 239[「摂待」について]──いや‼めつさうもない。私共はそんなものぢやありません。サア〳〵奥へ行つてゐらつしやい。此れで子供は此処を立ちます。弁慶、又々大変な事が起るかも知れないと云ふので、判官を他の山伏の間に坐らせてしまひます。
- 295[杉浦披露能における「卒都婆小町」について]「むつかしの僧の教化や」と杖にすがつて立ち、常座へ行く。その常座の方を向く瞬間馬鹿に若いナアと思つた。「影はづかしき我が身かな」で、坐つたまゝ笠を少し前へ出し、かくれる様に面を伏せた時はよかつた。此れから後の型どころは喜之氏らしい美しいものだ。
- 296–297[杉浦披露能における「景清」について]「悪心は起さじと思へども又腹立ちや」の腹立ちやの型は宗家独特の気分。「山は松風」と上を見る心、松風を聞く心。「荒磯に寄する波も」と立つて作り物の柱に両手をかけて聞心する所などはタマラなく嬉しい所。「正しき子にだにも訪はれじと思ふ心の悲しさよ」とツレを抱へたまゝ泣き臥す所は、実にうまい。能であの位実感が生れて来やうとは思はなかつた。語りは床几にかけてゞある。「景清これを見て」からは立つて常座へ行き型がある。
- 1ウ目のつけ所 立つた時は六尺向ふ、坐つた時は三尺向ふと云ふのが規則です。俗に牛眼と云ひまして、上目も使はず伏目にならず閉ぢもせず、全開にして置く事を適度とします。目を閉ぢると頭がかたくなつて、動きがかけます。然し少しでも心にかゝる事があると、目を閉ぢるものです。之は畢竟、不確な所から起るので決していゝ事ではありません。又体の前に傾くのや後方へ反つたのも見苦しいものです。頭が仰向いたり、俯いたりするのも勿論ですが、扇や手で拍手をとつたり、首や体で拍子をとるなどは全く以て困つた癖です。此のやうな癖は修業中から注意しなければならない事です。
- 16オ[紅葉狩の鬼揃]前半では曲申の「盃に向へば変る心かな」と云ふ所で、シテはワキの所へお酌に行つて其儘、地謡の前へ参りまして坐ります。こゝでツレの一人が立つて、シテの代りに舞の初段目迄を舞ひます。初段を取る所からシテと入り代るのです。其心持は主人公であるシテは、お酌をして維茂の側に侍して居り、侍女をして舞はしめると云ふのです。
- 16オ[紅葉狩の鬼揃]維茂との立廻はシテがハタラキ、「引下し指通し」と切られて後は、立つて作り物の内に隠れてしまひ、ツレは皆々橋掛りより幕へ逃け込んでしまひます。
- 16ウ[草紙洗小町]ワキの名乗りが済むとシテはアシライで橋掛の三の松の所へ出て立ちながら謡ひますが、爰は書斎中に居る場合でありすから、幕内に居るうちからワキの名乗も聞かず、幕を出るのも歩いているといふ心持でなく、どこまでも書斎中で歌案じて居る心持なのでありますから、少しも外に心は移らず、一心に歌を考へて、「まかなくに」の歌が浮んだものですから、心嬉しくこれを短冊に認めて詠ずるといふ場合で、総て快く嬉しき内に中入となります。
- 16ウ[草紙洗小町]後シテの装束も外は変りませんが、緋大口を穿き唐織が壺折りとなります。出る順序は王、小町、男連、女連、貫之、黒主で、舞台に立つ時は男連及貫之は王の側,女連は小町の側で、黒主は大小前へ正面向きに立ちます。此次第で出るのも別に歩行している心持でなく、宮殿に居る心持でなくてはなりません。座定りて後文台を持ち出すのは男連ですが、これを躬恒と見立てゝあります。
- 17オ[草紙洗小町]「胸に苦しき」といふ所から小町の側に居つた女連は立つて男連の上へ座を代へます。これは気の毒に思つて小町の側を離れると云ふ心持で、此辺の挙動は注意せねばなりませぬ。
- 17オ[草紙洗小町]「兎に角に思ぴ廻せども」と切なき心持で「やる方もなし」とシホリ「なくなく立つて」と徐に立ちスゴスゴと面目なさそうに橋掛り迄行きます。これは宮殿内の廊下を通る様な心持であゆむのです。貫之に呼止められて止り、一の松の所に座し舞台の方を向いて謹んで待つて居ります。
- 17オ[草紙洗小町]貫之より「急いで草紙を洗ひ候へ」と言はれて、始めて蘇生したる思ひで、嬉しくいそ〳〵として、「綸言なれば嬉しくて」と謡ひ「既に草紙を洗はんと」と立ち「和歌の浦わの」と舞台へ入ります。
- 17オ[草紙洗小町]「実に有難き」といふ所でワキと共に立ちてワキの次へ座し、爰にて烏帽子を受け取つて物着になります。
- 五4ウ[「高砂」について]前シテは面は小尉で装束は小格子、白大口に水衣で、ツレは姥かつらに姥の面である。このツレを先に立て真の一セイで出る。真の一セイといふものは最も荘重な囃子であるから「高砂の松の春風吹き暮れて……」の謡ひ出しはこの一セイの囃子の位と背馳せぬようにしつかりと謡ふ。といつて堅くなつてはいけない。波平かな海上の日の出の如くぼーッと謡ふのである。
- 107立居なども腰の力をからなければ身体がぐらつきます。すべて立ち方は腰が大事で、腰さへしつかりしてゐれば立居も運びも乱れません。
- 108老女物などは単に静かであればよいのでなく、立居などにも老いたる乱れがなければならず、老人も若い三番目物のシテなどの静かさと違つて枯木の軽さがなくてはならないのです。唯大事々々とつとめて芸を殺してしまつては何の価値もなくなつてしまひませう。
- 129〇それでは「草紙洗」は何うなります。 △あゝ一寸待つて下さい。前にいふのを忘れましたが、後になつて、次第で舞台に立並び謡ひますが、此の次第も種々ものによつて違ひますが、「草紙洗」の次第は如何にも晴やかに、位を持つて軽く謡ひます。ツレの貫之なども軽い中に、品がなくてはいけません。
- 248三番目物の待謡は概してシツトリと謡ふ。又「三輪」のやうに、「この草庵を立出でて、〱、行けば程なく三輪の里」と、一般の坐つたまゝ謡ふ待謡と違つて、立つて歩み〱謡ふものは、些か道行のやうな風趣が添ふ方がいゝであらう。
- 256[「松風」について]クセは閑かに上品に謡ふ。「かけてぞ頼む」までは床几にかゝつての型であるが、こゝから立つて舞ふのである。このあといろ〳〵型もあり謡にも心持が要る。
- 344同じ「ユウケン」といつても修羅物と鬘物とではむろん違ふ。前者は大きめにし、後者は小さめに月形になるやうにする。又扇の使ひやうでも、同じ「左右」にしても、「胸差し」にしても、鬘物の場合は修羅物や四五番目物のそれとは、手の加減、心持、すべて非常な違ひで、柔かに、優美にしなければならぬ。足の運びはむろん、同じ立つている姿にしろ大変な違ひである。又、仕舞を舞ふ当の人の男女老若によつても種々の心得や身の構へに差異のあることも、いふまでもなからうが注意を要する。
- 46床几にかゝる中でも、ツレではございますが「千手」のツレと「大原御幸」の法皇、この二つは指貫ですので一層苦しいものでございます、大口なれば幾分か楽でございまして膝の具合でかまへますが、前申したやうに膝でこたへてをりますので、立上ると膝がのびて棒のやうになつてしまひます。
- 281–282然しそれは数ばかりで、「勧進帳」などを少しはほんたうに謡へるやうになつたかな、と思ふのはやつと此頃でございます。初の中は、立つてゐて手を開いてをりますと、お腹に力がはひつてをりませんから、声が上づつて弱りました。以前にはよくそんな調子で謡つたものでございましたが、此頃はなるべく調子を上げねやうにして謡つてをります。それで「勧進帳」も大変調子がよくなりました。何しろ若い頃には、頭の頂辺から声が出まして、よく姉に笑はれました。さうでございますから、その時分の「勧進帳」は、ドツシリなどゝいふ事はとても出来ません。立つて居つて謡ふのと、座つて謡ふのとは大変調子が違ひます。それに、両手を張つて居りますと手に力がはひるので、声の方が抑へられずに段々調子が上りますから「これだけ声があるぞ」と云ふ気になつて謡つて居りますが、終ひには苦しくなつて来ます。さうすると勢ひ体が崩れて来ますので、なか〳〵むつかしいものでございます。
- 291[「二人静」所演について]その時の笛は森田操さんでしたが、森田流ではあれを現在物の序之舞として扱つていらつしやるので、私どもの常々舞つてゐます幽霊の時とは譜が違ふのでございます。私共はそれに気づかずに常の積りでそのまゝ舞台へ出ましたが、いざ舞にかゝりますと違ふので、さあ困りました。私は譜に合して、どうやら舞つたのではございますが、合舞をしてゐます六郎がどうしてをりますかゞ心配で、冷汗がタラ〳〵と流れて来るのです。まるで馬車馬のやうに一切横が見えませんから、六郎が見附柱の方へ行つて立つてゐるか、どうかがわかりませんでしたが、やつと、角へ行つて、直して、呂を聞いてこちらへ廻つたら、六郎も廻りかけて居るのが見えました。いやその時の嬉しかつた事つたらございませんでした。
- 12能では簡単な藁屋のやうなものを拵へて、その内に景清が坐つてをりますが、立ち上つて四力に竹の柱が建ててあるその一本の柱に摑まつて首をかしげてぢつと聴き入る。これなどは、どちらかと言ふと能ではやさしい方ですが、それだけの事をして見れば、見物には十分波の音を聴いて居るのだなと納得出来る。然し上手な人になりますと、そんな仰山なことをしなくてもいいやうになります、もつとシグサを少くして、坐つて居て僅か顔を下に向けるやうにしただけで、却つて立上つてやるよりも含蓄のある深味のある芸を示すのであります。さういふ風に、上手になればなる程、不精になつて動かなくなる。最初のうちは柱に摑まつてやるけれども、段々上達して来るとそれでは物足りないで、もつと動かないでやるといふやうになる。さうして段々動くことが少くなつて、しかも効果は段々大言く深まつて来るのであります。
- 160[「藤戸」所演について]安坐してまた立つ常の型は却つてやりにくいので、替の型でやる。当分これでやつて行くつもり。
- 180[「竹雪」所演について]狂言子方へ橋懸で(子方一の松)切諫坪折を脱がせ竿を置き去る。子方竿を取り、引きずり、舞台シテ柱先に立ち、「さりとては」と謡ふ。「身にしむばかり」と作物の前へ行き、雪を払ふ型一つ。「帰らんと」と竿つきながらシテ柱の方へ行き、「門を閉す」とシサリ、「明けよ」とシテ柱を二つ竿にて打ち、「あら寒むや」と正面へ三四足出、シサリさま竿捨て、下に居正面へ合掌。「実にや無情の」と立ち、作物の方へ行き、大小の方向き臥す。
- 190勧進帳になる頃にはやはり疲れのためと、両手を前に出してゐるので胸が圧迫されて非常に息が苦しかつた。此の前も此処で堪へ切れずに下に居てしまつたので、今度はどんなに苦しくても立つて居なければならんと必死に堪へ通した。だから調子は好調でも存分に謡ふ事が出来なかつた。
- 213[「班女」所演について]一体自分は唐織着流しが一番やりにくい。唐織を着て立つと、身体のほんの一部分にしか力が入らないで、我ながら情けない心細さを感ずる。今度は一つ舞台へ根が生えたやうに立ちはだかつてやらう、外から見た恰好なんかどんなに変でも構はない、まづ両手の構へをいつも気にしすぎる、その結巣上半身に凝つて下半身がフラフラになる。暫く形に対する意識を去つて両手の構へを忘れよう。――かういふ考で練習した。
- 235[「芭蕉」所演について]今年の不面目を取り戻さうと腰を据ゑて稽古をした。ずつと立直つて来たし、心の構へも十分だつた。だが当日はやはりいけなかつた。初同迄どうやらだつたが中入に立つてからまるでひどいものだつた。「誠を知ればいかならんと」のヒラキがー呼吸早かつた。持て余して居る所へ地が「思へば鎮の声」で馬鹿に締めて心持をつけてしまつたので、もういけなかつた。口惜しい。
- 266[「小鍛冶 白頭」所演について]前を十分にやることを目的として練習した。度々勤めたが、一度も前を思ひ通りやつた事はなかつた。呼掛、橋懸に立つ。初同、舞台へ入る。此の辺最も気に入つた出来だつた。曲も先づ、ぐんと力を入れてやつた。 後は少し粗雑だつたかも知れない。
- 267[「野守」所演について]稽古の時相当手に入つて居た筈の前、運びが固くて悉く失敗。初同も、ロンギ前も少しもノリ出ずじまひ。重苦しく舞台に立つて居るばかりで、無能振りを発揮する。新しいままの足袋がイヤにボテボテして、重い履をはいたやうで、少しも舞台の上を滑かに歩けなかつた。不快々々。
- 291[「松風 見留」所演について]見留は囃子方が大変せき込んだので、型はチグハグになつて失敗。止は残り留にしたが、型附通り、「暇申して」と立、直ぐ幕へ入つて行くのに、「吹くや後の」と常の型通りの心持があつたりして、スラリ〳〵入り兼ねた。これは「後の山嵐」迄型をしてから入らねば折合はぬことが、演つてみて始めて判つた。
- 295[「海人」所演について]多少は自信を持てる曲なのに、まつたく駄作だつた。出て橋懸で止まつてみたら、正面下から強烈なライトが、面の左眼を強く射て、立つて居るのに中心を失ひさうで不安だつた、あゝいけないと思つたら、そのままズルズル悪くばかりなつてしまつた。
- 307–308十一月三日、和歌山市公会堂、教授主催能、「小袖曽我」芳文、香二、「富士太鼓」後藤、「葵上」実、「猩々乱」和谷。 幕が上つてから運び出す迄十分想を凝らして立つて居たら、柔い運びが出て来た。しめた、と思つた。声はまたバサバサになつてしまつたが、少しも顧慮せずに気持だけで謡つた。「葵上」は十年も前に続けて二三遍演つたが、いつも工合よく行かなかつたし、評判も悪かつた。自分には向かないのかなあ、と考へつつ其の後一度も演る時がなかつた。だから十月の稽古能に舞つて置かうと思つて居たら、病気で舞へなかつた。この日は、だから数年振りに、まつたく行き当りばつたりだつた。どうにか行きさうな気はあつた。
- 337–338十二月二十二日、稽古能、「玉葛」を演る。多分初めてのやうな気がする。若しかしたら稽古能で一度やつて居るかも知れない。最近肥つて益々坐りにくくなつたので、一つは坐る修業にと考へてかかつたのだが、一声で幕をはなれて驚いたのは、足袋がいつもよりぐつと小さい。指先がヘシ折られるやうな感じで、まるで運べない。坐るどころか、立つて居るのも漸くだ。この意外の突発事件で前全体はすつかり混乱に陥つてしまつた。情ない話だが、立上りに機先を制された武蔵山のやうなことになつてしまつた。
- 344–346[「光仲」所演について]ヤレヤレと安心したのも束の間、今度はそのまま子方を置いてワキは先へ橋懸の方へ帰つて行つた。子方は稽古の通り、も一度ワキが連れに来てくれるものと思つて、いつ迄も立たうとしない。地の文句はずんずん進行する。シテは橋懸の子方を止めに行かなければならない時機に達して居るのに子方は残されて依然としてツレにお辞儀をしたままである。折角の最後の大事な別れる場面がこれでは滅茶々々だ。やつと子方は独りで立つて橋懸に行つたので、どうにかお茶は濁したが、この醜態にすつかり気分はぶち壊されてしまつた。
- 360かう度々「舟弁慶」を出す理由は、何遍演つてみても出来ないことと、その出来ないところが自分の一番致命的な欠点だからだ。それは主として前である。一体に自分の不得意とするのは唐織著流しに在る。それでも次第で出て初同立廻りと順に行く方はまだどうにかなるが、烏帽子を著けて立上つて、「渡口の郵船」と直ぐに舞出す、これがいけない。次ぎに「紅葉狩」などもさうだが、短いクセの上羽前がどうしても身体がほぐれないでコチコチになつてしまふ。
- 360–361[「舟弁慶」所演について]稽古の間にただ一度、最後の日だつたと思ふ、一番舞ひ終つてそこだけやり返してみたら、殆と思ふやうに舞へた。この時は嬉しかつた。当日の朝、面をつけて始まる前に一度物著あとから演つて置かうと思つた。だがそれが出来なかつたが、大丈夫だらうと多寡を括つて居た。所が逆になつてしまつて、立上つた後すつかり足が固くなつてしまつた。クセは兎に角、序の舞迄、いつもより悪い出来だつた。本当に舞ひながら情けない気持になつてしまつた。
- 71[「元章自筆の謡本」所載「半蔀」型付の引用]そゝろにぬるゝと左の手にてしほり猶それよりもト立て足を留 惟光をト右の方の下を見
- 89[「藤戸」演じ方について]一声不越の囃子で中年の母が現れて来まして舞台の常座に立ち一セイを謡ひます。
- 90–91[「藤戸」演じ方について]ワキは内心の驚きをかくして、何気なく「我が子を波に沈めし恨とは更に心得ず」と突つぱねます。突つぱねられてシテは「さてなう我が子を波に沈め給ひし事は候」とかゝつて行きます。能では居立ちましてワキをキツと見こんで謡ふのであります。強味に謡ふので、そこに限度がありまして、シテとしての位、品を損はないやうに気をつけて謡はねばなりません。
- 94[「藤戸」演じ方について]語が済みますとシテはシオリの手を下しながら「さてなう我が子を沈め給ひし云々」と謡ひワキは「あれに見えたる浮州の岩の」と角柱の向方の心持で教へます。シテは「さては人の申しゝも」と謡ひ「あの辺ぞと夕波の」と教へられるまゝ何気なく立ち上ります。この何気なく立ち上るのがなか〳〵難かしいのであります。寝かした足を直し二段に立ち上るのを一段のやうに見せねばなりません。汗などを搔いてゐると上手く行きません。
- 95–96クセ上端あとより中入まで こゝは藤戸一番中のやりにくい所で難かしい型があります。この型には色々ありますが、当流ではまづ三通ございます。泣いてゐる所までは同じですが、其一は—「杖柱とも頼みつる海士のこの世を去りぬれば」とシオつてゐた手を下しまして「亡き子と同じ道になして賜ばせ給へやと」で膝を打つと直ぐ立ち上つてワキへ突つかゝつて行きますが、気ばかりあせつても肝腎の足がもつれて膝をついてしまふと云ふ型であります。其二は—ワきへ真正面から突つかゝつて行つて、ワキに払はれて後へ退つて下に居る型であります。其三は―これは古い型附でありますが、上端を謡ひながら立ち上つてシオリの儘、一旦常座へくつろぎまして、「とてもの憂き身に」とワキを見こみ「亡き子と同じ道に」と両手をひろげながらワキへ摑みかゝつて行く型であります。
- 96[「藤戸」演じ方について]これに就いて昔の面白い話があります。さるシテ方が狂言の「まづお立ちやれ」のセリフで立たなかつたのです。この場合シテは安座して双ジオリしてゐますから腹をグツと押してゐて随分苦しいもので御座いますが、このシテはそれを我慢してゐたと見えます。狂言は約束通一ペんのセリフでシテが立たないので困つたが、稍々間をおいて再たび「マーヅお立ちやれ」とやつたのでシテも今度はしづ〳〵と立ちました。その呼吸が非常に良かつたさうであります。
- 100[「藤戸」演じ方について]「そのまゝ海に」と三足下つて反りかへりをして下に居て地の「引く汐に」と立つて廻りながら「浮きぬ」と下に居り「沈みぬ」と立ち上ります。「岩の狭間に」は杖を肩にして下に居ります。替之型に杖を肩にしてシテ柱の方へ流れるのもあります。
- 103[「井筒の謡ひ方」]後見が作物を出して退きますと、名宣のアシラヒ笛でワキが出ます。そうして舞台の常座に立つて名宣となるのであります。このワキのやうに最初に名宣のあるのは名宣ワキと申しまして、次第の後にある名宣よりも、幾等か位を取つて丁寧にスラリと謡ふのであります。このワキは角帽子著流僧であります。閑かな中にスラリとして、本三番目物の位を体して謡はねばなりません。
- 136「紅葉狩」の古い型附を見ると、「剣に怖れて巌へ登るを」の型を幕際でやる型がある。つまり揚幕を巌に見立てヽ、例の型をやり、「引き下し刺し通し」と安坐して斬られると、直ぐに立つて幕へ入いるのである。これも一寸おもしろい型だと思ふ。
- 131–132[「道成寺の話」]。当流では何より此の事を固く警めて居りますから、かうした失策は殆んどありませんが、よく鐘が上つてシテの立つた後に遺留品があつたなどと云ふ話を聞きます。此間も何処かでは鬟帯を遺して置いた人があつたさうですが、これなどは昔であつたら切腹せねばならない所でせう。
- 18[梅若万三郎談]是非安宅をもう一度御覧になりたいと、よくお素人の方からも申されますし、私ももう一度舞ひたいとは思つてゐます。舞ひたくは思ひますが、もうすつかり年を取りまして、息がきれてこまるものですから、他のところは何でもありませんが、勧進帳を立つて謡ふことがとても出来ますまいと思つて居ります。
- 40[梅若万三郎談]父は熊野が嫌ひでした。どうも車の中に立つてゐたり、文を持つてよんだりするのがいやだと申して居りました。父は此話を宝生九郎さんにしましたら、イヤ、私も大嫌ひだと仰有つて父と笑つておいでゝした。ところが、その父が丹波の領地へ参ります時、京都を見物いたしましてから、すつかり熊野を好きになつてしまつたのは面白うございます。
- 105–106[「松風一式之習」金剛 巌]イロエは「いでまゐらう」の後へ入ります。シテは「いでまゐらう」と立つて目付柱の方へ行き左へ廻つて大小前へ帰ります。そして作物の松へ向ひます。「あれは松にてこそ候へ」とツレがとめる事になります。 これは松とシテとの距離が実際には相当に隔つてゐるのを示すものであります。
- 106[「松風一式之習」金剛 巌]脇留はシテは「いとま申して」とワキへ辞儀をして立ち上り「返る波の音の」と拍子を踏みます、橋懸へ行きそのまゝ幕へ入つてしまひます。
- 114[「語り」に就いて 宝生 新]又、「道成寺」「雲林院」などのやうに立つてする「語り」、腰掛けて「鉢木」、坐つて「摂待」「七騎落」のやうにいろいろありますが、何れがやりよく何れを好むかと質されても困ります。この道に入つて居りますと、何れもやりづらく何れも厭だと申上げるより他に仕方がありません。
- 125[木賊のことども 観世 銕之丞]何しろ木賊の子方は一曲殆んど坐り通しで、退屈で弱つた事を記憶してゐます。ワキが立たして呉れるのを今か今かと楽しみに坐つてゐましたよ。
- 256[「安宅」の間狂言 野村 万斎]お約束通り進んで、ワキの『いかに誰かある』で、狂言は『御前に候』といひます。ワキは是を聞いて『山伏の御逋りあらば、此方へ申候へ』といひ狂言はうけて、『畏つて候』といひます。そして、常座に立ち『皆々承り候へ、今日も山伏達の御通り候はば此方へ申し候へ、其分心得候へ心得候へ』と、関の人々にふれるつもりで、正面から脇正面にふれます。
- 256–257[「安宅」の間狂言 野村 万斎]是で一段落すると、次第の囃子で判官主従が十二人、山伏の扮装で登場致します。先頭は子方(判官)次はシテ(弁慶)続いてツレ(山伏)で、ツレは現在九人出るのが普通になつて居る様ですが、以前は十人出て剛力を数に入れずに、本文通り十二人でした。そこで、本舞台へ入つて、二列に並びますと、一列六人づつで剛力だけがはみ出ます。で以前は二列の間、丁度大小前に立つたものです。
- 257–258[「安宅」の間狂言 野村 万斎]狂言が地取をやる事が、あの曲には何の関係もない様ですし、夫をわざわざ大小前に立たせて観客の目を引いた上に独吟をやる事は、如何にも分らない事です。人数がハンパになるために、一人真中に立たせ、余り目立つから、独吟でもやらせやうとしたと、考へる事も出来ますし、何か理由があつて、狂言に地取をさせるために真中に立たせたとも考へられますから、有様は地取とあの曲の関係が分らない中は、ウッカリきめられません。誰方か御教示にあづかりたいものです。因みに、山本東次郎氏に以前此の剛力の話をすると、大蔵では以前から、シテの側の最後に並んだもので、大小前に立つ事はなかつたとの事でございます。
- 258[「安宅」の間狂言 野村 万斎]○真中に立つて叱られる 私がまだ若い頃の話です。此の曲の間を勤めた時、舞台に入つて二列に並ぶと、シテの立つた位置が下つて居たと見えて、私の立つ所がありません。で、型附を思ひ出して、大小前へ行つて立ちました。了つてからおシテに挨拶を致しますと、今日は立つ所が違つたが、あれは困るから、是からは何時もの様にしてくれるやうにとの事でした。そこで、当流の型附には今日の様なのがありますし、実は私の立つ所がなくなつて、若し無理に立たうとすれば、太鼓にぶつかるといひますと、では橋懸に行つて立つて貰ひたいと、いはれた事がありました。立つ所がない事はよくある事で、おシテが思ひきつて前に出てくれないと実は困る事になります。此の時たつた一度、大小前で独吟をやつただけで、夫以来やつた事がありません。
- 259[「安宅」の間狂言 野村 万斎]御約束通り進んで、シテの発案で剛力の形に判官を仕立てる事となり『いかに剛力』と呼びます。狂言座から剛力は立つて、角に出てシテをウケ下に居て『御前に候』といひます。『笈を持ちて来り候へ』のシテの詞を聞いて『畏つて候』と立ち、後見座から笈を受取つて、シテの前に持ち出します。是が剛力の中々やりにくい処です。
- 260[「安宅」の間狂言 野村 万斎]次にシテの『汝が笈を御肩に置かるる事は、なんぼう冥加もなき事にてはなきか』を受けて、剛力は『誠に是は冥加恐ろしき御事にて候へども、兎も角も武蔵殿御心次第にて候』といひます。とシテが『先づ汝は先へ行き関の様躰を見て、真に山伏を撰むか。又さやうにてもなきか懇に見て来り候へ』と命じます。『心得申候』と受けて立ち、常座へ参リます。そして、例の『……山伏に限つて止むるならば、まづ此の兜巾はむつかしい。いらぬものぢや』と、兜巾をとつて懐中する所作になります。
- 261[「安宅」の間狂言 野村 万斎]シテは『やがて貝を立て候へ』といひます。剛力は是を受けて一の松に来て、一扇を少しあけ、要の方を口にあて貝の形にして左手で是をうけて、『づうわいづうわい』と吹きます。是だけの事ですが、重い習事にされてあります。是が済みますと、是が済みますと、『さらば御立ちあらうずるにて候』になり、シテ方一同が立つて『げにや紅は』とシテが謡ひます。
- 263[「安宅」の間狂言 野村 万斎]クセの後になつて、ワキが後見座から橋がかりへ廻り、酒を持つて山伏の一行をたづねる事になりまして、従者の案内に剛力が立つて案内をうけ、シカジカあつて狂言二人の役は終ります。剛力はあとで笈をかついで、剛力にかけこみ従者はワキに従ひ入る事になつて居ります。まあ「安宅」の間の話はこの位のものでせう。
- 306[冷泉為理作「子の日」につき茂山千五郎談]最初シテが出て次第、名ノリ、道行とあつて野辺へ着ぎ、一旦笛座の上に座り「春ごとに〳〵」と両袖のツユを取つて立ち上り「子の日の松の縁にひかれて緑の袖を返し返して舞ひ遊ベば、喜びは日々に猶まさり行く、神国なれば君は千代まで民も豊につきせぬ齢、民もゆたかに尽きせぬ齢を松に契りて長生せん」といふ文句につれて舞ひます。
- 17扇は勿論ですが、守や文又は短尺など懐中して出る時は、余程注意をしないと忘れていけません。或る時どこかの能で「小袖曽我」で母が扇を忘れて出ました。十郎がお酌に立つてそばに来ると扇がないのに気がつきました。仕方がないから、両手をおチヨコにして出したといふ、飛んだ笑ひ話を聞いてゐます。
- 32–33[「作物のこと」]「小督」に出る作物(片折戸)は扉をあける、シテが常座に立つた時、門を通してツレの姿がチヤンと見える様に置くのですが、一寸むづかしいものです。あの作物は特色のあるもので柴垣を大小前から正先にかけて、ずつと並べます。そして、家外と家内のけじめを判然とつけますが、現行曲の内であれだけが、あゝした並べ方をするのは、一寸不思議に思はれます。
- 61話が横道に入りましたが、私が十一二の時、松本さんのシテで、雲雀山の子方に出た事がありました。その時立てなくて、松本さんが唐織を持つて立たして下さつたのを覚えてをります。その後流儀も段々盛んになつて、松本さん、野口さん、木村安吉君、私などでよく相撲をとつたものです。その時昔はたゝして貰つたが今ならこちらで立たしてあげる位だと泌々思ひました。
- 151[照憲皇太后行啓能について]私は千歳を勤めました。舞台に出てをります諸役が、自役が自分の演奏の時を除いて常に両手をついて平伏してゐました。地謡や後見はよく分りませんでしたが、畏れ多い事ですが舞台から宮様の御顔を拝まうと思つてゐましたが、座についてゐれば平伏してゐますし、立つて舞ふと一生懸命でとう〳〵拝むことが出来なかつたのを覚えてをります。
- 188–189客 いや私などもその一人だつたのです。クセなどシテが座つてゐるので、一生懸命と謡本に気を取られて居ると、舞台で足拍子の音がするではありませんか。顔を上げて見ますと、座つて居た筈のシテが何時の間にか立上つて、好い形で舞つてゐるんでせう。謡のどこで立たれたのやら全く惜しいと思つた事など度々あります。
- 104–105津軽家に湯谷の中入といふのがあります。「河原面を過ぎゆけば……」あのロンギの終りに、「仏のおん前に念誦して母の祈を申さん」、ここで舞台の真中に立つて合掌すると、立つて仲入をするのです。そこへ間狂言が出て、シヤベリがあつて、それから狂言が呼び出すこととなり、シテが出てくる。それは別におもしろいものでもありません。殿様が、楽屋で一ト休みなさるための小書みたやうなもので、「湯谷はいつくにあるぞ」、「ただいま楽屋に御座候」ではしやれにもなりません。
- 120–121[「芭蕉といふ曲」]つまり動けば必ずノリがつく、そのノリが出ちや佇んでる姿にはならない。それぢやあノリが全然ないのかと云へば、あるにはある。だいいち、ノリなしぢやあまるで動くことは出来はしませんからね。然しそのノリはほんたうにかすかなもので、腹の底の底に一寸蔵つてある程度のものですね。こんなことを云つたつて、禅問答みたいで、どなたにでも解るといふわけにはゆきますまいがね。理窟から云へば、それなら最初から動かないで、その気分を出せばいいぢやあないかとも云へますがね。そこが芸でしてね。なかなかあの初同の間ぢつと立つて居られるものぢやあないんです。居曲(クセの間坐り切りのもの)なんかとは意味が違ひますからね。
- 126–127どんなに足が痛からうがどうしやうが、身体や気持に崩れがあるやうでは駄目です。もつとも最初から足一本折れるつもりで坐つてしまへば、そりやあもう痛いのは我慢出来ますがね、問題はその後なのです。あの中入で立つときになつて、足がしびれて身体がぐらツと来ては、それこそ折角の定家一番台なしになつてしまひますからね、そこがむづかしいのです。足の痛い苦しみのはうは只今も申しましたやうに足を折つてしまふつもりなら、なあにそれほどつらいとも思ひませんが、肝腎立つてから大事の中入に跛を引いてるやうぢやあ、どうにもなりませんからね。さういふ処に工夫と鍛錬とがあるわけです。
- 23此の春、大阪の住吉神社御造営御神事能として、あそこの舞楽殿で能を舞ひましたが、一寸普通の能舞台と違つた感じが致しました。御承知の通り舞楽殿は野天にボント一つ建つて居るものですから、揚幕から舞楽殿まで、新らたに橋懸りをつけまして、勿論屋根はありませんから、一声は四方に遠慮なく飛びます。橋懸りは正面松羽目の所について居る訳でして、四方がかけ払つてありますから、囃子方は笛小鼓が向一つて右側、大鼓さ太鼓が向つて左側で、小鼓と太鼓の間を通つて、太鼓の前に来て、常座に立つ事になつて居ります。舞台は普通の能舞台より稍〻小さいのです。舞の足どりの具合など多少変つて参ります。四方に柱はありませんから、是も能舞台とは勝手が違つて来ます。
- 104舞になりますと、時により場所に依つて、その広さに相違があります。或はたゞ広い所で舞はねばならぬ事もあれば、又せゝこましい所で怺へねばならない事もあります。狭い所ならば、そのやうに足数も少く、さうかといつてだゞ広い所で、広いのにまかせて無暗に多い足数をつかつてもいけませんが、要するにその辺の工合を見計つて、しまりよく舞ふ事が肝腎です。能に大勢の立衆が出て立ち並ぶ場合の如きも、位置のくばりが大変です。形の上からは僅か一二足の違ひに過ぎまんが、それが大変場所を狂はす事になりますから、舞を稽古される時は、よく場所のまとまりに気を付けて練習されたいと思ひます。
- 107クセの始めに踏む一つの拍子も遅くもなく早くもなく、嵌りよく運ぶ様に注意する事が肝要です。鬟物は鬟物男物は男物の積りで心して踏まなければならない。謡の方でも拍子を踏む所は嵌りよく加減をしてうまく謡はなければならない。又立つた時にはよく腰を入れてあごの出ぬ様にしなければいけません。
- 110囃子や仕舞のトメは兎角始めに立つた場所へ返らず、それた場所でする方があるが、よく注意して始めの場所へ返るやうにせねばいけません。
- 111立つた時の構へは大事なことですが、手を張りすぎてもいけず、張らないでもいけず、大変むつかしいものであります。腋の下がくつ付くと構へがくづれますから、くつ付けないやうにして、腕を弓なりに構へます。肩は極く自然のまゝに顎をなるべく引つけます。そして腰を入れます。