まいこみ【舞込】
喜多六平太『六平太芸談』(1942)
- 35羽衣舞込いつたい友枝(熊本藩のシテの家)の家では、この羽衣の舞込は御自慢の筈なんだよ。それといふのがね、ずつと以前まだ旧藩時代のことだが、熊本では本座(当流友枝家)と新座(金春流桜間家)とはよほど仲が悪かつたと見えてね、いつもゴタゴタが絶えなかつた。それで神社の祭礼能やなんかの時でも、自分の流儀の能の時は皆正面を向いて見るが、相手の流儀の能が始まると、背中を向けて全然見ようとしないばかりか、話をしたり飲み食ひをしたりしているといつたやうな工合だつたさうだ。ところが或る時の能に、たしか友枝敏樹(喜多流師範)のおぢいさんの小膳といふ人だつたと思ふが、この羽衣の舞込をやつたんださうだ。
- 36なにしろ今まで一度だつて満足に此方の能を見た例のない新座が、今日こそは兜を脱いで見物したといふので、すつかり相手を征服したやうな、たまらなくいい気持になつて、非常に御機嫌だつたらしいよ。それ以来この舞込は友枝家御自慢の曲になつている筈なんだよ。いつたいこの舞込や船弁慶の真の伝なんかは、そんなに古くからあつた習物ぢやないんだ。寿山(喜多家十一代)の頃に新らしく出来たので、ずつと以前の書物にほ無い筈だよ
- 40位も大して変りはなくただ「さる程に時移つて」からいくらか締めて小鼓が流すことになつてる。舞込のやうに「あしたか山や」とぐつと引締るやうなことはない。特別ちがつてるのは「七宝充満の宝を降らし国土にこれを施し給ふ」と正面先で扇を捨てるところと、囃子が石橋のやうな留め方(残り留)をする。シテは袖をかついで後姿のまま幕へ入る。そのへんが舞込とはちがふ。しかし多少無理がしてあるやうだね。
- 240四月二十二日、福山市喜謡会新舞台落成能、場所は公会堂に組立てられる。「月宮殿」矢野師範、「羽衣舞込」粟谷師範、「鉢木」実、「祝言岩舟」上野等。
- 306十月三十一日、大牟田市公会堂、喜和会主催能、「小鍛冶白」後藤、「羽衣舞込」実、「紅葉狩」粟谷等。