らんびょうし【乱拍子】
宝生九郎『謡曲口伝』(1915)
- 239私は丁度四十二歳の時で、相撲の一番もとらうと云ふ元気な時代でもあり、且つは御用のことであるから、暑さが身体に障る位の事は何とも思はない。それよりも唯芸事が無事に勤まるやうにと、只そればかり心に念じて舞台に出勤した。扠舞台に出て見ると御座所は近し、暑さは暑し、尚其上に役は重し、と云ふ訳であるから只最う一意専心、乱拍子を踏む頃には暑さも何も忘れて居たのです。
- 2ウ〇青山御所で、自分が道成寺を勤めた時の事、後での話に物着乱拍子から急々の舞になり、舞台は霧でもかけられたやうに思はれて来た.間もなくドンと大きな音がしたので皆ハツと思はれると、舞台の真中に鐘が落ちて居て、シテはどこへ行つたか行方不明だつたさうだ。自分も金記も(金記翁は左陣翁の令弟であつて、その時鐘引きのため郷里熊本から上京せられた)一切どうして入つたか、どうして落したか分らなかつた。その時、自分の道成寺をつとめる事に、始めから御尽力になつた。藤堂様(伯)は、御前をも忘れて椅子から踊上つて狂喜せられたさうだ。自分も十八度道成寺をつとめたが、こんな事は始めてゞあつた。
- 38氏の比較的前期に於ける(昭和六年)力作に、道成寺絵巻がある。大型色紙にシテの出からシテの這入るまでのスケツチをして、淡彩がほどこしてある。全部で五十枚、五十姿である。モデルは観世左近氏の演出のもの。この絵は、僕がはじめて接した氏の力作物であるが、実にうまいと、その当時に感心した。それから数年たつた今日もう一度見て、松野氏の進境を見てゐる眼には、幾分の遜色はあるが、興味の持てる作品である。殊に前ジテの間の線描には面白さが漲つてゐる。五十図もあるのだから、ある時は略筆にしたり、たんねんに書いたり、墨で輪廓を書く処をいきなり色でぬつたり、又バツクに使つたうす墨のはけ目などにも、乱拍子の気魄を感じられたりした。最後の「深淵に飛んでぞ」と切幕へシテが飛び込む図など、思ひ切つた動きを見せたり、色々様々の技巧がうかゞへて感興を深うした。だが、手足の不安はあつた。
- 12オ–12ウ○道成寺 赤頭。後シテの頭が赤頭になり、乱拍子の内に足拍子が多くなり、舞はカゝリの位がシツトリとなり急の舞となる所の足拍子が無になります。
- 18オ[「草紙洗小町」について(留006の続き)]昔は蘭拍子があつた事もあつたのですが、今はやりません。上方では今日でもやらぬ事もありませぬが、道成寺よりは足の使ひ方も静かで、余り見栄がいたしません。――清廉
- 五8オ–8ウ[乾三の道成寺]別会能の四番目は道成寺に定つた。これは卒都婆小町などとは違つて、青年の勤める能であるから、順序として乾三に之を勤めさせることにした。これも大役であつて乾三には無埋ではあるが矢張り稽古の為と思ひ役を当てたのである。道成寺は総べて若手揃ひにしたかつたが、此日は梅若会にも道成寺があり、若手の囃子方は梅若会と先約があるさうだから他の曲と違つて掛け持ちもならず、小皷は上原竹之輔氏に勤めて貰ふことに定めた。上原氏は昨今の人ではあるが、幸清流は当流と乱拍子の申し合せの流義でもあり、此人に定めたのである。(大正六年二月)
- 301此間、宝生さんが「草紙洗」の乱拍子を出されましてから、当流の「檜垣」に乱拍子のある事を皆様から問はれましたが、私の家には乱拍子の手はございません。それで左近さんにもお尋ねしましたら、「どうも私は覚えがない」といふ事でございます。「檜垣」の女は「道成寺」のシテと同じやうに白拍子ではありますが、足の使ひ方が問題で、仮にお婆さんが杖をついて「道成寺」のやうにやつたとしたら、少し変ではないでせうか。私どもはやはり乱拍子は無くもがなと思ひます。
- 309私の時に一度事件がございました。鐘の綱が切れて落ちたのでございます。大正七年でしたか、美雄の追善で、赤頭で舞つた時でございます。乱拍子の前で、クツロイで、烏帽子をつけた時にドシンと大きな音と共に鐘が落ちました。私は背を向けてゐましたから、そんなでもなかつたのでございますが、見所や、舞台の人は驚いてしまつたさうでございます。
- 310[乱拍子008と同じ演能についての言及]でもクツロイでゐた折なのでまだよかつたのでございまして、若しこれが、乱拍子を踏んでゐる時とか、急の舞の最中なんかでしたら、怪我もしてをつたでせうし、それより全曲が駄目になつてしまふ所でございました。
- 312実際鐘入りはむつかしいものでございまして、よく人様は「観世のは鐘の下に行つて手をかけて飛ぶのたから、鐘引さへうまければ大丈夫だ」と申されますが、勿論うまく入ればいゝのでございますが、往々この入る折の気組をお考へにならないなめに、さういふお説も出るのでございます。「鐘に入る所をもう一遍やつて見よう」と思へば、乱拍子からやつて来て、急之舞に進んでそれから勢ひよく入るのでございますから、只入ればよいといふので鐘に入る所だけをやらうとしても出来るものではありません。よし入つても、それはその人が入つただけで「道成寺」の鐘入りではございません。
- 59乱拍子は昔はもつと長かつたさうだが、今は大概十三段位、これが最も短い段数である。シテと小鼓とが、銘々呼吸を計つて置いて、一方は足を動かす、一方は掛け声を掛ける。呼吸の合つた時は、両方が同時になる。喰違つた時は、多少遅速がある。猾いのは、鼓の掛け声を狙つて足を動かす。これなら違ひつこは無い。だが、これでは全く無意味だし、無意味だつたら、あの長い時間の単調な動作は退屈極まるものになる。多くのヤマの中で、この乱拍子が一番精神的にも肉体的にも疲れさす。ところが、この乱拍子のあとに急激な「急の舞」が来る。
- 132それから乱拍子や急之舞の間に、よく烏帽子の落ちることがありますが、これは失策とはいへませんネ。勿論落ちなければ、それに越したことはありませんが、全くこればかりは如何も仕方のないことで、不慮の難といふより仕様がありません。シテの責任でもなければ、また後見の責任でもありません。地震が揺つて来て家が潰れるのと同じ事で、マア天災といふべきでせう。
- 235かくて年一年と能も謡も隆盛に向ひ「この分で行けば斯道の将来は安全である」といふことを認めてから清孝は大往生を遂げました。それは明治二十一年二月十六日享年五十二でしたが、病漸く篤く、自ら不起を覚つた時、祖父は長男の清廉を病床に招いて、自分で小鼓の掛け声をしながら「道成寺」の乱拍子を伝授しました。死の直前まで芸道を忘れなかつたのです。それが終ると更に鉄之亟(先代紅雪)を呼んで「清廉のことはよろしく頼む」と後事を託したのでした。
- 152[梅若六郎談]この曲は全体を通じて非常に難かしいのですが、その中でも特に難所を説明致しませう。主なところは乱拍子ですが、これは秘事口伝が数々あります。
- 153[梅若六郎談]さて乱拍子ですが、昔は非常に長かつたのですが、あまり長いと観る方の人が退屈しますので、今は大変短縮されて居ります。現在では一番長いところで中之段までが十一段位ですが、これが昔は十八九段もあつたものです。流儀には崩之伝といふ小書がありまして、これは極く短いのです。三四段で中之段となるのですが、その替りに鱗返といふものが附きます。乱拍子は足を使ひ腰を使ひして、すぐ次に急急之舞になるのですから大変苦しむところです。
- 158[梅若六郎談]今度は赤頭の小書つきでもあり、私としては乱拍子の長ッたらしいのも、どうかと思ふので、乱拍子は大いにあつさりと短かく演つて、手際よくやつて見たいと思つてゐます。これは家元に相談していい所を演らして頂くつもりです。
- 149装束はこれ位にしてをきませう。舞は千歳の舞も翁の舞も特別な舞で他に例はありません。翁の舞は小鼓によつて乱拍子式に舞ふものであります。この舞の中に天地人の拍子と申すものがあります。角のところでふむのが天、脇座の前でふむのが地、大小前でふむのが人の拍子であります。
- 56二人静は乗つちや駄目だよ。乗りい出ないやうにスラスラと何処も同じやうに舞はなくてはいけない。平らに舞ふことが大事だ。乗つて舞つたらきつと二人チグバグになる。そして三十遍も舞ふと揃ふやうになる。お互に見合はうたつて見えやしないんだ。乱拍子と同じに呼吸をうかがふんだ。猫のやうにね。
- 220–221乱拍子百遍の稽古 初めて道成寺をやりますまでに、あの乱拍子は、何でも百遍稽古しなければいけないと言はれまして、毎日毎日松田の宅へ通つて正直に百遍稽古をいたしました。読書百遍意おのづから通ずなどと申しますが、全くそれと同じことと存じます。
- 221–222乱拍子は、御承知の通り、小鼓の一調に時々笛のアシラヒがはいつて、その小鼓の音と一種底強い掛声とがシテの動作と相互にせりあふといふやうな意気込みのもので、位は極めて静かなものですが、内に籠る力の実にはげしいものです。シテが一歩片方だけ踏み出して、しつかりと踵をとめます、それから爪先きをあげる、その足をやがて外へひねつて、また元に直す、それから今度はその爪先きを下ろして、踵をあげ、ついと足をひく。かういふ型を左、右の足でたがひちがひに繰り返しその型が左足から右足へ戻るたびに右足で拍子を一つ踏みます。これが舞の一段です。かうして左廻りをしながら三角形に――この三角形といふのは蛇体の鱗をあらはしたもので――舞台の左寄りのところをまはります。これに段数の定めがあつて、(その最も短いのが八段です)かうして正面向きにもどつたところを「中の段」といひ、ここでシテが「道成の卿承り、はじめて伽藍橘の、道成興行の寺なればとて、道成寺とは名づけたりや」と更に乱拍子をつづけながら謡ひます。一句一句をきれぎれに謡ひながち、その度に一段をとるのです。そして最後の一句に至つて囃子が急調子になり「山寺のや」といふ地謡の謡切れから急ノ舞になります。
- 222–223今では、この乱拍子の申合せのしかたもなとと違つて来ましたが、昔流のはなかなかえらいことをするものなのです。一体私の流儀では、昔から小鼓は幸流と申合せをすることになつていますので、是非ともその方の稽古をしなければなりません。それで私も三須錦吾さんのところへ行きました。先方では、平司(錦吾の息)さんが私と一緒に披くことになつていたので、稽古も一緒にやれるわけでした。そこで錦吾さんは、私の手をぎゆつと握ります。そして錦吾さんが腹の中で乱拍子を打つ(小鼓を打つその気合ひをいふ)のです。私は私で、腹の中で乱拍子を踏む。そして同時に掛声が出れば、それで及第といふことになるのですが、先方がエイツといつてからこちらがヤツといつたのでは落第するのです。気合ひは相当長い間、双方ともグーツと息を引いています。その間しつかりと互に手を握りあつていて、刹那に、あのはげしい掛声になるのですから、その意気込みのおそろしさといつたらありません。
- 223さてそれが一応及第といふことになりますと、今度は二人の間に塀風を立てて、互に顔も見えず、姿も見えず、ただ気合ひ一つで双方掛声をかける。それがピタリと合ふ。これは時計ではかつたりなどしても、合ふものではありません。時計のやうなさういふ機械と違ふところに芸といふものがあるわけです。以心伝心といふことを申しますが、これは体から体に意を伝へる方法とでも申しませうか。たしかに一つの秘伝です。宅で教へられた乱拍子とは多少異つたところもありましたけれど、この方法ですつかり意気込みを覚えました。
- 225話はまた逆戻り、私も一所懸命、かうしていよいよ道成寺を披くことになつたのでしたが、さて念願の叶ふまでには前後三年の準備がかかつたわけで、乱拍子百遍の稽古も、当然なことと申すべきです。
- 5五代目の重勝は観世宗節の弟であるが、兄に劣らぬ名手であつたと伝へられてゐる。世に古宝生と言はれ、その芸に対する熱心さは尋常一通りでなく、乱拍子を稽古するに、先づ小鼓から習ひ始めるといふ熱心さであつた。
- 31[英照皇太后行啓能について]扨て舞台に出て見ると御座所は近し、暑さは暑し、尚ほ其上に役は重しといふ訳であるから、只もう一意専心、乱拍子を踏む頃には暑さも何も忘れてゐたのです。愈々鐘入となつて、鐘の中に入つてホツト一と息吐くと、俄かにムーツとして来て目も眩暈んばかり瀧なす汗を拭ききながら装束を着けて居ると、誰か気を利かしたのか、鐘の中へ扇を入れて置いてくれたのを発見した。これを以て僅かばかりの風を呼びながら、装束を着け、蛇体と変じて再び舞台に現はれたのである。