公募型共同研究 活動報告
口承資料としての現代能楽の研究
研究代表者 坂本清恵 日本女子大学文学部教授
研究分担者 石井倫子 日本女子大学文学部教授
研究分担者 高桑いづみ 東京文化財研究所無形文化遺産部室長
【研究目的】
能楽は中世芸能として捉えられており、現在上演されるものには現代語とは異なる古い音声を聴くことができる。しかし、その音声は中世音韻をそのまま伝承しているのではなく、日本語の音韻変化にともなって、独自の変容を経たものといえる。能楽といっても能と狂言とでも音声面の伝承は大きく異なり、節付けが譜に残されている能のほうが、より古い音声を伝承している。また、江戸期の謡曲稽古手引き書などには、四つ仮名やオ段長音の開合の区別を、表記面にとどまらずに音声面でも保とうとする努力がうかがえるが、これらは現在までに全く失われてしまったといってよい。ただし、能楽が近畿方言を基盤として成立した芸能であるため、拠点を江戸に移さなかった流儀については、「せ・ぜ」を「シェ・ジェ」とするなどの発音を現在でも聴くことがある。
本研究では、日本語学の立場から、日本語口承資料としての現代能楽の可能性を明らかにし、かつ能楽音声の特徴その伝承の実態の解明することを目的とする。具体的には現在の能楽が日本語音韻体系をどの程度忠実に反映しているのかを明らかにするために、音韻伝承の態様、流儀による音韻伝承の相違点、伝承された地域による相違点などに着目して分析を行っていく。
【2015年度 研究活動】
本研究は、日本語学の立場に日本音楽、能楽史の観点を加え、能楽の日本語口承資料としての可能性を明らかにし、かつ能楽音声の特徴と、その伝承の実態の解明を目的とする。具体的には現在の能楽が中世の日本語音韻体系をどの程度忠実に反映しているのかを明らかにするために、流儀による音韻伝承の相違点、伝承された地域による相違点などに着目して研究を行った。
1.発音に関わる芸談と実演の収集と記録
各流儀の発音にかかわる相違を解明するため、2013年度は金春流の桜間金記師、観世流味方健師、宝生流三川泉師、喜多流狩野琇鵬師に、2014年度は下掛宝生流宝生閑師、金春流金春安明師、金剛流金剛永謹師から、世阿弥自筆本の残る「江口」「盛久」の実演とともにお話をうかがい、収録及び文字化を行った。2015年度は謡と狂言との相違を解明するため大蔵流茂山千五郎師、和泉流野村万作師、狂言共同社佐藤友彦師からお話をうかがい、テキストと伝承との関係の解明を行った。
2.発音実態にかかわるデータ収集
現存のSP、LPレコードをデジタル化し、音源から実際の伝承音の研究資料とする準備を行った。謡の読み癖について、流儀のなかでも古い発音を保持すると考えられる宝生流「旅の友」から約三分の一の50曲をデータベース化した。
3.能楽の伝承音について
[伝承音について]
現在の謡における中世音韻の継承は大きく以下の様に分類できる。
Ⅰ中世音韻を伝承したと思われるもの
① 入声音の「呑む」「含む」「つめる」注記の一部②語中尾の「エ・オ」の発音
Ⅱ謡独自の発音として伝承の過程で組み込まれたと思われるもの
② ウ段長音を割ること ④ 連声
Ⅲ伝承過程で変化してしまった発音
⑤「せ・ぜ」を「シェ・ジェ」で発音 ⑥語中尾のガ・ダ行音の前に鼻音が
Ⅳ現在までに伝承を止めてしまった発音
⑦合拗音の発音「クワ」「グワ」⑧オ段長音の開合の別⑨四つ仮名の区別の別
インタビューで確認できた謡流儀による相違は④連声の音形と、⑤「シェ・ジェ」の出現である。これらは流儀に限らず、個人的な伝承差もみられる。
謡の特徴的な発音である連声、入声音を鼻的破裂音で発音するのは中世日本語の音韻をそのまま伝承したものではなく、オ段長音の開合や四つ仮名の発音などが区別できなくなって行く過程で体系的に取り込んでいった結果であることを、世阿弥自筆本、江戸期の謡手引き書類、各時代の謡本を調査し、明らかにした。鼻音の前の撥音とt入声音は交替が起こるほどよく似ていたが、そのために伝承が異なる場合もある。例えば、「妄染の」が「モウゼンノ」と「モウゼッノ」とでゆれ、後者は「妄舌」として金春流で伝えられ現在に至る。発音を伝承するのか、意味を重視するのかで流儀による異なるテキストの出現にも至っている。(『能と狂言』13号で報告)
また、読みの相違のうち、同じ漢字表記を呉音と漢音のどちらで発音するのかは流儀によるゆれではなく、曲によって異なる伝承をしている場合もあることがわかった。清濁については中世語には濁音で現在清音の語では、宝生流が古い語形を保つことを確認した。
[音便について]
最終年度には、能楽の発音を総合的に捉えるため、謡各流儀と狂言の音便について分析を行った。
上方の音便特徴として、現代語でも使用するのがワ行ウ音便である。バ行マ行はウ音便と撥音便とどちらで現れるかが問題となる。ワ行は、謡では非音便形(ハ行転呼形)が通常の形である。謡でウ音便が現れるのは物狂いや老女などの位相的表現として、促音便で現れるのは「平家物語」を題材にする曲であるなどの偏りがみられる。狂言ではワ行はウ音便で現れるのが通常である。バ行、マ行については、謡では、撥音便が現れるもののウ音便形が現れない。和泉流野村家では、バ行、マ行はウ音便形である。大蔵流茂山家では、バ行は撥音便、マ行はウ音便、撥音便ともに現れる。また、サ行イ音便は現代の上方でもほぼ使われない。謡各流儀では、サ行イ音便形は現れにくく、和泉流野村家では「致す」にはイ音便形を使うがイ音便使用は稀であるのに対し、大蔵流茂山家ではサ行イ音便の使用が豊富で、非音便形が少ない。
和泉流の音便の現れ方が、室町期の上方の口語での音便状況を留めている可能性が大きいが、今後、形容詞の音便形の現れ方とともに、解明していきたい。
[アクセントについて]
現行の謡では、どの流儀も胡麻章の高低を反映した謡い方をしない。胡麻章の高低どおりには謡わないということは、作曲当時のメロディーを保持していないということになり、古いアクセントを伝承していないのである。しかし、胡麻章以外の節付けが京阪式アクセントでの作曲を保存したものもみられる。『羽衣』の例では、「緑」は室町時代HHLとLHLの両様で、現代京都はLHLである。観世流と宝生流の譜は現在の謡でもLHLのアクセントを生かしている。なお、金春流の新しい謡本のみ、謡うとおりに胡麻章が施されるという近年の改編が行われ、他流とは大きく異なる胡麻が施されている。
また、現代の謡と比較するために、節付けの立場からも室町期の胡麻章を分析し、アクセントの反映度が高いことを明らかにした。さらに、能から題材を取り込んだ長唄「鶴亀」など近世邦楽曲には京都アクセントの反映がみられることも解明した。
【2015年度 成果】
- 論文「人形浄瑠璃にみる江戸時代の音声」坂本清恵『日本語学』34-10 2015年8月
- 論文「謡の連声」坂本清恵、『能と狂言』第13号 2015年5月
- 論文「室町時代のアクセントと謡のフシ(melody)―「松風」の復元をめぐって―」高桑いづみ、『無形文化遺産研究報告』10 2016年3月
- 論文「室町時代のアクセント推定の方法―謡「松風」を例に―」坂本清恵『無形文化遺産研究報告』10 2016年3月
- 論文「大蔵流茂山家狂言台本の翻刻と紹介」坂本清恵・加野友理・野見山優・野中くれあ、『日本女子大学大学院文学研究科紀要』22 2016年3月
- 論文「長唄のアクセント―「鶴亀」を例に―」v『論集』ⅩⅠアクセント史資料研究会 2016年1月
- 講演「明治以前の謡とアクセント」高桑いづみ、東京文化財研究所無形文化遺産部第10回公開学術講座「邦楽の旋律とアクセント-中世から近世へ-」2015年12月18日 於東京国立博物館平成館大講堂
- 講演「近世邦楽のアクセント」坂本清恵東京文化財研究所無形文化遺産部第10回公開学術講座「邦楽の旋律とアクセント-中世から近世へ-」2015年12月18日 於東京国立博物館平成館大講堂
【2014年度 研究活動】
1.発音に関わる芸談と実演の収集と記録
昨年に引き続き、各流儀の発音にかかわる相違を解明するため、下掛宝生流の宝生閑師、金春流の金春安明師、金剛流の金剛永謹師から、世阿弥自筆本の残る「江口」「盛久」を中心にお話しをうかがい収録を行った。また、平成25年度に行ったインタビューも合わせて文字化した。
2. 謡本にみられる読み癖のデータベース化
伝統音声をどのような形で各流儀が伝承しているのかを確認するために、現行謡本に注記されている読み癖の入力を開始した。特に流儀のなかでも古い発音を保持すると考えられる宝生流の「旅の友」の入力から取り組んでいる。
3.研究経過
謡における連声は、日常語とは異なる特別な連音現象を謡の特徴として加えていったものといえる。現代の謡本にみられる発音の相違が、世阿弥自筆本、江戸期の謡手引き書類、謡本にどう書かれていたのかを調査し、現代の謡の特徴的な発音である連声、入声音を鼻的破裂音で発音するのは中世日本語の音韻をそのまま伝承したものではなく、オ段長音の開合や四つ仮名の発音などが区別できなくなって行く過程で体系的に取り込んでいった結果であることを明らかにした。組み込み方が工夫されればされるほど、日常的な発音とかけ離れたものになり、由緒があるように仕立てられていったことが確認できた。
また、読みの相違のうち、呉音と漢音のどちらで発音するのかは、流儀によるゆれではなく、曲によって異なる伝承をしている場合もあることがわかった。また、清濁については中世語としては濁音で現在清音の語について、宝生流が古い語形を保つことを確認した。
【2014年度 成果】
- 論文「金春禅竹の胡麻章―施譜法とアクセント反映度―」坂本清恵 『論集』Ⅹ 2015年2月
- 研究発表「謡のフシ付けを考える」高桑いづみ、観世流若手研修会 2014年6月24日
- 研究発表「謡における特殊音節」坂本清恵能楽学会 第13回大会 2014年6月22日
- 講演「定家仮名遣いの継承」坂本清恵、日本女子大学文学部・文学研究科学術交流企画「定家がもたらしたもの―文字と仮名遣い―」2015年3月14日 於成瀬記念講堂
【2013年度 研究活動】
日本語音韻史の解明を視野に入れ、600年以上の伝承のある能楽における音韻伝承について現状把握を目的とする。謡曲の伝承音声については、各流儀の現行謡本を中心に「謡曲読み癖一覧」『謡曲集下』(岩波書店 1963年)としてまとめられているが、実際の謡とはずれがある。今回の研究では、各流儀の重鎮の能楽師の方に、実演と伝承についてのインタビューを行うとともに、現存のSP、LPレコードをデジタル化し、音源から実際の伝承音の聞き取りを行うこととした。
今年度は、金春流の桜間金記師、観世流の味方健師、宝生流の三川泉師、喜多流の狩野琇鵬師に世阿弥自筆本の残る「江口」「盛久」の実演とともにお話をうかがった。また、音源のデジタル化はSPレコードについては、東京文化財研究所『音盤目録』3、5についてほぼ終了、東京文化財研究所所蔵のLPレコードについては、次年度にかけて進める予定である。
いずれは世阿弥自筆本以降の謡本、謡伝書の研究を進め、伝承が変わる時期を明らかにするつもりではあるが、能の伝承音は以下のように分類されよう。
Ⅰ中世音韻を伝承したと思われるもの
① 「呑む」「含む」
② 「つめる」注記の一部
③ 語中尾の「エ・オ」の発音
Ⅱ謡独自の発音として伝承の過程で組み込まれたと思われるもの
④ ウ段長音を割ること
⑤ 連声
Ⅲ伝承過程で変化してしまった発音
(現代はあまり伝承しているとは思われないもの・流儀によって異なるもの)
⑥「せ・ぜ」を「シェ・ジェ」で発音すること
⑦ 語中尾のガ・ダ行音の前に鼻音が入ること(一部流儀のみ)
Ⅳ現在までに伝承を止めてしまった発音
⑧ 合拗音の発音「クワ」「グワ」
⑨ オ段長音の開合の別
⑩ 四つ仮名の区別の別
今回確認できた流儀による相違は⑤連声の音形と、⑥「シェ・ジェ」の出現である。これらは流儀に限らず、個人的な伝承差もみられるようである。また、今年度は⑩の四つ仮名の伝承を諦めた時期がおおよそ明和ごろであることを明らかにした。
【2013年度 成果】
- 論文「近世期における「つめる」「のむ」―四つ仮名、舌内入声音、連声の注記をめぐって―」坂本清恵『論集』Ⅸ アクセント史資料研究会 2013年12月