ワキ型付「能之秘書」の解読と注釈を通した固定期以前の能演出の研究
研究代表者 中司由起子(能楽研究所兼任所員)
研究分担者 岩崎雅彦(國學院大學非常勤講師)
小田幸子(日本大学非常勤講師)
山中玲子(法政大学能楽研究所所長・教授)
深澤希望(法政大学能楽研究所兼任所員)
大日方寛(ワキ方下掛リ宝生流能楽師)
【2020年度 研究活動】
本研究会が研究対象とするワキ型付「能之秘書」は、すでに全体の翻刻を終えている。2020年度は輪読形式の研究会にて、①本文の確定、②現代と異なる演出の分析、③索引作成に向けた用語と表現の抽出にあたる予定であったが、対面での研究会は難しいと判断し、①本文の確定に集中することにした。メンバーで曲を分担し解釈、その後に全体を統合し問題点を抽出、オンラインにて解釈の問題点を検討する研究会をおこなった。これまでの研究会を通して、見えてきた型付の主な特徴を以下にまとめる。
1、本資料には脱文が数か所あり、衍字や誤字が数多く認められ、原本ではなく、写本と考えられる。書写年代は慶長までは遡らないと思われるが、内容はもう少し古い時代の演出を書き留めている可能性がある。
2、本資料には具体的な演技やその際の心の有様を、「〇〇の心持」や「〇〇の心」といった表現で指示する例が非常に多い。例えば、〈鵜飼〉には「道行の打返より正方へ向。「かねを枕の上に聞」心在之」と詞章を引用し、鐘の音を聞く演技(顔をうつむける)をする、または正面を向いて、鐘を枕に聞く心持(旅情、野宿の心細さを思う)をするという指示がある。ほかにも、〈兼平〉「大夫、中入之時、いかにもふしんなる体をして見る也」のような例も多く見られる。「〇〇の心持」や「〇〇の体」などの表現には、曲によって、具体的な演技を想定できる場合と、あくまでも演技の心持を示す場合、または両方が混然としたような場合があるが、現在ではおこなわない演技であることが多い。詞章に密着し、場面に即した演技や心持を書き留める点が本型付の特徴の一つであるといえる。
3、〈海士〉の「本座へなをる。して、はしかゝりにて、面をふり上候時、「しやくまく」とうたひ出す」は、ワキは本座(脇座)へ座り、シテが橋掛リで面を振り上げる時に「寂莫」と謡い出すと解釈できる。シテが登場する時に面を振り上げるという、現在は演じない動きが記される点も興味深いが、現在は地謡が担当する「寂莫無人声」をワキが謡い出している点が注目できる。ワキが地謡の統率者であったことを示す記述であり、ここからも本資料の内容の古さがうかがえよう。
2020年度は研究会を重ねることが難しい状況であったが、引き続き、解釈の問題点を検討し、本文の確定を完了させたい。
その後は、能楽師の助言や現代につながる所作を書き留めた型付を手掛かりに、現代の演技・演出との違いを抽出、また慶長前後の内容をもつ「福王流古型付」と、寛文以前の下掛リ系統の写本とされる浅野家蔵「脇所作付」との比較分析をおこなう予定である。流儀の違いが認められる点を中心に、今後は福王流や高安流の能楽師にも聞き取り調査も考えている。最終的には本文・注・解題・語釈・索引と、本資料に関連する研究論文の公開を目指している。
【2019年度 研究活動】
本研究会が対象資料とするワキ型付「能之秘書」(流儀不明)は、2018年度中にすでに全体の翻刻を終えている。そこで2019年度は、担当者を決めて内容を分析する輪読形式の研究会をほぼ毎月のペースで、報告書1に示したとおりに開催した。
研究会では①本文の確定、②現代と異なる演出の分析、③索引作成に向けた用語と表現の抽出などの作業をおこなった。また、成立年代や流儀を探るために、江戸時代初期、慶長前後の内容をもつ「福王流古型付」と、寛文以前の下掛リ系統の写本とされる浅野家蔵「脇所作付」との比較もした。現時点では118曲中36曲の作業を終えている。
現在までの作業・分析を通して、見えてきた点を以下に簡潔にまとめる。
1. 本資料は多くの場合、曲名の後にA「装束付、または役の人数と役柄」、B「前場の所作」、C「中入リ後におけるアイとの応答の台詞」、D「後場の所作」という構成で記される。「福王流古型付」と浅野家蔵「ワキ型付」も本資料と同様の構成である。しかし江戸時代初期以降のワキ型付では、Cの「アイとの応答の台詞」が記されることはなく、A~Dの構成で書き留められるワキ型付は、江戸時代初期に特有の形式であると思われる。記された文字の大きさなどから、書写年代は慶長までは遡らないと思われるが、内容はもう少し古い時代の演出を書き留めている可能性がある。
2.本資料の流儀は不明であるが、内容から解明を試みている。例えば、〈白楽天〉には「まくへかゝり、おきつゝみを打せ、笛、ゆりをふき出すをきゝ、まくをいかにもたかく上させ、いかにもしつかに出て、正方にて名乗。次第の時、道行うたひ出す様ニつれ衆と立向」と見える。現行上掛リの〈白楽天〉は「置鼓→名ノリ→次第」と進行し、下掛リの場合は「真ノ次第→次第→名ノリ」となっている。本資料の傍線部を追っていくと、〈白楽天〉は上掛リのやり方を書き留めていることがわかる。また本資料には、弥石源大夫の演じ方に言及する記事がある。弥石源大夫は『四座役者目録』に「(観世)宗節ノ連ヲスル。脇モスル。古キ者ニテ、巧者ナリ」と評される観世座のワキ役者である。よって本資料には上掛リ系統の内容が含まれるといえる。一方で、下掛リ系統とされる浅野家蔵「脇所作付」の内容と近い曲もある。全体を通した系統の解明に向けて、さらなる検討を進める。
3. 本資料には独特の用語が数多く見える。例えば「付く・付かず」「〇〇の心持」「〇〇に心を付け」「なおる」「肌に袷」「縒り狩衣」「正方」などがあげられる。索引作成のために用語を抜き出し、所作や装束、小道具、舞台上の場所などに分類、用語リストを作成している。
2020年度は本文の確定と索引を完了させたい。現在はワキ方下掛リ宝生流の能楽師に現行の演出について助言を得ているが、流儀の違いが認められる点を中心に、今後は福王流や高安流の能楽師にも聞き取り調査を考えている。
【研究目的】
本研究で扱う法政大学能楽研究所蔵「能之秘書」は外題箋に「能之秘書」とあるが、内容は116曲分のワキ方の装束と演技を舞台展開に沿って記した型付である。
ワキ方の古い型付としては、福王流系統の「慶長四年福王脇仕舞付」(表章「京観世浅野家所蔵文書について」『法政大学文学紀要』30号)や「福王流古型付」「盛吉本型付」(伊藤正義編『福王流古伝書集』和泉書院)、観世文庫所蔵のワキ方の型付(50-6-1)が知られ、これらの型付資料は慶長、寛永年間の江戸時代初期に成立したと考えられている。
上記の型付に比べ、本資料は所作単元や舞台上の場所を示す専門用語をほとんど使用しない点、「いかにも不審なる躰にて」「面目なげに言」「恥ずかしげ」などのように、詞章に即した心持や態度を指示する点、見る演技を多用する点等、定型化する以前の古い演技と考えられる特徴が幾つか指摘できる。
また本資料には弥石源大夫の演じ方に言及する記事が見える。弥石源大夫は『四座役者目録』に「宗節ノ連ヲスル。脇モスル。古キ者ニテ、巧者ナリ」と評される人物であり、同書には弥石が観世元頼の演技を見た際のエピソードも載っている。この『四座役者目録』の記述を信じるのであれば、弥石源大夫は元頼(天正元年没か)・宗節(天正11年没)時代の人物であるので、弥石の演技に言及する「能之秘書」には、慶長年間をさかのぼる記事も含まれているといえるよう。
以上のように、これまで知られていたワキ方型付よりも古態を伝える可能性のある「能之秘書」について、本研究では①その資料的価値を明らかにし、②現代とは異なり定型化していないワキの演技の分析を通して、能演出の固定化以前の様相を解明することを目的とする。
【研究計画・成果公開の方法】
2019年度
本研究で扱う『能之秘書』はすでに「能楽資料デジタルアーカイブ」で画像が公開されており、能研には写真版もある。それらを用いた翻刻作業は、2018年度に中司・山中・深澤が終えている。
従って2019年度は月一、二回程度の研究会を開催、メンバーが各自の担当箇所の解読を発表し、本文の確定、注釈の検討をしていく。研究会にはワキ方能楽師の大日方寛氏が参加し、現代のワキ方の視点からも助言をおこなうこととする。
研究会で明らかとなった成果は、各自が学会等で発表をおこない、論文として能楽研究所の紀要や学術雑誌等に投稿し公開をすることを考えている。
2020年度
2019年度に引き続きメンバーによる研究会をおこない、本文の注釈作業をする。
「能之秘書」の本文や注釈・索引等は、紀要や拠点で刊行する研究叢書等への掲載を考えている。能楽研究所紀要や雑誌への論文の投稿も2019年度と同様におこないたい。