ゆり【ユリ】
観世左近編『謡曲大講座 観世清廉口傳集 観世元義口傳集』(1934)
- 5オ–5ウ[「曲節の名称と扱ひ方」]〇三ツユリ、本ユリ、半ユリ等 ユリ節の集りて一つの名詞となれるものあり、これ等は多く拍子の寸法を合せる為めか調子を整へる為めで、其の長短大小は一定しない。
- 131[「草紙洗」について]此の曲ではシテの心持ちが、仲々一通ではありません。実に複雑なのです。前の場合はさうでもないとしましても、後は御歌合せの荘厳な景色ですから、品位は勿論ですが、謡曲の文意によつて、弱々しく謡はねばならぬ所もありますが、又強く謡はねばならぬ処もあります。半ユリの所などは、くやし泣きに泣く心持ちで謡ひます。総て半ユリは一役の人が謡ひますから、其の文意で軽く強く、そして品よく、愁ひ悲しむなどの心持ちを充分に出さねばなりません。地の本ユリも同じ事です。シテが動作に表現して行くのですから、地に廻つた人も此の心持ちがなければなりません。
- 195–196つまり行儀の善い悪いと云ふ事は、悪い癖のあるか無いかに依る事になりますね。例へですが、お稽古の時に、膝の上で盛んに親指と人さし指をこする方があります。又本ユリの所など来ると、首を節の通りに、義太夫張りで左から右へ振る方もあります。これは御自分では無意識にやられて居られるんですが、こつちでも「指の皮がむけますよ」「余り首を振らない様に」とも云へず、全く困る事がありますが、斯ふ云ふのも、まあ行儀の悪い中に入りますね。
- 52かなり謡慣れた人の中に、未だに本ユリと半ユリとを取違へる人があります。本ユリの節付は引の下に廻節を二つ重ねて起し、昭和版には本ユリ、半ユリと書いてある。シテやツレの謡には半ユリはあるが、本ユリはクリ地の終のみにしか無いものです。