近代能楽用語索引Index of Nō-related Terms in Modern Texts

近代芸談における技芸用語

主にシテ方の技芸にかかわる用語の索引。姿勢、視線などの重要と思われるトピックのほか、『能楽大事典』(筑摩書房)に立項される技術用語を対象としました。同表記・別意味の語を別に立項した場合(例:「運び」を歩き方と謡い方で別立項)も、逆に同意味・別表記の語をまとめて立項した場合(例:眼、目、目玉)もあります。

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はたらく【働く】

手塚貞三編『謡曲大講座 手塚亮太郎口傳集』(1934)
  • 20オ[「鵜飼 空之働」所演について]後の謡ひ出しは、常は一の松であるが、舞台の正先まで出て「夫れ地獄遠きにあらず」とうたひ、下つて座す。「真如の月や出でぬらん」で「空の働き」となる。働きの型も常とは変つて中には鬼足といふものがある。これは一口に云へば飛んで出るので口伝の一つ。石橋、舟弁慶の前後の替などにも此足がある。
  • 21ウ[「西行桜」について]「すはや数添ふ時の鼓」と閑かに、「ひゞき添ふ」と働キある事もあるが常はなく、直ぐに正面へ向き、「あら名残惜し」とうたふ。総べて重んもりと。但し位あるにあらず古木老精の位である。一句〳〵句切りをとくと明け、息次の注意肝要であるけれども、老人めいた声色は宜しくない。
片山博通『幽花亭随筆』(1934)
  • 219昭和九年二月十八日 日曜日 本日もあたゝかい良い天気。初番の竹生島の中入で装束を着かへる時、あと六度着かへるのかと思ふとウンザリする。昨年能姿の撮影をしたことを思ひ出す。(註。原色版写真を六十姿出版した、それを指す。)舞のものよりハタラキのがいゝと思つて、竹生島をえらんだが、養老の様な、舞物の方が、気持にノリが出来てよかつたのに、と後で考へた。
観世左近編『謡曲大講座 観世清廉口傳集 観世元義口傳集』(1934)
  • 10ウ[「小書略解」]○鞍馬天狗 白頭。諸所緩急もありますが、舞働がなくなります。又素働といふのがありますが、これは「天狗倒しはおびただしや」の所へカケリが入ります。
  • 14オ[「八島の弓流・素働」]弓流し。これは「船を組み駒を並べて打入れてあし並にくつばみをひたして攻戦ふ」と云ふ所で、小皷だけの拍子で、扇を以て弓とし、之を取落し、流れる弓を拾ひ取る働きがあるので此の名があるのです。小皷との間には特別の申合せがあります。云ふまでもなくこの扇は弓なのですから、ズーと後(曲迄)まで此扇を弓と心得へなければならないので、其持方も秘伝となつて居ります。又昔は此弓流しの時は、小皷は観世新九郎に限ることゝなつて居りました。故に同家では此時使用する浪に千鳥の蒔絵ある床机があつたものです。即ち中入の間に両後見がシテのと小皷のとを取替えるのです。
  • 14オ[「八島の弓流・素働」]次に素働ですが、この小書付になる時は、カケリが抜かれます。「其折しもは引く潮にて、遥に遠く流れ行くを」と云ふ所へ一種のハタラキが入るので、皷の拍子の流しにつれて、浪に押し流さるゝ弓を取返す心持なのです。終りには膝行して弓をとり上げる形もあります。 この弓流と素働は各々別々に入る時もありますが、時には両方共に入る事もあります。前にも申しましたが両方共に大変重い秘伝となつて居ります。――清廉
  • 16オ[「紅葉狩の鬼揃」]後半はシテは相変らず作り物の内より出て、床机にかゝつて居ります。ツレは三人(五入或は七人、何れ端数ときまつて居ります)同じく赤頭に法被半切の揃ひで、橋掛を出て、舞台と橋掛に分れて居並び、舞働の終り迄はツレのハタラキとなります。維茂との立廻はシテがハタラキ、「引下し指通し」と切られて後は、立つて作り物の内に隠れてしまひ、ツレは皆々橋掛りより幕へ逃け込んでしまひます。
野上豊一郎編『謡曲芸術』(1936)
  • 195[「脇能物の分類前書き」]これらの脇能曲には、脇能としての位があるから、謡ひ方も亦それに準つて、一貫したものはあるが、それは極めて大まかな言ひ様で、同じ脇能でも、「高砂」と、「西王母」では、大分相異がある。随つて、一曲〳〵に、位も違へば、謡ひ方も違ふ訳である。然し其曲のシテの性能、即ち舞とか、働とか、或ひは面、装束による、類似はあるから、それに従つて、上掲の三十番を分けて見よう。そして謡ひ方を説くことにする。
  • 195[「脇能物の分類」前書き]「高砂」のやうに、シテが邯鄲男の面をかけて神舞を舞ふ物、「淡路」のやうに、天神の面で神舞を舞ふ物、「白髭」のやうに、悪尉の面で楽を舞ふ物、「老松」のやうに、皺尉の面で真ノ序之舞を舞ふ物、「竹生島」のやうに、黒髭の面で働を舞ふ物、「賀茂」のやうに、大飛出の面で働を舞ふ物、「氷室」のやうに、小癋面で働を舞ふ物、「絵馬」のやうに、増の面で中之舞を舞ふ物といつた風にかなり多種類になる。
  • 206[「脇能物の分類」四 働物]これには更に分類がある。大飛出の面をかけて、働を舞ふ「賀茂」、「江野島」の類、大飛出で働を舞はない「嵐山」、黒髭の面で働を舞ふ「竹生島」、「和布刈」、「九世戸」の類、小癋面で働を舞ふ「氷室」、「逆矛」の類、悪尉の面で働を舞ふ、「玉井」と、合せて九番ある。 「玉井」は、悪尉物であつて、働物になつているところに、此曲の特殊性がある。ワキは天孫彦火火出見尊で、半開口で出場するから、堂々たる本脇能の位である。
  • 208[「脇能物の分類」四 働物]次は、「賀茂」と「江野島」であるが、この二曲は面に大飛出を用ひるから、一緒にしたけれど、曲柄は聊か異なる。働はないが、寧ろ「嵐山」の方が、「賀茂」に近似の点が多い。
  • 209[「脇能物の分類」四 働物]同じ面を用ひる「嵐山」の形式は、全く破格のものであるが、前シテは尉で、ツレを従へて出て、真ノ一声、二ノ句、サシ、下歌、上歌と進むまでは、脇能の形式を履み、その後は、クセも省かれ、柔吟の扱ひであり、後は下り端で天女が出て相舞になるといふ、変つたもので、謡ひ方としても、花やかさ、柔かさが十分にある。 後シテは、働を舞はないが、早笛で出て、豪快な所作を見せるから、謡ひ方もそれに随ふよう、強く大きく、しかもハキ〳〵と、凝滞なく謡ふのである。 小癋面をかけて、働を舞ふ「氷室」と「逆矛」の二番は、形式は立派な本格能である。
  • 295[「切能物の謡ひ方要領」桜間金太郎]又相当内容の複雑な、人情的な、いはゞ四番目物的な曲もあるにはあるが、それらと雖、結局は元気のいゝ舞を見せたり、働があつてテキパキとした切組があつたりして、眼を驚かし、無邪気に喜ばせて結ぶといふやうな仕組になつている。(「国栖」、「烏帽子折」、「昭君」などこの例に挙げられる)切能のどの曲にも太鼓があるのも、太鼓の楽器としての機能を考へれば、思ひ半ばに過ぎるものがあるであらう。
  • 298[「切能物の謡ひ方要領」桜間金太郎]ざつと以上のやうであるが、天狗物は皆後ジテが大癋の囃子で登場し、大癋見といふ面をつけているので、普通大癋物と称している。又「船弁慶」、「黒塚」、「紅葉狩」、「小鍛冶」、「春日竜神」等はその後半にシテの働(舞働ともいふ)があるので、働物といふ。「張良」にも働はあるが、これはツレの働である。(働は、外に脇能にも非常に沢山ある)切能の働物は各曲によつて趣を異にはするが勇壮に活動飛躍するといふ点に於て相等しく、その点共通の気分を持ち、位どりに於ても大体似ている。
梅若万三郎『亀堂閑話』(1938)
  • 285–286[「舟弁慶」について]此間、大阪の朝日会館で致しました折に、舞働で目附柱から、ワキ柱前まで横に足を組み合すやうにしまして、それから流れ足をつかひましたが、あちらでは大変珍らしいと見えまして、お尋ねにになつた方がございますが、私どもの方では、この小書の時はいつもさう致してをります。尚別に「前後之替」といふのもございまして、大体「重前後之替」と同じではありますが、これには舞働がございません。
喜多実『演能手記』(1939)
  • 167–168三月二十日、デンマーク皇太子殿下の御覧に供するため「土蜘」一番。華族会館舞台。父のシテに頼光を勤める。予定よりおくれて始まりは午後十時、此の日調子割合に楽に出る。後引廻しおろしてそのまま台輪のまはりに置き、ハタラキの内に又引廻し掛けシテ引廻しに入る。 作物に掛けた巣も打杖で破らずに、左手で一寸引搔くやうに破り、その隙から投げ巣を出し、ワキの方から出て紅葉狩のやうに台の上で拍子、飛び下りハタラキ。
  • 224–225二月二十六日、喜多会、「弱法師」後藤、「雲林院」父、「昭君」実。 後を目あてにやつたのに、それは散々のものであつだ。いまだにこの種の働き物が自由に扱へないのは不本意極り無いことだ。装束に阻まれ、運びに気をとられて思ふ存分の働きがならぬととは実にくやしい。どうしてももつと軽々やらねばいかん。いきみ通しに舞ふのは駄目だ。次ぎには是非楽々とやつてみよう。
  • 313[「氷室・白頭」所演について]作物の内はすべてもう完全に自分のものになつて居るし、安心して十分にやつた。問題は働以後にあつたが、精一ぱいの出来だつたと思ふ。然し作物から飛出したら途端に額の面当がずり落ちて、左の眼を完全に遮つてしまつた。両眼共潰れた方がまだマシだらうと考へた程、丹下左膳ではやりにくかつた。中心をとることにどれ位の精根を消耗させたか判らない。突発的の災難だつたが、こんなことでこの機会を失つてなるものかと、渾身の努力をつづけた。
三宅襄・丸岡大二編『能楽謡曲芸談集』(1940)
  • 140[「弓流素働その他」梅若六郎]弓流ですから例の、「うち入れうち入れ足並にくつばみを浸して攻め戦ふ」の次に、囃子のクバリがありまして、その囃子方との申し合せの呼吸で扇を落すのです。つまりこの扇は弓のつもりなのでして、これを拾ふのが素働であります。素働は「船を寄せ熊手に懸けて、巳に危く見え給ひしに」の次にはひります。この素働には二通り――難しいのと易しいのとあります。今度は私は難しい方のをやつてみたいと思つて居ります。難しい易しいといつてもつまりは難しい方は型がとみ入つて来るだけのことです。よく存じませんが、何でも話にきくと、この弓流、素働の流足をとつて張良の流足となつたものだといふ事を聞いた事があります。素働がある時はカケリはぬけまして、留は脇留となります。あとは替の型が所々にチョイチヨイある程のもので、格別お話する事はありません。
喜多六平太『六平太芸談』(1942)
  • 70–71[喜多文十郎・福王繁十郎所演「張良」について]肝腎の時になつて、一番まづいことになつちまづたんだ。それはそれほど稽古がしてあつたにも拘らず、沓が大口の裾にほんの少しだつたがひつかかつたんだ。サアいけない。向ふへ飛ぶ筈のが上へ飛び上つて、一条台のシテの下へ落ちてしまつたんだ。悪いも悪い一番始末の悪いところだ。もうどうにも仕様がない。わたしも子供心にひやひやして、福王の叔父さんどうするかと、かたづを呑んで見ていたんだがね。やはり昔の人は偉いと思つたね。少しも驚く気色もなく、その悪い位置にある沓に向つて、激しい働きを始めた。丁度正面の見所を後にして舞つてるんだが、流れ足やそり返りなんかしながら後へ下つてくると、今にも階段の所から白洲へ落ちやしないかと思はせるほどひやひやしたもので、その型の激しさときれいさと相俟つて、見所の入々も覚えず膝を乗出した位だつた。なんのことではない、全然正面を背にして舞つたんだが、それがかへつて非常に面白くて、大変な喝采を博した結果になつちまつたんだ。シテの大怪我がワキの功名になつたわけだね。あんな面白いことはなかつたよ。