公募型共同研究 活動報告
『安川敬一郎日記』にみる明治・大正期の財界人と能楽
研究代表者 杉山未菜子 福岡市博物館学芸課主任学芸主事
研究分担者 日比野利信 北九州市立自然史・歴史博物館歴史係長
【研究目的】
地方における能楽の歴史に関わる研究は、例外もあるが、大きな未開拓分野となっている。史料・資料にめぐまれていないのではなく、地域に伝わる膨大な文献について、能楽史という特化した視座から検討する機会や人材が少ないことが、その要因の1つとして挙げられる。
とはいえ、地方自治体や大学等においては、各地域の文献史料を調査・整理・収集し、史料集の刊行やデータベースの公開を通じて史料の内容情報の流通をはかられており、そうした成果を活用することで地方能楽史の研究は、今後、進展していくことが考えられる。
本研究は、近年、翻刻・刊行が進められている福岡出身の明治・大正期の財界人、安川敬一郎の日記を通じて、同時代の能楽を探求するものである。
安川敬一郎(1849〜1934)は、幕末に福岡藩士の家に生まれ、明治・大正期を通じて、筑豊・北九州で活躍した企業家であり、大正9年には男爵に列された人物である。企業経営の中心は石炭業であり、彼を総帥とする安川・松本家は、同じく炭鉱で栄えた麻生家、貝島家とならんで「筑豊御三家」と称されている。
安川敬一郎の日記は、子孫の寄贈により、家に伝来した文書や遺品とともに北九州市立自然史・歴史博物館に収蔵されている。同館では、これを、全5巻の資料集『安川敬一郎日記』(以下、『日記』)として翻刻・刊行する事業を行っており、現在、4巻まで刊行済である。この『日記』には、能楽に関する記事が、極めて頻繁に登場する。研究代表者は、これまで、近代史・経済史の研究者による共同研究「近代日本における企業家の社会史」において、協力者として、『日記』中の能楽関係記事の整理と内容の検討を行ってきた。記事の内容は、きわめて多岐にわたっており、『日記』は、同時代の能楽を知るうえで高い史料的価値を有すると認識するにいたった。
明治以降、財界人たちに能楽へ傾倒する者が多かったことはよく知られ、それらは、ハイソサエティーの成員として備えるべき文化資本の獲得とも解釈されてきた。安川敬一郎もまた、企業家として社会的影響力を高めていく過程において、能との関わりを深くしていったと推測される。『日記』には欠本があり、安川敬一郎と能楽のなれそめは、つまびらかではない。しかし、現存する『日記』からは、自身の稽古、観能、催能、能を介した社交、福岡の能を稽古する人々の組織づくりや指導者の招聘、家族への指導などについての豊富な記述を見ることができる。安川敬一郎の師は、宝生九郎知栄および野口兼資であった。福岡のほか東京、大阪にも居宅ないし活動拠点があったが、上京時には深川の宝生宅へ足繁く稽古に通っている。鼓は三須錦吾・平司を師とした。この師たちを避暑の逗留先や別荘に招き、集中的に稽古をつけてもらうこともあった。大阪や福岡における催能、あるいは宝生流の能をたしなむ人々への教授のため、宝生九郎や野口兼資を招請する交渉をすることもあった。例えば、明治36年6月の大阪の内国勧業博覧会協賛の能の催しでは、宝生九郎ほか宝生流の名高い能楽師を招聘するため、在阪の関係者から安川敬一郎が相談を受け、流派と交渉している。大正期の終わりには、野口兼資らに、福岡に定期的に指導に来てもらうように熱心に交渉し、福岡の宝生流をたしなむ素人衆の顔役・世話役的な存在であったことがうかがえる。また、幕末の福岡藩主で能楽社の中心的人物の一人でもあった黒田長知とも親交が深かったが、その席に能の催しを伴うことも多かった。福岡にあるときは、喜多流の梅津只円とも親交が厚く、家人の追善のための催能を梅津只円のもとで開催している。
本研究では、上に見たような『安川敬一郎日記』の能楽に関する記事の詳細な分析を進め、記事に関連するさまざまな資料・史料にあたることで、同時代の能楽界の動向の一端を示すとともに、安川敬一郎のような地方を本拠地とする財閥当主の能楽愛顧が、明治・大正期の中央と地方の能楽界に対して、どのような影響力をもっていたのかを検証することを目的とする。
本研究の成果として、近代以降の能楽の支持基盤の歴史的変容の一端が明らかになることが挙げられる。
【研究活動】
本研究では、安川敬一郎の『日記』5巻に相当する昭和4年〜昭和9年(没年)の記述から能楽に関する記述を検討した。また、『日記』既刊分についても再読し、日記全体から1722件の能楽に関する記述を抽出して一覧データ(エクセル)を作成した。また、その記事を、自身の師事、稽古の場・同好会、催能、地元の稽古仲間や教授の場といった観点から整理した表データ(エクセル)を作成した。
これらの作業を通じて得られた情報の例として、以下が挙げられる。能楽に関する記述には時期により多寡があり、特に、企業経営を多角化していた大正5年~9年間は、ほとんど記述が見られない。師事については、生涯を通じて、宝生流の野口兼資との関係が深く、大正14年以降は地元の要望に基づき福岡への出稽古を世話しており、死去の直前まで福岡で野口の稽古を受けている。財界人として能楽興隆にどれほど寄与があったかは検討が至っていないが、池内信嘉との親交があった。大正11年4月、財界から引退したのちは、福岡での能研鑽の会に参画することが顕著になり、昭和5年、「福岡宝生会」が結成されるとその会長となった。
安川敬一郎の日記は、彼の同時代の福岡の能楽の動向、また、地方財界人にとっての能楽の意義等を示す好資料である。今後、本研究で得たデータ類を活かして、論考等のかたちで、明治・大正期の地方財界人にとっての能楽の意義を具体的に示していく予定である。
【成果】
- 解説 福岡市博物館 企画展示 「たのしい狂言面入門」リーフレット 杉山未菜子 (6月30日~8月30日)
- 研究発表 「『安川敬一郎日記』の記述について」杉山未菜子 平成24〜26年科学研究費補助金(基盤研究(C))「近代日本における企業家の社会史 —政治・経済・文化—」後継的研究プロジェクト準備会議 (8月24日 福岡市博物館講座室3)