はこび【運び】
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
- 29モ一つ厭やな事には舞台には一面に絨壇を布き詰めてあるので足の運びがスル〳〵と心持ちよく運ばれない。何から何迄一つとして心の儘にならない。
- 95全体此処の節はどうの、サシはサラリだの、足の運びはどうのと云ふ事は、細かに調べるには口授を待たねばならず、又其曲々によつて、同じ節でも同じ型でも様々に変はつて来るのだから一様には云へない。
- 96面は即ち其能の精神で、装束は其能の姿である。此精神と姿から、調子も、節も、舞も、足の運びも生れて来るのだ。だから吾々職分の者が能をする時には、此二つに大に意を用ゐなければならぬのである。固より面と云ひ装束と云ひ、昔から流義々々にチヤンと、其曲々々に用ふべきものは定まつては居るが、扠それを活かして用ゐると、殺して使ふとでは大へんな差が生じて来る。
- 14オ[弱法師について]上げ歌の「伝へ聞く」と調⼦を抑へて重くなく、⼜軽くなくしつとりと謡ひ出す。「曼陀羅の光明」の此クリの中で息をつく事は無⽤、奇麗に続けて謡ふ。「今も末世」から、シテは⾜を運び、内へ⼊る処であるから、謡⽅も注意せねばならぬ。
- 15ウモ一つ厭やな事には、舞台には一面に絨壇を布き詰めてあつたので、足の運びがスル〳〵と心持よく運ばれない。
- 4ウ〇××もこの頃⼤分うまくなつて来たナァ。今これだけ運びのうつくしい⼈は他にないだらう。然し、この運びが多少キタナクなつたら、××も⼤したものだよ。(これは或⽇、九段能楽堂で囃⼦⽅演能会のあつた時、某⼤家の能を⾒て漏らされた⾔葉である。それは幕を上げてシテが出るときである。)
- 267–268[鉢木について]僧は破れ衣の袖をかき合せ〳〵つかれきつた足を早めてゐる積りなのだらうが、一歩々々と運びがにぶくなつてゆくばかりだ。さつきの宿で聞いた山本の里まではまだ中々らしい。冷えは遠慮もなく身体に喰ひ入つてくる。足はもうとうの昔に感覚を失つてしまつてゐるのだ。
- 五6ウ[三番目物と面装束]全体此処の節はどうの、サシはサラリだの、⾜の運びはどうのといふことは、⼝授を待たねばならず、叉その曲々によつて、同じ節でも同じ型でも様々に変はつて来るのだから⼀様にはいへない。それよりも先づ⼀曲の精神、いひ換へれば主眼とする処をきはめなかつたら、折⾓の美⾳も名調⼦も反故になつてしまふ。
- 五6ウ–7オ[上記の続き]⾯は能の精神で、装束は姿である。この精神と姿から、調⼦も、節も、舞も、⾜の運びも⽣れて来るのだから吾々が能をする時には、この⼆つに⼤に意を⽤いるのである。固より⾯と装束は昔から流儀々々によつて定まつては居るが、扨それを活かして⽤いると、殺して使ふとでは⼤へんな差が⽣じて来る。
- 五10オ[「卒都婆小町」について]⽼⼥の位などといふものは、これを表はさうとすればする程、芸が卑しくなつて了ふばかりである。声の扱ひから⾜の運び⾝体のこなし迄⽼⼥になつてしまはねばならぬのだが、壮い者にはそれが出来ない。だから第⼀番に之を勤める者の年齢に制限を置くのである。
- 66それからやつと「⼩鍛冶」の後シテになつて、翁と⼆⼈で台を正⾯へ抱へ出す。その上に翁が張盤を据えて、翁は⾃分の膝で早笛をあしらひ初める。それがトテも猛烈なものでよく膝が痛まないものだと思ふうちにシテの出になる。その時の運びの六かしかつたこと。⼀度出来ても其次にはダレてしまつて出来ない。むろん今は出来ない処が記憶にさへ残つてゐないが、しまひには翁が⾃分で⾜袋を穿いて来て演つてみせた。その⽩⾜袋の眼まぐるしく板に辷つてゆく緊張した交錯の線が今でも眼にはハツキリ残つてゐる様であるが、やはり説明も出来ず真似も出来ない。
- 95扇でも張扇でも殆んど⼒を⼊れないで持つてゐたらしく、よく取落した。その癖弟⼦がそんな事をすると⾮道く叱つた。弟⼦連中は悉く不満であつたらしい。夏なぞは弟⼦に型を演つて⾒せる時素⾜のまゝであつたが、それでも弟⼦連中よりもズツトスラ〳〵と動いた。⾜拍⼦でも徹底した⾳がした。平⽣は悪い⽅の左⾜を内蟇にしてヨタ〳〵と歩いてゐたが、舞台に⽴つとチヤンと外蟇になつて運んだ。
- 66斯うした訳で、其の道の立派なお玄人の囃子でもさうした結果になりますので、お素人の囃子なら尚違つて来るのです。ですから、能の批評に種々な事を聞かされますが、大小の運びが完全に味へなかつたら、其の日のシテの足の運びだけでも分らないのです。兎に角、其の時の大小の調子で足の運びだけにしても非常な変化がある訳ですから、下手に打たれたら、足が運びません。丁度足にモチをつけて歩いて居る様な塩梅で、足があがりませんから恐ろしいものです。
- 106芸事は修業々々といふが、修業はもとよりだが、工夫がなくては上達しない。たとへば足の運び方でも女物は一足、つまり足一ぱい、尉物は一足半、大べしとか飛出物などになると二足とかいつたやうに、足の歩み出すにもそれ〴〵キマリがありますが、唯このキマリだけを守つてゐたのでは完全とはいかない。曲により緩急によつてキマリを破らない程度の工夫がなくてはならないものです。又自分の体格をも考慮せねばなりません。小柄な私共は大股はおかしいが、大軀の人であれは、幾分キマリよりも大きめに運ぶといふやうな事も考へなければなりません。それでないと不自然で位や感じが失せるといふやうな事もあります。つまりこれ等が工夫です。
- 106–107歩びの事を一寸言ひましたから、序にこれについて気づいた点を言つてみませう。歩くは自然にヒザが折れますが、原則としてはヒザを折り曲げない事になつてゐます。つまり大事なのは腰であつて、腰の入れ方に工夫がある。足で歩るくのではあつても、足であるく心ではいけません。腰であるくつもりが肝要です。近来総じてカヾトが上がりすぎるきらいがありますが、これなども腰の力の加減ではないかと思ひます。立居なども腰の力をからなければ身体がぐらつきます。すべて立ち方は腰が大事で、腰さへしつかりしてゐれば立居も運びも乱れません。
- 108強いもの、優しいもの、静かなもの、荒いもので舞台上の動作が違つて来ますが、どこまでも役を心として、自分といふものが芸の上に出ることは禁物です。三番目などで静かなものゝ運びが、単に静かに歩くことに力めてゐる事が見物に見えたり、老女物などで出来るだけ位を出さうとして、何事も静かに動かうとつとめて骨を折つてゐそやうでは、曲の位、人物の趣は出て来ません。
- 244三番⽬物は、ワキが登場した時、既に三番⽬としての位がなければならぬ。⼜ワキの次第の囃⼦などにしても、脇能や修羅物の次第とは、むろん劃然とした区別があるべきである。まして、シテが登場する際の次第などは、⼗分⼼してシツトリと囃すべきであつて、囃⼦⽅に⼼得のない時などは、幕を出るのも⼤変、橋掛りを歩むなど到底不可能で、うつかりすると囃⼦が早い為に、シテが馳けて出なければならないやうなことになる。といふのはツヾケの「ヤア・ハア」の当りに、⾜が⼀⾜づゝ合つて⾏くやうに⾜を運ぶからである。
- 342–343仕舞は先づ「熊野」だとか、「紅葉狩」だとかのクセのやうな、ごく易しいものから始める。最初は師の教へるところに従つて理屈なしに稽古を励むことが肝要である。そして第⼀に⾜の運び、第⼆に⼿の動作、之を⼗分に習錬する。次いで腰の⼯合、体の構へ、⾜の緩急等に留意して、専らその正しい型を習得すべきである。
- 344⼜扇の使ひやうでも、同じ「左右」にしても、「胸差し」にしても、鬘物の場合は修羅物や四五番⽬物のそれとは、⼿の加減、⼼持、すべて⾮常な違ひで、柔かに、優美にしなければならぬ。⾜の運びはむろん、同じ⽴つている姿にしろ⼤変な違ひである。⼜、仕舞を舞ふ当の⼈の男⼥⽼若によつても種々の⼼得や⾝の構へに差異のあることも、いふまでもなからうが注意を要する。
- 162[昭君所演について]後はやはり失敗。強くやると小さくなるし、大きくやると抜けて重味足らず。困つたものだ。足の運びが大き過ぎるためかとも思ふ。今の処小ベシ見、大飛出ものが一番やりづらい。桜間の金ちゃんは、かういふものは実にうまいものだ。「野守」でも軽快だと評されて癪だつたが、どうすれば宜いのか。来月も一度「氷室」を演つてみることにしよう。
- 165–166一月二十二日、稽古能、「老松」を舞ふ。真の序は初めてやつた。一向見当がつかないで居たら、前日稽古の時足をもつと大きく運ぶやうにと父に直された。ところで一体に此の頃自分の運びが小さすぎると注意されたものと早合点したら、当日あとで「特に真の序の運びは大きくせねば折合はないものだ」と云はれてすこし解つたやうな気になつた。然し余り真の序のハヤシが速かつたのに面喰つて、たうとう終まで気持悪く舞つてしまつた。そして「あんなに速いんもんぢやないでせうね」と訊ねたら、「今日のは速すぎたよ。だが遊行なん加と一緒にしちや駄目だよ」と云はれてまたギャフンと参る。
- 166二月二十六日、稽古能、常の「絵馬」を出す。随分出たものだが、いつも女体ばかりで、常のは今度初めてである。真の一声の幕放れやうやく手に入つて来る。アユミの運びもやつとスラスラ行くやうになつた。この「絵馬」で運びに稍進歩を来した。神舞はまだまだ。
- 180[竹雪所演について]「実にや無情の」と立ち、作物の方へ行き、大小の方向き臥す。一声姉、シテ出で橋懸、「払はぬ」の段で静かに運び、「いつをごさんに」と一の松にて正向き、扇にて二つ打ち左に持ち、「暁」と謡ひながら舞台へ入りさま笠捨てる。
- 182[山姥所演について]今度はまあ〳〵位の処。処が中入で装束がおそくなつて頭の毛を解くひまもなく幕に掛つて「お幕」だつたので、すつかり気持を荒されてしまつた。杖のつき方が今度こそはうまく行く筈だつた。一声の運びも稽古で案外にどつしりと行つたので、大分自分でも期待してゐた処、このツマヅキですつかり違算を生じ、不愉快のまま出てしまつた。
- 183三月二十五日、稽古能に「桜川」を装束で初めて舞ふ。何しろ五十年記念の騒ぎと旅行とで余り練習も出来なかつた。それに今日も舞台の所々がつツかがるので、折角乗りの出さうになるハナを邪魔されて、も一つ面白くなかつた。運びなども、そのためキメが荒かつたと思ふ。然し工合の良い処と悪い処と半分々々で、手も足も出ないといふやうな不愉快さはなかつた。
- 187–188五月二十四日、喜多会、能前の仕舞に「歌占」を舞ふ。さてとなると思ふやうに舞へず。間際まで諦めて居たが、思ひ返して、当日の朝一二遍やつて見て、どうやら行きさうな気がして来た。結局本舞台が一番良く行つた。要するに足の運び一つにあると思ふ。運びが重くなつたらもう駄目。運びが先づ自由であることが何より大事だと今更に思ふ。
- 188五月二十七日、稽古能「竹生島」友枝、「湯谷」僕。曲がどうしても堅くなつて腰がフラつく。特に最初の正面へのシカケがいけない。舞になると例によつて軽くなる。今日は中の舞が始めて中の舞らしく思へるやうになつたと思ふ。運びはまだ本当に自分のものになつて居ない。殊に唐織が運びの度に足に当るのは腰を入れ過ぎるためではないか知らと思ふ。
- 207四月二十八日、九段靖国神社臨時大祭奉納能、「満仲」粟谷君、「鞍馬」実。白頭は三度勤めて居るが、常のは初めて。大べしの運びが、大きく〳〵のつもりでやつて居て却つて小さく見えはしないかと大変気になる。強くやると小さくなるといふのが癋見ものの何よりやりにくい処だ。といつて軽くやれば強さがなくなる。柔かく伸び伸びとやつて、どつしりした勢威を示すところへまだ大分距離ありと思つた。
- 213[班女所演について]まづ両手の構へをいつも気にしすぎる、その結巣上半身に凝つて下半身がフラフラになる。暫く形に対する意識を去つて両手の構へを忘れよう。――かういふ考で練習した。身体全面に力が平均して入るやうになつた。運びも軽く弾力を持つて来た。一つ一つの型を今迄のやうに銃角的にやることを止めて、つとめてフワリと全身でやるやうにした。そしたら型と型との接ぎ目が初めて調和するやうになつて来た。
- 224–225二月二十六日、喜多会、「弱法師」後藤、「雲林院」父、「昭君」実。後を目あてにやつたのに、それは散々のものであつた。いまだにこの種の働き物が自由に扱へないのは不本意極り無いことだ。装束に阻まれ、運びに気をとられて思ふ存分の働きがならぬことは実にくやしい。どうしてももつと軽々やらねばいかん。いきみ通しに舞ふのは駄目だ。次ぎには是非楽々とやつてみよう。
- 227四月二十日、審知会に「湯谷」高木君新調の装束で舞ふ。運びが固くて遂に舞ひにくいまますんでしまふ。「舟弁慶」といひ、「湯谷」といひ、どうしても唐織ものがかうもうまく行かないかしら。「班女」「千寿」と割合によく行つたのに、又逆転の形だ。勿論修業がまだ足らないのに早くコツばかり呑込まうとする悪弊がいけないのだ。成功をのみ目的とせぬことが肝腎だ。
- 227–228五月二十四日、稽古能、「采女」を舞ふ。二度目である。今日は肩から肱へかけて殊更に構へようとすることを避けてみる。運びはそのために十分滑かに行く。力が上半身にのみ上る。これが僕の欠点に相違ない。イロエの小書でやつてみたが、これは実に無意味なものである。今度発行の稽古順には父の意志によつて削除したが、成程保存して置くがものはない小書である。この一番でヘトヘトになる。
- 233–234十一月十八日、学生鑑賞能、「松風」を勤める。白状するが「何としても準備が不足だつた。なまじに一通りのことは出来さうに思つて、それが害であつた。幕の出、アユミ等割に工合好く行つたが、「寄せては返る片男波」と正へ出る運び、甚だ密でなく、「隅田川」の「我が思ひ子」の如くスルツと行かず、心を害ねること甚しいものがあつた。
- 236昭和九年 一月二十四日、稽古能、「翁」(三番叟無し)、「一角仙人」、「江口」、「猩々乱」。「一角仙人」は先月のやり直しで兄が勤める。他は三つ共私が引受ける。但し「翁」だけは装束を著けず。「江口」は稽古能に於て二度目のもの、前の時よりは余程確つかり摑めたやうに思はれるが、前の著流しの運びは猶々未しである。
- 237二月二十八日、稽古能「東北」。前は坐ることがないので、運びもどうやらかうやら、後は曲の謡ひ起し大分位を失つて居たので、せき立てられる気がして不満足だつた。出鼻を挫かれて後の良い筈はなかつた。序の舞五段といつておいたが、これ又中の舞のやうで、気を腐らしてしまつた。こんな時の五段は実に辛いものだ。
- 239–240三月二十八日、稽古能、「巴」友枝、「加茂物狂」実、稽古の際の予感に依れば、近来での佳い能が舞へさうであつたが、見事あては外れた。常は膝が固くて運びが不安であるのに、この日は足の先が覆りさうになつて運びに自信が持てなかつた。止むを得ずフラフラと軽く歩いて辛うじてごまかした。幕へ入つてから色々やつて見たら、両膝を狭めて爪先を真つ直ぐに運べばよかつたことに気が付いた。つまり外輪に過ぎたためだつたらしい。尚珍しいことは、いつも初め悪く、舞以後になつてどうやら運びがよくなるのが、反対に、初め良く、後程出来が悪くなつて行つた。
- 248[自然居士初役について]兎に角余り考へ過ぎたかも知れない。やはり左陣翁流の芸尽しで、何でも彼でも見物を面白がらせるといふ行き方が一番宜いのかも知れない。咽喉荒れて調子を失ひ高きに過ぎたが、足の運びはまつたく不安なく、少し気味が悪い。
- 249六月二十七日、稽古能「藤戸」。今日も大丈夫だぞ、と幕前で考へた。果して足がスラスラと出て思ふやうに歩けた。後の杖も滑かに扱へるやうになつた。運びに不安が去つたので、自分としてやりたいだけのことを演れるやうになつた。然しそこに新しい不安が生じて来て居る。今迄は、運びに不安があつて、思ふままのことが何時も出来ずに居る。運びさへ楽になつたらと思つて居たが、それが出来て力一ぱい演つて見て、さてと考へて見ろと、決して自分はまだ名人にも、上手にもなつて居ない。
- 255[稽古能にて初めての定家]最後の「元の如く這ひまとはるるや」の型は、自分では最初から演りよい型であつたし、自然好きでもあつたので、何度も繰り返したから、一番中での自信ある型と云つて差支あるまいと思ふ。初め教を受けた時、柱の周りを一遍廻るだけであつたのを、不足の感を以て不審に思つて居た処、型附に二度廻るとあつたので、扨こそと二度廻つて見たら、とても出入が多過ぎ冗漫でやれるものでないことを発見した。成程一度で十分のものと納得した。ギリギリと執拗にからみつく感じ、これは痩女の運びによつて初めて出し得られるものである。その運びも、今後の修錬工夫によれば、さして難事でないやうに思はれる。兄からは生硬であると云はれたが、これはいつかは成し遂げられる技である。
- 262–263十一月二十八日、稽古能、「井筒段の序」実、「殺生石」友枝。病気と旅行とで、練替甚だ不足、一夜漬のもの。「井筒」はこの前の時も、さうだつたと思ふ。次第の橋懸の出、此の頃になく一筋に運べなかつたのも、正しくそのためと覚える。但し、次第の謡は、初めて楽に位を取つて、比較的円く謡へたやうだ。これは儲け物だつた。
- 266一月二十三日、稽古能、初会能に「翁」が出ないので特に出す。相手幸清流。面を高く著け過ぎたので、初めの程は運び危し。中頃持ち直す。それからは落著いて勤める。
- 266–267二月二十六日、稽古能、「野守」。稽古の時相当手に入つて居た筈の前、運びが固くて悉く失敗。初同も、ロンギ前も少しもノリ出ずじまひ。重苦しく舞台に立つて居るばかりで、無能振りを発揮する。新しいままの足袋がイヤにボテボテして、重い履をはいたやうで、少しも舞台の上を滑かに歩けなかつた。不快々々。
- 268[求塚所演について]痩女の運びは「定家」の時より多少熟したかと思ふが、後で考へて見れば、未だし〳〵である。
- 270–271五月五日、水戸公会堂舞台披。この舞台は他の敷舞台と違つて、ステーヂの床をそのまま舞台に使用出来るやうに設計されて居る。床の下には幾つかのかめも入れてあるさうだ。拍子の工合も余程宜しい。この設計に就いては、最初水戸の高橋氏から御相談があつたので、実は私が自分の考へを進言して置いたのが実現されたので、結果に就いて大介責任を感じて居た処、舞つて見て大いに安心した。他の組立舞台のやうな、運びに不安がなく、これならば本気に舞へると思つた。私は「桜川」だつたが、自分の気持だけでは本気でやれたのが嬉しかつた。但し、決して上出来ではなかつたのだが、それは舞台のためでなく、自分としての調子が良くなかつただけである。舞台には何の不平もなくやれた。
- 271–272五月二十二日、稽古能「雲雀山」。どうも運び方が再び迷宮入りをしてしまつた。此の日は御丁寧に三度ヒヨロついた。カケリの左廻りの時のが一番ひどかつた。「色々の」の段になつて、もう運びに対する懸念を捨てて、ただ歩けさへすれば宜いと思つて、軽く運んだら以下頗るノリよく運べた。頭の中に一つの固執があるためにいけないらしい。これも一つのコリであらう。色衣と頭で要領を考へてかかるために、実際になると運べないらしい。何も考へずに歩かねばならないのかも知れない。この次ぎは足のことを頭に置かずに舞つてみよう。
- 275六月二十三日、喜多会月並能。「烏頭」父、「飛鳥川」実、「国栖」兄。幕を出切らないのに大鼓にシカケられて弱つた。歩きながら一声を誘はせられた。初同ではツレに入替りで体当りを喰つた。余程不運の日である。腐るまいとするのに苦心した。唐織でサラリと舞ふなんて、先づ自分の今の程度では無理と思つたので、位の重くなるのを意にせず、静かに演つた。今の場合、自分には運びが一番悩みの種である。これさへ解決すれば、初めて人並の所へ行ける。足を気にしないといふ一つの答案が今出て居る。
- 278十月二十三日、稽古能、「砧」初演。前はこの前の「殺生石」の時と大違ひで、大いに危つかしい運びだつた。憤激して後は全努力をもつて勤めたが、これは自分として傑作に属するものと云つて差支無いと思ふ。「定家」、「求塚」と廻つて来て、「砧」に至つて最も痩女の心持を徹底させ得たと思ふ。「恥づかしや思ひ妻」の背ける扇は今度初めて発明する所があつた。この後を演じ終つて、この所数年、引締め方が足りなかつた事を痛感した。自分の芸が行き詰つて居ると感じたのは道が曲つて居るのでなく、歩き方がいけなかつたと悟つた。いつもベストでなければ進歩はないものと改めて考へた。
- 280–281十一月二十四日、月並能、「大蛇」佐藤、「三井寺」実、「乱」父。愈々三度目の「三井寺」である。こんなのが自信といふのぢやないかしら、と思ふやうなものが腹の底に潜んで居た。広島、仙台でやつて来たのも何等熱意を失はすに足りなかつた。初めから慎重に構へて出る。中入で入つた時、省みて何等悔いる個所もなかつた。後の出になつて運びは宙を浮くやうに軽かつた。それで居て少しも軽浮にならなかつた。万事が自分の思ふままに運ばれて、何とも云へぬ愉悦を感じた。あゝこんな時に、死んでも宜いと思ふんだナと考へた。
- 283十二月二十五日、稽古能「融遊曲之舞」を勤める。稍々タカをくくつて出たが、案外運びが滑かでなかつた。今年初めて板の冷たさを足裏に感じて感覚がない程だつた。早舞も未だしだが、従来の場合より余程マシのやうだつた。遊曲の舞は、伝書通り、観世流では角々の拍子踏めず、意義を没してしまつてゐる。この小書はどうしても金春に限る。
- 285[草紙洗所演について]後の出はどうもフラフラで腰が定まらず、王様に大分引離されてしまつた。立衆がこつちが謡出さなければ謡はないので大いに弱り、且つ稽古の届かなかつた事を愧ぢる。最後迄調子は佳く、運びは不安定、だがフラフラしながら今日の「草紙洗」はそんなにみぢめぢやないぞと考へた。息を骨髄にまで引込むことを会得したと思ふ。これは今年に入つて顕著な展開だと思ふ。
- 288[鵺所演について]一声の出はスラスラと運んだ。この調子なら練習中の実力だけは出せると安心した。声の調子も楽、初同正先のシカケヒラキは伸びが不足のやうに思ふ。左廻りは十分。
- 288–289[中略を経て上記の続き]兄は「啼く声」と高く見るやうに教へられたと云つたが、僕は、心に聴きながら右へ廻つた。ロンギ「見えつ」とつカつカと詰める足が唐突との評を受けたところによれば、自分には詰める運びに、自然さが欠けて居るらしく思はれる。注意すべぎ点である。
- 289–290三月二十五日、稽古能、「鉄輪」実。笠で運び稍ゝ重し。道行の謡は今一調子抑へればよかつたと思ふ。足の運びも、伸びが足らなかつたらしい。中入後、急にたつてからの型、面はよく切れたが、退り方、笠のカザシ方、シテ柱際の笠の捨て方等、未だギゴチなく未熟さを脱せず。
- 293–294五月九日、名古屋能。当日の朝燕で出発して、能を勤め、即夜、寝台で寝乍ら帰つた。名古屋へ著いて能迄大分時間があつたので、休養も十分だつた。番組は「頼政」喜之氏、「半蔀」実、「鵜飼」武雄氏。先づ囃子方が相当の人たちで有難かつた。アシラヒ出は少し静か過ぎたかも知れないが、決して重くれて居なかつたつもりだ。しかも、運びは非常に自然に、なだらかに行つて気持がよかつた。
- 294[中略を経て上記の続き]曲から序の舞、と好調のまま進んで行つたが、さすが汽車中の腰掛けのためか、床几を離れてから、膝頭が稍々ガクガクし始めた。気になり出すと、いよいよ震へは激しくなる。キリになる程、運びは楽でなくなつてしまつた。
- 297[氷室白頭所演について]思つた通りを演ることが出来て入つたが、さてこれで宜いのかしらと首を捻つて居たら、入るなり父が、「運びをもつとズカリ〳〵と、丁度調伏曽我のやうに、動かないで居て、そしてズカリ〳〵と運ばなければ」と、疑問の中心をズバリと云つて貰つたので、一度に釈然とした。その行き方を頭に入れて置く事さへしたら、この白頭は上出来だつたに違ひない。
- 306[大牟田市公会堂での演能について]東京に引かへ九州に来てからは、非常に温度が高く、大汗だつた。敷舞台は随分でこぼこで、運歩は困難なものだつた。
- 307十一月三日、和歌山市公会堂、教授主催能、「小袖曽我」芳文、香二、「富士太鼓」後藤、「葵上」実、「猩々乱」和谷。幕が上つてから運び出す迄十分想を凝らして立つて居たら、柔い運びが出て来た。しめた、と思つた。声はまたバサバサになつてしまつたが、少しも顧慮せずに気持だけで謡つた。
- 310[誓願寺所演について]初同の運びはよかつたが、一度坐つてからこの間の立廻りはすつかり足が不自由になつてしまつた。後もクセ序之舞ともに運びがガクガクして十分でなかつた。舞は五段にしたが、念を押して置いたので、いつものやうに早すぎず、よい位だつた。又運びが逆戻りしたやうだが、結局勉強が足りなかつたからだ。そろそろ咽喉も癒りかけたし、大いに捲土重来しなければいけない。
- 314[花筐所演について]運び依然不調だつたが、イロエから急に立直つた。だからクセだけは十分に力を入れて、それを内へ引締めて出来たやうだ。だが、どうしてもカケリからカケリ上げのところが、木に竹を接いだやうでぎごちない。一度出来かかつた運びのコツはまたすつかり忘れてしまつたらしい。腹の力を空にすればよかつたやうに思ふし、両手の力を抜けばよかつたとも思ふ。色々のことを皆やつて見たが効能なし。その外、肩の力をぐつと下へ落すこと、あごを引くこと、視力を強くすること、皆駄目、あゝ又出直ししょう。
- 315[融曲水所演について]サシ小謡は抜く。これは小書のためではない。咽喉は休ませてあるのに、何故か刺々しかつた。問題の初同は正へ出る運びがまだ滑かでないので、「霧のまがきの島」も不満足、まづ可もなし不可もなしの出来。いつもこの語は気持が自然に融け出して行くのに、調子悪くこれも焦れつたいやう。語後辺りから少しづつ立直つて行つたが、田子の紐が観世流ので細いため、扱ひにくく、且つ気持が悪かつた。だが中入前は平生だけの成績を挙げたと思ふ。
- 316[江口所演について]呼掛からして今日は大丈夫だぞと思つた。声がかれて居ても、調子は思ひ通りになつて来た。第一橋懸の運びが、足と板としつとりとついて居た。
- 324[湯谷三段の舞所演について]車に乗る時右の方へ倒れかかつたのは危かつた。クセは又しても骨と肉との調和がつかなかつた。舞のかかりは、速いので面喰つて、慌てて上羽をしてしまつた。キリで速く運ぶと、足が残つて醜くなつたらうと気になつた。結局大阪の時のやうにも行かなかつた。不満の作。
- 334–335[松風所演について]物著以後も、イロエから中の舞にかけて、ただせき立てられたやうな思ひばかりして来たが、「立別れ」と橋懸へ行く前に、ウンと落著いて運び出したら、あとはすらすらと辷り出して、初めて中の舞が思ふやうに舞へた。切迄無論よい乗りが出て、この後半になつてやつと潤ひが出たやうに自分には思へる。自分の今迄の「松風」の中では、今度が一番よかつたらう。前半では身体がとても重く固かつたが、物著後は軽々と動けて、しかも危気なしだつた。
- 335–336十一月二十八日、喜多例会、「安宅」粟谷君、「隅田川」父、「融曲水」実。どうも最初から邪気があつたと思ふ。何故かといへば、「融」には多少の自信があつたから、今度こそは一つ傑作を出してみせるぞといふ気持が自分の心の中を占領してしまつて居た。やるぞ、といふ気が自分に対する一種の責任感となつて手足を大分硬ばらせた。田子を担つての運びが重かつたし、大事をとつた調子も回復して居なかつた。自信の一つには謡も入つて居た。一声を謡ひはじめた時、今日も謡の方は断念しなければいかんぞと思つた。断といつても別に自棄を起した訳ではない。出来るだけ努力はするが、自分の満足するやうには謡へないだらうといふ見透しである。
- 337十二月二十二日、稽古能、「玉葛」を演る。多分初めてのやうな気がする。若しかしたら稽古能で一度やつて居るかも知れない。最近肥つて益々坐りにくくなつたので、一つは坐る修業にと考へてかかつたのだが、一声で幕をはなれて驚いたのは、足袋がいつもよりぐつと小さい。指先がヘシ折られるやうな感じで、まるで運べない。坐るどころか、立つて居るのも漸くだ。この意外の突発事件で前全体はすつかり混乱に陥つてしまつた。
- 339一月二十六日、稽古能、「是界」。前は気持宜く出来たが、これは当然の事で一向嬉しくもなし。眼目たる後は復も失敗に終つた。此の頃仕舞では天狗ものも捌ける自信が出来たので、一番能でコナしてやらうと思ひ立つたのだが、天狗ものの運び――のつしのつしと運ぶ――だぞと思ひながら、歩くと却つて非常に窮屈な小さな動きになつてしまふので、それには拘らずに歩かう、かう考へて居た真際になるといやいやそれでは天狗も飛出も変らないことになる、やはり天狗ものは、天狗ものとして扱はねばいかん、と又元の考へに戻つてしまつて、結果はコセコセしながら力負けのやうなことになつてしまつた。それに、やかましく云つてあるのに舞台が辷り過ぎて、甚だしい不成績。
- 340[源氏供養舞入所演について]前の橋懸の出からして危い足どりだつた。大概後になれば多少運びが楽になることが多いのに、この日は段々不安さが募る一方だつた。クセになつたらと思ひ、舞になつたらと思つて居るうちに、遂に持直す機会が無しに終つてしまつた。舞の二段過からやや取戻したが、腐つた気持は癒せなかつた。
- 354九月二十八日、稽古能、「竜田」実、「松虫」友枝。今度舞つてみて、この曲がとても好きになつた。前が何とも言へない気持なのだ。だがその気持を人に感じさせる迄には少し距離があるだらう。出来は自分の力としては可も無く不可も無し位の所だらうか。ただ唐織ものの運びに一寸会得出来た節があるので、此の次ぎの「野宮」が楽しみになつて来た。「光を放ちて」の型は未完成のまま。
- 356[三井寺所演について]前は橋懸の出が大変調子よく運べたので、先づ嬉しかつた。サシコヱ、小論、共に気が入つて謡へたし、足の痛さなど全然なかつた。気の入つた時はこんなものかと我ながら不思議だつた。
- 208伴⾺さんは愛想よく迎へてくれて、さて、この間の蟬丸を拝⾒した、位なり、型なり結構のやうに思ふが、たつた⼀つ⾜の運びが⼗分で無い、御流儀の⾜はあゝでは無い筈だ、も少し和らかな所がなくては……と云ふ意味のことを親切に教へてくれられた。私はこの時の伴⾺さんの忠告を忘れない。
- 210–211⾦剛さんに望⽉の⼦⽅を稽古して貰つたことがあるのです。なか〳〵親切に繰返して教へて貰ひましたが、たゞ⼀つ困つたのは⾜のハコビでした。例の⾦剛さん独特の⾜を習つて家にかへり、⽗の前で舞つて⾒せ及すと、⽗がソレハ何だそんなハコビがあるかと怒鳴るのです。その次に⾦剛さんの前へ出た時には、⾜を⽗に⾔はれてますから、気をつけて運ぶと、今度は⾦剛さんが⾜、⾜と⾔つて⾃分の思ひ通りに直すのです。
- 212宝⽣嘉内 この⼈は現宝⽣宗家重英⽒の先考である。明治の初期、京都の裁判所に勤務して居られたが、温雅な品のある芸の持主だつた。実⽗の⽚⼭九郎三郎が、宝⽣の分家が、あゝして居られるのは惜しい、と⾔つて九郎さんに断はつて、⽚⼭の舞台で⽉並能に⼀番宛舞つて貰つた。⼦供の私にも忘れられないのは、⾜の運びに特徴のあつたことである。
- 134[桜間金太郎談]然し私は、道成寺でも邯郸も、難かしいのは次第で、幕を出る処と思ひます。幕ハナレから橋懸りを運んで舞台に入るまでが、一番苦労します。まあ、それだけにうまく行つた時は、実にいい気持です。
- 217私などお稽古の時よくいふのですが、本を見て「なう〳〵」と謡はずに、本からはなれ真直ぐに向ふを見て、向ふの人に呼かけるつもりでお謡ひなさい、といつてゐます。本を見ながらうつむいて謡つてゐたんでは呼かけは謡へません。子方の呼かけは、烏帽子折にありますが、これは普通の子方の様にサラ〳〵とは謡ひません。橋懸から運んでくるものですから、普通の子方以上に何かほしいのであります。
- 139–140声を出すにしても⼿を動かし⾜を運ばすにしても、その⼀つ⼀つを決しておろそかにしてはなりません。声といつても、持ちまへの声をさうすつかり変へてしまふわけにはゆかないもので、天性の声を⾃然に鍛錬してゆくと⼒もはいり強くもなり、美しくもなり、気⾼くもなるもので、その声は、実はひとつ。調整された五体のうちから発するもので、役々によりそれらしく拵へるものではありません。
- 111運びは能ですと唐織着流ものは一足、その他のものは一足半をなつてをります。併し仕舞では余り細かには致しません。それかといつて大股になつては尚いけません。これも葛物と荒い物とは違ひますから、一概には申上げられません。運ぶ時、膝が伸びると腰がくだけますから伸びないやう注意せねばなりません。
- 177–178下村⼜右衛⾨といふ⿎⽅は紀州のお抱で、⼤層旧家だといふことだよ。観⼭画伯の家がそれなのだよ。私なんか知つてる⼈は頸筋に⼤きな瘤があつたから瘤⼜といつていた。それは⼤⿎の津村⼜喜(葛野流)を⼤⼜、その⼦の⼜太郎を⼩⼜といつて三⼈を区別するためだつたのだね。流儀のシテ⽅にも下村といふ家があつた。⼜右衛⾨の⽅が本家で、その分家の⼜⼗郎がシテ⽅だつた。謡も調⼦の開いた良い謡だつた。型は、⾜の拇指が反りかへるやうなハコビでね。
- 59九郎の遺した宝生流の芸格は堅実であるが、不器用であるといふのが一般の定評であつた。謡に就いては前述の如くであるが、その型に就いても小技巧に捉はれず、華美に流れず、軽跳に陥らず、極めて質実を以て建前としてゐる。一例を挙げれば、運びの如きも足使ひが荒らく、序破急をクツキリつけるので、キタナイといふ定評さへあるが、これは彼が宝生流の型が小さく纏まることを嫌つたからである。他流の者はそれは九郎の不器用な所が弟子に伝つたのだと悪評するものもあるが、その謡を聴く如く、九郎自身は何をやらしても器用で、また徹底するまでやり通す男である。
- 224[藤田平太郎夫人について]奥様はこの御邸でも能を舞はれましたが、近年やかなしい婦人能はこの方が最初と申上げてもよいかと存じます。囃子も数番御勤めになりましたが、私も御婦人に囃子、又は能をお稽古したのは、奥様が初めてゞございます。それに袴をつけても舞ひになるので足のはこびもよろしく、近頃は皆さんが袴をつけられるやうでございますが、これは大変結構な事でございます。
- 67[張良について]この能はシテの⽅は全くなんにもなくてね、脇⽅のおつき合ひみたやうなものさ。それでも、沓をはいて舞台へ出るのは⼆百番中たつた⼀番だからね。尤も昔から貴⼈の前では沓ははかないことにはなつてるが、なんにしても⾜の⼯合の悪いものだよ。はこびなんかも無論⽖先きを上げないで、ただズカリズカリ歩くんだがね。
- 94「海⼈」の仕舞でも地謡(梅津朔蔵⽒、⼭本毎⽒)が切々と歌つてゐるのに、翁は⽩い⼤きな⾜袋を静かに〳〵運んでゐた⾝体附が⼀種独特の柔か味を持つてゐた。且つ、その左⾜が悪い為に右⼿で差す時に限つて⾝体がユラ〳〵と左に傾いた。その姿が著しくよかつたので⼤野徳太郎君、筆者等の⼦⽅連は勿論、⾨弟連中が皆真似た。それを劈頭第一に叱られたのが前記の通り梅津朔蔵⽒であつた。