はら【肚】
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
- 2節にして云へば同じく廻し節にしても大きく廻はすのもあれば小さく廻はすのもあり、中廻しもある。そして其処によつて心持も加はれば、腹で謡はねばならぬ所もある。これを押しなべて廻はし節は斯う謡ふものと断定を下してしまつたら、大間違ひが出来するのである。
- 49他の芸道の事は知らないが、我が能楽は、単純な説明や、表面上の考ばかりでは迚も其蘊奥を極める事は出来ない。斯麼事は今更らしく云ふ迄もないが、充分に鍛へに鍛へて行つてすら、上手、名人になる事は難かしい。由来能楽は一定の法則があつて、其法則が充分に腹に入つた其上で更に自分の技倆を加へて行かねばならぬのである。一通のきまつた型の中に其人々々の巧拙が顕はれれて来るのだから、自分の才を能楽の上に応用しやうと云ふのは、不世出の名人でゝもなければならぬのである。况して一定の型さへ充分でないものが、何で自分の才を芸の上に応用する事が出来やう。だから一定の型や謡を覚え込む迄の修業が最も肝要である事は云ふ迄もない。若し修業期を空しく終つたならば、其人は最う立派な楽師になる資格を失つたものと云つてもよからう。
- 93–94修羅物中の老人物と云へば、実盛、頼政、の二番だけである。面は実盛は前後とも三光尉、頼政は此曲専用の頼政と云ふ面を用ゐる。此二節は修羅物の重い渋いものであつて、謡も能も演難いものである。老人と云ふ事に余り重きを置けば、武者としての腹が抜けるし、武者にばかり偏しては老人らしくなくなる。老人らしく且つ武者らしく謡つたり舞つたりするのが此老人曲の主眼点である。此様な事は解り切つた事で、吾々から見ればいろはの中のいろは見たいな事だが、斎藤氏の求めに依つて初心者の為に話して置くのである。
- 5ウ凡そ能には舞物、業物の別がある。舞物とは舞のあるもので、業物とは仕形であつて舞でない物をいふ。景清は即ち業物のうちで謡と腹とを以つて仕形をするのであるから、誠に六ケしい。この能の型は、文句の説明であるから、謡の説明の通りを型にすれば、則景清の能になるのである。
- 11ウ–12オ[「木賊」について]「さん候ふあれに見えたるこそ」と、森を見てワキへ教へる心、「御覧候へ」と同じ所の少し上を見、「一本うすうすと」は謡ひ方に口伝のある処で筆紙には及び難い。爰から初同にかゝる所の、「いつれかそれぞ」迄は、有紋無紋の習ひと云ふ事を会得せねば勤まらない。其習ひは、有るものをなきが如く、無きものな有るが如くに、即ち腹一つで、森や、はゝき木の見え隠れする様を表はさねばならぬのである。先年実翁が此能を勤められた時ワキは春藤六右衛門が勤めた。其稽古の時に、両翁は爰の処を幾十度となく繰り返して演じて居られた。傍で見て居る私の眼には、あり〳〵と、そのはゝき木が見える様に思はれるのに、両翁は尚之を繰り返して稽古された。此の如く芸を大事にしてこそ名人と云はれるのだ、とつくづく敬服した事があつた。
- 3ウ[「謡の声の事」]処で謡にはどう云ふ声が適するかといふやうな問ひを受けることもあるが、美音に越したことはないけれども、つまりはどんな声でもよいのである。何故なれば、いゝ声でも始めから謡に適するといふことはなく、鍛錬を重さねて行つて、声に力も出て、張りもあるやうになつてこそ、謡に適した声と云ひ得るからである。 さうした声になるには、始めに悪声だつた人でも、巾のなかつた声でも、又美音家でも、どんな人でも稽古を励むより外に道はない。つまり性来の声は如何であらうとも、数年の稽古によつて、腹や喉や口などを如何云ふ風にすれば、如何いふ声が出る、斯うすれば陽声になり、あゝすれば陰声になるといふやうなことまでも、自然に呑み込めるのである。
- 5オ–5ウ開口音 日本の仮名は五音と称して五つに分けてある。即ち口を開く音、口を半ば開く音、口を半ばすぼめる音、半ば開く音、口を合[すぼ]める音の五つである。 以上の五音を正しく覚え込んだら、仮名が明瞭に聴きとれないといふことはないが、それを知らずに滅茶苦茶に謡ふから、文句が不明瞭だつたり、違つて聞えたりするのである。 口を開いて発する音は即ち、アカサタナハマヤラワの十文字である。此仮名は何れも口を開いて、声を腹から出す音であるが、如何いふものだか兎角口をすぼめたがる。余りに口を開いては見ツともない、とでも思ふ故か如何か知らぬが、大概の人は口を合めたがる、最も此十音とても、ロの開きやうにいろ〳〵あつて、、アナカハなビは、始めから口を開いて発する仮名だが、ワなどは上下の唇を軽く合せてそれから口を開くと同時に発する音であるから、其処に多少の差はある。然るにどれもこれも口を十分に開かないで発するから、「如何にアんない申候」と謡ふ意でも「いかにワんない申し候」と聞える。此外ナ、力・など皆口を合めたがる。斯う云ふことのないやうに、充分に注意もし稽古もせねばならぬ。
- 10オ[「同節万態」]節にしていへば、同じく廻し節にしても、大きく廻はすのもあれば小さく廻はすのもあり、中廻しもある。そして其処によつて緩急もあれば、腹で謡はねばならぬ所もある。これをおしなべて、廻はし節は斯う謡ふもの、と断定を下したら大違ひである。サラリにしても、シツカリにしても、そのサラリ、シツカリが千差万別で、その曲々によつてサラリの程度も違ひ、しつかりの位も違ひ、重いものゝサラリは、軽いものしつかりの程度に当ることもある。けれどもサラリでも確りでも、これを尺度ではかる様な訳に行かない。其処が斯道のむづかしいところである。それを研究しなければいけない。
- 3オ–3ウ〇九代目団十郎が弟子(今の市川中車といふ話)に勧進帳の稽古をしてやつた。だん〳〵進んで「金剛杖をおつ取つてさん〴〵に打擲す。」まで来た。弟子は金剛杖をふり上げた。九代目は只一言「いけネー」といつた。何度やつても矢張りいけネー、とう〱その日はそれで終り。又翌日行くと同じところでいけネー〳〵と終つてしまつた。三日目に弟子はもう今日いけなければ、又師匠も何んとも教へて呉れなければ、役者をやめてしまはうと決心した。然し、その前に、一応五代目(菊五郎)に聞いて見ようと思つて、五代目のところへ行き実はかう〳〵だと一切打明けた。五代目は、「九代目程の名人のいふことだからハツキリとは云へないが、この場合、判官と弁慶の間を考へて見たらどんなものだらう。家来が主人を打つ杖はどんなものだらう」と云つた。力を得た弟子は喜んで九代目の前で稽古を始めた「金剛杖をおつとつて」といつて杖をふり上げると九代目は「馬鹿野郎、五代目に教はつたナ」と一言。あとは一遍に教えてくれた。〇九代目は腹で芝居をし、五代目は小手で人を泣かせた。〇九代目が遠藤盛遠をやつた時、袈裟の首を持つて鶴ケ岡八幡の石段をかけ上り、月の明りでその首をヂツと見込みそのまゝ木なしに幕を引かせた。見物にはわかつたかどうか知らんが、自分は充分に盛遠の腹を受けた。そして九代目の力の大きさに感心した。
- 3ウ〇自分が中村先生の許に修業して居る頃の事。 或時、是界の稽古をして貰つた。イロエのところへ来てから、段のあとワキ正面へ出て腰を入れジツとワキへのかゝりの込みをとつていると、先生は自分の後ろに来て、自分の腰を押ヘ口でアシライ乍ら「マダ〳〵〳〵」と云ひながらトツタンツクツクヤアツハツハツとかゝつて、ワキへ見込んだ時「こゝだ」とばかり腰を両手でどんと突飛された。その勢で自分は、車に突ツ込み、羽団扇にかへて扇を持つていた右手のまゝ壁ヘドンとブツかつてしまつた。壁を破ると同時に自分の手の甲の節々の皮は破れて血が出るといふ仕末。それを拭ひもあへず先を舞ひつゞけた。今思へば有難いことゝ思ふ。 又、通小町の稽古の時、かづきをかついて一ノ松に立つている間、先生は後に立つていて、扇の要の方を自分の腰の脊すぢの骨にあてゝ、腰が少しでも丸くなると「それア〳〵」といつて突ツつかれる。ハツと思つた拍子に謡の力がぬけるすると又、腹、腹、と許りに責められる。この位の苦しさはなかつた。
- 145[日吉神社御謡初について]二番太鼓で装束をつけ、四時の三番太鼓で、いよ〳〵拝殿にすゝむ。ギツシリとつまつた参詣人をかきわける様にして設けの座につく。宮司の祝詞がすむまで約二十分の間、腹に力を入れて、ウンと構へてゐるが、ふるへがとまらない。それでも幸と例年よりは暖いのだが、吹きつさらしの拝殿の上に、比叡颪を直にうけて、坐つてゐるのだからたまらない。
- 22オ–22ウ[「能の眞意義」]一方では成るべく謡の意味を知らせるやうにといたして居ります。明和本と云つて先祖の元章が訂正しだ明和改正本といふ謡本がありますが、一部からは此の訂正は文章が悪いと云ふ非難もありますが、兎に角相当骨を折つて調べたもので事実に違つた事などはすつかり改めて居ります。例へば天皷にいたしましても、後漢の帝に仕へ奉る臣下が出ているのにシテが出て謡ふ文句に唐の白居易の事が引いてあるのは困ると云ふので、ワキの詞を漢の帝に改め、シテの出の謡を削り、直ぐに脇の案内に答へることゝ致して居ります。 此等の事が非難もありませうが、心持といたしましては私が考へている謡の曲柄心持を腹に入れると云ふ事と同じだと存じます。この意味からしましても学問のある方が少しでも多く斯道に入つて下さる事は、自然斯道が正しく行はれる様になると思ふのです。色々かうして考へて行かなければならない事が有ります。この尊い芸のために何としても良方法を見出したいと思つて居ります。――清廉
- 五5ウ[「修羅物」老人物 修羅物中の老人物といへば、実盛、頼政、の二番だけである。面は実盛は前後とも三光尉、頼政はこの曲専用の頼政といふ面を用いる。この二番は修羅物の重い渋いもので、謡も能も演じ難いものである。老人といふことに余り重きを置けば武者としての腹が抜けるし、武者にばかり偏しては老人らしくなくなる。老人らしく且つ武者らしく謡つたり舞つたりするのがこの老人物の主眼点である。
- 五8ウ景清は随分久しく出ない。当流には此曲を勤める者がないからで、別に此曲に限つて出し惜みをしたのではない。けれども何しろ大曲であるから景清らしい能を演ることは、凡手には望み得ないことである。凡そ難づかしい能に二種ある。其一つは型が多くて難かしいもの。モ一つは型が少くなくて難かしいもの、即ち腹で行くものである。景清の如きは後者に属するから、型が少し器用に出来る位の程度では之を勤めることが出来ない。仮りに勤めたとしても型の上に見せ所が少ないから、型のない処は隙間だらけになつて、迚も見られたものではない。どの能でもさうであるが、殊に此能の如きは器用や場当りの芸ではこなし得ない。そこで当流では、四十歳を越さねば勤めさせないことになつて居る。
- 6–7前にも云つたやうに、謡はもと〳〵能といふ一種の歌劇の歌詞でありますから、たとへ素謡に於ても、能を本とする事は言を俟ちません。従つて声を腹から出すとか、節扱ひ拍子などの事や、一つとして必要でないものはありませんが、能の謡、囃子の謡、素謡の謡といふやうに、其種類と場合とに応じて、緩急遅速等の別ある事はまぬがれない事であります。極分り易い話が、謡本にはウとかヤ、又はヤヲなどゝある通り、打切には、打切の間を聞いて次句を謡ふと云へ、素謡では打切の謡ひ方はありますが、打切の間は必要としないと同様に、ヤヲハ、ヤヲなどゝあつても、寸法一杯に引き切らなくてはいけないと云ふ事はありません。仮にこれを真行草にあてはめて云ひますならば、能の謡は厳格に正しく、形に依つて謡ふものですから真とでも云ひませうか、囃子の謡は定則を守り、拍子を目的として謡ふものですから行とでも云ひませうか、さうすれば素謡は心持を主とするものですから草とも云ひ得ませう。それには拍子の嵌りよりも、謡の立派な事が肝腎ではあり、ますが、拍子の必要な事は勿論で、間拍子は絶えず腹の中で取つて居るのですが、能に於けるやうに、大小の緩急などかゝつて起るやうな、細かい所まで渡る事は寧ろ無益な所為でありまして、それでは却つて趣味を損つてしまふやうなものであります。と云つても是れは拍子を知つてからの融通による事でありますから、拍子を極はめず、勝手気儘に自分で気分を出して謡ふ事は最もいけない事であります。
- 8素謡は心持を本とすることは右に述べたやうなも、のでありますが、其土台として調子の大切な事は云ふまでもありません。一体宝生流の謡は低い調子を張つて謡ふといふのが主意でありますが近来一般に調子が高くなつたやうな傾を覚えます。これは腹から声の出ない事と、美声を誇らうとする弊に陥り易い憂ひを導くものと思ひます。
- 10[「文句の明瞭」]それから力を要するもの、注意を要するものは「ン」の字で、「ン」の字を出すには二字に出すだけの字を借るべきで「おん恵み」の「ン」を消すやうな場合にも唇と腹とに力を入れて、消す「ン」ではありましても、「ン」には二字を謡ひ得る丈けの力を以て謡ふので御座います。
- 18–19研究と云ふ事に就て例を能に取つて見ませう。分り易い例が「雲雀山」のシテの装束が色有りの時は若女のやうな若い面を着け、色無しの場合には深井のやうな年増の面をかけます。それを勤めるシテの人の声はどちらをかけても同じ事でせうが、その内にも研究がなくてはいけません。斯道の事は目に見へるやうなものではありませんが、つまりそれをするには腹芸の研究が必要なのです。面と云ふものは昔の人が色々と深い研究の結果仕上げたものですから、それを用ひる者も、それを生かすやうに努力するのは、これ当然の事だらうと思ひます。
- 20–22[「腹の力」]よく腹の力はどうして作るか、どこにあるか、と云ふやうな事を訊ねられますが、さてどうして作るのだ、どこにあるのと云ふ事は一寸お答へ出来ない事ですが併しこれは単に謡のみによらず、書画の類にもしろ、すべて腹の力が現はれて居て始めて面白いのではないかと思ひます。座禅を組むにしても始めは容易に丹田に力の這入るものではありませんが、段々行を重ねて行く内に自然と楽に力の入る様なものだと聞いて居りますが謡の腹の力と云ふのもそれと同様だらうと思はれます。 腹の力で謡ふものと云へば、何でも一つとして腹の力で謡はないものはありませんが、其中でも例へば「定家」とか「芭蕉」とかまたは老人物にしろ老女物にしろ、皆腹の力が自在でなくては謡へるものではありません。腹の力と云つても矢張りその人々の力に依るもので、あの人のは面白いがこの人のは面白くないと云ふのもすべて腹の力の程度であります。型にしても同様でシツカリして居るとかシツカリして居ないとかは腹の力がそこにえて来るのです。これはどうも修業に修業を重ねて、自分で会得するより仕方のないもので、習ふに習はれず、教ふるに教へられないものであります。三年も四年もたつても未だに腹の力が出来ないと云ふ人の話を聞いて居りますが、その内にいつの間にか自得して苦なしに楽に出来る時があるでせう、と云ふ我々だつて、仲々容易なものではありませんが、初学の人達よりは幾らか楽に出来ると云ふ位なものであります。ですから、人々に得意、不得意はありますが、本当に修業を徹して腹の力が出来上つて居るものならば何でも出来るものでなくてはなりません。脇能も二番目も三番目も、五番何れをやつても差別なしに出来る程になつて始めて腹の力が出来て居ると云へませう。得意のものといふも、それは幾らか、そのものに腹の力が出来て居るからの事で、単に得意のものゝみに限らず、何にしてもさうでなくてはならないのであります。人と一緒に地を謡つても人のあとに自分の声が聞こえたりするのは、腹の力が出来てゐないからで、人の調子に外したり、型ならば文句より先に進んでしまふなどは殆ど腹が空つぽと云つても宜いでせう。つまり早いものは早いもの、静かなものは静かなものに見へないのは腹の力が足りないからです。面をつけるにしても、照つたり曇つたり、はじめに面の構へを極めた時の構へが舞台に出てから定まらなくなつてしまふなども腹の力が足りないためであります。若い内は兎角面が曇り勝ちのものですが、面の曇つて居るのは最もよくない事です。面を生かしたり、殺したりするのも矢張り腹の力で、その面の宜いところを保つといふのは仲々六ケしい事であります。
- 27–29単に謡の力と申し交しても仲々一朝一夕にはお話も出来ませんが、先づ一口に申せば声の力と腹の力、段々に申せば調子の一定、緩急自在、抑揚、字句明瞭等の整頓した謡を謡ふ力量とでも申しませうか、もうそうなれば立派に境地に這入つた謡とも云ひ得ませう。さて夫はどうして出来得るやうになるかと申しますと、矢張り年功、鍛練に依るの外はありますまい。[中略]言葉を換へれば色々な風に云へませうが、要するに真剣な心掛けと年功鍛練とに依る外はありません。例へば「熊野」一曲を謡ふにしてもワキ宗盛、ツレ朝顔、シテ熊野と謡ひ分くるは容易な事ではありません。先づよく練つて声の力と腹の力とを築き、ハリと抑へとが利くやうになれば謡の力は出来上つたとも言へませう。
- 33–34色々な方々がお稽古に来られよく「謡はどうすればよく謡へるやうになりませうか」と訊かれますが、私はいつも「ハリが肝腎です」と答へて居ります。調子を高くと云ふのも低くと云ふのも各々そのハリに依て定まる事であつて、高いと云つても調子はずれに高くなつて仕舞ふのはこのハリが無いからです。又低いと云つても滅入り込んで仕舞ふのもこのハリが無いからです。この高さならこれだけのハリ、この低さならばこれだけのハリと自在にその加減を取り計ひ得る力の加減がなくてはなりません。詰り腹部の力です。所謂丹田の力です。よく腹に力を入れてと云ふと、腹にぐる〳〵布を巻きつけたりしてウン〳〵力んで居る方がありますが、それでハリが出来たと云ふ訳のものではありません。矢張り稽古と修練によつて自づとその妙諦が得らるゝものでせう。
- 37下の二、下の二についで中、これも難しいことです。「熊野」や「高野物狂」の文の段の如き往々途中で調子が狂つて仕舞ふやうです。下の二や中といふ調子は普通の上下とは又別のもので、極く落いた、浮いた調子のものです。だから腹の力のみで声の力を抜くと云つた風のものですがこれも大抵は反対になつて仕舞ふやうです。
- 41「景清」となると御承知の通り哀れな場面の曲で、さすが剛の聞こえ高かつた悪七兵衛景清が、盲目の流人とさへ老い果てゝ、その戦場に於ける壮将を物語るのですから、仲々容易ではありません。老いたりと云へ、盲ひなりと云へ、平家の侍に其人ありと聞こえた悪七兵衛です。憔悴するのみでは景清にならず、と云つて張り過ぎては目明きになつてしまひます。これはどこまでも張りを腹に保ち、口には張りを出さずに語らねばいけません。
- 42–43女物では、「大原御幸」や「定家」は高位のお方ですから品位を持ち、幾らか調子も高めの方が宜ろしいです。「大原御幸」の語りは非常に長く、其の上語る人は建礼門院です。能では面も増で若い女ですから、淋しみの中に華やかな心を持つて、其語りも所謂軍物語ではありますが、「上り潮にさへられ」といふやうな所は、つまらない所のやうですが、非常に大事に謡はねばなりません。そして教経の事を語るには、少し強めに軽くとか云ふ工合で、さう云ふ心持を腹にもつて、重くならぬやうに謡はねばなりません。
- 71次に句読が非常に大切なものになります、いくら上手に謡ひましても、句読がまづいと謡は死にます。それは重に語り、又は夫に似た様な長い言葉の所です。そこでは句読をゆつくり、併し、つめて謡ふのです。是は一寸言葉や文章では簡単に聞えますが、腹の力が大いに必要とされます。
- 71–72それから、位といふ事を大変に気にする様ですが、位といふ事は其の人の気持ちです。つまり自分の見識が現れて来るものです。それが何う現れるかは問題があり、その人の見識の差は、必ず現れたものにも差がついて来ます。先づ曲中の人物の心持ちを会得して、其の場面を腹にをさめ、おもむろに其の気持ちを出すのです。是も仲々言ふ様に簡単には片づきません。それならば何うしたらよいだらうか。是は数をかけて謡ひこなす事が第一なのです。気持ちは会得出来る方が沢山ある様ですが、それが現はせる人は少い様です。是では何もなりません。
- 77「井筒、野宮、定家」などは略同じやうな曲でありますが、シテの位が違ふので、その位の取り方即ち腹の持ち方に違ひがあります、此の少しの差が、謡の上には余程の違ひとなるのであります。「定家」は免状物で位の静かな重い曲ですから、腹の持ち方が甚だむづかしい。「定家」の節附よりも、「俊寛」や「藤戸」の方が節の上からは難かしいかも知れないが、位を出す上に於て「定家」の方がむづかしいので、結局うたひは「俊寛」や「藤戸」よりも「定家」がむづかしいと言はなければならないのであります。何の曲でも同じだが、殊に「定家」などになると、シテばかりでは謡は一生きて来ない。シテもワキも地も揃つてゐなければうまく行かないのです。
- 78位をうたふ上に息継が大事であると同時に、ハコビといふ事も大事であります。重いものには重いものとしての運ビがなくてはなりません。処が位のあるものはハコベないで謡が重くれ勝ちになるものです。サシ一句のうちにも、緩急があり、重いものには猶更緩急、も多いのであります。此のハコビといふことが程よくうたへないでは緩急抑揚の趣が出ないので、位の感じが表はれて来ないのであります。要するに位は腹の持ち方で自分があるつもりのもとにうたひ、それが聴く人の心に感じれば芸が出来てゐると言へるのであります。
- 85–86「熊野」の詞をお素人方は、ゆつたりと伸ばして謡はれるのをよく耳にしますが、前にも言つたやうにこの曲の詞などはツメてうたふ心が肝要です。尤もシメて謡つてゆつたりとした処を聞かせるには、声の力、腹の力といつたやうな修業の効にまたねばなりませんが、要するに無駄を省いて正味ばかりをうたふ心掛けが大事であります。詞の謡ひ方は節の部分よりも至難で、力を入れ過ぎ、抑へ過ぎると、音が重くなり、謡がのび、力を入れないで運べば無意味となり、力を入れ抑へを利かして、そして発音、節扱ひを軽く捌かねばなりません。声のハリ、音の開合に注意し、専ら腹でうたふのです。[中略]要するに腹でうたひ、力でうたふので、芸の腹、芸の力は修業によらなければならない事になります。むづかしく言へば際限のない芸談に移りますが、平易に簡単に申しますと先に述べた「熊野」のロンギにした処で、四条河原の景色をうたふといふ事が根本にあると、シメツテうたふ訳には行かない。けれどもシテは一貫した郷里の病母の身の上を案する淋しい心のなやみがなくてはなりません。ありふれた例でいへば、雨に濡れた海棠の風趣といつたやうな、熊野そのものゝ美しさ、あでやかさに、心のなやみ、物案じがふくまれてあらはれねばなりません。
- 91[「芸としての謡―稽古する謡——」]成るべく無本でうたふのがよいといふ事は、曲一番をすつかり腹に入れておかないでは、無本ではうたへない、つまり一時的に覚えてゐた位では直ぐに忘れたり、間違へたりするので、曲の精神から場面の事、情景心持ともに腹に納めた上でないとうたへないから、無本ならよいといふのであります。私共の考へでは、お素人は寧ろ本を見て間違はず謡はれる方が、無本で間違はれるよりはよいと思つてゐますが、本にたよる事は不可ないと思ひます。本は間違はないしるべ、踏み迷はないしるしとして開いてゐて、本をあてにしないで謡つてほしいものです。その位ですと多少の上手下手は別として、ともかくも生きた良い味の謡がうたはれるのであります。
- 93–95[「腹芸の至妙」]昔からよく腹芸といふことが言はれて居ります。腹芸といふのは何んな芸かといふことは、一寸言ひ表はし難いことですが、つまり仕科に表はさないで、腹に考へてゐることが芸となつて表にあらはれるものだといふ事も出来ませう。仕科乃ち動作や形で表情するものは、腹芸とは言へず、無動作、無表情の中に、人の気持を刺戟したり、感動させたりする芸の力が腹芸なのであります。言ひかへれば腹芸といふことは際限のない修業と鍛練から産み出される芸の力で、修業の浅い者には腹芸はない、修業の功によつて始めて腹芸を認められるのです。[中略]以上の如く能楽はあらはな写実をさけ実際に近い描写をさけて、型なり、謡なりが一つ〳〵芸術化したものを結んで一つ芸術を作り上げてあるのですから、自分の勝手な表現法を案出して、好き勝手な芸は出来ないのであります。すべてがある一定の約束のもとに発音され、動作するのでありますから、所謂腹芸で行かなければ、ほんとうの能楽を仕生かすことは出来ないことになります。その腹芸を作るには数かけて修業する外はないので、この辺が能楽のむつかしい処なのであります。能楽に賤しさがないといふ点は、露骨な表情法をさけてあるからです。それだけ又一方には、能楽は誰がやつても誰もを感動するといふやうな芸が出来ないのであります。若し謡でも能でも私のいふ腹芸を必要としないならば、謡の文句通り、節扱通り、調子を外さぬやうに謡へば、聴く人をしてすべて感動させることが出来、結局皆さんは、流儀の節扱ひも調子も充分承知され、文句も謡本通りお謡になつてゐるのだから、誰をも感動させる謡が謡はれる訳なのですが、事実はさうは行きません。同じ文句を同じ調子と節扱で、玄人がうたふ場合はお素人の皆さんよりはいくらか感情を動かす力が大きいのは、修業の程度によることだと思ひます。能に於ても全く謡の場合と同じ結果であります。
- 102大体宝生流の調子はあんまり高くはない。調子が落ちついてゐて実際は低くめであつても、十分にハリがあれば高く聞えるものです。私共が先生(先代宗家)から稽古をして貰ふ時は、低く〳〵謡はされたものです。低く謡ふには力をこめハリで謡はなければ節がうたへないので、うんと腹に力を入れて稽古したものです。高く上(ウワ)調子で稽古をしたり、ふだん謡つてゐれば、声にハリが出て来ないで、調子に落つきがありません。力がなく、落着きがなく稽古をすると、声は大きく出るが、謡がそう〴〵しくなつて、所謂品のわるいものになるのです。謡に品のないのは最もよくない事です。
- 103生(先代宗家)の謡は美声で好調だつたから綺麗で一寸高い調子のやうでしたが、同吟してみますと決してそれ程高いものではありませんでした。あのよい調子でありながら声や調子に引きづられないで、力のあるハリ切つた落着きある謡だつたのですからえらいものです。調子を高くせず、ハリを利かして、腹力で落ついた声でうたふのが謡の特色で、他の音曲と違つてゐる点であります。尤も調子が高ければ高いなりに、調子がまとまつてゐればそれでよいのです。カンから下の二に至るまで調子がとゝのつてゐて、調子に崩れがなければよい訳であります。
- 111「灘グリ」は「松風」のロンギの中にあるシテの謡ふもので有名な句です。シテの謡ですから淋し味と、優さし味と、しかも艶をふくめてしづかに謡ふカングリですから難かしいのです。淋しさも、やさしさもなく、唯高くカングリを謡ふだけならば決してむづかしいものではありませんが、心持と趣とシテの位を謡ふのが肝腎なのです。この「なだ」の「な」の出方などは腹に力を入れ、調子を少し締め気味にヤヲの間でうたひだすのであつて、力をぬいてはうたへないのです。といつて無暗に力を入れてイキむこともよくない。
- 119同じ弁慶でも「正尊」になれば如何にも勇ましく、強く見識かあつて、責めて来た正尊の腹の底を見抜く力量が現れねばなりません。そして、シテを押し込んで行くので、シテに対し少しの引け目があつてもいけません。ですからシテが上にがんばる力があつて欲しい訳で「摂待」の弁慶とでは大分開きがあります。
- 122[「素謡夜話 ワキ、ツレ、子方の謡ひ方に就いて」]次に男のツレですが、是で心持ちを要するのは「千手」とか「蟬丸」のツレです。両方とも位のとり方がシテと同じ様なものですが、どちらもシテの方が美しく、ツレの方が淋しく謡ふことになります。「千手」の方は心持ちやさしい中に、少々強味を即ち重衡といふ武人である事を腹に入れて、シテよりは勿論軽く謡ふべきです。「蝉丸」は若い気高い所が主眼ですが、淋しく、秋、木の葉がちら〳〵と散る心がいります。
- 125[「素謡夜話 ワキ、ツレ、子方の謡ひ方に就いて」]大体これで、ワキ、ツレ、子方の一般的な謡ひ方を述べた事になります。――併し、其一通りを述べたに過ぎません――そこで此の辺で一先づ終りたいと思ひます。さうしてもう一つ覚えておいていたゞきたい事は、其の役所をよく腹の中に入れておきたい事です。芝居と違ひますから、顔の表情などは能や謡にはありませんが、役所が腹にあればつゝこむ気合などでも充分に入る事になります。
- 126–127〇少しばかり謡のお播古をはじめたのですが、何うにも節がうまく行かないのです。何うしたら旨く謡へる様になるでせうか。 △それは急に上手にならうと思つても無理ですが、謡に馴れる事ですね。 〇馴れると申しますと……。 △一つ謡を、倦きる程、何十度となく謡ふ事です。読書百ペん意自ら通ずといふ事がありましたね。あの行き方で何十度かやつて居るうちに、其の節が自然にお腹の中に入りますから、さうしたら、其の謡は何んであるかを考るのです。〇考へるといひますと、何ういふ風にですか。 △あゝさうですか。謡曲には御承知の通り、初番物、二番目、三番目、四番目、切ものと分れて居りますが、此の中の何に当るかを考へる事です。かりに「草紙洗」と致しますと、是は三番自もので小町黒主の歌争ひを作りましたものです。謡の役別の上から何ういふ心持ちで謡ふべきかを分解して見ますと、第一にワキの黒主が名乗ります。此の名乗りと申しますものは、大体重々しく謡ひますが、其の人物の心持ちを出す事が専務ですから、黒主ならば重々しいだけでなく、幾分は強味を含み、しつかり謡はなければなりません。併し強味を含んだといつて、だらく延びて謡ふ事はいけません。そこがむづかしい処です。シテは小野の小町ですから、美しく品位を持つて、如何にも優美に謡はねばなりません。三番目ものにも種々其の曲によつてシテの謡ひ方に差異を生じますが、此のシテは現在の人物ですから、是も余り延びて謡つてはいけません。〇その辺が私には分りませんが、延びていけないといふと何うしたら一番よいでせうか。△先づ、お腹では一パイに謡ひ、口では延びぬ様に気をつけて、文字のめり張りに力を強く入れ、内輪に控へて謡ふのです。
- 129–130〇子方は何ういふ風に謡つたらいゝでせうか。 △あゝあれですか。是は一般によく考へ違ひをして居る人が多い様です。例へば、大人が子方を勤めるのですから其の心持ちで行けばよいのに、子供の様な甲高い声をして、得意がつて居られる方を見受けますが、大変な間違ひです。元来子方は六才から十二三才位までの子供が主ですから、其の声を出す事は最初から無理なのです。無理に出ない声を出すのは、それだけでも謡は物になりません。自然のまゝの声が出ればいゝので擬声は困ります。但し、是は謡曲の場合に限ります。他の音曲は別です。只、子供といふ気分で、高めにサラリと謡へばよいのです。併し、心持ちは無くてはいけません。愁ひを帯びたもの、或は怒り、喜び等の腹は肝要です。
- 130–131〇するとかけ合は何うなりませう。 △やはり曲の盛り込んで居る人物が、よく表はれゝばいゝのですから、貫之はのんびり軽く、ワキの黒主は重々しくして強く、腹に怒気を含んで、夫を顔には出さないといつた心持ちです。そこで軽めにして位を持ちます。 〇そんなむづかしい心持ちが出ませうか。 △それが出ないと、「草紙洗」のワキは勤まりません。何んとか工夫をしなければいけませんね。
- 131–132それから、草紙洗のくだりロンギ等のかけ合ひも、幾分調子をおさめ、愁ひの心持で始から終りまで謡ひますが、勿論シテ小町の面が増と申しまして、廿七八歳位の年輩であり、装束は美しい色ありのものを壺折に著けまして、緋の大口といふ、キラビヤカな風俗ですから、愁ひはきかなければなりませんが、其の声は曇つてはいけません。精々綺麗でありたいものです。併し声量のない人、小音の人又は悪声で声にジウタイ又はシワガレな人でしたら、綺麗に出す様にと注文してもそれは無理ですから、其の心持ちで其の曲に当つて行けば、自然其の人物が出ます。そこで修業すれば却つて面白いよいものが結ばれませう。少し斗り声がよいといはれて、お調子づいた人が調子はづれのした、やかましい謡を謡はれるのは禁物です。「草紙洗」の地所も皆シテの心持を腹に入れて謡はねばならないのです。
- 136〇草紙洗の切のノリ地などは、私共が謡ひますと、段々高くなつて、声を出すのに非常に骨が折れますが、あれは何ういふ訳なんでせう。 △つまり、よくいふ話ですが、腹に力が入らないんですね。いひかへれば腹の力が足りないのです。そこで押して謡ふ事が出来ませんから、力が抜けてしまひます。総じてノリ地は腹の力が最もいるもので、腹の力で張つて、調子をオサメて謡へば、さうした失敗はない筈です。
- 136–137それから、老若男女の何れでも同じに謡つて居りますが、それで差支えないものでせうか。 △それも度々聞かされる問題ですが、同じではいけません。といつて謡曲では老若男女の声を、色で出す事は出来ません。併し、気持ちで表現する事は出来るのです。例へば老人ならば、調子を低く張り、此の張りで文句をハツキり聞える様に謡へばよいのです。又若い男のものでしたら、調子を張つて軽くオサメます。老女ものは最も調子を低くし、其の調子と気持ちで、腹の力は充分にし力強く、声は弱々と出します。たゞコツといひませうか、説明は廻りくどいですが、のみこんでしまへばそれ程骨の折れる事ではありません。そして、強いものでしたら充分に声を張り、其の張りを力強く押へるのです。女の位のものは、充分に声を張り、其の張りを押へ、シメて高めに徐々に張ります。斯ういつた訳で、それ〴〵扱ひ方が違ひますので、老若男女の表現はたゞ謡つて居らないで、大いに工夫していたゞきたいものです。
- 139–140[■は節付記号]共の様な初心者には、解つた様で分らない所がとても沢山あるので、さうした分らない人の代表でお伺ひ致します。……クリなり、■なり、■なり又■■■■■■等の大小を、ハツキリ謡ふ事は、どういふ様に謡へばよろしいのでせう。 △やあ、大分並やあ、大分並べましたね。……左様、皆力を入れて張りで謡へば宜しいのですが、其の前にさうした節が来る事を腹の中で考へて置き、夫を謡ふ下ごしらへをしておく事が必要です。謡つて居るうちに節が来ませう。そら来た旨く謡おうつたつて、さうは行きません。
- 141–142〇それなんです。教へられた通りに運んで居るつもりなんですが、よく駄目だといはれます。 △駄目だといはれる様では、やはり教へられた通り運んでは居らないのでせう。そこで秘訣とでもいふ様なものを話しませうかね。早い話が静かなものでも、早いものでも、運ぶ時には自分では早くはないかと思ふ程、運んでよいのです。併し只早く運ぶとそれはこけるといふ事になります。こけるといふのは只読む様になる事です。そこでやはり力をぬかず、文字をはつきり、腹でしめて謡ひます。言葉の所でも同じ事です。 〇さうですか。ではそのつもりでやる事に致します。どうもむづかしいものですね……。それから、声をはるといふ事は、上調子の時ばかりでせうか。 △いや声をハルと申しますと、お素人はたゞ声を高くする事の様に思はれる人がありますが、高く出す事ではありません。最も腹に力を必要としまして、高調子のものもむしろ力強く抑へ、声に巾をつけて謡ひます。又下の調子のものは、調子はくづさず、声は張らなければいけません。例へば、下歌下音のものは、下の声を高めにハリますし、上歌上音のものは、むしろ抑へ、ひくめにハリます。
- 145–146△能くお訊ねでした。心しづかに謡ふ方が多い様で、困つたものだと思つて居ります。息つぎなどは何処でも一向おかまひなしに、息がたりなくなるとポツツリときりますが、それでは味ひがありません。息つぎは予め自分で決めてかゝります。いはゞ腹の中で、玆で切つて息つぎをするといふ事を決めて謡ふ事なのです。すると、一字消しますからおもむろにいきつぎをして、ギツクリ目立つ様な不体裁にならずに、あとの文字を謡ひ出す事が出来る事になります。
- 146〇それから抜くといふ事は何うなります。 △腹で其の力を持ち、声には少しも力を入れず、軟らかな感じの出る様に、心して謡ふ事になります。
- 260–261[「鬘物の謠ひ方要領」梅若万三郎]「遊行柳」はよほど芸の出来、腹の出来た人でないと舞へもせぬし、謡ふことも出来ぬ。「芭蕉」から見れば、又一段渋いものである。(しかし、「遊行柳」は、老翁の姿であるから、或点からは却て「芭蕉」よりやりいゝといへるかも知れぬ。何れにせよ、どの曲がやさしくて、どの曲がやりいゝといふことは、本当は出来ないので、どんな曲でも、真剣にやればむつかしいにきまつている。曲の難易を云々するのはもと〱方便に過ぎない。)
- 261[「鬘物の謠ひ方要領」梅若万三郎][「遊行柳」について]初同の謡は、沈静なる内に緩急があり、「葎蓬生苅萱も」のあたり分けて重く、「風のみ渡る気色かな」はあたり見渡した腹の中で秋風のしみわたる心持があるべきである。
- 288[「現在物の謡ひ方」 野口兼資][「鉢木」について]「総じてこの粟と申すものは」の一章は、自からの境涯を述懐するのだから、閑かに、しかも重くれぬやうに、確かりと謡ふ。こゝは心持は十分に、それを腹に蔵めて、表面へ露骨に出さずに、シツカリと扱はねばならない。その句々の持つ情意による、気分の変化が大切である。
- 306[「切能物の謡ひ方要領」 桜間金太郎][「鞍馬天狗」について]。「松嵐花の跡訪ひて」のところは、シテの腹を見せるところであり、謡もよく心して謡ふ。春風駘蕩たる気分のところに忽ちに一陣の凄風が訪れんとする転機だからである。シテの中入のところ一寸緩急がある。之も注意が必要。
- 308[「切能物の謡ひ方要領」 桜間金太郎]「熊坂」は、熊坂長範といふ盗賊が、稀代の大盗賊である故、剛腹な、ドツシリしたところがなければならぬが、しかし又所謂幽霊能であるから、その強剛な、太い線の中にもどこか物淋しい、殊勝な心持がありたい。前段に於て特にさうである。「打物業にて叶ふまじ」以下は型もいろ〱あり、謡も変化があつて、面白い代りに、相当厄介である。
- 333[「素謡・仕舞・囃子」梅若六郎]実際、素謡といふものは融通がきかず、些かの瑕でもありのまゝソツクリ暴露してしまふので、非常に難物である。第一立方(舞ふ人)もなく、又合方(囃子方)も全然なくて、それで、たゞ謡だけで、聴衆に舞台で能を見ているやうな気持をおこさせなければならないのだから大変である。所謂坊主謡、つまり間拍子に全く頓着なく、謡ふ度毎に同じところでもそれが長くなつたり早くなつたりする一向捉まへどころのない謡、合方といふものの存在さへ御承知ないやうなのなら、ラクなものだが、それは謡といふものではない。大小の鼓はなくとも、それを腹に持つて、あたかも立方が、そこに舞つている気分で謡つて始めて謡である。素謡だといつて決して油断はならぬのである。
- 335[「素謡・仕舞・囃子」梅若六郎]何といつても平生が大切である。平素の修錬が結局ものをいふ。繰返し〳〵て熟練しておく。熟練してあれば、おのづと余裕といふものが生れる。余裕は肚をこしらへる。肚さへ出来てあれば、いつ、いかなる状態にあつても、落ついて謡へるといふもので、そこで、悠容迫らず、十分に張り切つた、充実した内容ある謡が謡へるといふわけなのである。
- 14十八年六月四日、皇太后陛下の芝能楽堂行啓に、「摂待」で鷲尾、同じく十八日には「雲林院」の囃子を舞ひました。この時は御前ゆゑ心配しまして、「降るは春雨か」と扇を上げて見ます時に手が固くなり、ブル〳〵とふるへて困りました。何しろまだ腹に力もなく、手先だけで舞つてゐた頃でございますから、お恥かしい次第でございました。
- 42–43自分でやつて見ますと、亡父のなみ〳〵でなかつた苦労のほどが察せられます。弟子達はまだ〴〵腹からの能をやつてゐるのではございませんから、手をとつて教へますので大層骨がをれます。 一・六の稽古には関係はございませんが、昔の稽古は随分ひどい事をするものがありまして、亡父の話によりますと、大勢の中で弁当を開かうとしますと釘付にしてあつたり、やつとあけると御飯は無くて灰か糠がはひつてゐたり、又紋附のまゝ一膳めしやへ行つて一人前御飯をもらつて来いと言ひつけられ、行かねば意地悪く稽古をしてくれません。 このやうな、今の人達には思ひも及ばぬ事があつたさうでございますが、さうせられても芸を覚えたい一心から辛抱に辛抱を重ねて、「今に見よ」といふ発憤を肚にもつて励みましたものださうで、それを思ひますと、ほんたうに芸を教へてくれた亡父の有難さが身にしみ〴〵と感じられます。
- 63–64当流の見台に月と、瓢簞のくうぬきがあるのは御承知の事と存じます。これは 我が宿は風をまがきに露しきて月に諷ふる瓢簞の声 といふ歌の心を現はしてゐるものと言はれて居りますが、これに就いて亡父はかう言つてをりました。我が宿は――人体を云ふ 風 は――空気、腹から出る音 籬 は――間を隔てる垣の事で腹の空気、臍下丹田から出る声も、喉の露の水気がなくなつてはつやもなく節を細かにあやなす事も出来ません。 月に諷ふるは――我が心を清らかにして、正直の腹から出す、つまり真如の月であります。 瓢簞の声は――内に何もなく空の心といふ事で、かうしてつゞけて見ますと無念、無想で、臍下丹田に力を入れて謡へといふ意がよくわかります。
- 65「謡の調子は腹から」謡の調子といふ事はなか〳〵むつかしいものでありまして「万三郎は時々調子をはづす」とおつしやる方がございますが、私と致しましてはそんな事は無いつもりでをります。声の少々大きいのをおつしやるのと違ひますか。地頭等を勤めますと、他の者が余程しつかりしてゐてくれませんと、大勢を統率して行かねばならないので、自然大きな声になるわけであります。
- 71–73私どもよくは存じませんが、何でも日本の美術を世界に紹介したとかで有名な、フエノロサといふお方が亡父の所へお稽古に参られました時、奥さんも御一緒でございまして、その稽古ぶりを御覧になつていらつしやいましたが、どうです、突然亡父の下腹を叩かれたのです。呆つ気にとられてゐますと、今度は、フエノロサ氏の咽喉のあたりを指さして何か言つてゐられなさうですが、亡父には一切言葉がわかりません。後で聞きますと、それは亡父の声は腹から出てゐるが、フエノロサ氏のは咽喉から出てゐるといはれたのださうでございます。外人でも美術などを研究されるあゝしたお方には、その差がよくわかるものと見えます。[中略]フェエノロサ氏はたしか、モーロス氏より一月程おくれて参られたと覚えてをります。 腹からといふ事は、亡父が常々やかましく申してをりましたから私も注意してをりますが、面をかけた時も、直面の時も仮名を同じやうに謡はねばと言はれてをります。
- 74–75此間も放送の後で織雄さんに「入歯とは思へませんよ」とほめられて笑つた事がございました。いくら入歯になりましても、腹から声を出す稽古をしてをりますと、いくらかましでございます。腹から声が出てゐませんと、いくら大きな声でも正面へは通りません。その反対に小声でも充分通る方もございますが、これは力のある方でございまして、何を聞きましても隅々までよく通るのはむつかしいものでございます。
- 76亡父などは声が自由でございましたから、催の時には、その前日等に謡会でもあつて数番謡つた後の方が声がよく出ると申してをりました。私どもは前日余り謡ふと、翌日が困るなどと申しては、よく「早く腹で謡ふやうになれ」と叱られました。
- 84私も若い頃には「万三郎の真似」と申されまして、声を大きくしたり、小さくしたりするのを私の真似と言はれましたので、私もこれでは人に真似られると存じまして色々考へました末、仮名づかひに心配するために声が小さくなるのではないかと思ひましてそれからは声でなく腹で謡ふ事に致しました。
- 112父から聞かされましたのですが、平生に歩く時でも下腹に力を入れて歩くと草臥れないし、又田舎の丸木橋などでも、怖いと思ふとなか〳〵渡れませんが、腹へ力を入れると真直ぐに渡れます。私も停車場の階段を上る時など、心もち体を上へ引きあげて上りますが、さうしますと足が軽くあがります。
- 135[「足」]「長い居クセの所などは抜いてしまつたらどうか」などとよく聞きますが、どう致しまして、それはこちらでは大切な所でして、舞はないで唯、座つて居るのだから抜いてもよいと思はれますのは、一応尤もではございますが、シテはあの間をまるで肚を抜いてゐるのではございません。抜いてゐる訳には行かないのでございます。地と一緒にその気持でゐるのですから、言ひ換へれば何もない所であるだけに一番むつかしい大切な所でございます。
- 146–147亡父は歌舞伎も好きでございましたが、当時の書生芝居の俳優は「考へて芝居をやるから面白い」と申して私どもは「もう沢山だ、面白くもない」と思つてゐるやうな芝居を二度も、三度も見に行さました。又歌舞伎でございますと、舞台へ出て来る女中達を評しまして「あれは肚が抜けて立つてゐる」とか、「あれの足は男た」等と言つてゐましたが、聞けば「成程さうかな」と思つた事が再々ありました。
- 170–171観世鉄之丞さん(先代)は随分大きな身体で、芸も亦、大まかな、流石に分家としての貫禄を持つてをられました。厩橋の舞台で「盛久」をお勤めの時、橋がかりでロンギの「三保のいう海、田子の浦」と申します所で、右ヘウケて見る型を亡父が口をきはめてお褒め申したことを、今も覚えて居ります。これは輿の内から見る積りでやるのでございますが、肚の内から、ぼんやりと見るので、他の者がやりますとそこに何の味も無いものになりますのです。その芸は丸い方の形で、角の無い、まづ、素直な芸と申しますか、他の者から見てはなか〳〵取れませんが、正しい芸格と申したらよいと思はれます。
- 242–243御維新時分だと存じますが、亡父は或夜さる御屋敷からの帰りがおそくなりまして、乗物もありませんので歩いてをりますと、行先にヌツと侍が立ち塞がつたのです。前へは行かれず、後へは尚更ひかれず、「金を出せ」とか「命をくれ」とか言はれる心配はありましたが、舞台での落着きが役に立つて、下腹へ力を入れてじつと先方の様子を、頭の先から足の先まで見ますと、着物は黒つぽくて、帯は博多、足は素足に雪駄、それに長い刀を落しざしで、まるで芝居の辻斬そのまゝの風であつたさうです。先方も余りジロ〳〵見すゑられるので少し驚いたやうで、気味が悪くなつたのか遂に道をはづして通り過ぎました。いよ〳〵となれば舞台の上のつもりで、斬り組みでもやる積りでゐたのですが、まあ助かつたと思つて少し歩きましたものゝ、若し後からでも斬りつけられたらと、こは〴〵振り向いて見ましたところが、町角を廻つて行きましたので、もう安心と思ふと急に怖くなつて、馳け出してしまつたと話して大笑ひをした事がありました。 亡父等は外を歩きます時でも、他のお方と一寸違ひまして腰が据つてをりますから、私どもが見ましても相当の心得のある人のやうに見えました。
- 280–281をこがましい事ではございますが「安宅」は、何しろ明治二十七年に二十七歳で披きましてから、昭和十一年までにもう五十三回余も舞つてをりまして、私の勤めました能の中でも一番回数が多いと思ひます。さうでございますから、ワキに致しましても、福王繁十郎、宝生金五郎、春藤六右衛門さん等、明治能界の立物に御相手願つてをります。 然しそれは数ばかりで、「勧進帳」などを少しはほんたうに謡へるやうになつたかな、と思ふのはやつと此頃でございます。初の中は、立つてゐて手を開いてをりますと、お腹に力がはひつてをりませんから、声が上づつて弱りました。以前にはよくそんな調子で謡つたものでございましたが、此頃はなるべく調子を上げねやうにして謡つてをります。それで「勧進帳」も大変調子がよくなりました。
- 288[「二人静」の思ひ出]「さても義経凶徒に準ぜられ」と云ふあたりから、亡父は肚の中で、どの位慢心ぶりを現はすか、と連吟しながら様子を見つゝ演じて居りました。さうすると養父には段々と、身体に慄えが来て居る様子が現はれて来ましたので、亡父は「これならばよい」と安心したさうでございます。
- 290[「二人静」の思ひ出]私は六郎と演る時分には肚が同じでございますから、大概ピツタリ合ひますが、万佐世とも、猶義ともキチンと合ひますのでやゝ安心でございます。
- 320返りは若い中にやらなければいけないと言つて皆やります。他の御流儀は存じませんがこちらでは大概の人はやります。この稽古もなか〳〵むつかしく、最初は手をついてひつくりかへり、その次に綱を引いてやります。それからいよ〳〵舞台でやりますのですがなか〳〵うまく行かず、頭で立つて切戸と正面と間違へて落ちかゝつたりする事は往々ありまして、私も二度ばかりその経験がございます。あれも舞の時などと同じやうに下腹に充分力を入れてをりましたら、大抵はうまく行さます。
- 11それから能には、何処から何処まで長い旅をして着くといふ、その長い道中を僅か二足カ三足で示すことがありますが、それなども足の最後の止め工合で、非常な遠方から長い旅をして来たといふことを、見て居る者に感じさせることが出来るのであります。芝居でよく腹芸とか何とか申しますが、松王が子供の首を見てプツと吃驚した様子をする。あれを皆様は非常に珍重がられますが、あんな事は能の中にはザラに沢山あります、
- 16–17[「見物人は石ツころ」]能といふものがさういふ風になつて来たことに就ては、先程も申上げましたやうに、徳川幕府の制度が非常な力を持つて居るのでありまして、能楽師といふものは、その時分は皆禄米を与へられてをつて、一般の民衆に媚びる必要が少しも無かつた。飯は皆殿様に食はせて貰つて居た。だから見物が相手ぢやない。自分自身ばかりが満足すればそれで宜いといふことになつた結果、吾々の修業は見物などを気に懸けてはいかぬ、そこらに居る見物人の頭は、石ツころでも転がつて居るやうに思はなければいかぬ、といふことを言ひ聞かされてをります。その結果、見物人がどう思ふだらうといふことも、余り考へられもしなければ、又考へることは寧ろいけないとまで極端な考へがあつたのであります。それ故に、少しでも見物の事を頭に置いて、見せてやらうとか、ここで見物人に感心させてやらうとかいつたやうな事を吾吾がやりますと、終つて楽屋に帰つて来ると皆に笑はれる。さうすると吾々はぞつとする。いかにも「お前は低級だな」と言はれたと同じやうな感じがするのでありまして、見物といふことを念頭に置いて、これを懸念して演じたといふことになるのであります。然しそれでは自分では満足が出来ない、見物に十分納得の行くだけやらうと思へば、吾々でも出来る。十分に堪能させようと思へば剣劇などよりももつと満足の行く程暴れ廻る位のことは、何でもありませんが、然しそれでは自分が満足出来ない。つまり自分の腹では十分に動いて、外部にはそれを出さないといふことを考へなければ、自分では満足出来なくなるのであります。
- 32その「安宅」は一体どう云ふことを一番大事にするかと云ふと、弁慶の強さうであると云ふことを一番大事にします。弁慶が中心になつて、一人で切廻すのですから、その中心がヒョロヒヨロして居たら、「安宅」の能は成立ない。何処までも強さうに思はれるものでなければならない。さうかと云つて、、この弁慶が馬鹿に見えては駄目である。知つて通したか、知らないで通したか分りませぬが、少くとも富樫の眼を眩ますだけの男であるから、ぐつと腹に何か一物ありさうだと云ふのを見せる必要があります。それを芝居では腹芸とも言つて居ます。それから後で勧進帳を読んで見たり、ブン殴つて見たり、色々やつて見せる。そこがやる方でも、観る方でも大事な所で、観どころとして居る所ですが、然し「安宅」などは面を付けませぬ。面を着けないと云ふことは、吾々の感情が露骨に出易く、又面を着けて居ないために面を通じての芸術的な表現法を探れない。ですから芸術としての価値から言ひますと、直面物と云ふものの価値は高いとは思はれませぬ。
- 43誰々の「満仲」なら「満仲」は芝居にならなくて大変成功だと云ふことを能評家などが口にするのですが、芝居にならないと云ふことが、殆ど原則的に直面物をやる場合の私共の心得となつて居るのであります。これは芝居をしてはいけないと云ふことですが、といつて、直面物が芝居ではないと云ふことには恐らくならないだらうと思ふのです。その証拠には、歌舞伎の方でもずつと高級の役者になりますと、腹芸と云ふ言葉を使つて、余り多く芝居をせずに却つて深い感じを出すことを考へるやうになるやうであります。そしてその考へ方は能と揆を同じうするものであります。能では、つまり芝居と同じやうな行り方の演出をしてはいけない。能には能としての、別の演出法がある。芝居と変つた行き方をして、しかも更にもつと深い効果を現はすことが出来る。そこに能の現在物をやる狙ひ所があるだらうと思ふのであります。
- 112私の「家柄進歩性」に対する阿部真之助君の反駁文「名人論の余波」の校正刷を「謡曲界」から廻して来たので読んだ。個人の進歩以外に芸術の進歩があると阿部君は思つて居るらしい。どうしても変化と進歩の相違が判らんらしい。能楽を「一挙手一投足も師伝以外に出ないのを本旨と」する芸術としか考へられない阿部君の幼稚な頭には、能の理解は少し無理だと思ふ。他は、口惜しまぎれの悪罵と、詭弁に終始してゐる。然しこれは小人の常で、一々採り上げる必要もあるまい。東日の記者をして居る人ださうだが、頭も腹も未熟である。修養を祈る。
- 184四月二十二日、稽古能、敏樹さんが珍しく「江口」、僕は、「鉄輪」。 これも装束では初役。次第は割合にずつと一ト息に出られた。中入前の型は稽古の時ほどにも十分に行かなかつた。ギゴチなく且つ腹の中からの力が無かつた。表面だけ、味ひも無く事務的に運ばれてしまつた。今少しやれるつもりだつたが。雪鳥老も「ウンと力をためて置いてグツと外へ伸びるだけの含蓄がなかつた」と云つた。正にその通りだつた。
- 191[学生鑑賞能での「安宅」所演について]初演の時の方が疲労の度は一層激しかつたにも拘らず、最後の男舞は今度のやうな情けない舞振りではなかつた。つまり曲の休養が得られたからに外ならない。三度舞つてみて初めてこれが判つた。それほど男舞以下は情けないものだつた。男舞には自らもつと期待を掛けて居たのに遺憾千万だ。全体として初演の時のやうに唯強くさへあればとばかりやらなかつたつもりだ。腹黒い訳ではないが、多少腹に何が一物ある、つまり富樫より一段上の人物のつもりでやつてみた。そしたら戸川さんに策士弁慶と云はれた。誰かから狡いとも云はれた。
- 266–267二月二十六日、稽古能、「野守」。稽古の時相当手に入つて居た筈の前、運びが固くて悉く失敗。初同も、ロンギ前も少しもノリ出ずじまひ。重苦しく舞台に立つて居るばかりで、無能振りを発揮する。新しいままの足袋がイヤにボテボテして、重い履をはいたやうで、少しも舞台の上を滑かに歩けなかつた。不快々々。 中入前の「ましろの鷹」と「水」の型だけ少し我が意を得たかと思ふ。後は少しヤケ腹のまま暴れる。 終つて坂元氏と色々話して居たら、父が入つて来て「田舎の竜のやうだつたよ。坂元さん、さう思ひませんでしたか」と。
- 268[稽古能「求塚」(初演)について]「刺し違へて」の型は到底父のやうな、グイとした鮮かな業は出来兼ねるので、これはハツと心持だけを腹に引込んで、あと緩かに体を伸ばしたが、自分としてはかういふ道を選ぶことが賢明であるとして、更に工夫を要すると思ふ。中入は十分だつた筈である。
- 280–281十一月二十四日、月並能、「大蛇」佐藤、「三井寺」実、「乱」父。 愈々三度目の「三井寺」である。こんなのが自信といふのぢやないかしら、と思ふやうなものが腹の底に潜んで居た。広島、仙台でやつて来たのも何等熱意を失はすに足りなかつた。初めから慎重に構へて出る。中入で入つた時、省みて何等悔いる個所もなかつた。後の出になつて運びは宙を浮くやうに軽かつた。それで居て少しも軽浮にならなかつた。万事が自分の思ふままに運ばれて、何とも云へぬ愉悦を感じた。あゝこんな時に、死んでも宜いと思ふんだナと考へた。
- 314一月二十七日、稽古能、「花筐」実、「竹生島」和島。 何分大物[氷室・白頭]をやつたあとなので、全力的の気魄が出て来ない。相当努力してかかつたが、すんでみると何だか頼りないやうな気持である。 運び依然不調だつたが、イロエから急に立直つた。だからクセだけは十分に力を入れて、それを内へ引締めて出来たやうだ。だが、どうしてもカケリからカケリ上げのところが、木に竹を接いだやうでぎごちない。 一度出来かかつた運びのコツはまたすつかり忘れてしまつたらしい。腹の力を空にすればよかつたやうに思ふし、両手の力を抜けばよかつたとも思ふ。色々のことを皆やつて見たが効能なし。その外、肩の力をぐつと下へ落すこと、あごを引くこと、視力を強くすること、皆駄目、あゝ又出直ししょう。
- 357トメの能でも今日は苦にならなくなつた。然し、「国栖」が上出来だといふ訳ではない。相当に醜いところもあつた。舟の出入りでは、作物の工合が判らないため、又狂言との問答では両手を膝で組んだところが腹が抑へられて苦しかつたため、皆十分でなかつた。殊に狂言との遣り取りの謡が精彩を欠いては、この一番は余程割引かれなければならない。自分も気持が悪い。
- 63[「謡曲の稽古法」]次に妙な作り声をしないことである。自然な声で謡ふことが必要である。妙に力んだり咽喉をしめたりすることは大禁物である。咽喉は出来るだけ楽にして下腹に力をこめて謡ふべきである。それをやゝもすれば咽喉に力を入れて、苦しさうな声を張り上げて得々としてゐる人がある。かういふ人は何時まで経つても上達しない。
- 65[「謡曲の稽古法」]音階が完全に腹に入つたならば、細かい節扱ひの研究に入るがよからう。クリ、入リ、イロ、アタリ、小節などの扱ひを会得することに努力をする。
- 90「藤戸の明暮に」とワキの方へ向きまして「昔の春のかへれかし」と泣くのでありますが。この泣く場合も色々あります。当流では表面へ出さないで、腹で泣くと云ふので、謡ひ方としてもつまり内へ取つて泣いてゐる気持であれば宜いのであります。
- 92[「藤戸の謡ひ方」]初同上歌まではシテの腹で謡ひ所謂腹で行く所でありますから、この点を特に御含み下さるやう申上でおきます。シテにこれと云ふ型はなく、極めて微細な面の扱ひ、心持だけで此老母のやる瀬ない心情を表現するところに能の真骨頂が存するので御座います。所作が無いと御覧になる方も気をゆるして謡本と首つ引が多いやうですがい何もせずに居る時ほどシテの苦心してゐることは無いのであります。シテは一所懸命になつてゐるのであります。腹で能を舞つてゐるので、一言一句もおろそかにして居りません。ヂツとしてゐるのは腹にウンと力を入れてゐるのであります。何もしてゐないシテをヂツト見究めて頂きたいのであります。(以上の所演奏)
- 96[「藤戸の謡ひ方」]これに就いて昔の面白い話があります。さるシテ方が狂言の「まづお立ちやれ」のセリフで立たなかつたのです。この場合シテは安座して双ジオリしてゐますから腹をグツと押してゐて随分苦しいもので御座いますが、このシテはそれを我慢してゐたと見えます。狂言は約束通一ペんのセリフでシテが立たないので困つたが、稍々間をおいて再たび「マーヅお立ちやれ」とやつたのでシテも今度はしづ〳〵と立ちました。その呼吸が非常に良かつたさうであります。
- 107–108[「井筒の謡ひ方」]クセの文章はシテ女の追憶でありまして、地が代弁をしてゐる訳ですから、シテはその気持で終始せねばなりません。紀の有常の娘が業平との恋物語を述べて居りますから、シテも地と共に優美に素直な心持でなければなりません。ワキも亦その心持で聞いてゐるのであります。シテは安閑としてゐてはならぬ、即ち腹で謡つてゐるのであります。と云ふのはボンヤリと坐つてゐてはゐけない、力をぬいてはならないと申すことであります。
- 125–126翁の出の時と、翁カヘリと称する最後のところにシテが正先で下に居て礼をするところがある。一般の観者は、これを大抵見物に挨拶してゐるものと取るやうだが、然し全くその意味ではないので、前述の天壌無窮、天下泰平、国土安穏の御祈禱の心持に他ならないのである。翁の中には両手で扇をオモテに翳し、天を仰ぐやうな型や、又少し前かゞみになつて礼をするやうなところがある。これなども、みな祈りであつて、腹中で右の由をとなへてゐるのである。
- 199早いもので、もう今年は大震災の十三週年になる。何しろエライ騒ぎだつた。命を失つた人の数だけでも夥しいものだつたから……。然し幸ひな事に、流儀の関係者には殆んど死傷者がなかつた。けれどもマル焼けになつて、一時は途方にくれて居た者は少くなかつた。谷村なぞも其の一人で、これは本当に気の毒だつた。大曲の宅へ失望しきつた谷村が悄然としてやつて来た時には僕も思はず眼頭が熱くなつた。然し僕が弱気を見せては如何にもならないと思つたから、「そんな意気地のない事で如何するんだ。シツカリしろ」と口でこそ叱りつけたものゝ、腹の中では僕も泣いて居た。
- 248祖母は自分がさう言つた径路を辿つて来たゝめでせう、自分の後継者も矢張決めないで没くなつてしまひました。私達が時々博通の嫁(愛子)を後継者とする様に薦めましたが、その度に祖母は「まだあきやせん」と頭を振りました。そして「あんたも芸をやる人やないか、私の気持が分らぬ筈は無い」と言はれて見ると、私としても二ノ句がつげなかつたのです。然し祖母の心づもりでは、四代目には愛子を立てる腹であつたんです。その事は私達にも察しられました。ですから愛子に此上とも芸を勉強さして、四代目井上八千代を継がせたいと思つて居ります。
- 271–272まだもう一つ苦るしいことがある。それは家元たるもの、たゞ単なる名人上手だけであつてはならないことだ。家元芸と云ふか、大夫芸といぶか、気品を伴つた大まかな芸風にならなければならない。さうして流儀の規範ともならなければならない。極端に云へば、家元が悪達者で技巧を弄し過ぎたならば、さうしてそれが名人上手であればあるほど、その流内のものは、それにならつて流是(流儀の芸術的主張)をめちゃめちゃにしてしまふ。例へば観世流の主張は、形の上へ表情をあらはさないで内へとつて表現する――云ひかへれば外面に喜怒哀楽をあらはさないで、腹芸でこれを見せる——のであるが、もし私が能を舞ふとき、流是を無視して大胆な突つ込んだ演出をして向ふうけをねらつたとする。こんな場合、観世流の将来はどうなるであらうか。
- 97[「翁の話」観世左近]翁中には両手で扇をオモテに翳し、天を仰ぐやうな型や、又少し前かゞみになつて礼をするやうなところが二ケ所、合計四ケ所あります。これなども、みな祈りであつて、腹中で右の由をとなへてゐるのであります。
- 102[「砂の話」梅若 六郎]キリへ来まして「をさむる手には」と四拍子を踏みますが、これは拍子をふんでしまつてから、タップリとお腹に力を入れて、大きくみせるところです。やはり充分心してします。
- 113[「「語り」に就いて」宝生 新]「語り」と謂ふものが、だいたい謡ふべき節のないもので、「詞」でありますから、それだけ工夫を要します。その工夫がそのかたちの儘に、謂はゞ技巧として現はれてゐても嫌味でありますし、さうかと言つて、工夫をせねば出来るものではなく、工夫をせねば尚悪いのであります。要するに、――何にでも通ずる言葉ですが、――工夫が芸として表現せられる以前に、一旦腹の中で充分にこなされてゐなければ、真物ではないと申せます。
- 56–57[「物堅い手林君」]私に対しては先生のお蔭でこれまでになりましたといつて、最後まで先生の礼を尽してくれました。お弟子さんの稽古なども、私にはほんたうの腹は分りません。格好丈やつてをきますから夏先生がお見えになつたらやつて下さい。といつてをりました。この位謙虚な気持でやることが本当だと思ひます。あの人は毎日を感謝で送つてゐました。不満のない人でした。信仰がありました。それ丈、みんなに可愛がられてゐました。徳人ですね。病気の時なんかも、同情が集つて、最後までお弟子さんがよくしてくれたさうです。
- 152–153[「詞の節」]普通の座談にした処で、対話の巧みな人と拙い人とでは対手に与へる印象に大なる相違があります。況して芸術として美化された謡曲の詞がさう容易に出来る筈のものではありません。座談に於てその言葉遣ひからその人物が判ると同じやうに、曲中の人の品位も亦此詞如何に依つて定まるものです。それには無論腹の力といふ事が大事ですが、兎も角も弁慶になるも静御前になるも亦牛若丸になるも皆此詞一つにあるのです。
- 166–167力の抜き差しといふことを能く言ひますけれども、謡は、カルクうたふ場合でも、サラリと謡ふ場合でも力をヌクといふことは絶対にありません。力は常に丹田に充実させておく事につとめ声の吟とか、張りとかを加減調節して、或は強く、或は弱く、優しくも柔らかくも、美しくもするのであります。力を抜いては声の価値はなくなります。仮りにある物体を持つ場合、唯手先にのみ力を入れたのでは完全に持ち上げることは出来ません。先づ下腹に力を入れそれで物を持ち上げると易々と軽くもつことが出来ます。声の出し方もこれと同じで、下腹に力を入れ、その上で声の吟とか、張りとかを加減して発すると、声扱ひが自由で、しかも声に力がふくまれてゐることになるのであります。仕舞(型)の稽古に於ても、下腹に力を入れて体の重心を落つけ、手足は軽やかに捌く、といひますけれども手足にホントに力がぬけてゐては駄目です。かるく保つ処にも何処かに力がぬけないでゐる風態でなくてはならないのです。下腹に力を入れるといふ事が又容易なことではありませんが、修業すれば誰れでも段々に丹田に力をあつめることが出来るものです。
- 168昔の話ですが、亡くなつた濤平さんと二人で岡田[虎二郎]氏の門を叩いたことがあります。二十歳時分で元気一ぱいの時でしたが、私共が行くと、何か謡つて見ろ、との事なので、濤平さんと二人で船弁慶を精一ぱいに謡ひました。するとそのあとで岡田氏が、「今のは何んだ、なつちやアをらん、声に力がはいつてゐないぢやないか」と言はれるのです。私共は大に憤慨したものです。すると先生曰く「ホントの腹から出る力のある声はそんなものぢやない。これから大に勉強せねばいかん、君方の先生(九郎先生)は静座法を会得された訳ではないが、静座を完成した人程腹が出来てゐるから、ホントの腹の声か出てゐる。君方のは唯大きい図太い声だといふだけだ」とイキナリこき下ろされた事があります。その後暫くしてから「近頃は大分腹の力が出来たやうだ」と他の人にまで褒められたといふ事がありましたが、何事でも同じだと見えます。先生なんか静座法をやられたのではないのですが、芸もあそこまで行くと静座法の堂奥に踏入つたと同じやうに下腹に力が入り、その力が声に自由に使はれてゐたのであります。
- 201–202問 稽古の時は自分で精一杯の声を出す方がいゝのでせうか、どの程度でせうか。 答 精一杯に出すのがいゝですね。含み声でうは調子に謡つても上達はしません。第一大切なメリハリが覚えられません。矢張り十分力一杯何にも怒鳴るんではないのですが、腹から声出して稽古するのがいゝですね。よく耳にする事ですが、ヨワ吟は謡へるがツヨ吟は謡へないつていふ事です。然しこれは逆です。何もヨワ吟だといつて端唄や清元ではないのです。只扱が違にすぎない。声は決して弱くありません、だから矢張りツヨ吟から入つで精一杯謡ふ稽古をしてヨワ吟に入るのが本当です。ヨワ吟からだつたり、こればかりをやつてゐると、無暗に節ばかりに気を取られるから、自然声を一杯に出さない、つまりハリとか吟とかゞ覚えられない事になります。
- 214–215問 初心のうちは殊に詞の謡ひ方が出来ず、芝居がゝつたものになりがちですが、何か謡ひ方といつたものがかりませうか。 答 さうですね、詞は間拍子にかゝらぬのと、節がきまつてゐないために、簡単なやうで難しいものです。御承知の様に、謡本は段々よくなつて来て節には直しが入つてゐますが、詞ばかりは節がありません。僅かにダシ節がついてゐるにすぎません。詞の謡ひ方も一概に斯うといふことは出来ません。文句により、字数により、又曲の位により謡ひ方も違つて参ります。それには要するに腹の問題となつて来ます。曲全体の性根をしつかり摑んでゐることが大事です。極端な人になると、詞を謡つてゐて途中で、「これは男でせうか、女でせうか」と訊ねる有様ですが、これでは到底謡ひこなせるものでありません。
- 101–102[「碁と肚」]まだもう一つ忘れない話があります。登喜は碁を少し打つたのですが、それも笊碁程度のものでしたらうけれど、好きは好きでした。あるとき、もとの方円杜の社長の岩崎八段と、対手は誰でしたか、たしか、広瀬平治郎さんかと思ひましたが、あるところで対局が行はれた。登喜は、しばらくそれを側で見てましたが、やがてもとの座に戻つて来たので「小父さん、どうだね」と私が訊きますと、「けふは岩崎の方がきつと勝つ」と申すのです。「どうしてそれがわかるんだね」と訊き返しますと、岩崎八段の締めてる帯が、呼吸をするたびにキユツキユツと鳴つている。あれくらい腹に力がはいつていれば、きつと勝つにきまづている。「碁だつて、笛だつて、やることは違ふが、結局のところは、同じものさ。」果してそのときの勝負は、岩崎八段のものになつたさうですが、名人名人を知るとでも申しますか、こんな、逸話を思ひ出すにつけても、この登喜老人が舞台に出て笛を吹くときの構への立派だつたことが眼に浮んで来ます。
- 112–113すつかりお人払ひになつたところへ、藤井紋太夫罷出て平伏する。そこで光圀公が絞太夫に、今日自分が鐘馗を舞つて見せる気持が判るか、とお尋ねになる。絞太夫その意味がはつきり解らぬので、いかなるお思召によるかとお伺ひする。そこで光圀公申されるには、自分はこのたび鐘馗を直面で舞ふことを家元から許された。直面でやると云ふことは、元来異法なのであるが自分は年も寄つているので、特に許された。しかしこれは、家元でも非常に重く扱つて、誰にでも許すといふことはしないといふ。そこまでに芸道に於ての自分を家元が重く取扱つてくれたことを、臣下としてお前も喜んでぐれよ、とのお言葉だから、紋太夫も恐縮してお喜び申上げる。腹の中では、なあんだそんなお話だつたのかと、聊か安堵の思ひで、緊張が少々ゆるむ。
- 120–121[「芭蕉といふ曲」]つまり動けば必ずノリがつく、そのノリが出ちや佇んでる姿にはならない。それぢやあノリが全然ないのかと云へば、あるにはある。だいいち、ノリなしぢやあまるで動くことは出来はしませんからね。然しそのノリはほんたうにかすかなもので、腹の底の底に一寸蔵つてある程度のものですね。こんなことを云つたつて、禅問答みたいで、どなたにでも解るといふわけにはゆきますまいがね。理窟から云へば、それなら最初から動かないで、その気分を出せばいいぢやあないかとも云へますがね。そこが芸でしてね。なかなかあの初同の間ぢつと立つて居られるものぢやあないんです。居曲(クセの間坐り切りのもの)なんかとは意味が違ひますからね。
- 130–132[「景清」]松門の謡は当家では昔からやかましく云はれているところで、恰度鎧の節糸が古くなつてぶつぶつ切れたやうに謡へと伝へられています。妙な云ひ方ではありますが、全くよく心持を云ひ現はしています。ここはそのやうにやかましい謡ひどこではありますが、決して聴かせどこではありませんよ。松門を一つうまく謡つてきかせてやらうなんて気持で朗々とやられたんでは、もうおしまひです。どこまでも低音で、呂の音を主にして腹の中で謡ふ。きこえても、きこえなくてもそんなことは何方でもいいのです。きこえるも可、きこえぬも可、要するにシテの腹の中に応へがあればそれでいいのです。それに謡出しの松門ですが、あれは最初から強く当てて謡ふ。どうも実にやりにくいところで、どうしても固く荒くなり易いのですが、それではいけません。強い中に柔味が欲しいのです。ところが玄人でもなかなかさういい工合にばかりはゆかない。それで昔の人はさういふ所をなかなか工夫研究をしたのですね。よく聞いたことですが、この松門といふ文句の前に何か一句五字位の文句をつける。その文句は何と云つてもいいのです。例へば三笠山と云はうが、春霞と附けやうが、何でもよよろしい。その句は外へ出すのではなく、腹の中で謡つて綾をつけるのですからね。さうしますと松門が最初の句でなく途中の句になる。さうすると自然に柔かいノリが出て来ます。つまり反動を利用すると云つたやうなやり方ですが、実にうまい考へですね。
- 138中音で練習をすると、所謂腹に力が入るやうになる。さういふ意味での練習も無論大事ですね。その前に中音で謡つて見ると自分の癖が最もよく判る。俗に無くて七癖と申しますが、どんな人にでも必ずこの癖といふものはある。しかし自分の癖といふものはなかなかわかりにくいのが普通です。上音や下音では、どうしても無理な力が入り易いから、割合に自分のほんたうの癖が自分の耳に入りにくい。そこは中音ですと割合に楽に謡へるから、その楽に謡へてる時にすつかり自分の癖が出てくる。昔の人は自分の癖をつかまへるためにも、この中音の練習といふことをやつたさうです。
- 142–143ハツキリ謡ふことが謡の本義で、モグモグと口のなかでことばを噛みつぶしたり、あいまい、もうろうに、さも趣の深いもののやうに聞かせることを流儀ではやかましく言つて避けさせます。連珠の極致は、やはらかく謡つて、しかも謡全体にどつしりとした腹力のこもることで、力を入れるといつても、ただむやみにギユウギユウおしつけるやうなものではありません。「経読み」とか「いろは謡」といふのは、それが極端になると弊害も勿論ありますが、艶消しのまがひ珠の薄ぺらなものは、なほ更聞いていられたものではありません。
- 222–223今では、この乱拍子の申合せのしかたもなとと違つて来ましたが、昔流のはなかなかえらいことをするものなのです。一体私の流儀では、昔から小鼓は幸流と申合せをすることになつていますので、是非ともその方の稽古をしなければなりません。それで私も三須錦吾さんのところへ行きました。先方では、平司(錦吾の息)さんが私と一緒に披くことになつていたので、稽古も一緒にやれるわけでした。そこで錦吾さんは、私の手をぎゆつと握ります。そして錦吾さんが腹の中で乱拍子を打つ(小鼓を打つその気合ひをいふ)のです。私は私で、腹の中で乱拍子を踏む。そして同時に掛声が出れば、それで及第といふことになるのですが、先方がエイツといつてからこちらがヤツといつたのでは落第するのです。気合ひは相当長い間、双方ともグーツと息を引いています。その間しつかりと互に手を握りあつていて、刹那に、あのはげしい掛声になるのですから、その意気込みのおそろしさといつたらありません。
- 31–32[「按摩も肚」]参考になる話といへば、名古屋でとつた按摩が中々、物の聴き方が上手で、療治をしながら、種々の聴いた芸の話をして居りました。謡曲は最初通小町を聴いたとかで、秋の感じがよく謡ひ出されてゐてあれはいゝものだて云つて居りました。通小町が分る様では結構です。「按摩の療治も、指先に力がはいる様ではまだ技倆がほんどではない、やつぱり力は肚の底から出さなければ駄目なものだ」といつてゐましたが、奥儀のある処は、何れも同じものだと思ひました。
- 38いくら寒くても、肚に力が入つてをれば、寒さは分りません。寒い時は膝の上に正しく両手を結んで御覧なさい。自然に手が暖かくなつて来ます。その暖かさの気持のよいことは火鉢の比ではありません。肚に力が入つてゐれば、ワツと後から脅されても、アツと愕くことがありません。
- 40大体、一度も謡を稽古した事のない方が、稽古をおはじめになるには、先づ声をならす事が肝要でありまして、小謡から入る事も一つの方法です。又「鶴亀」などの番謡から入る事もよいのです。また詞の稽古のために「橋弁慶」などから入つて、みつしり詞の扱ひ方を肚におさめる事もいゝでせう。
- 41進め方は大体師匠まかせがよいのです。番数をあげればよいと思ふ人がある様ですが、それは誤りで、一番を急かずに腹に入る迄何度にも割つて進むのが最もよい方法でして、例へば「鶴亀」なら三回乃至四回位で上げるのが普通でせう。そして、分らない処は遠慮なく質問する事です。
- 41節が分らないうちは自宅で稽古復習が出来ないといふ事を、屢〻聞きすが、是は出来ない事はありません。口うつしに稽古するのですから、腹に入るまでやればそこの部分だけは覚えて帰れる筈です。それを何度でも復習すればよいのです。すると、次回に師匠の所に稽古に来て、前の所を謡はされても、必ず失敗はありません。で、若しあつたとしましても、一二ヶ所で済みませう。出来ても出来なくても復習は忘れてはいけません。そのうちに節が分るやうになつて来ます。
- 55融の「池辺に淀む溜り水」などはむつかしい。そんな所に遇ふと兎角「よく研究しておきます」と逃げる人があるが、果してよい研究が出来るならば結構、そんな一時逃れの言葉は決して用ひないやうに、出来るまで習ひ覚えてしまはなければだめです。肚へ這入つてしまへば訳もない事で、詰り、よく煮たものをよく嚙んで食べることが大事です。半煮のものを丸嚥みにしたり、よく嚙まなかつたりするから、すぐ下痢もすれば、病気にも罹る訳です。
- 63[「腹のこと其他」]すべて謡はなるべく肚が空つぽにならないやうにしなければ駄目であります。肚の空つぽの証拠は音の清濁一つにしても、濁りがまことにどうもハツキリ濁れない人が多いやうです。バと云ふやうな口の明く方の音は未だ宜ろしいですが、ドと云ふやうに口を塞ぐ方の濁りになりますと、当人では濁つて居られるつもりでも、他所からはトとしか聞えないやうな事が御座います。
- 74ギンといふ言葉は、私共はいつも使つてをりますが、なか〳〵意味の深い、味ひのある言葉であります。漢字で書く時は、「吟」の文字が用ゐられてゐるやうでありますが、このギンといふことは、解り易く申しますと、声の力といへませう。又声の「うるほひ」ともいへませう。腹の力、声の味などすべてこのギンの一語にふくまれてゐるのであります。
- 87名乗、呼掛けといつても、物柄によりますが、老人もあれば女物、男物もありといつた具合でそれ〴〵に心持に相違があります。その内でも山姥の「なう〳〵」は同じ女物でも曲柄が曲柄ですから少し強めて謡はなくてはいけません。そうして「これはあげろの山とて」からオサメるのです。謡本には、呼掛けには概してオサメとありますが、これは調子の低いオサメではなく、さうかといつてかゝり過ぎるのではありませんが、相当に程遠い所から、向ふへ行く人、又は佇んで居る人に呼び掛けるのですから、調子はオサメた内に充分のハリを以て謡ふのであります。要するに腹の力で謡ふのです。
- 109上をさすにしても、下をさすにしても、扇を畳んで居る時でも、扇の先きまで気が通じて居なければなりません。又サシワケをする時も指の先迄魂が入つて居なければいけません。見廻シにしても腹が這入つて居ないと、たゞフワ〳〵と首ばかり動かす事になる。又扇を左へ取つたら、右手はカラになるものですが、たとひカラになつた時でも絶へず扇を持つてゐる積りで形の崩れない様に握つて居なければなりません。
- 113[「仕舞の心得」]最後に、形も謡と同じやうに、腹に力が入つてゐなければなかません。腹に力が入つてゐないと腰もふらついて形が崩れます。
- 83彼の主義に依れば、職分の者は同じ曲を何度舞つても、同じやうに出来る所まで行けなければいけない。或る時は好く出来たか、或る時は甚しく劣つてゐたといふのでは、未だその手腕が出来てゐないのである。曲目の難易などは二の次の問題で、平易の曲でも何度舞つても同じやうに舞へるやうに、十分腹に入つて来れば、自づと大曲でも舞へるやうになる。