近代能楽用語索引Index of Nō-related Terms in Modern Texts

近代芸談における技芸用語

主にシテ方の技芸にかかわる用語の索引。姿勢、視線などの重要と思われるトピックのほか、『能楽大事典』(筑摩書房)に立項される技術用語を対象としました。同表記・別意味の語を別に立項した場合(例:「運び」を歩き方と謡い方で別立項)も、逆に同意味・別表記の語をまとめて立項した場合(例:眼、目、目玉)もあります。

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まく【幕】

喜多六平太『六平太芸談』(1942)
  • 7それと、もう一つ変つたことには揚幕だね。あの普段の幕揚をすつかり巻上げて、その前へこれも白の単の揚幕を下げるんだよ。ずいぶん思ひ切つたものだね。
  • 37今は「愛鷹山や富士の高嶺」と松へ左袖をかけて徐々に下を見込んで「かすかになりて」から左へ大廻りして中程で小廻りを二つ三つして又大廻りして、こんどは幕際で小廻りをして袖をかついで幕へ入るだらう。あそこの型を大廻りをしないで小廻りばかりして幕へ入らうとして途中で目をまはしてひつくり返つた奴があつたとかで、それ以来余り軽く扱はないやうに、誰にでも許すといふことをしないために、わざとそんなに重くしたんださうだがね。なあに元来道成寺を勤めてからといふ程のものぢやあない。それにしてもどんなにしつかりした者でも大廻りを入れずに小廻りばかりぢや参つちまふよ。目を廻すのが当然さ。昔の人には馬鹿げたほど真正直な人があつたんだね。だからやり通すとまた素晴らしいことも出来たんだね。同じ小書でも、霞留の方は山内容堂侯の御註文で出来たもので、大体似たやうなものだが、幕へ入る時は同じやうに袖はかついでも、この方は背中を向けたまま入つてしまつてワキ留になる。
  • 40特別ちがつてるのは「七宝充満の宝を降らし国土にこれを施し給ふ」と正面先で扇を捨てるところと、囃子が石橋のやうな留め方(残り留)をする。シテは袖をかついで後姿のまま幕へ入る。そのへんが舞込とはちがふ。しかし多少無理がしてあるやうだね。
  • 46どうしませうかといつたらね、いや、他にお装束も見当らないやうでございますから、仕方がございません、これで勤めさせて頂きませうといふんで、やれやれと思つて、装束が著き、シテが幕から出ると大急ぎで見所へ廻つて、しつかり見せて貰つた。
  • 67その時は、ワキが中入するときは大口の前の方を両手でつかんでぐつと引上げるやうにして見込み、すぐにおろしてズカズカ幕へ入つたが、この間のは大口の後をつかんだやうだつたね。ありやあ替だらうね。
  • 68それに竜神も幕の中でよく沓の落ちた位置の見当をつけとかないとそれを拾ふときやり損ふしね。白洲へ落ちた方なら、竜神にしたつて替の沓を最初から持つて出るんだから、気分が楽でいいけどね。まあこんな能には見物に知れない妙な苦労があるもんだよ。
  • 75それについて、この間ある地方から、一調の場合、本幕から出ることがあるさうだが、どうかと聞合せて来た者がある。こりやあまた、重いと云ふ意味を全然とり違へてる。いくら一調が重いと云つたところで、本幕から出るなんてことはない。いや、他流は知らず、流儀には、そんなことは絶対無いと云つてやつたがね。これなんかは、わざと重みをつけるための飛んでもない勘違ひだと思ふね。誰か昔、そんなことをやつた者があるのかも知れないが、いささか笑止千万だよ。翁の地謡だつて、近来は囃子方のあとから本幕から出ているが、元来はないことで、本幕は囃子方までで、地謡は他の能で囃子方が出る時のやうに横から出る筈のものなんだ。
  • 75–76清廉さんが達者な時分、喜多さん、××君のとこぢやあ翁の時、地謡が本幕から出るさうだが、さういふことはあるのかい、と聞かれてね。いやありやあ飯田町の橋掛りが短か過ぎて、幕がおろせないもの、だからそのままずるずる出ているんで、決して本幕から出るといふ法はないんですよと言つて笑つたことがあるくらいさ。
  • 79脇方のこどだから、私達にはよく解らないが、なんでもむづかしい呼吸といふのは、最初幕が揚つてワキが出て舞台の正面先へ出て留る、そして、それから小鼓の手に合せて後へ下る、そこの呼吸がむづかしいらしい。本願寺の時にも最初は新さんと幸悟朗さんとの呼吸がなかなかうまく合はなくて大分苦心されたといふ話を聞いたことがある。
  • 100こんな逸話もあります。宝生九郎さんが清経の音取(、笛の特殊な吹き方でそれにつれてシテの出る替の型の小書)をやられたとき、笛はこの森本登喜でしたが、けふこそはおれの笛でシテをうまく引出して舞台へいれてやらうと待ちかまへていた。ところが、九郎さんの幕をはなれて出て来た足が、ちつとも音取になつていない。
  • 113只恐懼して次第に頭が下がる途端に、次の間から、もはや早笛になりました、お幕でございますと、係の者の声がする。よしつと一声おつしやると同時に、お刀にお手が掛つて、立上りさまずばりと、一打ちに紋太夫の首をお落しになつてそのまま刀を、剣の代りにお持ちになつて、幕を上げさせると一気にお出になる。
  • 150出たとこ勝負といふことがありますが、さうかと言つて、ただデタラメな気持で揚幕を出るのではありません。恰度、釣に行つて、竿をおろしている、あの気持とでもいひませうか。釣れても、釣れなくても、こちらの心構へだけはちやんとあるのです。
  • 215暫くして二度目に申しあげたとき、やつと、それでは見ようと言ひ出されて、その当日、いよいよ装束も著き、ワキも囃子方も揃つて、鏡の間(楽屋から橋掛りへ出る手前の板張の部屋、揚幕のすぐ内側になつている。役者達は舞台へ出る前にここで自分達の姿態装束を映してみる)に控へて待つていましたが、なかなか御沙汰がない。
  • 238此十太夫、御城御能の時、二番目八嶋を勤め幕へ入ると頓死せしと也。前夜十太夫の妻の夢に、十太夫八嶋の衣裳着ながら長持へ入帰ると夢に見、翌朝妻曰く、今日は急病になされ、御断願を早々被申上候へ志再三申候を、十太夫不聞入、公家衆御馳走の御能故、常の御用より格別重き御用に、今俄かに御断りは申上げられず、其上夢は如夢幻泡影と云ひ、女の知りたることになし、気遣なる事さらく有るべからず、と云ひ切つて登城せしに、果して衣裳着ながら長持へ死体を入れ帰りし事、妻が夢不思議なる事と也。
  • 238一説に、頓死に非ず、八嶋中入して後の出羽幕揚げ出さまに開く所へ、公儀小十人名字失念来りかゝり、開く手をさわりながら行過んとせしを、十太夫開く足にて彼の男を蹴ころばす。彼の男横に倒れし内に十太夫は出、八嶋を舞、朝嵐とぞ留め、幕へ入り幕下りると、彼の小十人する〳〵と走り出、十太夫横腹を、覚えたかき突通しえぐり何国共なく逃失ぬ。
本田秀男編『謡曲大講座 櫻間左陣夜話 附櫻間左陣小話』(1934)
  • 3ウ〇九代目が遠藤盛遠をやつた時、袈裟の首を持つて鶴ケ岡八幡の石段をかけ上り、月の明りでその首をヂツと見込みそのまゝ木なしに幕を引かせた。
  • 4ウ◯××もこの頃大分うまくなつて来たナァ。今これだけ運びのうつくしい人は他にないだらう。然し、この運びが多少キタナクなつたら、××も大したものだよ。(これは或日、九段能楽堂で囃子方演能会のあつた時、某大家の能を見て漏らされた言葉である。それは幕を上げてシテが出るときである。)
  • 5オこれはいかんといはれた奴は大底、今頃どこにどうしているか行方も分らない。それがいかんといふ時でも、三人云ひ合したやうに云ひ出すのさ。只一人上方から修業に上つて来て能をやると聞いたので、見やうぢやないかと三人がノゾいて見た、幕明きのとき一寸ものになりさうだと思つて見ていたが、一声を謡出すと、誰いふとなく少しものになるだらう、と云ひ出してスタ〱楽屋に引き込んだ。
  • 5ウ◯今こそ旭の昇る勢ひの、梅若の兄弟も実が築いたその賜だよ。以前に九郎さんや、自分などゝ一しよに舞つていた頃揚幕が無くて、五布風呂敷を代用にして勤めたことさへあつた。今思へばそれも夢のやうなことである。(益々奢りになれて行きつゝある現時に於て、かういふ話を思ひ浮べるといふことは何か私逹に教へるものがあるやうに思ふ)
  • 6オ◯金剛唯一といふ名手があつた。或る時、海人の能を舞つて、玉の段の、「宝珠をぬすみとつて、逃んとすれば」と、この間にワキ座で玉をとり、幕際まで行つてふりかへつた。「かねてたくみし事なれば」と又大小前ヘスラ〱と入つてしまつた。かねて業きゝとはきいていたが、驚かされたよ。(うそのやうな話であるが、事実ださうだ。)
  • 6オ◯中村平蔵師が、昭君の能を舞はれた時、後シテの早笛の出に、太鼓上げて打込みになつてから「お幕」といって幕が上つたら、もう三ノ松辺へ出ていたよ。おれが元気のころ、矢張り昭君の早笛の出に、或る人が「伴馬の足が見えなかつた」と云はれた事がある。チヨコチヨコはしるのはなんでもない。
柳沢英樹『宝生九郎伝』(1944)
  • 112万三郎の性格と芸質は九郎の好む所であつた故か、特に少年時代から注視してゐたやうだ。舞台で同勤の場合など、鏡の間に於いて幕放れをするまで細心の注意を払ひ、装束の襞一つでも悪い所は直す。所が舞台へ出ると今度は地裏に廻つて立つて見てゐる。これには舞ふ方は少しも油断が出来なくて辛いが、然しそれ程までに光つた眼で九郎に見て貰へる事は実に幸せである。
  • 135酒の上の失敗は相当にあつたやうだが、豪酒といふよりも寧ろ愛酒に近い方で、能を舞ふ場合でも、装束を着けてから鏡ノ間で家元に隠れて一杯引掛けて幕にかゝるといふやうな愛嬌もあつた。
観世左近編『謡曲大講座 観世清廉口傳集 観世元義口傳集』(1934)
  • 9オ◯通小町 雨夜の伝といふて、シテが幕の内から謡ふのがあります。又替装束というて指貫と白色の単狩衣を着ます。近頃は何所でも多く此の替装束を用いますので、反つて此方が普通の様に心得て居る人もある位ですが、通常の装束と云へば熨斗目の着流しに水衣の肩をあげ黒頭を被るのです。
  • 12オ◯殺生石 白頭。頭が白となり、作物なしで、シテが幕内へ入り、後も幕から出て熨斗目を被つて出るのです。この方が実際簡略ですから、近来は兎角この方が多く出ます。
  • 13オ◯野守 白頭。黒頭。天地の声。白黒は第頭が違ひ、作り物を出さずに幕の内より謡ひます。天地の声といふはトメの謡を短く切つて囃子が残りドメとなります。
  • 16オ後半はシテは相変らず作り物の内より出て、床机にかゝつて居ります。ツレは三人(五入或は七人、何れ端数ときまつて居ります)同じく赤頭に法被半切の揃ひで、橋掛を出て、舞台と橋掛に分れて居並び、舞働の終り迄はツレのハタラキとなります。維茂との立廻はシテがハタラキ、「引下し指通し」と切られて後は、立つて作り物の内に隠れてしまひ、ツレは皆々橋掛りより幕へ逃け込んでしまひます。
  • 19オ無意味に見れば何でもないがシテが脇に念を押す処である。その謡ひ様は後になる程しつかりと念を押すといふ心持である。ワキとワキヅレは別に、「心得申し候ふ」とて見ない事を誓つたので、やゝ安心して薪を取りに山へ行く。即ち中入をするのである。中入際のシテの心持は大事で、凄味を残して幕に入る。
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
  • 27けれども、其曲目によつて、一概に云へないといふのは殺生石の白頭などの様に、幕の内へ走り込むものか、又は橋掛りで留める曲であつたら、後見座に戻つて来るに及ばない、矢張り揚幕を入るのである。
  • 149作り物の一つも置くと一ぱいになつてシテやツレが、隅の方を辛じて通つて幕を出るなどは、第一気持ちが悪くて、迚も曲中の人物の心持ちなどにはなり得ざるものである。
  • 158石橋は当流では前はツレになつて居るが、金剛流では前もシテで前シテが引流むと、幕を上げて台を一つ出し、又別に幕を上げて又台を一つ出す。
  • 182維新になつて能が瓦解した時は、各流の人々は皆散乱して、能と云ふものは殆ど世間に忘れられてしまつたのだが、独り実は割板の舞台に風呂敷の幕で、斯道を励んで居た。
  • 235其頃は故梅若実も、未だ舞台は出来ず、形ばかりの敷舞台に籠つて、例の五布風呂敷の揚幕で能をやつて居た。此頃は各流共、能をやる者は一人もなく、謡の声でもしたら、外から石でも抜げ込まれるのが常であつた。其中にあつて一人実が、あらゆる辛惨を嘗めて、能を継続して居たのは、慥かに実の偉なる処である。
近藤乾三『さるをがせ』(1940)
  • 19揚幕から後見が杖を持つて出て、ツレに渡す。と、例の「嬉しやな望みし事のかなふよと」になるのが定例ですが、クツロイでしまつたのに、後見が杖を持つて来ません。さあ困りました。是は後で聞いた話ですが、私も杖を調べて後見に渡し後見も然るべき場所に置いてあつたのです。
  • 20流儀では望月のツレが中入で入る時、杖を横板で後見に渡し、そして盲御前でない事になつて、揚幕へ入る事になつて居ります。揚幕まで杖をついて入る型が他流にはあるさうですが、それは場面の解釈から来て居りませう。流儀では横板に来ると、望月の部屋の外に出た事になるのでせうね。
  • 34夫で当今では略して作物なしで揚幕から出ると一の松で床几にかゝります。
  • 68その脚本の幕外の引込みに「もぢり葉の六方」といふのがありました。如何いふことをするのかと訊ねますと、型はまだ考へてゐないが、文句がいゝので入れたといつてゐました。「解脱天狗」の折同君と「二十年振りですね」と話したことでした。
  • 125其内囃子方も鏡の間に揃つて音調べを済ませ舞台に出、地謡も切戸口に待つて居て共に舞台へ出る順序です。シテが一番先に出ないものは、ワキがお幕にかゝる時分又はワキやツレが舞台へ出てからシテは鏡の間の鏡の前で面を着け、其舞台姿を鏡に映して其役の心持を頭に入れる訳です。それから物着が衣紋、袖などを直してお幕にかゝります。扇小道具の類は何れも幕にかゝつてから持ちます。
  • 126勿論此時はもう「舞台の人」でなければなりません。そしてシテは「お幕」と声をかけ、幕を掲げさせていよ〳〵「舞台の人」となる順序です。
  • 211主 まだ深川の先生が丈夫でゐられた時代、私が紅葉狩をやつた事があります。次第の囃子でお幕をなつて、私は舞台上の人となつたんですが、其時見所でワツと喚声があがるんです。どうしたんだらうと思つても舞台の事で見る事は出来ません、其儘能はその後は無事にすんだのです。楽屋に入つて早速聞いて見ると、ツレの某君が橋懸りから真直ぐに出て、太鼓に突当つて了つたんです。それはお幕から出る時、その人の葛帯が曲つてゐたので側にゐた人が一寸直したんですが、これがいけなかつたんですね。
観世左近『能楽随想』(1939)
  • 96狂言オクリ込 ワキは狂言を呼んでシテを送らせます。狂言のオクリ込であります。間狂言は橋懸の長さ一杯にセリフを言ひながらシテを幕まで送るのでありますが、橋懸の長短によりましてセリフをクバルのが狂言方に取つて難かしいのであります。シテが幕へ入る、狂言のセリフが了る、そこへ巧い工合に幕が下りる七云つた調子に行かないといけません。
  • 97シテ中入後待謡まで狂言はシテを幕へ送りこんで舞台へ戻つて来ますと、常座で管絃講で弔ふこと、殺生禁断のこと等を触れます。触れ了つて狂言が退きますとワキの待謡になります。待謡はサラリと謡つて余り強味にならぬのが宜いのであります。即ち弔ひの心持を含めて謡ふのであります。「心を静め声を上げ」とユルメて謡ひます。
  • 120昔将軍家の能で「翁」が初まる時である。吉例によつて熨斗目長上下の若年寄が、能舞台の階段を昇り、橋懸へ来て幕に向ひ「お能始めませい」と声をかけた。これによつて幕が上り、大夫が出て来るはすのところ、どうしたのか一向大夫は姿を見せない。そこで正面の将軍家から楽屋へ使者が立ち「なぜ幕を上げぬか」と訊かれた。すると大夫の言葉に「従来翁を勤めます時には、若年寄が橋懸一ノ松で片膝をつかれて、お能始めませい、の御言葉がありましたのに、今日はその御作法がございませんから、如何なる仕儀かと見合せてをります」とのこと、これは大夫の申し条道理なりとあつて、一若年寄はさらに舞台へ昇り橋懸へ行き、幕に向ひ片膝ついて声をかけ、漸く幕を上げたといふ。
  • 135祈りで橋懸へ行き幕際で踏み留めるや否や――幕の方へ向いたまゝ――打杖で後へ払ふ型がある。これは「道成寺」の赤頭と「安達原」の黒頭・白頭の場合に限つて用ゐる替の型である。
  • 136「紅葉狩」の古い型附を見ると、「剣に怖れて巌へ登るを」の型を幕際でやる型がある。つまり揚幕を巌に見立てヽ、例の型をやり、「引き下し刺し通し」と安坐して斬られると、直ぐに立つて幕へ入いるのである。これも一寸おもしろい型だと思ふ。
  • 251祖母は晋三〳〵と呼んで話ましたが、片山晋三は舞台へ出る時は必ず「おはる! 一杯!」と大声で命ずる、祖母は心得て声の下からなみ〳〵と注いだ冷酒の湯呑を差出すと、晋三はそれをグイツと引つかけて幕へかゝつたさうです。この話をしては祖母は芸をやる者はこれ位の元気がないと不可ん、と言つてゐました。ですから前に申上たやうに祖母自身も大変な元気で死ぬまで酒を飲んでゐたのです。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第一』(1934)
  • 16ウけれども、其曲によつて、一概に言へないといふのは、殺生石の白頭などのやうに幕の中へ走り込むものか、又橋掛りで留める曲であつたら、後見座に戻つて来るには及ばず、矢張り揚幕から入るのである。(明治四十四年十一月)
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第二、第三』(1935)
  • 七4オ十一月の慈善会当日、政吉が玉の段の仕舞を勤めた。これは番組以外で、其前に何等の沙汰もなく、政吉は葵上の地に出て居り、私は幕内でシテの世話をして居た処、突然六郎氏から毛利様のお好みだから、葵上の次に政吉に玉の段の仕舞を勤める様にとの達しであつた、何れ本人に申聞け其上御返事するといつて置き、葵上が済んだ後に政吉へ右の赴申聞けた。
  • 七4ウ寳生会の舞台新築に就いては、皆さんの多大の御同情を得て貸資金なども既に予定額の四万円に達し、地所も買入れ舞台の設計も略々出来上つた。この舞台に対するお素人方の希望は、唯橋掛りの間数を長きにあるやうたが、私等はそれよりも鏡の間の狭いのには閉口する。作り物の一つも置くと一ぱいになつて、シテやツレが隅の方を辛うじて通つて幕を出るなどは、第一気持ちが悪くて、十分なことは為し得ないものである。
野上豊一郎編『謡曲芸術』(1936)
  • 244まして、シテが登場する際の次第などは、十分心してシツトリと囃すべきであつて、囃子方に心得のない時などは、幕を出るのも大変、橋掛りを歩むなど到底不可能で、うつかりすると囃子が早い為に、シテが馳けて出なければならないやうなことになる。といふのはツヾケの「ヤア・ハア」の当りに、足が一足づゝ合つて行くやうに足を運ぶからである。一体、物にもよるが、幕を出て、橋掛を歩むとき既に、その歩みかたに序破急があるのであつて、その位取りを間違へると最後まで祟るものだ。
  • 316ワキが幕にかゝつた時の心持は、いはゞ胎内の心持である。いよ〱これから一番の能が演ぜられやうとする─それは正に胎児が浮世の風に当らんとするに等しい。
三宅襄・丸岡大二編『能楽謡曲芸談集』(1940)
  • 61長糸の伝といふのは、普通の型は長い間糸を繰つてゐないのです、けれど今度のはクセからロンギまで、間にちょつと休むことはありますが、まあ殆んどずうつと続けて永い問繰ります。中入も替つて、一の松でワキを見込み、そして幕の内へ走り込むのです。ロンギの所で少し謡が進みます。
  • 63オ幕ッ!といつた瞬間から、舞ひ終つて楽屋に戻るまで、私の心は一切世間を超絶して、無の境地にあると云へるでせう。
  • 106協留はシテは「いとま申して」とワキへ辞儀をして立ち上り「返る波の音の」と拍子を踏みます、橋懸へ行きそのまゝ幕へ入つてしまひます。ワキがそれを見送つてとめるのであります。五段之物着は真之物着とも言ひます。これは松風に限りません。柏崎、富士太鼓、杜若等にもあります。
  • 134然し私は、道成寺でも邯郸でも、難かしいのは次第で、幕を出る処と思ひます。幕ハナレから橋懸りを運んで舞台に入るまでが、一番苦労します。まあ、それだけにうまく行つた時は、実にいい気持です。思ひ出すのは、私が宝生の舞台で、舞はして貰つてゐた時の事です。深川の先生の御好意で、猿楽町時代に毎月、松本さんや、野口さんに交つて、一番宛舞つてゐました。その最初、忠度をつとめた時は、私は十九でした。その時です。幕が上つても、足が出ません。
  • 152先づ幕の中で、大小に合せての足使ひがあります。これはまだ橋懸へも出ず、幕のうちでありますから見所の人達には全然見えないのですが、かうしたところにも型があるのです。ここで囃子は次第があつてツヅケがあり、ツヅケゐ間にコイ合が這入ります。これを幾鎖目に入れるかは、その時のおシテと囃子方がきめるわけです。
  • 223締木を使はない時は後分シラベをします。後のシラべといふのは、使つた太鼓を弟子が楽屋幕内へ引いて常の調子にその太鼓を締めなほすのです。そして能が全部済み、幕内へ入つてから、太鼓だけが再び本幕で出て、三ノ松の所で調子シラベをします。
  • 306公卿は出来上つた一首を吟じながら、女の傍へ行つて被衣の内をさし覗き、ビックリして頭をかいて遁げますと女はこれを捉へて放さない。そこでシテは上の句を改めるとて「一たびは手にひき取りし姫小松、見すてがほにぞ打かくる雪」と詠んで、雪をかき集めて女に投げかけ、ゆるいてくれいゆるいてくれいと幕へ入るのです。
杉山萌圓(夢野久作)『梅津只圓翁伝』(1935)
  • 55朔蔵氏は幕に這入ると、装束のまゝ楽屋の畳の上に平伏して息も絶えたゝに噎せ入つたが、その背後から翁が、「えゝい……此のヒヨロ〳〵弁慶……ヒヨロ〳〵弁慶……」と罵倒する大声が、舞台、見所は勿論、近隣までも響き渡つたので、観衆は皆眼を丸くして顔を見合はせてゐた。
  • 69能の進行中、すこし気に入らぬ事があると楽屋に端座してゐる翁は眼を据ゑて、唇を一文字に閉ぢた怖い顔になりながらムク〴〵と立上つて、鏡の間に来る。幕の間から顔を出して舞台を睨むと、不思議なもので誰が気付くともなく舞台が見る〳〵緊張して来る。
  • 74揚幕を背にした景清の利彦氏は真赤に上気して、血走つた眼を互ひ違ひにシカメつゝ流れ込む汗に眩まされまいとしてゐる真剣な努力が見場人によくわかつた。之に対して畠山に扮した梅津昌吉氏は真青になつたまゝ、イクラ汗が眼に流れ込んでも瞬き一つしない。爛々と剥き出した眼光でハツタと景清を睨み据ゑたまゝ引返して舞台に入り、「言語道断」と云つた。その勢ひのモノスゴかつたこと。「今日のやうな『大仏供養』を見た事が無い」と楽屋で老人連が口を極めて賞讃したのに対し翁はタツタ一言、「ウフヽ。面白かつたのう」と微笑した。昌吉氏はズツト離れた処で装束を脱ぎながら、「汗が眼に這入つて困りましたが、橋がゝりに這入ると向ふの幕の間から先生の片眼がチラリと見えました。それなりけり気が遠うなつて、何もかもわからん様になりました」と云つて皆を笑はせてゐた。
  • 74–75大賀氏は気が遠くなつた。しかし例によつて幕の間から翁が見てゐるのが恐ろしさに後見を呼ぶ事さへ忘れて舞ひ続けた。「舞台は戦場〳〵」と思ひ直し〳〵一曲を終つた。幕へ這入つて仮面を脱ぐと大賀氏の顔が一面に腫れ上つて、似ても似つかぬ顔になつてゐるので皆驚いた。(柴藤精蔵氏談)
  • 85ところで此方は幕の前に引返して立つて居ると翁は此方をジロリと見て、今一度「サア」と云ふ。同時に一声とか次第とかをアシラヒ初める。「イヨオヽ――。ハオヽ―〳〵」と云ふうちに坦々蕩々たるお能らしい緊張味が薄暗い舞台一面に漲り渡る。
片山博通『幽花亭随筆』(1934)
  • 5の時切幕から声がする。いづれから来たか一人の老人が現はれて彼等を呼びとめたのである。「なうなう遊行上人の御供の人に申すべき事の候。」この「なうなう」の一句はこの一番の能の成功不成功の分岐点であらう。この一句で私の心は嫌応なしに詩の殿堂の中にグングンと引き込まれて行く。シテは橋掛りに居、ワキはワキ柱に立つてゐる。「橋掛り」これは能になくてはならないもゝ一つである。「橋掛り」は能の舞台効果を倍加する力を有してゐる。芝居の花道とは全く別である。橋掛りはもとは鏡板の向から舞台についてゐたものださうだ。橋掛りのいくらか斜になつてゐるのはその名残であらう。橋掛りの歴史はどうでもよい。只自分は今の橋掛りを讃美するものである。世界にこれ程の舞台効果をおさめるものは無いと言つてよい。青い松、紅白の切幕(たまには他色のものがあるが紅白がいゝ)よく拭きこんで上品な光沢のする手すり、その前に立つ尉、何の不調和もない。こゝで二三の問答があつて老人は僧等を前の遊行上人の通つた、朽ち木の柳と言ふ名木のある、旧道の方に道しるべする。
  • 10でも私の心ではまだ終つてゐない。シテは老いたる柳が朽ち木に戻る様に閑かに切幕の中に消える。ワキもしづかに入る。こゝで始めて一曲がすんだと言ふ気になる。(大正十五年春)
  • 38最後の「深淵に飛んでぞ」と切幕へシテが飛び込む図など、思ひ切つた動きを見せたり、色々様々の技巧がうかゞへて感興を深うした。だが、手足の不安はあつた。
  • 119理由は至極簡単だ。トメ拍子がすんでも、まだ曲は終了してゐないからである。トメ拍子がすんでも、シテは舞つてゐる時と同じ気持で切幕の方へあゆみつゝあるのである。舞台には余韻がうづまいてゐるのである。
  • 138ワキが此処で得々と読み上げてシテの聞かせ所を奪つてしまつたら、熊野は清水へお伴しないと駄々をこねて、幕へ這入りたくなつてしまふかも知れない。此の事は調査の上で又御報告に及ぶ事とする。
  • 238此処で眼を幕の方へ移動させて下さい。子方が出て来ます。奥座敷から佐藤継信の子鶴若が出て来た体です。召使(狂言方)に何人山伏が来たかを尋ね、十二人の由を知り、一同の前へ行きます。そこで弁慶と鶴若の対話がはじまります。
  • 248すばらしく「お能」的な味です。此の一句だけは、現代の言葉はおろか、外の何物にもうつし出す事の出来ないものでせう。あの切幕、あの松、あの装束、面、それから橋掛りの板の上を、白魚の様にすべる足元………此れ等を度外しては全く此の言葉の生命がなくなつてしまひます。
  • 254何時か我々も朗々たる一声の囃子にのせられて、渡守や旅人と同じ様に、狂女の出現を待ちわびてゐるのです。ぢつと見つめてゐる切幕が静に上ると、水衣姿に女笠をかむり、笹の小枝を肩にしたシテの出です。看客の期待をその小笹に集めて、それをはづす様にヒヨイと肩にかけた小憎らしい出立です。
  • 262「なうその衣は此方のにて候。何しに召され候ぞ」切幕の中からシテの声がします。天人の出現です。よく見ると、何んだかズボリとした姿で、如何にも羽衣を失つた天人と云ふ態です。
  • 292(熊野)上田君のツレは貧弱。普段顔をつき合せてゐると中々堂々とした人だが舞台で見ると別人の感がある。信久君のシテは上出来とは申せない。此の人随分前かゞみだナアと思つた所があつた。地がダレてゐた為か恐ろしく長い一番だつた。作り物の持つて出る所が少々早い様に感じた。ワキがワキヅレに車の事を命じてから幕を上げたい。
  • 355馬鹿ばかり言はないで本文にかゝるわ。一番はじめに幕の横から出てくるでせう。四人ばかり。あの先頭の人を見た時、切腹するお侍みたいだと思つたわ。次の人が検死役みたいだつた。何だらうと思つたら、囃子する人達なの。反対側の戸口から出る人達は、評定場へ集る「アヽ、各々方は………で御座るで御座る」つてな、下ツ端役者見たいよ──あとで分つたんだが、此の連中はコーラス・ボーイなの。矢つ張りあんまり上ツ端ぢやないわ。そうすると、こんどは幕の中から、きれいなお姫様が出て来た………そうして舞台の隅にチヨコンと座つてしまつた。これが神子なんですつて。そう思つて見ると、白いものを着て、どうやらそうらしく見えるわ。あの面が可愛いゝね。下ぶくれな、今にも笑ひ出し相な顔、中々愛嬌があるわ。キツト断髪にしたらよく似合つてよ。
  • 356御息所が、舞台の方を見つめてる瞬間の姿にあたし、とても感激したわ。その姿と、前の松と、後の幕との三つが調和して、グ―ンと押し迫つてくる様よ。シネマの大写に、時によるとこんな感じを受ける事があるけれど、又一寸違ふわ。色とそれから静止の魅力だと思ふわ。
  • 356この、うすつぺらの葵上を、御息所が打たうとする所から、幕の中へ這入つちまふまでが、此の能での見せばだ相だけど、あたい、ちつとも面白くなかつたわ。何だか急にガヤ〳〵したかと思つたら、コソ〳〵這入つちまつたんですもの。
  • 368第二は──とむづかしく言ふ必要もないけれど、何処に坐つてゐても、舞台──橋掛から切幕までを含めて──全体をラク〳〵と見渡せるのは、お能を味はうとするものにとつて此の上ない有難い事ですわ。
  • 380B 「なう〳〵旅人お宿参らせうなう。」僕等が遠い所の人を呼ぶのに、口のあたりへ両手を円くしてオーイと言ふ。丁度あの謡ひぶりだ。此の辺一体しんみりした抒情的な味はひが浸み出てくる。左近氏は謡そのものゝ表情より、正先へ出て幕の方、ワキをみるまでの動作に於てオーイと呼ぶ味ひを出さうとする。
  • 384日高の川の深淵に飛んでぞ失せにける、とおシテが幕へ飛び込まれた瞬間、あゝよくやつた、よかつた〳〵と思はず老の甲声を出した様な始末で、只訳もなくあとからあとから涙がこみ上つて来て恥しい思ひをしたので御座いました。
梅若万三郎『亀堂閑話』(1938)
  • 28周囲の感化にもよるのでせうか、私は躄這の時分から能が好きだつたと見えまして、月並の能の済むのが待遠しく、それが済むと、母や、姉に「鏡の間へつれて行け」とせがんだものです。そして弟子が幕を上げますと、扇か打杖かを持つて橋がかりをゐざりばひで舞台の真中まで行つて、立てないものでございますから、踵で舞台をトントンとやつて少し廻つて引つ込んで来るのださうです。それがまた楽しみで〳〵仕方がなかつたと見えまして、いつもそんな事をやつてをつたさうでございます。
  • 34白練をはねのけた時はほんたうに命拾ひをしたやうでございました。幕へ入りましたら、左手の袖の摺箔の金と赤が顔にくつゝいて、装束はそこだけ禿げてしまつてをりました。
  • 45この上へ装束を着けるのですから形もよくなりますわけで、唯装束だけで形をこしらへたのでは、幕へ入るまでに形が崩れてしまひます。
  • 108幕上げの前の心得幕へかゝりまして、装束を直され、面のうけ(上向き、下向きなど)を見てもらひまして、幕上げの前に目を左右へつかひ、又上下へもつかつて、無事の演能を念じまして目を開き「お幕ツ」と声をかけます。これは十分心に落着きをつけるために致すのですが、かうして出ますと、面の目の小さい穴から、舞台も見所もひろ〴〵と見えるものでございます。早装束の時は、余程早く幕へかゝらないと右の心得をする間がありませんから、出来るだけ早めに幕にかゝらねばなりません。もう出なければならぬといふ折に装束を直れれたりしたのでは、とてもいゝ能は舞へるものではございません。
  • 110亡父はよく「幕の内から呼びかけて、謡ひながら舞台へ入る具合がわからぬ」と申してをりました。しかし亡父の舞台を見てをりますと、その文句の済むまでに舞台へチヤンとはひつてゐますのに、私にはそれがわかりませんでした。
  • 112幕ばなれ、三の松、一の松、それから後見座までそれがなか〳〵苦しいのです。次第で出る物とか、アシラヒ無く出る物とか、また次第でも三番目のやうに静に出る物などもございますが、この場合「幕をはなれたな」といふ心持が致しますと、足がグラ〳〵となります。
  • 113面をつけましても同じ事で、幕へかゝりまして、一度目をつぶり、それからあけてきめますと、照るとか、曇るとかいふ事はございません。
  • 131後見か物着方が、面の紐を結びなすと幕へかゝります。この時は幕上げは他に二人居りまして、後見は一度シテの前へ行つて、面から、装束、腰帯と目を通しまして、面は照つてゐるか、曇つてゐるか、又顔の具合で曲つてゐないかを調べ、後に廻つては葛帯を直し、それでよいときまりましたら、後へ下がつて着座致してをります。シテが幕から出ますと、後見は幕際へ参つて着座し、次第、一セイ又は呼かけなどでシテが舞台へかゝる時に、幕際から二人、又は三人出ます。さうしてシテの謡ひ出す前に、なるべく早く、邪魔にならぬやうに後見座に着座致します。
  • 132中入のある物では、シテが幕に入りましてから切戸の方へ引きますが、走り込みの時などは次の後見が先に揚幕の方へ行さまして、シテの幕入りを受けます。静かに入る物でも、かげの後見がをりませんければ先に引きまして、同じやうに入るのを受けます。後シテの場合も同じでございまして、やはり幕際から出ます。又「草紙洗小町」のやうに前シテの舞台へ入らないものがございますが、この時は幕際に着座してゐる事になつてをります。「二人静」のやうにシテの出る前にツレの謡のある物は、次の後見が切戸から出て着座してゐなければならないのでございます。トメに謡が終りまして、シテが引き、ワキが幕に入りますと、後見二人は立つて囃子方より先に幕へ引きます。
  • 172時鉄之丞さんはもうフラ〳〵となつてをられたとの事でございますが、それでも偉いもので終まで立派に勤められまして、幕に入られる際は六郎が腰を抑へてお引きになりました。それからもう能には出られなくなりましたのです。
  • 275父の話に、昔大奥の「翁」の時、若年寄が正面の階を上つて、一の松へ来られまして、片膝をつき、「始めませい」と申されますと、シテは幕を上げて下に居り、御受けを致します、そして幕をまた下ろしますと、若年寄もこれを見届けて元のやうに立帰られ、それから本幕になつて始まるのでございます。
  • 276そこで太夫は幕を上げましたが若年寄が立つてゐられたので、御受けをしたせんでした。
  • 308亡父在世の頃のお話でございますが、青山御所で、七月の暑い折に御能の催がございました。その折亡父が「道成寺」を勤めましたところ、何しろ暑気のひどい時でございましたから、大分弱つてはをりましたが、それでも、まづ無事に勤めて、幕へ飛びこみました。
  • 313すると流石に手塚さんは、心得ていらつしやいます。舞台に幕を張つて、鐘に入る所は人に見せないやうにしておいて下さつたのでございました。これは大変結構だつたのでございますが、お弟子たちが皆幕の中に入つて来てしまひました。
野口兼資『黒門町芸話』(1943)
  • 23此の春、大阪の住吉神社御造営御神事能として、あそこの舞楽殿で能を舞ひましたが、一寸普通の能舞台と違つた感じが致しました。御承知の通り舞楽殿は野天にボント一つ建つて居るものですから、揚幕から舞楽殿まで、新らたに橋懸りをつけまして、勿論屋根はありませんから、一声は四方に遠慮なく飛びます。
喜多実『演能手記』(1939)
  • 10その中に、その狂女が都鳥を見て狂ひ出す場がありますが、自分は子供のことを想つて尋ねて隅田川まで来てしまつた、けれども今自分の来た道を振返つて見ると、非常に遠い何百何十里の道を思はず来てしまつたといふやうな言葉があります。そこでその演者は、持つた笹で幕の方を振返つて指す。笹を右手に持つて幕の方を振返るだけのことでありますが、それを上手な人がやると、いかにも遠い路を遥々やつて来たといふ感じが出るのであります。
  • 58幕を出る時、常の次第の穏かさと異つて、鼓が掛け声を強めてシテを強く誘ひ出す。シテは気を掛けて、迫るやうな心持で幕を放れる。
  • 161幕放れからの運び大いによし。調子も心配したより楽に出る。サクサク屈託なく演れる。早笛の謡稍荒かつたやうに思ふ。ワキ新氏、早鼓の中入に、序破急の運び、後からついて行つて感心する。
  • 166二月二十六日、稽古能、常の「紛馬」を出す。随分出たものだが、いつも女体ばかりで、常のは今度初めてである。真の一声の幕放れやうやく手に入つて来る。アユミの運びもやつとスラスラ行くやうになつた。この「絵馬」で運びに稍進歩を来した。神舞はまだまだ。
  • 168幕放れの出また工合悪し。調子甚だ痛む。後は運び直る。柳沢君が新聞で、「身体の工合でも悪いか熱のない喰ひ足りないものだつた」と評して居たのが気になる。自分としては可なり一生懸命であつたつもりなのが、さういふ風に見えたとすると、もう自分の熱情が涸渇して来たのだらうか。
  • 171「序の舞」は幕の内でサラリと太鼓に注文したため大変速かつたが、ノリはよかつたので、五段舞つても何ともなかつた。しかし「序の舞」は気持よく舞へたと思ふ。但し「曲」が速すぎて、たうとう手も足も出ずに終る。一体この「曲」、文句が短かすぎて型の処置に困る。
  • 175六月二十五日、稽古能に「籠太鼓」。これは稽古の時は何でもなかつたのが、幕離れ悪く、たうとう又ヨチヨチして居る内に一曲を終つてしまふ。結局ゆつくりしたものはどうにか行くが、サラリと軽く舞ふ所になると、腰の重さや膝のかたさに災されて、手も足も出なくなる。そしてそれはやはり底力の不足からであると思ふ。この行詰りを突破せねば、僕の芸もこれ限り。
  • 179幕離れ宜し。調子不自由でクドキ、上歌少しも面白く行かない。面アテのこしらへをやり損じて、一曲中面がテリ過ぎて居たさうだ。狂ヒの段は運びが滑らかだつたため、可なりスラスラ舞へる。合評会では非常に不評を蒙つたが、自分では少しもシヨゲる気になれない。むしろ演後の心持は悪くなかつた。勿論「弱法師」らしくやれたとは思つてゐないけれど、そんな仕上げは後廻しで沢山だと思ふ。
  • 181「八島」は二度目かと思ふ。稽古の時よかつた調子又出なくなる。幕離れは宜し。床几のアシラヒ段々身体がずり落ち誠に難儀。
  • 182今度は呼掛から調子よく、占めたと思つた。山姥の前はいつも調子宜く謡へる。これは不思議なことだ。但し困るのは下に居ての長丁場で足がすつかり参つてしまふ事だ。だから中入前が型がよく行つた例は無い。今度はまあ〳〵位の処。処が中入で装束がおそくなつて頭の毛を解くひまもなく幕に掛つて「お幕」だつたので、すつかり気持を荒されてしまつた。
  • 192今日幕離れ先づ宜し。調子は痛めては居たがこれも宜し。初同は未だしと思ふ。唐織着流し物の初同、特に前へ出てシカケ開キ、これだけの型が手に入るやうになるのは何年先きの事だらうと考へたのは十四五の時でもあつたか。爾来約二十年に垂んとして今日まだ完う出来ないのは何等の凡骨であらうと思ふ。
  • 205この日も出る前に大変疲労を覚えた。こんなことをしてはいけないと思ひつつ、精力の節約のために名宣の後を後見座へ寛いでしまつた。獅子は頭五つ聞いて幕を上げたが、まだノリが単て居なかつたので、出辛かつた。非常に静かな出になつた。
  • 233幕の出、アユミ等割に工合好く行つたが、「寄せては返る片男波」と正へ出る運び、甚だ密でなく、「隅田川」の「我が思ひ子」の如くスルツと行かず、心を害ねること甚しいものがあった。
  • 238眼の悪い友枝がツレで、舟に乗るのに大分困つたらしい。舟を下りる頃漸く電気が来た。そんな騒ぎで気分を壊されてはと思つて、勉めて心を押し静めて出た。幕放れから運び工合非常に好調。
  • 239幕へ入つてから色々やつて見たら、両膝を狭めて爪先を真つ直ぐに運べばよかつたことに気が付いた。つまり外輪に過ぎたためだつたらしい。
  • 241後は、ハヤシ方が揃つて良い位を出して居たので、思ひ通り舞つた。但し流しで橋懸へ行き次第に乗つて幕際から立返る時キザミになる。ここで一時位が締つてしまつた。一寸折角の腰を折られて気組が挫けた。
  • 246「竹生島」に限つて真ノ一声越シアトから常ノ一声になり更に一段あつてウケ頭で幕明ケとなるさうだ。これは後で安福君から注意があつたが、実はコシを聞いて直ぐ幕を明けさせてしまつた。僕の「お幕」の声が幕内から聴えたので、安福君が気転を利かせてくれたんださうだ。若し声が聴えなかつたら、橋懸の中途で段を取られて恥を曝すところだつた。特にこの日の「おまーく」は我ながら大きかつたと思つたが、何が倖になるか判らんものだ。
  • 249今日も大丈夫だぞ、と幕前で考へた。果して足がスラスラと出て思ふやうに歩けた。後の杖も滑かに扱へるやうになつた。運びに不安が去つたので、自分としてやりたいだけのことを演れるやうになつた。然しそこに新しい不安が生じて来て居る。
  • 250所が後は幕へかかつて見ると、面がひどく照るので、ハタと困つた。丁度のウケにすると、まるつ切り下を向いて舞はなければならない。直すには間に合はない。幕を離れる頃には、七段にしたことをすつかり後悔して居た。楽屋が混雑して居たので、茶の間で暗いところでウケて貰つたので、こんなことになつたのだ。
  • 254心配の程もなく、幕離れから運びは調子よく行つた。初同、中入前ともじつくりと精一杯にやつたつもりだが、果して「庭もまがきも」の面遣ひが透徹したであらうか、「石に残る形だに」のヒラキがスーツと離れたであらうか、訊ねる人もなく不安である。
  • 275幕を出切らないのに大鼓にシカケられて弱つた。歩きながら一声を誘はせられた。初同ではツレに入替りで体当りを喰つた。余程不運の日である。腐るまいとするのに苦心した。
  • 279十一月九日学生鑑賞能、靖国神社舞台、「鉢木」実、「葵土梓の出」兄の二番。又「鉢木」と思つたりするのは勿体ない話だが、幕の内では十分気持を統一して、今日も真剣にやるんだぞと、自分に云ひ聞かせながら出はするが、どうも演つて居るうちに段々気が抜けて来る。駄目々々と思つて気を入れようとすると、わざとらしくなる。それが又気になる。数が重なるに従つて出来は悪くなるやうだ。この日は最悪の「鉢木」だつた。
  • 291見留は囃子方が大変せき込んだので、型はチグハグになつて失敗。止は残り留にしたが、型附通り、「暇申して」と立、直ぐ幕へ入つて行くのに、「吹くや後の」と常の型通りの心持があつたりして、スラリ〳〵入り兼ねた。これは「後の山嵐」迄型をしてから入らねば折合はぬことが、演つてみて始めて判つた。
  • 293やらうか、やるまいか、中途半端でやつた幕際の仏仆れは醜態だつた。やはりこんなつまらんことはやらぬが宜いと後で悔んだ。立衆の訓練の行届かぬは流儀の恥と思つて、大分練習させたのが方々から賞められて何より嬉しかつた。
  • 307幕が上つてから運び出す迄十分想を凝らして立つて居たら、柔い運びが出て来た。しめた、と思つた。声はまたバサバサになつてしまつたが、少しも顧慮せずに気持だけで謡つた。
  • 314二月十四日、大阪能楽殿、調和会能、「養老」山本氏、「頼政」金太郎氏、「葛城大和舞」左近氏、「融曲水」実等。一声のハヤシが段迄は乗りがよかつたのに、幕が揚ると乗りが落ちて、甚だ無力となつたのは、どうした訳か。恐らく何か考へ違ひだつたらう。幕を振り返るのも、正へ直すのも、そのためか去勢されたやうな気持だつた。
  • 329夏の休明け初めての能ではあるし、大いに気持ははずんで居た。幕前の気分といふことが第一に大切なことを漸く考へ出して来て居るので、朝から気持が一つになつて柔かくなることを心掛けた。上乗の出だつた。声の嗄れてゐることも少しも苦にならずに謡つた。
  • 337中入前は、どんな不出来な時でも自然に気が入つてしまふ。「袖に持汐の」と右桶を見るのに綱の手繰り方が足りなかつたと思ふ。後で写真が出来て来てから見ると、やはり十分に絞れて居ない。後に幕へかかつた時は相当疲れを感じて居た。
  • 337最近肥つて益々坐りにくくなつたので、一つは坐る修業にと考へてかかつたのだが、一声で幕をはなれて驚いたのは、足袋がいつもよりぐつと小さい。指先がヘシ折られるやうな感じで、まるで運べない。坐るどころか、立つて居るのも漸くだ。この意外の突発事件で前全体はすつかり混乱に陥つてしまつた。
  • 342「草子洗」の間一寸部屋へ入つて寝た。トロトロとしたが大変気持が爽かになつた。大丈夫といふ気がして来た。幕離れの第一足を十分慎重に出したのがよかつた。此の間とは違つて大変好調だつた。しめたと思つた。
  • 357ここ二三番、どうやら幕を出ることを恐れなくなつたやうだ。コリが一つ落ちたのだらうと思ふ。此の間の「三井寺」でハハアと合点したことが、今日やはりこれこれといふ感じだつた。少しばかり自信に似たものが出来た。早く舞つてしまつて安心したいとばかり思つて居たのが、トメの能でも今日は苦にならなくなつた。
  • 358装束が重かつたので、後はカツギで出ず、幕から走り出たが、早過ぎて、一の松で一旦止まらざるを得なかつたのは醜態。ただ狩衣物のやり方に一寸感じたのは、今迄余り装束に抵抗して無駄な疲労を来して居たといふこと、これは大変参考になつた。次ぎは「賀茂」だから、その心掛けを忘れずにやらう。
手塚貞三編『謡曲大講座 手塚亮太郎口傳集』(1934)
  • 8ウ「さらばよ留まる行くぞとの」の「留まる」「行くぞ」も分ける。此処はツレとシテと別れる難かしい型があるから、地が悪るかつたら景清の趣を表はす事が出来ぬ「只一声を聞き残す」はシテに大切な心持ちがあつて、景清父子の別れの大切な処で、ツレも心を残して幕に入る。此ツレは余程芸の達した者でなくては勤まらぬ。
  • 9オシテは着流し尉で、「なう〳〵」の呼び掛けは幕の内より遠く脇の方にかけて謡ひ、「御僧は何事を」云々と云ふのであるが、「御僧」と云ふ工合によつて、シテが男であるか女であるかを謡ひ分けねばならぬ。
  • 15ウシテもイソ〳〵と幕へ入り、脇がユウケンをして留める。此曲は前半は弱々とした方がよいのだが、稍々もすると、留め迄が陰気になる事がある、注意すべき事である。
  • 18オ後シテ「王を蔵すや」と幕の内で謡ふ。此時は白頭で天地の声といふ。常はかづきを着て幕の内を出で、一の松で「王をかくすや」と謡ひ「即ち姿」とかづきを脱ぐ。此時は赤頭、唐冠で面は大飛天、袷狩衣、半切である。白頭の時は常よりも緩急がある。前シテは漁夫であるが神の現化であるから其心でうたひ後シテは蔵王権現である。供御の段、鮎の段、舟で王を隠して狂言と掛合ふ処など、それぞれ注意を要する。此曲は別段難しいと云程でないが気合が中々表はしにく。
  • 18オ定家の脇は上り僧、江口の脇は下り僧である。上り僧下り僧の区別には幕の出に鼓の習ひあり、幕掛りも浅深の習ひがある。此脇は行脚僧ではあるが、田村などの如くに軽いものではなく、本三番目ものゝ位を以つて次第を謡ふべきものである。道行もしめやかに閑かな方がよい。道行済んで狂言の説賦あり、それから「扨はこれなるは」と謡ひ出す。此サシは述懐であるから、心持あつて然るべき所である。ワキの「あら痛はしや候ふ」で幕上り、シテは「なふ〳〵あれなる御僧」と閑かに呼掛ける。
  • 19ウ鵜の段は舞台で舞はずに、橋掛りで舞ひ「名残惜しさを如何にせん」で一の松で見込んで中入をする。又鵜の段を留めてから一旦舞台に入り、それから中入する事もある。中入笛は送り込みを吹いて、シテが幕に入つてから、尚三クサリよけいに吹くのである。
  • 20オ此三分間に装束を着け鏡の間で姿形を整へて幕を揚げさせねばなちぬ。汗を拭いてる間も、扇で風を呼んでる間もない。実に気ばかり先に立つて却つて落ち度があり勝ちである。つまり三分間に、チヤンと装束も着け持ち物を持つて、心に余裕がある様にしなければならぬ。これが此能の伝の一つである。
  • 20オ此後シテは鬼のうちでも、細道の鬼と称して位が極早く、のみならず、地の底から閻魔がニユツと顕はれるのだから、幕から出て始めて姿が見えた事になり、早笛も常よりは一層早くなるのである。
  • 20オ後の謡ひ出しは、常は一の松であるが、舞台の正先まで出て「夫れ地獄遠きにあらず」とうたひ、下つて座す。「真如の月や出でぬらん」で「空の働き」となる。働きの型も常とは変つて中には鬼足といふものがある。これは一口に云へば飛んで出るので口伝の一つ。石橋、舟弁慶の前後の替などにも此足がある。位は一体静かに、段が済んでから急になり、留めで安座をして了まふ。それでロンギは安座のまゝで、型は一つもなく「実に往来の利益こそ」から、謡を静かに謡はせて大小は流しを打つ。シテは此処で始めて立つて、切りの謡一ばいに幕に入る。ワキは合掌して留める。此外に「真如の月」といふ小書きもあるが今回は之を勤めなかつた。