とめ【留】
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
- 27だから、宗家が弟子家の代りを勤めた時と、弟子家が宗家に代つた時の区別はなく、後見がシテ若しくはツレの急病等に代つた時は、後見座で礼をして切戸口から引込むのが、当流の作法である。けれども、其曲目によつて、一概に云へないといふのは殺生石の白頭などの様に、幕の内へ走り込むものか、又は橋掛りで留める曲であつたら、後見座に戻つて来るに及ばない、矢張り揚幕を入るのである。
- 40–41当流では沢山の能を早く仕込で、間に合はせると云ふのは大の禁物で、十番の能を好い加減に修業させるよりも、一二番の能を充分に仕込んでやると云ふ方針である。だから一通りの事を弁へぬ者には、替の形などを演じさせるやうな事はない。尤も、替の形でなくても、其曲によつては、曲中に二通り又は三通り四通りの形のある処もある。これ等は其時の番組の配置上同じ様な形の重なる場合に、其れを避ける為めに、甲若しくは乙の形を取る事はある。「留め」などもさうで、橋掛りで留める曲が続く時は、舞台で留め、舞台での留めが続けば橋掛りで留めると云ふ風に、自由の利く曲もあるから、其れ等は臨機応変で、要するに一番の能、一日の能の美を害さない様にするのである。けれどもこれは替えの形でもなく、小習ひでもなく、珍らしい形と云ふ可きものでもないのである。
- 152–153他流は知らないが当流では、催しの大小によつて附祝言の有無は決定しない。いくら小さな催しでも附祝言を謡ふ時もあれば、大きな催しでも謡はぬ時もある。其れは何故と云ふに、祝言と云ふものは、其催しの主意──仮令は婚礼とか其他の祝能とか──を祝ひ御代万歳と謳歌するものであるから、尾能が目出度く其曲を結んで居るものなら、其次へ更に蛇足を添へる必要はない。附祝言と云ふものは決して無意味に形式に謡ふものではなくて、前に云つた様な理由の下に謡ふのであるから、尾能の留めが「かき消す様に失せにけり」とか「あと白波とぞなりにける」とか「日高の川の深淵に飛んでぞ失せにける」とか云ふ文句であつたら、是非とも附祝言を謡はねばならぬ。然るに其曲尾が目出度く留まつてあるもの、即ち「治まる御代こそ目出度けれ」と云ふ様なものであつたら、其上更に附祝言を謡ふ必要がないのみならず、却つて重復するの恐れがある。
- 4ウ[「関寺小町」について]ワカ・キリ・鐘がしら・送り留 ワカ「百年は」から切りかへかけて型があります。「あら恋しの古やな」と下に居ますが、以下留までいろいろの型があり。心持が肝要であります。 「関寺の鐘」と大鼓に「鐘がしら」といふ習があります。 留め「小町が果の名なりけり」と作物の中にて留め、送り留めにて作物より出で、秘事の足づかひがあります。大小にも習ひがあります。
- 5ウ[「景清」について]全曲は述懐であつて、其位は、始めは序、中段は破、後半は急である。留前から又序に帰る。造物は藁屋に引廻はしを掛け、柱に杖を掛けて置く。杖は藁に結び付けて置いてもよろしい。
- 7オ[「景清」について]「答ふべきか」とはつきりと止める「其上我名は」と掛けてうたふ。 「此国の」の「に」の字少しニベをつけ、「の」は引かずにはつきりと謡ひとめる。
- 7ウ[「景清」について]シテの「如何に申し候ふ」は低く目に出る。「短慮を申して候ふ」と心持あり、「御免あらうずるにて候ふ」と低く目に謡ひ止める。
- 13オ「恨めしや」の地はズカリと出で、「逢ふこそ嬉しかりけ」と余り沈まぬ様に留める。 キリの「かくて親子に」とサラリと乗つて謡ひ出し、「仏種の縁となりにけり」迄サラリ。「あとに伏屋の物語り」と吟を替へ、のんびりと謡ふ。此処のシテの型、足づかひ、気合等総べて難かしい。斯ういふ処は心から心に伝へるより外はない。「浮世語り」と閑かに浮やかに抑さへ、沈まぬ様に謡ひ続けて留める。シテは留め拍子なしにスラ〳〵と入る。と云つてワキ留めでもない。此シテは普道の木賊刈りではなく、園原山の豪士なのであるが、子を失つた為めにつひ世を悲観し、道楽に木賊などを刈りつゝ、子の行衛を探して居るのであるから、気品がなくてはならない。
- 14オ[「弱法師」について]「立ちよりて拝まん」と気を替え、少しく気をいらつ心持があつてよい。返しは、しつとりと留める。
- 14ウ[「弱法師」について]クリ、サシ、クセは天王寺の縁起であつて、俊徳丸の心持とは、直接の関係があるのではなく、謡ひ様には別段特色はない。クセ上げ後の「済渡の舟をも」から少し心付けて謡ひ、「鐘の声」としづめ、「こと浦々に」と遠く心を配つて鐘の音を聞く心。「あまねきちかひ」と元に戻し、しつくりと留める。
- 15オ[「弱法師」について]「住吉の松の隙より」の和歌は朗かに謡ふ。此句以下狂ひ留め迄は兎角「舞ふ仕舞」になりたがるのであるが、此曲は「舞つて舞はざる能」であるから、それを取り違へては此曲の精神を失つて了ふ。シテも地も盲目の心を忘れてはならない。稍々もすると調子に乗り過ぎて面白くなり、主要の心を忘れる事がある。
- 15オ[「弱法師」について]「あふ」は軽く前の文句につけて謡ふ。鼓の合ひ方を云ふと、此処はツゞケの間であつてツヅケの止めのボの粒が「あふ」に当るのである。返しの「見るぞとよ」は、しつとり留める。
- 15ウ[「弱法師」について]「人は笑ひ給ふそや」、爰は狂言になり度がる処であるから注意せねばならない。「今は狂ひ候ふまじ」とズカリと留め、「今よりは……」と本性になりじツくりと謡ひ留める。前の「あら面白や」から、こゝ迄の処を「狂ひ」とは云ふけれども、真の狂人ではなく、時の狂ひで、所謂酔狂人同様の心持ちである。
- 15ウ[「弱法師」について]「親ながら恥かしとて」と狼狽する心、「父は追付き」と留め、「手をとりて」と閑める。「何をか包む」とボツ〳〵元へ位を戻し「高安の里に帰りけり」と祝言の心で謡ひ留める。シテもイソ〳〵と幕へ入り、脇がユウケンをして留める。此曲は前半は弱々とした方がよいのだが、稍々もすると、留め迄が陰気になる事がある、注意すべき事である。
- 17オ[「三井寺」について]ロンギはサラリと謡ふ。此ロンギの末に「鐘」と云ふ事四ツある。其のうちの、「此鐘の声たてゝ」と「鐘ゆえに逢ふ夜なり」との二ケ所、シテは作り物の鐘を見る型がある。キリの「かくて伴ひ立ち帰り」以下は、祝言になるから、軽くスラ〳〵と謡ひ、目出度く留める。
- 18オ[「国栖」について]「天津乙女」としづめ「これなれや」と楽になる。位に注意。古くは下り端で中入となり、天女は下り端を五段に舞つたのである。此時は「乙女子が」と柔吟で渡り拍子であつたが、今日は楽で中人となり、天女は楽を舞ひ(又は盤渉にも)、留めは強吟の乗り地になつてゐる。後シテ「王を蔵すや」と幕の内で謡ふ。此時は白頭で天地の声といふ。常はかづきを着て幕の内を出で、一の松で「王をかくすや」と謡ひ「即ち姿」とかづきを脱ぐ。此時は赤頭、唐冠で面は大飛天、袷狩衣、半切である。白頭の時は常よりも緩急がある。
- 18ウ[「江口」について]初同「をしむこそ云々」の一段は最も閑かに謡ひ、ロンギは少しはツきりと謡ふ。「一樹の陰にや」としめ「声ばかりして失せにけり」とロンギの留めを、しめうきに張り、返しで静めるのである。
- 18ウ[「江口」について]後シテの出は一声で、位を三段にとる。是を沓冠の一声と云つて、習である。「川舟をとめて云々」の出は閑にザングリと謡ひ、打切あとの「よしや芳野の」から位静まり「世に逢はゞや」と軽く留める。ワキの「不思議やな月澄み渡る水の面に」云々はシヤンと謡ふ。
- 19オ[「江口」について]「舟は白象となりつゝ」で少し廻る型あり「白雲に打ちのりて」と乗り込む。此辺は地謡と心持が合はなかつたら、シテはとても舞ふ事が出来ないから、地は其心して、能くシテの心持をも汲みとり、充分にシテを舞はせる様にせねばならない。此切り地は極閑かに、徐ろに留めるのであるが、謡ひ様や舞ひ方に別義ないのである。唯品位と声曲とを吟味して謡ふことが肝要である。
- 19ウ[「鵜飼」について]鵜の段は舞台で舞はずに、橋掛りで舞ひ「名残惜しさを如何にせん」で一の松で見込んで中入をする。又鵜の段を留めてから一旦舞台に入り、それから中入する事もある。中入笛は送り込みを吹いて、シテが幕に入つてから、尚三クサリよけいに吹くのである。
- 20オ[「鵜飼」について]位は一体静かに、段が済んでから急になり、留めで安座をして了まふ。それでロンギは安座のまゝで、型は一つもなく「実に往来の利益こそ」から、謡を静かに謡はせて大小は流しを打つ。シテは此処で始めて立つて、切りの謡一ばいに幕に入る。ワキは合掌して留める。
- 20ウ[「西行桜」について]地の「あたら桜の」云々はシテの謡出しに邪魔にならぬ様、注意肝要で「夜と共に眺め明かさん」と囃子にかまはずズカリと捨てる心持ちで、おさめずに閑かに止める。此所で後見は、作り物の引廻はしをサラリと目立たぬ様に下ろす。たとへば「清経」の音取の時の「枕や恋を」の返しの如くであるが、更に別段の工夫があるのだ。これからは現在を捨てゝ夢の中になるのであるから其心持ちが難かしく「家路忘れて」の地の内に既に夢中の心がなければならぬ。
- 21オ–21ウ[「西行桜」について]クリ地はサラ〳〵と重からず軽からず、又艶ツぽくなく押さへて謡ふ。サシ「九重に」云々は心合ひ強からず、また弱からすで寂びて謡ふ。クセ閑かに底は強く上はべは艶なく謹んでうたひ、「上なる黒谷下河原」は形があるから大事に謡ふ。上げ羽「浮世をいとひし」は締め「清水寺」は余り花やかにならぬやうに、クセ止めは大事である。
- 21ウ[「西行桜」について]和歌「花の陰より」とノンビリとたつぷり謡ふ。「待てしばし」とワキへ心して形ある。太鼓地ではあるが乗り過ぎぬ様、ダレぬ様に閑かに謡ふ。切りは止め迄注意怠らずに、「翁さびて跡もなし」と如何にも夜のしらみ渡る心持で収める。
- 8オ–8ウこれ等は其時の番組の配置上、同じやうな型の重なる場合には、其れを避ける為めに、甲若しくは乙の型を取る事はある。「留め」などもさうで、橋掛りで留める曲が続く時は、一方は舞台で留める。舞台での留めが続けば、一方は橋掛りで留めると云ふ風に、自由のきく曲もあるから、それ等は臨機応変で、一番の能一日の能全体から観て時に替の型をするのである。これは習ひ・替え・小習ひではなく、珍らしい型と云ふ可きものでもない。
- 16ウ宗家が弟子家の代りを勤めた時と、弟子家が宗家に代つた時の区別なく、後見がシテ若しくはツレの急病に代つた時は、後見座に戻つて礼をして、それから切戸口から引込むのが、当流の作法である。けれども、其曲によつて、一概に言へないといふのは、殺生石の白頭などのやうに幕の中へ走り込むものか、又橋掛りで留める曲であつたら、後見座に戻つて来るには及ばず、矢張り揚幕から入るのである。
- 9[観世左近所演「遊行柳」について]の上人に対する感謝の情はいつしか気焰となりグチとなり又喜びの舞となつて老の精力を出しつくして、果てはとう〳〵舞ひつかれて再三上人に感謝の意を表して、もとの朽ち木に帰るのである。 留め拍子となつて一曲は終る。 でも私の心ではまだ終つてゐない。シテは老いたる柳が朽ち木に戻る様に閑かに切幕の中に消える。ワキもしづかに入る。
- 119–120廃しついでに拍手をもやめたい。演者の演技への拍手であるから、演者はよろこんで受くべきであるが、これは辞退してゐる。×理由は至極簡単だ。トメ拍子がすんでも、まだ曲は終了してゐないからである。トメ拍子がすんでも、シテは舞つてゐる時と同じ気持で切幕の方へあゆみつゝあるのである。舞台には余韻がうづまいてゐるのである。
- 295[観世喜之所演「卒都婆小町」について]つまり後半は美しい美しいものだつた事は否めないが、余り美しいために三番目ものの卒都婆と云ふ感じがしなかつたでもない。それに留拍子がすんでからの引つ込みが早すぎた様に思へる。
- 315–316[金剛巌所演「誓願寺」について]後シテになつてから、橋掛りから舞台へ這入るなり「紫雲たなびく夕日影」とワキ正へ受けて右袖を強く巻いたのは、大変効果のある型だ。ここの文句を率直に、しかも品よく型にしてゐると思つた。それから舞がすんで「各々帰る法の庭」と一の松へ行つたから、キリは橋掛りで型をして、舞ひ込みにでもなり、ワキの合掌留になるのだらうと想像したら、すぐ舞台へもどつたので、何んだか軽い失望をした。いはゆる能通の猟奇性が致すところだつたらう。
- 8ウ〇揚貴妃 甲の掛り、臺留メ等です。甲の掛りは舞に就て。台留メは残りトメになります。
- 9オ–9ウ○大原御幸 女御留又は安閑留といつて、キリの文句の違ふのと、寂光院といつてロンギ迄で止めて其後を悉皆抜いてしまふのがあります。
- 9ウ○遊行柳 青柳の伝。舞についての脅ひです。私の流義では舞を四段に舞ひますが、これは四季に傚へたもので初段目は春の心持ですが、此青柳の伝となるとその春丈を舞ふといふ心持なので、初段のオシロの所で舞を止めるのです。
- 10ウ[「定家」小書について]埋れ留メ、これはキリのトメの伝で、残りトメとなります。
- 11ウ○関寺小町 筆染の伝。「硯をならし」と云ふところの技の習ひです。移り拍手、キリのトメに就ての習ひです。
- 12オ○野宮 合掌止メ。破の舞のトメが合掌となるのです。
- 13オ○野守 白頭。黒頭。天地の声。白黒は第一頭が違ひ、作り物を出さずに幕の内より謡ひます。天地の声といふはトメの謡を短く切つて囃子が残りドメとなります。
- 18オ[「草紙洗小町」について]「花の都の春も長閑」と愈々目出度く晴々した心持で、心嬉しくトメるのです。
- 七4オ尾能の留めが「かき消す様に失せにけり」とか「あと白波とぞなりにける」とか「目に見えぬ鬼とぞなりにける」とかいふ非祝言の文句であつたら、是非とも附祝言を謡はねばならぬ。然るに其曲尾が目出度く留まつているもの、即ち「治まる御代こそ目出度けれ」といふ様なものであつたら、其上更に附祝言を謡ふ必要がないのみならず、却つて重複するの恐れがある。
- 83「熊野」でも謡ふといふ方は、この位の曲になれば「能」の骨子を考へてみるべきです。ワキは前に述べた如き立派な狩衣姿で、笛のアシラヒで現はれ、橋掛りもこの風姿を軽々しくなく常座に入り、そこで踏みとめ、名乗詞をうたふのですから、詞も立派に品よくうたはないとワキの人物にそはないことになります。
- 107舞台に立てば、常に心を四方にくばり、注意を怠つてはいけないものです。先生は私共に、後方に目がなければいけない。いつでも自分の後方を忘れては身体がくづれる、といつてゐられました。後方に目をつけてゐる心だと、かゞみ過ぎたり、うつ向ぎ過ぎたり、後方の形がくづれたりする事はない訳です。留拍子をふんで橋掛りにかゝつても、後方を見る心で引込めば形がくづれるおそれはありません。
- 226[「修羅物謡ひ方の研究」金剛右京]後ジテの出は、大抵一声であるが、後ジテの出の一声は、前ジテの出の一声とは、型も囃子も違ふところがある。前ジテの出の一声は片越、又は不越の一声、又「踏みとめる一声」といひ、後ジテの出は本越の一声又は「開いてとめる一声」といふ。一声の中の「越の段」といふのがいろ〳〵囃子に変化があつて、それによつて型にも違ひが多少出来るのである。この一声の区別を述べることは一般には不必要であるから略して置くが本当をいへばそこがハツキリしていなければウソなのである。(囃子方自身が、その区別を知るや知らずや、後ジテの出の一声の際に、シテがシテ柱を越えても、足を留めねば、シカケないで、いつも踏みとめる一声ばかり打つといふやうなのがあつたものだ。今は先づあるまいが、以前はあつた。玄人にして且然とすれば素人の人達にそんな心得は、強要する方が無理といふものであらう)
- 229[「修羅物謡ひ方の研究」金剛右京][「八島」について]「互ひにえいやと引く力に」と手強くかかつて謡ふのを隙さず受けて「鉢附の」となるのであるが、こゝは所謂錣引といつて、最も大切な型どころであり、緩急も頗る多いので、謡ふのもかなり骨が折れるところである。しかもそれがその同吟の終りになつて次第に位を閑めて行つて、「音淋しくぞなりにける」と淋しい心持でとめ、更に気を変へてロンギに移るといふのであるから、甚だ厄介なわけである。よく〳〵心して学ぶべきである。
- 72外人の御稽古は、フエノロサ氏より先に、明治十六年一月にモーロスといふ方が通訳の方と一緒に見えて、「謡を稽古してくれ」と申されました。「羽衣」のクセの上から、クセ止めまでを一度亡父が謡ひますと、それをモーロス氏は聞いてをられまして、二度目には横に筋を引き、三度目には上り、下りの節をつけて、丁度楽譜のやうにして謡つたものでございます。さうして四度目には御本人が謡ひ出されましたが、少しも間違ひませんので全く驚かされました。
- 130[「松風」演能について]後見が扇を持つて出ますのはかうした場合のためで、中啓の扇の方はシテのために懐中して出ますので、自分が使ふのではありません。また若し代勤した時は清老人のやうに、止め拍子を踏み、それから後見座に帰る事になつてをります。
- 132[「後見に就いて」]トメに謡が終りまして、シテが引き、ワキが幕に入りますと、後見二人は立つて囃子方より先に幕へ引きます。
- 249–250[御大典祝賀能における「猩々乱」演能について]私どもの勤めました曲名に就いては「『乱』では御芽出たい折柄どうも」といふ御説が出まして、此時始めて「猩々乱」と致しました。 「乱」は二人で舞ひまして、常は六段あるのを略しまして舞は無しに乱掛りで、総て合舞で三段の乱留と致しました。私どもではこの光栄を記念致しまして、「和合三段之舞」と申してをります。
- 319–320此間、清之さんの追善会で喜之さんから、珍らしく「土蜘」を勤めるやうに役づけられましたが、廿五年ぶりでトメに枯木倒れをやりました。これは御承知のやうに枯木の倒れるやうに、真直に後へ倒れるのでございますが、老人がやつて、比較的、うまく行つたものでございますから、御評判になりました。
- 321此間、日比谷の公会堂の観世大衆能に、この「土蜘」が出まして、左近さんのお役でトメの「きりふせ〳〵土蜘の首うち落し」の所で宙返りをなさいました。
- 161[「喜多」主催学生能の記録]仕舞四番に一調二番、切は父の「紅葉狩」。道行のトメ「渡らば錦中絶えんと」とツレに出来るだけ静かにゆつたり歩かせる練習相当効果ををさめる。ツレは訓練を第一とする。
- 211九月二十八日、稽古能「三輪岩戸之舞」。 この小書は初めてである。二通りの内橋懸へ行く方を用ひる。常闇の世と早成りぬの後イロエ。くらやみの中を唯探し歩く心持なのだから、位がついたり、乗りがついたりしてはいけないとのことである。手をきき終つて舞台へ帰る。トメはコイ合。「三輪」は度々の事だし好きな能でもあるが、まだまだいけない。腰の危さが時々出る。上端後はどうしても思ふやうでない。神楽だけ面白く気が入つて舞へる。
- 247[「竹生島 女体」所演について]トメも文句が足らないで無理なのだから、次ぎには残り留にしたい。悠揚と舞ひ納むべき大事な処を、コセコセやつてしまつたのでは何にもならないと思ふ。
- 291[「松風 見留」所演について]見留は囃子方が大変せき込んだので、型はチグハグになつて失敗。止は残り留にしたが、型附通り、「暇申して」と立、直ぐ幕へ入つて行くのに、「吹くや後の」と常の型通りの心持があつたりして、スラリ〳〵入り兼ねた。これは「後の山嵐」迄型をしてから入らねば折合はぬことが、演つてみて始めて判つた。
- 321[稽古能「弱法師舞入」所演について]間の人がおくれて申合が出来なかつたので、トメのオクリ込みのところが喰違つてしまつた。
- 362–363[稽古能「弓八幡」所演について]囃子方が、神舞のカケリが少しヌケたので、この調子では恐しくせせこましい舞になるがと心配したら、初段から立直つて止メ迄大変乗りよく行つた。こつちの舞も今迄よりは多少自由に振舞つたやうに思ふ。まだ所々硬さや、空虚な所がちよいちよい首を出すやうだが、大分男舞と神舞との区分がつくやうになつたかと思ふ。志す所よりは遥かに低いが、実力としては八分位の出来だらう。
- 71–72[「元章自筆の謡本」所載「半蔀」型付の引用]又半蔀ト作物の内へ入ながら左の手にてつきあげの竹を持てつきあげをおろしてすぐに留ル
- 135–136「紅葉狩」や「土蜘」の後シテの退場法にはいろ〳〵あるが、流儀の正規の型は正面を向いて安坐して面を伏せたま、ジツとして居て、ワキが留拍子を踏み退場する時、ワキの後に従つて退場する行き方である。この外、斬られると直ぐに笛の横を逋つて切戸口から楽屋、へ退く型や、作り物の中に入つて作り物ごと退場する型などがある。
- 61[「独演能」観世喜之]定家は、普通はおしまひが作物に入つて居て、トメはその作物を出て留めるのですが、この埋留の小書がつくと、作物の中でトメて、それから出ます。つまりトメ方が習となつて居るのです。外は別に何も替る所はありません。
- 105[「松風一式之習」金剛 巌]本ノ留はロンギのトメを大小鼓が本ノ留の手を打つてシテは拍子を踏みます。
- 106[「松風一式之習」金剛 巌]見留は身留とは別のものであります。破之舞の上ゲに橋懸へ行きまして一ノ松で袖かざして舞台の松を見こみますと、笛はヒシギを吹いて留となります。
- 140[「弓流素働その他」梅若六郎]素働がある時はカケリはぬけまして、留は脇留となります。あとは替の型が所々にチョイチヨイある程のもので、格別お話する事はありません。
- 141[「弓流素働その他」梅若六郎]小書といへば今度私は大阪で羽衣の瑞雲之舞をやらうと思つてゐます。この瑞雲之舞といふ小書は、皇太子殿下のお生れ遊ばした節、私が御誕生を寿ほぐ為に作りましたもので、主なものを言ひますと、クセの中で橋懸で型をしたり、序の舞が三段で、二段目から盤渉調となり橋懸へ行つて瑞雲を見上げたりします。そして和合の舞とは違つて、ワカがありまして、「さいふ颯々」から位が進み、破の舞はありませんで、キリも亦緩急があります。脇留となるのです。
- 145[「玉簾など」金剛 厳]楊貴妃といふ人物が何しろ史上に名高いのですから、昔からいろいろと、故実めいたことが斯道へも取り込まれてゐます。序破之舞といつて序之舞の位についての秘伝があります。これは楊貴妃と玄宗皇帝が霓裳羽衣の曲を見残したといふ古事から来てゐるのです。又ワキ方に「常世着」と云つて道行のトメの習があります。足拍子などもやかましい心得があります。
- 145–146[「玉簾など」金剛 厳]地謡も随分難かしいのです。斯ういふ曲はとかく延びたり、ダレたりするものです。サラリと粘りなく運んで、そして幽玄の風情を謡ひ現すのは、地頭の責任であり力であるのです。地謡のためにシテの舞台が駄目になることはよくあります。どの曲だつて地謡は大切ですが、殊に楊貴妃のやうにシテの動かない物は、地の力が大変に影響します。 玉簾の小書がつくと台留にするのがキマリです。ですから別に小書として記さずとも宜い訳ですが、今は何処でも附記するやうです。
- 146[「玉簾など」金剛 厳]それからこの間の田村(註四月末日九段軍人会館の靖国神社奉納能上演)ですが、あの型は流儀では小原御幸にあります。「青葉がくれの遅ざくら初花よりも珍らかに」で双の手を上げて見わたします。一寸難かしい型です。田村の方は「天も花に酔へりや」と右の方ワキ正へ向いて咲き乱れてゐる花を眺めるのです。あれはカザシの型です、カザシの替です。片手でやるのを両手を使つてやるので、何か大変異つた感じを与へるのでせう。 邯鄲の「日月遅しといふ心をまなばれたり」で両袖を上げる型も似てゐます。型はちがひますが心持は同じものがあります。あれは祝言の心ですから脇能のトメの袖を捲いて常座へノリ込むのと同じです。能の型はそのやり様によつて随分と、意味を取りちがへられる事があります。
- 161[「富士太鼓現之楽」観世銕之丞]楽のトメも平生は常座でしますが、この時は大小前で太鼓を見こんでとめるのです。キリも平生はシテ柱でとめるのですが、この小書の時は一ノ松で留拍子を踏みます。
- 306[「思ひ出す人々」茂山 千五郎][「子の日」について]小松を曳く型や、袖を被いで扇で顔を掩ふ翁に似た型などあつて、ユーケンして留ますが、文句も型もまことに祝言になつて居て結構な狂言です。私の家には宮様から拝領した直衣がありますので、いつも狩衣の代りにそれを用ひます。
- 155[「難節」]某地で、或る人から突然、きらい節はどういふ風に謡ひますかど、質問されて、面喰ひました。所がそれは当麻のクセ止めにある、「綺羅衣の御袖も」の節扱ひの事でした。
- 37–38[「羽衣舞込」]同じ小書でも、霞留の方は山内容堂侯の御註文で出来たもので、大体似たやうなものだが、幕へ入る時は同じやうに袖はかついでも、この方は背中を向けたまま入つてしまつてワキ留になる。それに「国土にこれを施したまふ」と扇を作り物の側へ落したり、序ノ舞の三段目以後が直ぐ破ノ舞になつたりする。やはり無理をしてこしらへたやうな跡がある。重く扱ふと云ふ意味ならば、無論絵馬の女体なんかの方がよほど重かるべき筈のものだよ。
- 40[「羽衣霞留」]特別ちがつてるのは「七宝充満の宝を降らし国土にこれを施し給ふ」と正面先で扇を捨てるところと、囃子が石橋のやうな留め方(残り留)をする。シテは袖をかついで後姿のまま幕へ入る。そのへんが舞込とはちがふ。しかし多少無理がしてあるやうだね。
- 238–239[「殺伐な逸話」]二代目の逸話は、これも有名なものです。[中略]一説に、頓死に非ず、八嶋中入して後の出羽幕揚げ出さまに開く所へ、公儀小十人名字失念来りかゝり、開く手をさわりながら行過んとせしを、十太夫開く足にて彼の男を蹴ころばす。彼の男横に倒れし内に十太夫は出、八嶋を舞、朝嵐とぞ留め、幕へ入り幕下りると、彼の小十人する〳〵と走り出、十太夫横腹を、覚えたかき突通しえぐり何国共なく逃失ぬ。それぞれと云ふうちに十太夫はや息絶えぬ。仍而頓死とし長持にて御城を出せし也。
- 78出の囃子でも真の一セイで出るものは特に位を持つて謡ひます。又大癋の囃子で出るものはシテも地もゆつくり謡ひます。来序の囃子で中入する場合も地のとめはゆつくり謡ひます。ゆつくりといつてもゆつくり過ぎると困りますが。
- 85–86問 ダシのあと三字目、四字目、五字目など不規則的にあげられる処のうたひ方は真にむつかしく感じます。詞のトメなどの総心得といたしたいのですが、簡単に私どもにわかるやうに教へて頂けませんでせうか。 答 すべて詞はダシのあとであげて謡ふのですが、何字目であげるかは、文句によつてきまつてくる。文章といふのか、文句といふのか、ダシあとの文句が、二語ならば普通はダシあと二字目であげるが、二語三語からなる場合は、一語の終りにハリがつく。その語の字数が多いと、ハリ、つまりあげる字があとの方になつてくるわけです。詞は扱ひがきまつてゐて、それでゐて、一字一字、一句一句の工合がちがふからむつかしい。詞の終りの字は、あとへつゞく場合、うたひ切る場合、これもそれ〴〵心持がちがふにつれて、とめ工合にも心持があるわけです。
- 110[「運びと拍子」]囃子や仕舞のトメは兎角始めに立つた場所へ返らず、それた場所でする方があるが、よく注意して始めの場所へ返るやうにせねばいけません。