謡伝書の日本語学的研究――発音に関する記述を中心として――
- 研究代表者:竹村明日香(お茶の水女子大学基幹研究院人文科学系准教授)
- 研究分担者:山田昇平(奈良大学文学部国文学科講師)
【2022年度 研究成果】
- 論文 山田昇平「『うむの下濁る』という言い習わしの歴史」『国語国文』92巻1号
- 研究発表 竹村明日香「宣長と謡伝書―『漢字三音考』にみる四声観の摂取―」第2回文献日本語研究会(2023年1月28日、zoomにて開催)
- 研究発表 山田昇平「文献上にあらわれる発音規範の言説―何故、近接した時期の文献に四つ仮名記述が集中するのか―」第2回文献日本語研究会(2023年1月28日、zoomにて開催)
本年度は鴻山文庫の謡伝書の悉皆調査を行い、特に、紙焼きになっていない謡伝書において発音に関する記述が見られるのかどうかを調査した。
その調査の中でも特筆すべき発見の一つは、『塵芥抄』、及び『塵芥抄』系謡伝書(『謡書』、『謡之秘書』など)に記載されている四声観を、契沖や本居宣長、荷田春満らといった近世国学者が著書に取り入れていることが判明した点である。契沖・宣長らは、四声(平上去入)のうち、平声(ひょうしょう)を下降調、上声(じょうしょう)を高平調、去声(きょしょう)を上昇調という音調にとらえ、『和字正濫鈔』や『漢字三音考』にて和語の語アクセントを説明する際に用いている(例:「橋」=平声、「宇治」=去声)。この四声観はいったい何に基づくのか、先行研究では長らく不明とされてきた。しかしこれは『塵芥抄』における「三種のトウ」の四声観と一致することが明らかになった。
『塵芥抄』では、平声を「月次の頭」、上声を「人に物を問う」、去声を「弓に巻く藤」という例示文で説明しており、これらのトウの近世期アクセントを見ると、「頭」が下降調(高低)、「問う」が高平調(高高)、「藤」が上昇調(低高)となり、契沖・宣長らが用いていた平声=下降調、上声=高平調、去声=上昇調という四声観と完全に一致する。契沖や宣長は『塵芥抄』や『塵芥抄』系謡伝書が盛んに出回った寛永期以降に生を受けており、また宣長は、少年期に謡曲を多数学んで、謡と関わりの深い人生を送った。そうした時代的背景を主要因としつつも、漢国(中国)のものとは異なる、純粋な皇国の四声観を示そうとして、彼らは日本固有の芸能である謡から四声観を摂取したものと思われる。
また、その他の成果としては、四つ仮名(じぢずづ)に関する通説の見直しを行った。従来、四つ仮名を指摘する記事については、中世末から近世にかけて、歌学書や謡曲指南書で同時発生的に生じているという解釈が一般的であった。しかし各資料を時系列順に並べると、有賀長伯『以敬斎聞書』などの歌学書よりも早い時期に、謡伝書(『闇の夜鶴』など)において四つ仮名の記事が見えることから、謡曲で形成されていた四つ仮名に関する言説が歌学の場に流入することがあったのではないかと指摘した。
その他にも、「うむの下濁る」という中世日本語の連濁に関する言い習わしについて考察した。「うむの下濁る」は、鎌倉後期から中世頃には天台宗の読経の場において用いられていた言い習わしであったが、中世末期以降は宗派から離れた資料(真嶋円庵の謡伝書など)にも表れることから、時代が下るにつれて、あたかも一般的な日本語の発音作法のように扱われるようになったのではないかと指摘した。
なお、謡伝書の発音に関する記事については、資料ごとに翻刻を行っている途中であり、完成を急いでいる。
【2021年度 研究成果】
研究計画に基づき、本年度は以下(1)(2)の調査を行った。
(1)野上記念法政大学能楽研究所に所蔵されている謡伝書を網羅的に調査し、日本語学的観点から見て注目される伝書を選定する作業を行った。その結果、真嶋円庵の著作群(『観世宗雪謡秘書』『うたひ伝受』など)には四つ仮名や開合などの音韻に関する記述が多く確認できること、また、『節章句秘伝抄』や『謡之大事口伝抄』に清音・濁音に関する記述が見られることなどが明らかになった。その他、ガ行・バ行に濁音前鼻音が存在することを窺わせる記述がある『うたひ鏡』や、いろは歌や複数の単語に胡麻章を附して当時のアクセントを示す『金春流詠之口伝集 宗因袖下』などが見いだされ、日本語音韻史に新たな知見をもたらす記述を数多く発見することができた。
(2)上記(1)の資料のうち、特に、連濁や濁音前鼻音、アクセントなど、中世末期の発音が深く関わる記述については、個別に分析・考察を加えた。具体的には、まず竹村が、二種の助動詞「ぬ」(打消ズの連体形と完了ヌの終止形)のアクセントの相違を胡麻章によって説明する条目を検討し、資料間においてどのような記述の差があるのか、また、附された胡麻章は当時のアクセントを正確に反映しているのかどうかといった点を調査した。その結果、この二種の「ぬ」に関する条目は、①『混沌懐中抄』系、②『塵芥抄』系、③『実鑑抄』系、④先行謡伝書からの抜粋系の4系統に分類することができ、打消ヌを高アクセント、完了ヌを低アクセントで示す胡麻章の例も、当時のアクセントに合致していることが明らかになった。そしてこの調査とは別に、『うたひ鏡』における濁音前鼻音の記述についても別個に考察を行った。一方、山田は、謡伝書における「連声濁」に関する記述を調査し、従来指摘のあった抄物の他に、真嶋円庵の著作にも「うむの下濁る」という連声濁の法則に関する記述があることや、室町期の種々の伝書に「本濁」や「新濁」といった連濁に関する言及があることを明らかにした。ただし、真嶋円庵の伝書の記述は、先行諸書の雑多な引用に留まっており、深い考察や解説を行った例は見られないことも同時に明らかにした。例えば、『観世宗雪秘伝書』において引用される「平上去入は依下字、又軽重清濁依上字と相心得申候」という記述は、悉曇学の『反音作法』(明覚著)に端を発するものであるが、伝書内では引用だけに留まっており、後世の『音曲玉淵集』が同文を引用しつつ詳しい解説を試みているのとは対照的な態度となっている。
現在は、竹村・山田ともに(2)の研究成果について成稿中である。これらはまとまり次第、各種学会誌に投稿することを予定している。
【研究目的】
本研究の目的は、室町後期以降に作成された謡伝書の記述を分析し、当時の能関係者らが「失われつつある室町期の発音をどのように発音すればよいのか」という問いにどこまで迫れていたのかを明らかにすることである。具体的には、室町末期から江戸期にかけての謡伝書の中から発音に関する記述を抽出・分析し、それらから、謡ではどのような発音を「室町期の発音」として規範化し、指南していたのかを解明する。
従来のこうした研究では、四つ仮名(じ・ぢ・ず・づ)や開合、連声、ガ行鼻濁音、ハ行の両唇性などについて主に検討されてきたが、本研究ではそれだけにとどまらず、五十音図やアクセント、音韻について詠み込んだ音曲道歌などの例も含めて幅広く調査する。それにより、当時の発音の規範性を明らかにするのみならず、謡ではどのような分析手法で日本語の発音全体を捉えようとしていたのかを明らかにする。