謡曲における和歌・連歌表現の用例データベース構築
研究代表者 川上一(斯道文庫研究嘱託、史料編纂所学術支援職員、慶應義塾大学文研究科大学院生)
研究分担者 浅井美峰(明星大学人文学部非常勤講師、お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科博士後期課程、日本学術振興会特別研究員)
中野顕正(都留文科大学文学部非常勤講師、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)
【2019年度 成果】
- 論文「能《野宮》における聖俗の転換」中野顕正『中世文学』64、2019年6月
※《野宮》を例に、謡曲における雅文文芸の享受と再構築の方法を検討。 - 論文「一休宗純が能に求めたもの ―能「通小町」関連詩三首の検討から―」中野顕正 松岡心平編『中世に架ける橋』森話社、2020年3月
※一休宗純の漢詩を特に取り上げつつ、謡曲と室町期韻文文芸との関係につき検討。 - 研究発表「歌人としての足利義政 ―伝記と歌風―」川上一 和歌文学会(早稲田大学戸山キャンパス、2020年1月11日)
※足利義政の詠歌における特異な故事の取り上げ方について考察する中で、「雁行の乱れ」の故事に関して狂言《鴈雁金》の例を検討。室町和歌と能楽とに共通する基盤について考察する。
【2019年度 研究活動】
1.今年度の成果・進捗
【今年度の進捗】
本研究は、謡曲の修辞的特質を和歌・連歌との比較によって考察すること、およびその成果をデータベース形式で公開することを目標としたものである。今年度は、謡曲の修辞法を検討するための端緒として、《賀茂》《班女》を例曲として取り上げた。この2曲を取り上げたのは、《賀茂》は鴨長明「石川や」詠をはじめとする和歌的世界を背景にもつ曲であること、《班女》は連歌的表現連想が随所に見られる曲であることが理由である。その成果物は別添資料(Excelファイル)の通りであり、典拠の考察に加えて同時代や後代における表現の類例を考察し、謡曲の文体・表現面における文学史的位置づけについての検討を深めることができた。
今年度は、後述する成果の公開方法についての指針構築に時間がかかり、例曲とした2作品以外の用例収集までは至らなかったが、次年度以降は検討対象とする謡曲の作品数を増やし、網羅的に用例採取をおこなってゆくことで、謡曲文体の特質とその文学史的位置を解明してゆきたい。
【成果の公開方法について】
成果の公開に当たって、当初は同じ「能楽の国際・学際的研究拠点」事業の共同研究「能作品の仏教関係語句データベース作成と能の宗教的背景に関する研究」(代表、高橋悠介氏)の方法を応用し、語句単位での解説データベースの作成を想定していた。しかし和歌・連歌表現の場合、個々の単語に特徴があるというよりは語彙のつながり・組み合わせが問題となるため、仏教関係語句データベースと同一の方法による公開には困難が伴うことが、作業を進める中で判明してきた。そのため、公開方法については再検討を行い、ひとまず謡曲詞章に即した注釈的解説を積み重ねてゆくこととし、成果がある程度蓄積された段階で、索引的機能をもったデータベースの構築・公開方法について改めて検討したいと考えている。
【付記】
連歌表現研究の基礎となる検索手段には、連歌データベース(国際日本文化研究センター)・『連歌大観』(古典ライブラリー)・『連歌総目録』(明治書院)があるが、それぞれに一長一短があり、特に連歌データベースは底本を明示していないなど研究上の利用に難点があった。その解決策として、本共同研究では大阪天満宮所蔵の大部な連歌資料の紙焼きを入手・整理し、同資料を底本とすることで連歌データベースの検索結果を成果物に反映できるようにした。
2.本研究の意義と今後の課題
以下では、本研究の意義について、謡曲研究・和歌研究・連歌研究それぞれの観点から述べてゆく。なお、謡曲研究の観点から見た意義は中野が、和歌研究の観点からの意義は川上が、連歌研究の観点からの意義を浅井が、主として執筆を担当し、三者の合意のもとにそれを取りまとめ整理したものである。
(1)謡曲研究の観点から
【本研究の意義】
謡曲の詞章は、中世の様々な文芸を縦横無尽に典拠とすることで成立している。それゆえ、謡曲のことばを読解するためには同時代の広範な文芸世界への理解が不可欠であり、逆にいえば謡曲研究は室町文学史の全体像を見渡せる位置にあると言っても過言ではない。そうした問題意識のもと、謡曲の文学史的位置を解明し、謡曲の分析を端緒とすることで室町文芸史の全体像を再構築することが、本研究の最終的目標であった。
そうした、謡曲と同時代文芸との関わりを考える上で特に困難が伴っていたのが、和歌・連歌の領域であった。謡曲の表現を考える上で和歌・連歌が重要な位置を占めていることは周知の通りだが、和歌や連歌の研究はそれ自体が独自の体系を形成している領域であるため、これらの領域との関係性を考える上では和歌・連歌を専門とする立場からの助言が不可欠であった。その点において、今回、和歌研究の川上一氏、連歌研究の浅井美峰氏の協力を得、和歌・連歌研究の観点から見た謡曲詞章の位置を検討することができたことは有意義であった。
【成果と今後の課題】
本共同研究によって得られた成果として、一見和歌的表現に見えるものが実は和歌に類例を見ない表現である場合など、和歌・連歌的修辞法から見た謡曲文体の位置、あるいは謡曲と和歌・連歌との距離を考えるための具体例を収集できた点が挙げられる。また、和歌的表現と連歌的表現との類似性だけでなく異質性にも着目する視点を提供してもらえたことは、謡曲の表現的志向性の特質を考える上で重要であった。
そうした謡曲の表現的志向性を考察する上で特に問題となったのが、道行謡の修辞技法である。今年度は《賀茂》《班女》を例曲として取り上げ、ひとまず作品単位での分析を進めたが、次年度は、そうした作品単位での注釈的検討と併行して、道行謡・待謡・クセなど小段ごとの表現分析を作品横断的に行うことで、各小段ごとの文体的特質についても考察してゆきたい。それにより、謡曲作品を一つの構造体として捉えたときの各場面のもつ性格が、より鮮明に理解されると考えられるからである。
(2)和歌研究の観点から
【本研究の意義】
和歌は古代から近代に至るまでの全時期において作者・読者を獲得した、各時代の流行文芸と密接な関わりをもつ文芸領域であり、その関わりを持った文芸の中には謡曲も含まれている。それゆえ、室町期以降の和歌表現においては謡曲からの影響が想定されるのだが、従来の和歌と謡曲の関係性に関する研究は「和歌→謡曲」(謡曲詞章における引歌の指摘・解釈)という一方向的な指摘に限定されたものであり、和歌・謡曲両者の双方向的な影響関係については殆ど検討されていないのが現状である。こうした、和歌と謡曲との関係性の指摘が謡曲の和歌受容のみに留まっていることの一因として、そこで想定されている「和歌」が主として中世前期まで(謡曲成立以前)のものに限られており、謡曲成立期以降の和歌作品については対象とされていないことが挙げられよう。本共同研究は、室町期以降に成立した和歌作品をも検討の対象とすることにより、和歌・謡曲両者の双方向的な影響関係を考察し、従来の研究から洩れていた側面を解明しようとしたものである。
【成果と今後の課題】
本共同研究によって、室町期以降の和歌の修辞法や語彙における謡曲からの影響の実例を収集することができた。例えば《賀茂》の冒頭部、
[次第]清き水上尋ねてや、清き水上尋ねてや、賀茂の宮居に参らん。
に着目すると、「清き」と「水上」の2語を組み合わせた和歌の用例であれば
いすず川たえせぬ水のみなかみもきよきながれをてらさざらめや(土御門院御集・263)
のように《賀茂》以前の用例を見出せるが、さらに「賀茂」の語を含む例となると、
みそぎしてゆくすゑいのれ水上のさもいさぎよきかもの河瀬に(玄誉法師詠歌聞書・87)
きぶねがはみなかみきよくながれきてのどかにすめる賀茂の月影(挙白集・1761)
のように、いずれも謡曲《賀茂》成立以後の用例となる。「清き」と「水上」という従来の縁語関係に、「賀茂」の地名が、謡曲《賀茂》を介して結びつくのである。
こうした、「謡曲→和歌」の影響関係を指摘することは、和歌研究にとっても重要な意味を持つ。そもそも、中世以降の和歌は「題詠」が主流であるため、題毎に定められた主題(本意)が存在し、詠作ではそれを導くために修辞技法(枕詞・縁語等)が盛んに用いられていた。題の本意がある程度固定化して以降は修辞法自体も固定化する傾向にあるが、それには時期ごとに若干の差異が表れることが既に知られている。こうした推移は、従来、和歌表現史の中でのみ検討されてきた事象であったが、本共同研究によってその要因のひとつが謡曲の影響であることを指摘できたことは重要であり、謡曲の文学史的位置を解明することが和歌研究にも資するものであることを明らかにできた。
今後は、こうした具体例の収集をさらに進めることにより、「和歌→謡曲」「謡曲→和歌」双方の影響関係、および「(他ジャンルの文芸)→和歌/謡曲」という関係性をも含めた、室町文芸のもつ表現基盤の多層性を追究してゆきたいと考えている。
(3)連歌研究の観点から
【本研究の意義】
連歌と謡曲との関係を考えるとき、連歌作品自体が謡曲の典拠となることは稀であり、それゆえ和歌に比して連歌は直接的には謡曲に影響を与えていないとされてきた。その一方で、例えば落合博志氏が「和歌・連歌・平家と能および早歌 ―諸ジャンルの交渉」(『中世文学』60、2015年6月)において、連歌寄合と謡曲の関係や、連歌と謡曲とで共通する発想・表現が見られる点を指摘しているように、連歌・謡曲双方の前提となる室町期の連想・表現基盤を解明することによって、連歌・謡曲双方の(直接関係のみに限定されない)関係性を考察することは可能であり、また有用だと考えられる。室町後期の連歌師の紀行文(宗牧『東国紀行』等)において、旅の中で能役者と同座している記事が見えるように、連歌と能楽の享受層の重なりについては注目すべきものがあり、本研究はそうした議論のための前提を提供できるものと考えている。
【成果と今後の課題】
本共同研究で試みた、連歌と謡曲との表現の重なりに注目することは、謡曲研究のみならず連歌研究にとっても重要な意味を持つ。かつて島津忠夫氏は芸能論の中で、謡曲が連歌の付合の典拠となり得たことを指摘しているが、著名な謡曲作品から採られた付合以外では典拠の指摘はこれまで必ずしも容易ではなかった。その点で、本共同研究で試みたような、謡曲詞章を基軸としつつ連歌の類例を探すという作業は、従来指摘されてこなかった影響関係の発見に繋がる可能性が高く、付合の具体相を解明することに繋がるものと考えられる。
また、直接的な典拠関係に限定されない連歌と謡曲との表現的類似性の具体例を収集できたことも、本共同研究の収穫であった。例えば《班女》の「いつまで草の露の間も」(クセ)は、「いつまで草」と「露」を結びつけ、「いつまで」「つゆの間(少しの間)」という言葉を重ねるが、類似の表現は和歌には見られない一方、連歌にはほぼ同じ表現が見え、和歌から離れたところで連歌と謡曲の表現に類似性が認められる。こうした、個々の表現の検討に基づく具体例の収集を今後も重ねてゆくことで、直接的な典拠関係のみに留まらない室町文芸間の相互関係について、解明してゆくことができると考えている。
このように、「和歌→連歌/謡曲」や「連歌→謡曲」といった影響関係のみならず、「謡曲→連歌」や「(他ジャンルの文芸)→連歌/謡曲」といった関係の実例を集積し、室町文芸のもつ表現基盤の多層性を追究することは、室町文学史を構築する上で重要な知見を提供できるものと考えており、その点で本共同研究は大きな意義を有するものであった。
【研究目的】
様々な先行文芸作品を摂取・再構築した文芸である謡曲は、たとえば伊藤正義らの研究成果が『伊勢物語』の享受史研究を推し進めたように、古典文学享受史、ひいては日本文学史の全体像を構築する上で極めて重要な存在といえる。そうした問題意識のもと、特に謡曲文体の基層をなす和歌・連歌表現の摂取の様相を網羅的に検討し、その成果をデータベースとして公表することが、本研究の目的である。室町期の和歌・連歌資料には未紹介のものが極めて多く、新たな発見が十分に期待できる領域であり、そうした知見を生かすことが謡曲詞章の精密な分析・注釈を可能にし、ひいては謡曲を日本文学史上に位置づけ直すための基礎となると考えている。
また、そうした謡曲における和歌・連歌表現の摂取方法を検討することは、和歌・連歌自体の研究にも益するものである。和歌研究の分野では、勅撰和歌集(特に「八代集」)成立期を中心とした平安・鎌倉期の研究は盛んである一方、室町期の歌風研究は極めて低調であり、謡曲における和歌表現の摂取例を網羅的に検討することが、ひるがえって室町和歌の特質を解明する上での示唆を与え、室町時代の和歌研究を活性化させることにも繋がると考えられる。また連歌研究の分野では、従来から発想基盤の次元における謡曲との共通性(連歌の寄合と連想によって繋がってゆく謡曲詞章の構築方法の類似性、等)は多く指摘されてきたが、具体的な表現の次元での両者の比較は未だ不十分であり、そうした点に着目することで両者の関係性をより具体的に解明し、能勢朝次・島津忠夫以降低調であった両者の横断的研究を再び活性化させることができると考えられる。本研究は、謡曲・和歌・連歌の三分野から相互に情報提供を行い、研究を深めあうことで、日本文学史上における室町期の位置づけを再評価し、領域を超えた室町文芸研究の活性化を目指すものである。
本研究で特に注目したいのが、著名な謡曲作者以外の作品、中でも応仁の乱後に成立した後期の謡曲作品群である。謡曲研究の分野では、従来それらの作品は古典文学の世界を夢幻能形式に仕立てただけの類型的作風だとして低い評価を受ける傾向にあったが、むしろそうした作品の基層となる表現類型の強度を解明することで、これらの作品群を再評価し、謡曲作品の総体的理解を再構築するための基礎としたい。また和歌・連歌研究の分野では、この時期は応仁の乱後の復興気運の中で和歌・連歌興行が盛行を見た時期に当たり、後土御門・後柏原両天皇の周辺を中心に豊富な量の資料が残存していることから、同時代の全体的な表現傾向を抽出することが可能である。またこの時期は和歌と連歌との間での人的交流が密接になる時期でもあることから、人物研究・歌壇史研究の成果をも表現研究に反映させることが可能である。以上の理由から、この時期は、室町期の文芸運動を動的に把握し、その中で謡曲・和歌・連歌の三者をそれぞれに位置づける上での糸口となるものと考えており、本研究では特にそうした観点から、謡曲における和歌・連歌表現について深く検討したいと考えている。
(2)研究計画・成果公開の方法
2019年度
「謡曲における和歌・連歌表現の用例データベース」の構築の準備段階として、用例収集における指針の確定及び、そのサンプルの作成を本年度の目標とする。
まず、謡曲・和歌・連歌それぞれの研究の現状と問題点について相互に情報提供を行い、どのような形のデータベースを構築することが三者それぞれの研究にとって有益であるかを考え、データベースの設計方針を決定する。次に、謡曲、特に五流現行曲中に見える和歌・連歌表現を抽出するとともに、同一表現の室町期和歌・連歌における用例を個別具体的に収集・検討することで、データベース〔仮〕を作成していく。室町期和歌・連歌の用例は、新編国歌大観・新編私家集大成・連歌大観等、既に翻刻・紹介がなされているものに加え、未紹介の資料に関しても、国文学研究資料館にマイクロフィルムの蔵されているものを中心に収集を行う。なおこれら未紹介資料のうち、各分野において特に有益と思われるものに関しては、データ収集作業と併行して調査・翻刻を行うこととする。以上の作業・検討によって得られた知見をもとに、向後の実装を期したデータベースのサンプルを作成し、年度末を目標として公開・報告を行う。