近代能楽用語索引Index of Nō-related Terms in Modern Texts

近代芸談における技芸用語

主にシテ方の技芸にかかわる用語の索引。姿勢、視線などの重要と思われるトピックのほか、『能楽大事典』(筑摩書房)に立項される技術用語を対象としました。同表記・別意味の語を別に立項した場合(例:「運び」を歩き方と謡い方で別立項)も、逆に同意味・別表記の語をまとめて立項した場合(例:眼、目、目玉)もあります。

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まわる【廻る】

松本長『松韻秘話』(1936)
  • 55今ではたゞ円くさへ無事演れゝばそれで宜いと云ふものらしいですが、ちよつとした文句の間違ひや節の一つ位の取違ひを妙に気に懸けて居るのは詰らない事だど思ひます。右へ廻る所を左へ廻つた処で差支へはないのです。右へ廻る左へ廻はると云ふ事よりも、その廻り方の妙味に苦心が要るのです。
  • 131総て半ユリは一役の人が謡ひますから、其の文意で軽く強く、そして品よく、愁ひ悲しむなどの心持ちを充分に出さねばなりません。地の本ユリも同じ事です。シテが動作に表現して行くのですから、地に廻つた人も此の心持ちがなければなりません。
喜多六平太『六平太芸談』(1942)
  • 37なあにそんなに重くしなきやあならない程のものぢやあ決してないんだが、キリに橋掛へ行つて小廻りを沢山する処があるだらう。今は「愛鷹山や富士の高嶺」と松へ左袖をかけて徐々に下を見込んで「かすかになりて」から左へ大廻りして中程で小廻りを二つ三つして又大廻りして、こんどは幕際で小廻りをして袖をかついで幕へ入るだらう。あそこの型を大廻りをしないで小廻りばかりして幕へ入らうとして途中で目をまはしてひつくり返つた奴があつたとかで、それ以来余り軽く扱はないやうに、誰にでも許すといふことをしないために、わざとそんなに重くしたんださうだがね。なあに元来道成寺を勤めてからといふ程のものぢやあない。それにしてもどんなにしつかりした者でも大廻りを入れずに小廻りばかりぢや参つちまふよ。目を廻すのが当然さ。昔の人には馬鹿げたほど真正直な人があつたんだね。だからやり通すとまた素晴らしいことも出来たんだね。
  • 41それからあの神舞の三段目のヲロシで袖を被いて左へ廻り、ワキ座前で袖を下ろすとき、よく露が天冠にひつかかつてとれないことがある。やつてる本人は随分あわてるもんだよ。ぢいさまにも一度そんなことがあつたさうだが、その時はなんでもシテ柱の際で一寸膝を突いて後見にとらせなさつたさうだ。
  • 49竹生島女体はもつと小さく(舞台を)廻る方が宜いやうだね。楽は余程静かにね。瓔珞(天冠につける飾)がガチャガチャしていけない。いつそ、うんと早ければ又それでもいいんだが、なまじ早いのは一番いけない。
  • 120それと前シテではあの初同ですね。あそこは動きはしますが、ほんたうは動いてるんぢやない、佇んでるんです。文句にもあります通り、月の澄んだ秋の夜の草庵のほとりに、有難い讃経にしみじみ聴き入つているわびしい女の姿、それをあり僅か(僅かに舞台を一廻りするだけの型)で見せるんですからね。ですからシカケてもヒライてもその一つ一つの型が、どれもこれも動いてる形でなく、佇んでいる姿に見えなきやあいけないんです。こんな無理な註文はありませんね。
  • 128前に芭蕉をしつかりお稽古なすつたのが、よほど下地になりました。とりわけ初同はよろしうございました。この定家の初同は芭蕉の初同とだいぶ趣が似てをりまして、その折も申しましたやうに、やはりシテが自身立廻るのでもなけれぼ、舞つて見せるのでもない。
  • 221かういふ型を左、右の足でたがひちがひに繰り返しその型が左足から右足へ戻るたびに右足で拍子を一つ踏みます。これが舞の一段です。かうして左廻りをしながら三角形に――この三角形といふのは蛇体の鱗をあらはしたもので――舞台の左寄りのところをまはります。
斉藤香村編『謡曲大講座 寶生九郎口傳集 第一』(1934)
  • 8ウそれよりも、一つ廻はる処を二つ廻つたり、三足の処を五足にしたりすれば、忽ちにして彼れの芸は鮮かだ等云はれる。謡にしても大きな声でも出せば、其の流儀の発音になつて居やうが居まいが、曲節が少々違つて居やうが、彼れは美声家だなどゝ云はれる。これが当世なのである。
  • 16オたとへば長絹の露が天冠に引つかゝつた時の如きは、後見が気が利かなかつたら、何処でその露を直してやつていゝか、まご〴〵してしまつて、シテの舞つてゐる其後からついて行つて、シテと一緒に舞台を廻るやうな滑稽を演じないとも限らぬ。
  • 17オ本人も自然その気になつて、今度は一つ廻る処を三つ廻つて見る。常の型にない処を飛んで見る。と云ふやうなことを演るといふやうな事が必ず出てくる。それでは能から一歩踏み外づしたものになることは、火を見るより明らかである。
野上豊一郎編『謡曲芸術』(1936)
  • 265物狂ひ曲のシテは、カケリを舞ふのが普通である。カケリは大小鼓を主として、之に笛が和して、舞台を廻るだけのシテの短かい所作で謡を伴なはない。これが物狂ひ曲の一つの特徴である。カケリのない曲でも、イロへとか、立廻とか言ふ、之に似た所作がある。
梅若万三郎『亀堂閑話』(1938)
  • 114体の事につきましては、舞を舞ふにも左へ廻るとか、右へ廻るとか、特に目附柱から左へ廻る所などは苦心を致してをります。体が、左右どちらかへかゝりますから、ついフラ〳〵とよろけさうになるのです。
  • 122私はこの時分に、やつと位によつて形を致します事が解りましたのでございます。足もたゞ静かに舞へばよいといふのではなく、チヤンと序、破、急の心持で廻るなり出るなり致しますのです。それを気にかけて、静かに舞つてをりますと気が抜けてどうにもなりません。
  • 124これは亡父の話でございますが、曲はたしか「鵜飼」でございまして、鵜の段の「ばつとはなせば」の所で、厳寒でしたので手が凍えてかじかみ、シテの亡父の扇が飛んでしたひましたから、亡父はやむなく扇なしで舞つてをりますと、後見はあわて、扇を拾つてシテに渡さうとしたのですが、何しろあの型所でございますので、あちらへ行き、こちらへ行きで、「面白の有様や」とシテの廻る後から追つかけ廻して、とう〳〵鵜の段全部を一緒について廻つたものでございますから、見所では大評判で「今日は面白かつたよ、二人のシテが鵜の段を舞つた」と暫しはやかましかつたさうでございます。
  • 290シテの方になりますと、何の文句で正面へ出る、何の文句で角へ行く、と云ふ指図をする位ですから、その積りで居りますが、ツレに廻つた折はその反対でございますから勝手が違ひまして、廻りかけますと、シテの様子が見えるだけでなか〳〵心配なものでございます。
  • 291私共はそれに気づかずに常の積りでそのまゝ舞台へ出ましたが、いざ舞にかゝりますと違ふので、さあ困りました。私は譜に合して、どうやら舞つたのではございますが、合舞をしてゐます六郎がどうしてをりますかゞ心配で、冷汗がタラ〳〵と流れて来るのです。まるで馬車馬のやうに一切横が見えませんから、六郎が見附柱の方へ行つて立つてゐるか、どうかがわかりませんでしたが、やつと、角へ行つて、直して、呂を聞いてこちらへ廻つたら、六郎も廻りかけて居るのが見えました。いやその時の嬉しかつた事つたらございませんでした。
野口兼資『黒門町芸話』(1943)
  • 106型のお稽古について二三心付いた事を申し上げよう。進む時には大概二足目まではゆつくりと、そして段々につめて行くやうにして、ヒラキの前、たゞ踏み止まるところ、角トリでも、左へ廻つて角を付けるところでも廻り返しの前でも、何れもみんな運んで来るやうにしなくてはいけません。
  • 108但し鵜飼の「驚く魚を追ひ廻し」や、善知鳥の「罪人を追つ立て」の如き場合の角トリは、左でふみ止め別に正面へ直して揃へずとも直に左へ廻る方が宜いのです。これは初心の方に云ふ事ですが、右へ廻る時は右足から、左へ廻る時は左足から、サシた時は必ず右足から出る事に定つて居る。又立ち返る足は大概かける。尚よく見受る事ですが、ツギ足とて極く悪い癖があります。これは止らうと思つて又先へ出る為めに足を接ぐものですが、是非注意して直さなければいけません。
  • 110左へ廻る時、ワキ座の処で角を付けるものはそれで宜いが、さうでないものは得て角を付廻たがるが良くない事です。囃子や仕舞のトメは兎角始めに立つた場所へ返らず、それた場所でする方があるが、よく注意して始めの場所へ返るやうにせねばいけません。
喜多実『演能手記』(1939)
  • 60「人々ねむれば」とワキからワキツレの方を面遣ひ、獲物を狙ふ猛獣のやうな迫力、「よき暇ぞと」と、キツと高く鐘を見上げる。此の時はまだ鐘は出来るだけ高い方が利く。廻り込んで、身構へして、鐘の近くへ迫り寄る。「撞かんとする」と扇を上げてこれを打つ態、さて次ぎが左に紐を解いて右手に烏帽子を払ふ。
  • 81最初は行きみちさへ覚えて貰へば宜いのだからと思つて、少し気を抜いてやつて居ると、いつの間にか、気の抜けた、だらけた形のまま写されて居る。たとへば、右へ廻つて来て正面を向く。気を入れてやれば、その向く時の折りめがくつきり行く。気が入つて居なければ自然ぞんざいな向き方になる。
  • 97父が「富士太鼓」の楽の中で、坪折にした舞衣の前が落ちかかつて来たのを、拍子を踏みつつ後へ廻りながら――挟み込んだことがある。後へ廻る型は無いのであるが、坪折を挟むために後へ向く、それを一つの美しい型にする。これなんが菊君の場合と同じ即妙的気転で、更に妙なるものであるが、これ程のことは、どこ迄も気転に過ぎないので、名人でなければ出来ないといふ技ではない。
  • 164後は割合に思ふ存分にやれる。今までの大飛出、小ベシミ物の中で、今日のが一番思ひ切つてやれたやうに思ふ。廻り返しに特に会得した所がある。切に橋懸へ行き、右へ帰り袖かつぎ、二三足正へ詰め、「すばや都も見えたり〳〵」とやる。袖かつき過ぎて向ふ見えず。これは注意すべきことと思ふ。
  • 170これも亦余り練習をせずに舞つたところ、日頃より成績が宜いので愈頼りなく思ふ。前の一声、近藤君と松本君だつたが程よいノリで出られる。舞台まで一度もヒヨロつかずに行く。中入前「かげろふ人の面影」と型附にはなかつたが花の枝は肩げながら右へ廻る。
  • 204後の初同は真中へ出て角へ袖被ぎ高く見る。ここは型付の通りではない。打切から左へ廻つて一且深く廻り込み、ワキへシカケヒラキ、大小前へ行き、下に居て合掌、舞アトの打土、ロンギの謡出しは打切なし、小鼓ホヽと聞いて「実に面白や舞人の」となる。「朝顔の露稲妻の影」の座は仕舞付の通り。
  • 240「名残さへ涙の落魄るゝ事ぞ」と正先下を見詰めて後へしさる辺は最も会心であつたが、曲に至つてまつたく不安な型を続けた。曲中「現や夢になりぬらん」と右廻り笛座の前迄行き「猶懲りずまの心とて」と角へ行き、「又帰り来る」と地謡の方ヘクツロギ、「思の色や」と左へ廻り大小前にて左右打込、「柳桜」とヒラキ、以上随分変な型ではあるが、型附の通りを演つてみたが、あれで宜しいとのことであつた。
  • 255初め教を受けた時、柱の周りを一遍廻るだけであつたのを、不足の感を以て不審に思つて居た処、型附に二度廻るとあつたので、扨こそと二度廻つて見たら、とても出入が多過ぎ冗漫でやれるものでないことを発見した。
  • 263「草茫々」の面遣ひもまだまだ。中入の廻り込みも満足出来ず。どうやら前は不出来と思ふ。後は少し気分を静め、引締めてかかつたら、序の舞はよく舞へた。切の型も一通り纏つたものだつた。
  • 265なるべく気をくさらせまいと自らいたはりながら後にかかつたが、「牛の小車の廻り迴り来て」が例のやうにギリギリ廻れず、ここも失敗。切の「鳥居に出入る」も地との呼吸合はず更に大失敗。たうとうここだけは十分といふ型一つも無しで無念残念で終つた。せめてもの心やりは、序の舞だつた。いつもだけのことはやれたらしい。
  • 271どうも運び方が再び迷宮入りをしてしまつた。此の日は御丁寧に三度ヒヨロついた。カケリの左廻りの時のが一番ひどかつた。「色々の」の段になつて、もう運びに対する懸念を捨てて、ただ歩けさへすれば宜いと思つて、軽く運んだら以下頗るノリよく運べた。頭の中に一つの固執があるためにいけないらしい。これも一つのコリであらう。色衣と頭で要領を考へてかかるために、実際になると運べないらしい。
  • 288一声の出はスラスラと運んだ。この調子なら練習中の実力だけは出せると安心した。声の調子も楽、初同正先のシカケヒラキは伸びが不足のやうに思ふ。左廻りは十分。クセの型所で「放つ矢に手応して」と二つの技は出来たと思ふが、「はたと当る」の打合せは、研究が足りないままだつた。以下は全部思ひ切り突込んで演れたと思つて居たら、合評の時、雪鳥氏から、松明の扱ひが、光焰が線となつて曳かれる感にならなかつたとの非難があつて、これは言はれて見ると、確かに不徹底だつたと思ふ。その代り「啼く声鵺に」の右廻りは前半中の白眉であつたと讃めてくれたが、ここの廻り方の充実して居たことは自分でも肯けるところだ。兄は「啼く声」と高く見るやうに教へられたと云つたが、僕は、心に聴きながら右へ廻つた。
  • 310初同の運びはよかつたが、一度坐つてからこの間の立廻りはすつかり足が不自由になつてしまつた。後もクセ序之舞ともに運びがガクガクして十分でなかつた。舞は五段にしたが、念を押して置いたので、いつものやうに早すぎず、よい位だつた。又運びが逆戻りしたやうだが、結局勉強が足りなかつたからだ。そろそろ咽喉も癒りかけたし、大いに捲土重来しなければいけない。
  • 331ただ、前はずつと気持よかつた。殊に中入前の廻り込なんか何度やつても快かつた。肥つたので、坐つてゐる間の足の痛いのには予想外に困つたが。切で、「二疋が間に」と手を組んで廻り込むのに、足をどう扱ひ違つたか、「どうど」と落ちる型がやり様が無くなつてしまつた。暫く困つてそのまま考へてゐたが、急に思ひ付いて二三足タヂタヂと退つたら、よい呼吸でトンと膝がつけた。詰らぬ出来事だが、咄嗟の間に啓けた考へには仲々名案があるものだと思つた。
  • 346果して不安だつた部分は辛うじてやり終せた程度の出来だつた。だが「心だに」の立廻り以後は自分として誠に遺憾の無い――胸中の磊塊悉く吐き尽した感があつた。
  • 355上羽後の立廻りは自分としては最も好きな所だが、又今度も十分でなかつた。ことの所一つ楽々とゆつたり一廻りしてみたいものだが、中入前も心持と身体とが渾然と融合しなかつたし、不満だらけなのだが、全体としてこの前の時よりは確かによくなつては来てゐる。もう一息と思ふのだが。
  • 360かう度々「舟弁慶」を出す理由は、何遍演つてみても出来ないことと、その出来ないところが自分の一番致命的な欠点だからだ。それは主として前である。一体に自分の不得意とするのは唐織著流しに在る。それでも次第で出て初同立廻りと順に行く方はまだどうにかなるが、烏帽子を著けて立上つて、「渡口の郵船」と直ぐに舞出す、これがいけない。次ぎに「紅葉狩」などもさうだが、短いクセの上羽前がどうしても身体がほぐれないでコチコチになつてしまふ。これを何でもなしに円く舞へるやうにならなければ、本当に自信を持つて舞台に立てないと思ふ。但し気を抜いてやるなら別だ。魂の抜けた舞なら何でもない。自分の心懸けるのは気が充実して身体が自由にそれについて廻る舞のことだ。
手塚貞三編『謡曲大講座 手塚亮太郎口傳集』(1934)
  • 18オ「いさめし我なり」と余情気高く謡ふ。こゝは形も謡も心持のある処である。即ちこゝから全くの普賢菩薩となるから、飽く迄気高く謡はねばならぬ「舟は白象となりつゝ」で少し廻る型あり「白雲に打ちのりて」と乗り込む。
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
  • 44一方からは何も解らないお素人が煽動される、本人もツイ其気になつて、一つ廻る処を三つ廻つて見る。常の型にない処を飛んで見る。と云ふやうな事を演る。お素人は、あの型は常と変つて非常に結構だツたと油をかけるので、本人は愈々其気になつて了ふ。
近藤乾三『さるをがせ』(1940)
  • 22見所はカケリから後になりませうが、笠を放る所が中々上手にゆかないものです。平にうまく落ちれば、クル〳〵廻つて一つ所をうごかすにどまりますが、角が落ちると大きな円を画いて廻りますので、是は舞台から落ちる心配があります。
観世左近『能楽随想』(1939)
  • 71うち渡すと左右にて出打込開 あひに扇と角へ行扇を左に取左へ廻り仕手柱のきはにて脇正面を向足を留 折〳〵尋トたなびく扇の様にして脇の方へ出左へフミコミすぐに扇を右に持なむしながら右へ廻つ大鼓の前にて正面へ開 よるべ末をと拍子を五ツふみ 一首を詠じト脇へ向折てこそと扇をたゝみながら右へくつろき常のごとく舞出す 折てこそ扇をあけるほの〳〵左右にて出打込開つ井の宿りはト脇へむく 常にはト脇の方へ開 夕付ト正面をむき 鐘もしきりト面を下て聞 告渡るト東の方を見る 浅間にもト脇へ向 明ぬ先にト脇の方へ出る様にして右へ廻り作物の方へ向て足を留て作物を見 又半蔀ト作物の内へ入ながら左の手にてつきあげの竹を持てつきあげをおろしてすぐに留ル
  • 100–101「そのまゝ海に」と三足下つて反りかへりをして下に居て地の「引く汐に」と立つて廻りながら「浮きぬ」と下に居り「沈みぬ」と立ち上ります。「岩の狭間に」は杖を肩にして下に居ります。替之型に杖を肩にしてシテ柱の方へ流れるのもあります。「悪竜の水神となつて」と気を起して「恨をなさんと」とワキへ出て行きまして杖を振り上げます。そして「思はざるに」とガラリと気を更へなければなりません。「水馴棹」と「さし引き」と二足づゝ下りまして「生死の海を」とズカ〳〵と出て常座へ廻りまして「彼の岸に」と四つ拍子を踏みます。
  • 107「いつの名残なるらん」と足をネヂリまして「草茫々として」とワキ正面を遠く見廻し「露深々と」と面を少し下へつけて見廻しながら、「古塚の」と正面の古塚へ目をやります。そして「まことなる哉」と、正面へ直し左へ廻つて常座へ戻ります。この一段は最も大切な所でありまして此型を巧く演りますれば、まづ井筒は成功と云つても差支へないと思ひます。
  • 132流儀の此の型は単に烏帽子をハネ落すと云ふ丈けでなく、それが立派な画面を構成して居ります。実に美しく様式化されて居ります。烏帽子をハネ落しながらクルリと廻つて、扇を逆手にして鐘を見込む、誰が考案した型か知りませんが、実に好い型附ですネ。
片山博通『幽花亭随筆』(1934)
  • 250さうして最後に、「江口の君の幽霊ぞと声ばかりして失せにけり、声ばかりして失せにけり」と、女は舞台から姿を消します。だが、芝居の様にスツポンの中へかくれたり、松之助の忍術の様にすつとなくなつたりするのぢやありません。橋掛り際のところ(シテ柱)で、くるりと小さく廻つてヒラキ(型の術語ですが、舞台面を見ていたゞいたらお分りになるでせう)をして、静かに元の橋掛りを歩いて這入るのです。この橋掛り際の簡単な型一つで、如何にも消え去つた様に思へるのが、洗練されきつた能と云ふ芸術の特色であり、又これが様式化された、レアリズムの極致ではないでせうか。
  • 295物着の後「狩衣の袖をうちかづいて人目忍ぶの通ひ路の」の所で袖をかけ、扇を顔にあてゝ廻つたところは実に美しいものだ。それから「一夜二夜………」のところもいゝ。つまり後半は美しい美しいものだつた事は否めないが、余り美しいために三番目ものの卒都婆と云ふ感じがしなかつたでもない。それに留拍子がすんでからの引つ込みが早すぎた様に思へる。
  • 304舞台上のまとまりが無かつた能ほどミヂメなものはない。前シテの間は後よりもよい。地も後は余りよくなかつた様だ。この能の後はたゞクルクル舞台を廻るだけのもので、能の根本義から言へば大してむつかしいものではあるまいと思ふ。
三宅襄・丸岡大二編『能楽謡曲芸談集』(1940)
  • 106本ノ留はロンギのトメを大小鼓が本ノ留の手を打つてシテは拍子を踏みます。本ノ打切は「哀れに消えしうき身かな」の後へ打切を打つのです。イロエは「いでまゐらう」の後へ入ります。シテは「いでまゐらう」と立つて目付柱の方へ行き左へ廻つて大小前へ帰ります。そして作物の松へ向ひます。「あれは松にてこそ候へ」とツレがとめる事になります。これは松とシテとの距離が実際には相当に隔つてゐるのを示すものであります。尚後の破之舞が逆廻りですから、兹で順に廻つておくためでもあります。見留は身留とは別のものであります。
  • 121それから笛の序の舞が済んでから謡になりますが、この謡の中の「親物に狂はゞ、子は囃すべきものを」のあたりから、シテの気合がかゝつて狂つてくるところです。そしてロンギで子方に初めて廻り会つて喜ぶと云ふ、事になります。
  • 263クセの後になつて、ワキが後見座から橋がかりへ廻り、酒を持つて山伏の一行をたづねる事になりまして、従者の案内に剛力が立つて案内をうけ、シカジカあつて狂言二人の役は終ります。剛力はあとで笈をかついで、剛力にかけこみ従者はワキに従ひ入る事になつて居ります。まあ「安宅」の間の話はこの位のものでせう。
  • 304舞台で相手をしましたが、絶えずかう威圧されてるやうな感じでした。安宅の弁慶などで、向方に廻るとほんたうに恐はかつたものです。いかにも弁慶らしくゾッとするのですから。それでゐて又、静御前になれば、いかにも静で美しく、紅葉狩のシテなどは振ひつきたいほど艶がありました。
観世左近編『謡曲大講座 観世清廉口傳集 観世元義口傳集』(1934)
  • 15ウクセは普通と違つて居ぐぜになるが、上げ羽の「まだ青柳の糸ながく」から舞ふ事もあつて二様になつて居る。普通地で謡ふ処の「八百万の神遊」の一句はシテが謡ひ、普通の神楽のある処は立廻りになり、「八百万の神達岩戸の前にてこれを嘆き」と此処に神楽が入る。神楽も普通より短かくなつて、直りになつてから橋掛りに行き、流しになつて作り物の中へ入る。
杉山萌圓(夢野久作)『梅津只圓翁伝』(1935)
  • 63幾度も同じ舞ひの順序を間違へると翁はやはり立上つて来て、筆者の襟首を捉まえて舞台を引きずりまはしながら、「ソラ〳〵。廻り返し、仕かけ開き……今度が左右ぢや」と云つた風に一々号令して教へ込んだ。