室町中後期能楽伝書の資料集作成と室町文化の継承史・社会史に関する学際的研究
研究代表者 重田みち(京都芸術大学通信教育部非常勤講師)
研究分担者 宮本圭造(法政大学能楽研究所教授)
井上治(京都芸術大学芸術学部准教授)
高橋葉子(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター客員研究員)
稲垣弘明(京都芸術大学非常勤講師)
【2020年度 成果】
- 重田みち編『宮増小鼓伝書の資料と研究――室町文化横断研究のために』野上記念法政大学能楽研究所発行、B5版、242pps.(うち附録28pps.)、2021年3月。執筆者:重田みち・宮本圭造・高橋葉子・井上治・稲垣弘明、総論:重田「宮増小鼓伝書校訂をとおして室町文化横断研究への扉を開く」、pp.7-22。翻刻・校訂篇:重田・高橋・宮本(五十音順、以下同じ)
*室町後期宮増小鼓伝書のうち、能楽研究所鴻山文庫所蔵資料4種・金春家伝来資料3種・毛利博物館所蔵資料4種、計11種の翻刻・校訂・解題。 - 論文「室町末期小鼓伝書の改編と継承――鴻山文庫蔵の三種の宮増系伝書を中心に」高橋葉子 上記『宮増小鼓伝書の資料と研究』所収
- 論文「毛利博物館蔵鼓伝書小考」宮本圭造 上記『宮増小鼓伝書の資料と研究』所収
- 論文「『唯心軒花伝書』の位置づけ―その成立環境および周辺芸能との関係について―」井上治『いけ花文化研究』9号、2021年
【2020年度 研究活動】
(1)概要
以下のとおり、2019年度に引き続き、本研究後半期間として研究課題に係る研究を順調に行い、大きな成果を得た。
1、室町文化の諸芸について、2019年度に引き続き、伝書に着目した考察を行い、下記②「研究発表・報告ほか」「活動記録」のとおり、共同研究者全員参加のオンライン研究会(年度内2回)において研究報告・ラウンドテーブル(クローズト)を行った。また一部の共同研究者(重田)は同じく下記②のとおり他の研究セミナーにおいて研究発表を行った。
2、室町後期能楽伝書、蹴鞠書・花伝書(花道書)等に関する2019年度に行った文献資料調査、及び本年度の文献資料調査(下記②「活動記録」に記載)をもとに、その翻刻・校訂及び関連考察を進めた。そのうち宮増小鼓伝書の多くについて、下記(2)に記す編著に成果を発表した(共同研究者全員)。その際、一部の研究者(重田・高橋)はオンライン研究会を行った。また一部の研究者(井上・稲垣・重田)は、下記(2)以外の一部の考察の成果としての論文執筆を進め、すでに掲載媒体も決定した(下記(3)に記載)。
以上をとおして、2020年度内にまとまった成果物としての編著(下記(2))を完成させたと同時に、残りの研究作業・考察も2021-2022年度の公開へ向けて、着々と作業を進めている。2年間の研究期間として十分以上の分量と、非常に高い水準を有する成果を得たと考えている。
(2)重田みち編『宮増小鼓伝書の資料と研究――室町文化横断研究のために』、野上記念法政大学能楽研究所発行、B5版、全242頁(本文214頁・附録28頁)、2021年3月。
本研究の成果のうち、能楽伝書を中心とした集大成としての編著であり、本研究の共同研究者全員が編集または執筆に関わっている。本編著のテーマとする宮増小鼓伝書(室町後期に活動した宮増弥七・弥左衛門兄弟の小鼓に関する芸論を中心とする宮増系伝書群)は、室町後期の能楽伝書の中で比重も大きく、室町文化としての特徴・様相をうかがうにも好適である。また、法政大学能楽研究所はこれに該当する伝書を多く所蔵し、同研究所所員による近年の室町時代伝書資料の発掘調査の研究成果の活用も可能であったため、宮増小鼓伝書をテーマとすることが、能楽伝書研究としても、室町文化横断研究の一環としても最適であると判断した。
B5版・総242頁という分量は、本研究期間・予算に比して十分以上の成果であると考える。学術的な質の面でも、以下のとおり、本研究のテーマ・位置付けに見合った、新規性の高い大きな成果を上げ、量的な規模に数倍する水準に達したと考えている。内容面・学術的な質の面で特筆すべきことを、以下に順に記す。
1、能楽を武家主導の室町文化の一環として体系的に位置付けることを提唱した、初めてのまとまった研究
本書は、能楽を、足利将軍家を核としその派生として武家が主導する室町文化としての諸芸の一ジャンルとして、体系的にとらえ巨視的な視点で位置付けることの意義・有用性を打ち出した、初めてのまとまった研究である。日本の研究は細かい専門性はある一方で巨視的でジェネラルな視点が不足していると言われるが、本研究ではジェネラルな視点によって能楽という研究分野を見直すことを重視している。それによって能楽研究に新しい方向性を拓き、本書によって確実な一歩を踏み出した、国際・学際拠点の名にふさわしいスケールの大きい研究になったと自負している。「総論」と「研究覚書」に主にジェネラルな視点や諸ジャンル横断的な面を強調し、2点の論文もその各論としてそこにしっかり位置付けられるテーマを選び、全体として体系性と各パートの連携度の高い刊行物に仕上げ、今後の能楽研究に必要と考える学術的な一つの土台を築いたと自負している。特に「研究覚書」には、蹴鞠と花道の研究者を交えたオープンな議論の記録をのこし、それぞれの分野の研究者が別々に論を展開する縦割り羅列的な形ではなく、相互に自身の分野に議論の結果を持ち帰ることはもちろん、汎領域的な共通のプラットフォームを築くことができないかという試みの意味も兼ねている。
2、室町後期の伝書とは何かという根本的な問題に取り組み、その性質に見合った資料整理の必要性を提唱する
本書は、「伝書とは何か」という、重要であるにもかかわらず従来ほとんど問われてこなかったテーマの問題提起を行い、主に「総論」において、室町後期の宮増小鼓伝書と、世阿弥・禅竹の芸論を収めた室町中期までの伝書や江戸初期頃から編纂されていく合抄(合写伝書)との違いに注目し、新規性の高い一定の結論を示した点に特徴がある。すなわち、宮増小鼓伝書は武家の書状と性質上の共通性が大きく、書状のように受け渡しが多く行われたことが現在の宮増小鼓伝書群の量の多さや伝書相互の錯綜した関係につながっていると考えられる。また伝書の合抄も含め、単にある著者(たとえば宮増弥左衛門)の伝書と一括りにするのではなく、写本などとして存在する個々の伝書をそれぞれ別個のものととらえ、その個々の伝書内の執筆や編集のコンセプトや構成に注目することの重要性を提唱した。そして同時に、それらの錯綜した文献資料を学術研究に活用するためには、その性質に見合った合理性をもち、かつあつかいやすいテクストの整理法が必要であることを提唱し、その一つの形を提案し、今後の関連研究への活用を期した点にも大きな特徴がある。「総論」においてそれを提言し、「翻刻・校訂篇」の校訂によってそれを具体的に示した。
3、室町後期宮増小鼓伝書の翻刻・校訂・解題とその意義
本書は、法政大学能楽研究所所蔵、及び、同研究所所員による近年の資料発掘調査研究成果としての翻刻データ提供による宮増小鼓伝書計11点の資料翻刻・校訂・解題を行い、室町時代の能楽伝書のなかで重要な位置を占める宮増小鼓伝書の未翻刻資料について、広く研究者・芸術家・愛好者に参照しやすい環境を整え、今後の研究・文化活動の基盤とした点に意義がある。これによって、室町文化の一環としての室町後期の伝書とはどういうものか、その典型例を具体的にうかがうことができるようにした。翻刻・校訂者は能楽伝書や関連文献をあつかう長年の経験を有し、短期間にまとめた成果としては一定以上の水準に達したと自負している。なお、校訂の意義については下記4のとおりである。各伝書には1-2頁の解題を付け、底本や当該伝書に関する着眼点を示した。その中には、相伝に関わる人物について新説を提示したものも含まれている。
4、校訂という学術的行為を見直し、重視する
これまで日本に存する文献の夥しい翻刻が行われてきたが、未翻刻の文献はなおかつ膨大である。その中で今日考えるべき問題とは、その中でどれどれを翻刻の対象に取捨選択すべきか、どういう媒体に翻刻すべきか、その資料を翻刻する意味がどの程度あるのか(人文学全体においてその資料がどう位置付けられるのか)ということである。特に現在では、原本の字を起こすだけの単なる翻刻であるならば、あえて翻刻せずともインターネット上に写真を公開するほうが、むしろ多くの研究者や愛好者の便宜に適うものもあろう。素朴な翻刻に止まるだけでは学術研究としては不十分であり、研究者の見解に基づいて一定以上のレベルの校訂(標点・資料の構成整理等)を行うことで、はじめて学術研究としての画竜点睛に値する。またそれにより、はじめて責任の所在が明確になり、その是非をめぐって議論が可能になる。国文学の校訂シリーズが多く刊行された20世紀の状況から変化し、校訂の必要性への意識がやや薄弱化している現在、この点を20世紀のレベルに引き戻すことが肝要である。本研究ではこのような文献学のアイデアを重視し、校訂の体例(コンセプトとそれと緊密に連携した表示形式)を考察することに比重を置き、時間をとって吟味を重ね、室町末期の芸の伝書にはどのような体例が適当かという問題を、研究期間一杯考え抜いて結論を出し、宮増小鼓伝書を、校訂のケーススタディとして提示した点に大きな特徴がある。特に、室町後期宮増小鼓伝書には書状と同様に呼称がないものが非常に多いが、それに日本史研究の文書史料に準じた呼称を付け、所蔵記号などを利用したラベリングを行い、各資料の伝達内容には条目番号を付して(ナンバリング)、個々の資料の識別や他伝書との条目ごとの比較が簡便になるように工夫した。場当たり的な整理ではなく、伝書というものの性質を考察したうえでどうしたらよいかという工夫を行い、それを一つの研究に引き上げた点は、本書の新規性として特筆すべきことの一である。なお、附録として付けた「索引」には、複数の伝書で重なる説や類説など目当ての説の探しやすさを期して、小鼓伝書としては当然の項目であるとも言える「小鼓」「打つ」などの項目はあえて除外している。また研究篇の末尾に「条目目次」を試験的に立て、経験的に目当ての記事が探しやすいと思われる方法を示し、その方法が多くの人に妥当であるかどうかを検証できるようにした。
5、能楽伝書の伝達内容と社会における継承に注目した質の高い論文
芸論を書き留めた伝書に関する研究の主な視点としては、その伝達内容(芸論・心得の内容)への視点と、奥書等に示される継承に関わる場や人物への視点がある。本書では、共同研究者による、伝達内容に関する論文(高橋)と継承に関わる場や人物に関する論文(宮本)の2本を掲載し、両者の視点をともに重視した、バランスが取れた内容となっている。高橋論文「室町末期小鼓伝書の改編と継承」は、本研究の伝書への視点、特に個々の伝書資料の構成や宮増小鼓伝書の「異本」をどのように考えるかといった重要な問題の議論を経て、相互に複雑で錯綜した関係にある宮増小鼓伝書群の整理を試み、そのうえで宮増小鼓伝書の成立や伝達内容についての具体的な考察を行い、従来の関連研究レベルを超える水準の論を展開する。宮本論文「毛利博物館蔵鼓伝書小考」は、近年の能楽研究所所員(宮本氏含む)による共同研究の資料発掘調査の成果に基づき、毛利博物館所蔵の能楽関連文献、特に20種を越える鼓伝書について、新たにその概要を紹介し、考察を行ったものである。特にそれらの伝書の伝来経緯に着目し、宮増弥左衛門などの能役者と、毛利家とその周辺の武家の鼓伝書相伝について、人物関係とネットワークに注目して、新資料により新たに判明したことがらを交えて論じている。両者とも、従来の能楽研究の良い面を継承し、実証的で堅実・緻密であり、高い水準に達した論文として仕上がっていると考える。以上のとおり、本書は、本研究以前の研究段階を大きく超える成果を上げたと考える。しかも、これは比較的短い研究期間と制約のある紙幅の中での成果であり、ここに余る学術的な知見は多く、これによりさらに新たな展望も開けている。その一部は以下に記すとおりであり、今後、これに続く関連研究が期待される。また、本書の編集にあたっては、古勝隆一氏(京都大学准教授)の助言、及び、古勝敦子氏(洛南高等学校在学)のボランティアの協力を得た。なお、新型コロナウイルス感染症等の影響により、編集に多少の障害を生じたことから、本書の表記・記載・形式上に訂正すべき箇所が複数見つかったが、刊行月中に「正誤表」を作成し補っている。
(3)室町時代の諸芸の伝書に着目した相互横断研究・総合的研究
2019年度に引き続き、能楽・蹴鞠・花道等の伝書に着目して、室町後期を中心としたそれぞれの伝書の翻刻を行い、論文を執筆している。現在その草稿や構想が出来上がっている段階であり、そのうち一部はすでに2021-2022年の出版が決定している。
○執筆・出版が決定しているもの
・論文:井上「『唯心軒花伝書』の位置づけ―その成立環境および周辺芸能との関係について―」(書誌情報は下記)
・論文:稲垣「大津平野陣者所蔵『蹴鞠条々 雅綱卿聞書』の世界――応仁の乱後の「新儀」の条々を中心に」(仮題)、『伝統文化 研究編』(仮題)、京都芸術大学 東北芸術工科大学出版局 藝術学舎、2022年4月予定
・論文:重田「室町時代諸芸伝書の共通性――芸道の機会と場」(仮題)、同上
○翻刻(主なもの)
・重田:九州大学附属図書館蔵『自家伝抄』:室町後期を中心とする能楽伝書の合抄。全体の翻刻及び全体の構成の分析。校訂は途中段階。
・高橋:能楽研究所鴻山文庫蔵『拍子秘書』所収「天文十一年六月一日宮増親賢奥書伝書」:全体の翻刻。
・重田:能楽研究所鴻山文庫蔵『小鼓口伝集』:全体の翻刻。
・稲垣:大津平野神社蔵『蹴鞠条々 雅綱卿聞書』:室町後期の蹴鞠伝書。全体の翻刻。
・重田:猪熊信男氏旧蔵『立花口伝之大事』(現所在不明):室町後期にまとめられたと推定される花伝書(花道書)。全体の翻刻、概ねの校訂、一部の語注。
【2019年度 成果】
- 研究発表「金春家文書の再検討」宮本圭造 芸能史研究会例会(ハートピア京都、5月)
- 論文「明治の音源に聞く謡のフシ―大西新三郎〈小督〉駒之段」高橋葉子 京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター研究紀要『日本伝統音楽研究』16号、pp.75-86、2019年6月
- 論文「〈藝道〉としての能楽――茶の湯・立て花などの室町文化との比較研究の効用」重田みち『銕仙』694、研究十二月往来375、pp.3-4、2019年7月
- 講演「藝道の空間」重田みち 国際ワークショップ「時空と変容の芸術:茶-詩-映画-庭:日本、中国、ドイツ間の美学・社会的視点」(ドイツ・バウハウス大学、ドイツ・ワイマール、7月10日)
- 研究発表「金春家文書の形成と流転」宮本圭造 能楽学会大会(法政大学市ヶ谷キャンパス、10月)
- 論文「京都観世会浅野文庫資料紹介(三)―檜垣本彦四郎笛伝書」高橋葉子 京都観世会館会報誌『能』737号、2019年10月、pp.4-5
- 研究発表「現代における花道文化の位置」井上治 国際伝統藝術研究会第20回研究会(宝塚大学大阪梅田キャンパス、2019年12月21日)
- 研究発表「「伝統芸術」の実践と人文学との関係はどうあるべきか:野上豊一郎・観世寿夫と「世阿弥」「能楽」研究」重田みち国際伝統藝術研究会第20回研究会(宝塚大学・大阪梅田キャンパス、2019年12月21日)
- 論文「鎌倉・南北朝期の春日若宮おん祭と猿楽」宮本圭造『春日若宮おん祭』35、2019年12月、pp.24-27
- 論文「『風姿花伝』第四神儀篇の申楽起源説の背景」宮本圭造『銕仙』382、2020年3月、pp.3-5
【2019年度 研究活動】
2019年5-6月:初期段階における全体の計画
応募時点での伝書翻刻・調査等の計画の予算に合わせた修正、メンバー全体研究会・20年度公開研究集会の計画、能楽以外を専門とする分担者を新たに探す、等
2019年7月-現在:代表者・分担者各自、本研究に係る研究作業
伝書翻刻、伝書・関連史料類の研究機関等における調査、2019年11月・2020年3月の本研究全体研究会準備。
2019年7月8-11日:
重田みち、ドイツ・バウハウス大学における国際研究集会・ワークショップ「時空と変容の芸術:茶-詩-映画-庭」に参加し、ドイツ・中国・台湾・日本の研究者・芸術家・茶道実践者等との学術交流を行う。重田講演を含む。
2019年11月6-7日:
本研究の全体研究会(代表者・分担者全員参加)、法政大学能楽研究所、重田趣旨説明、代表者・分担者各自の研究報告。今後の打合せも併せて行う。
研究報告内容:
6日
重田 みち:能楽伝書『自家伝抄』に関する問題:室町中後期伝書の性格と特徴
稲垣 弘明:天正十一年の飛鳥井雅庸邸扇鬮鞠会について
7日
高橋 葉子:『風鼓尊若伝書』の翻刻と校訂―内閣文庫蔵『鞠之事』の紹介―
井上 治 :室町後期の花伝書群における『池坊専応口伝』の位置
宮本 圭造:『八帖花伝書』の成立圏
2020年3月3日:
本研究の全体研究会(代表者・分担者全員参加)、京都造形芸術大学瓜生山キャンパス
*ただし新型コロナウイルス感染症の問題により、直前に20年度へ延期決定
【研究目的】
室町中後期の能楽伝書(能伝書・謡伝書・囃子伝書)について、法政大学能楽研究所蔵の未翻刻資料を中心に、有用と認められるものを複数選び翻刻・校訂及び資料集を作成し、同時に関連考察を行い、能楽をはじめ関連諸研究・芸術振興に供する。そこで留意すべきは、当時は能楽以外にも花道・茶の湯・蹴鞠・香文化などの諸芸(芸道)が相互連関しつつ室町文化を形成し、京都を核に階層(公家・武家・禅社会・町衆等)や地域を超えて拡がり、各々伝書(芸道書)も執筆されたことである。文化史的・社会史的に興味深いこの時期の能楽の芸の継承について、本研究では上記の類の文化諸ジャンルの専門研究との学際的視点を重視し、伝書という芸の継承に関して重要な共通の存在をとおして、それらとの関係にも注目する。
当時の能楽伝書は、一伝書全体が書写相伝されるだけではなく、小規模の伝書が合写されたり、ある伝書の一部だけが別伝書に収録されたり、前代の伝書の説が改変されたりといった、多様で複雑な現象が生じてくる点に特徴がある。本研究ではこれらの現象がどのようにして生じたかをも含め、上記の伝書について授受の諸相を分析し、その伝授内容(用語や説)、相伝・被相伝者の人物像・社会的関係などの具体的考察を行う。その際、上記芸道諸ジャンルの伝書の授受、芸道用語や思想、能楽との相互の人的交流などにも着目し、それらとの比較の視点から、能楽の伝書と芸の伝授継承の在りようを立体的に研究する。
上述のとおり能楽と上記諸ジャンルとは互いに切り離せない密接な関係を有し、以後も近世を通じて継承され近代に至る。その拡充の時期である室町中後期の多様な能楽伝書をそれらの一環と見る本研究は、能の演出・芸道思想、芸の継承に関する社会史など多様な事柄について、今後の能楽自体の研究はもちろん、上記諸ジャンルとの分野横断的な視点による研究にも、またそれらの文化振興にも役立てることができる。