なだぐり【灘グリ】
松本長『松韻秘話』(1936)
- 110昔の人はよくこんな事を言つてました。「遍昭上げ」「木の芽づけ」「枝づけ」「キライ節」「灘グリ」「根白節」等々と。さうして特に注意もし、研究をもしてゐたものです。今でも加賀方面では難かしい処として言ひ伝へてをります。
- 111「灘グリ」は「松風」のロンギの中にあるシテの謡ふもので有名な句です。シテの謡ですから淋し味と、優さし味と、しかも艶をふくめてしづかに謡ふカングリですから難かしいのです。淋しさも、やさしさもなく、唯高くカングリを謡ふだけならば決してむづかしいものではありませんが、心持と趣とシテの位を謡ふのが肝腎なのです。この「なだ」の「な」の出方などは腹に力を入れ、調子を少し締め気味にヤヲの間でうたひだすのであつて、力をぬいてはうたへないのです。といつて無暗に力を入れてイキむこともよくない。松風で特殊な処といへば、この「灘グリ」と一セイの「汐汲車」の「ぐるま」の謡ひ方です。つまり「る」を抑へてうたふ処にあります。
- 155松風の灘グリなどと能く聞きますが、別段私共の方に定つてゐる名称でもありませんので、猶幾つも聞いた事があるのかも知れませんが、余り記憶して居りません。
- 157大切に廻し「る」を大事に抑へて謡ふのです。松風ロンギ灘グリは有名なものですが、要するに、始めからカンに入れて廻し、重ねてカングリになるのが特異な点でせう。鸚鵡小町の「大紋の袴」、木賊の「子は囃すべき」なども、カングリとしての難所です。また海人の竜宮グリなども珍しいものです。
- 105これは昔あるシテの灘グリが余りに名調だつたのでそれを地謡が聞き惚れてしまつて、ウッカリしてつい次句を誤まつてつけたのです。シテは咄嗟の場合自分で今一度灘グリを講つて、上手くバツを合はせたと云ふ処から出来た小書だとの話です。
- 36「松風」の「灘の汐汲む」俗に云ふナダグリは大抵汐が汲めて居りません。それはたゞナタグリが来た、さあ大変だと周章てゝ仕舞ふから謡へないのです。「松風」の全曲も、あの一句で須磨の浦の景色が出て来なくてはいけません。と云つても実際には仲々六ヶ敷い処で、調子に余裕をつけて謡ひ、精一杯に謡つては足りなくなつて仕舞ひます。