公募型共同研究 活動報告
コンピュータを用いた音楽学的な謡の分析のための基盤研究
研究代表者 伊藤克亘 法政大学情報科学部教授
研究分担者 ラファエル・カロ・レペット ポンペウファブラ大学(スペイン)情報通信学部研究員
研究分担者 山中玲子 法政大学能楽研究所教授
研究分担者 宮本圭造 法政大学能楽研究所教授
【研究目的】
コンピュータで音楽の音響信号を処理し、分析・生成などを行う音楽情報処理技術が進展してきている。しかし、この音楽情報処理技術は、暗に対象を西洋音楽に基づくものとしている。したがって、能の謡のように、それにあてはまらない音楽を処理しようとすると不都合がある。この問題に対し、西洋音楽特有の特徴を共通の前提とせず、様々な伝統音楽の文化的独自性を考慮しつつ、新たな共通の処理体系を構築しようとする試みがコンピュータ音楽学プロジェクト(CompMusic)である。これらの動向をふまえて、能の音楽的独自性を考慮し、これまでの音楽学、音楽情報処理の知見を活かせる研究基盤の整備を目的として、次の2項目を行う。
1) 五線譜(本稿では、西洋音楽の標準的な楽譜をさす。以後五線譜と略す)と音響信号を謡本と併用する楽曲および楽曲音響信号分析方法の確立
2) 能楽の音楽的側面に関する用語およびその説明の英訳の整理
【研究方法】
1) 五線譜と音響信号を謡本と併用する楽曲および楽曲音響信号分析方法の確立
謡本に加えて、五線譜と音響信号を併用して分析する手法を確立することで、音楽学や音楽情報処理の従来の知見を導入しやすくする基盤を確立する。
五線譜は謡を分析するには不十分であることから、これまでの謡の音楽学的分析は、能の音階だけを考慮した独自形式を用いて行われることが多い。しかし、楽譜と音響信号、さらにその分析結果もコンピュータで簡単に相互に関連づけて扱えるようになってきた現代では、新たな可能性がある。したがって、音楽学や音楽情報処理の知見を活用するためには、五線譜も併用できることが望ましい。
西洋音楽でも五線譜通りでない表現はいくらでもある。それらの現象についても、徐々に音楽情報処理の研究対象となってきている。しかし、楽譜通りでない表現の扱いはそれぞれの現象で個別に五線譜を例外処理しているのが実情である。謡本を五線譜にしようとすると、「廻シ」のように特定の音符には伸び縮みを許すなどの表記ができることが望ましい。このような現象について、なるべく明示的に表記できる枠組を考案することは、他の音楽の処理に対しても有用であろう。
2) 能楽の音楽的側面に関する用語およびその説明の英訳の整理
音楽学や音響情報処理の従来の知見を導入しやすくするためにも、謡の音楽的現象が、他の音楽とどのように共通性があるのか、どのように差異があるのかを正確に把握する必要がある。能の音楽について正確に伝えるためには、独自の現象はそのままローマ字表記で使うべき面もあるだろう[中司 2009](書誌情報は[研究状況]に記載)。しかし、音楽の専門家であるがアジアの音楽や日本の音楽を知らない人には、そのままの能楽用語より音楽用語を用いた説明がわかりやすい面もある。[中司 2009] ですでに能楽用語の翻訳リストが作成されているが、出典がおおむね演劇・文学的な分野の文献であり、音楽学的な文献の調査が不足している。したがって、音楽用語を十分にカバーできていない、音楽用語として必ずしも適切な訳でない、などの問題が想定される。そこで、音楽学的な文献から能楽用語の翻訳リストを作成する。
【期待される成果】
西洋音楽だけに留まらず、他の非西洋の伝統音楽も対象とした音響分析手法を取り入れられるようにすることで、謡の技法について客観的に捉えられる部分を増やす。その結果、確率・統計的な分析を可能にし、決定論的な議論が難しかった技法の分析(ナビキの分析など)を実現できるような基盤を目指す。
そのような枠組が実現できれば、多くの音楽から所望の音楽・楽曲を探す音楽検索や、歌詞とメロディの対応を自動的に取る歌詞アラインメントなどの音楽情報処理の成果を能の音源や動画に利用できるようになり、字幕の自動生成やその自動翻訳などにも役立つ。
これらにより、伝統音楽やいわゆるワールドミュージックなどに興味があるが、能楽のことはよく知らないという層にも能楽を知る機会を増やすことも期待できる。
【何をどこまで明らかにするのか】
現行の謡本を五線譜に変換する方法を明らかにする。観世流の謡本でよく使われる符号には対応する予定である。変換した結果を用いて、ツヨ吟、ヨワ吟の代表的な節回しについて、楽譜と音響信号の対応がとれるようにする。
また、代表的な音楽辞典の能楽用語の翻訳リストを作成する。
それらを用いて、「ナビキ」に関して、一般的な西洋音楽やアンダルシア音楽、インド音楽、京劇などのビブラートの分析手法を適用し、類似点と相違点を明らかにすることで、本研究の枠組の妥当性を明らかにする。
【特色】
謡本と対応させて音響信号の分析結果を用いる。それにより、個々の現象に対して音響的特徴量(高さや速さ、音色に関する数値)の統計量を用いることができるようになる。確率・統計的な説明は絶対的ではない、柔軟な説明を可能にする。これにより、従来は説明しにくかった、例えば、「ナビキは人によって違う」などと表現されていた現象を説明できるようにする。
また、説明には音楽学の用語を用い、音楽学の観点から能の音楽について議論できる基盤を目指す。
【研究活動】
謡の音響信号分析方法に関しては、市販の素謡のCDの音声データを分析したグラフと謡の解説書および従来研究における楽譜を対応させて観察した。その結果、音高に関しては、西洋音楽と比較して、ビブラートが大きいこと、楽譜上は同じ音程となる音符の音高がフレーズ内でも何音分も変化することが判明した。また、西洋音楽の楽譜は音の開始点が基準となっているのに対し、謡では音の開始点は演者によって変動する。そのような特徴を踏まえて、西洋音楽の楽譜ではなく、従来の謡の解説書が採用しているような連続的な表記法を基に、実際の音高を反映するように拡張した記法を開発した。
さらに、謡本の情報を用いて、音響信号から提案した表記法の旋律を推定する手法を開発した。この手法を用いると、同じ旋律に対し、異なる演者が開始点の異なる謡い方をした場合でも、似た形状の旋律が推定できることを確認した。この記法は、西洋音楽の楽譜に変換可能である。その特徴を活かし、Vocaloid (歌声シンセサイザー)により、推定された旋律の妥当性を受聴により確認した。
この成果はコンテンツ処理に関する国際会議で発表し、Best Paper Award を受賞した。
謡の用語の英訳に関しては、定訳がほとんど存在しないことが確認できた。そもそも、謡に関しては、音楽的特徴が豊富なのは装飾音やメリスマ(音程を変化させながら一つの音節を引き延ばす歌唱法)である。これらに関しては、音楽学においても術語が未整備である。さらに、それらの多くは西洋音楽であまり使われないような現象であり、日本における能楽研究でどのように記述されたかの調査が必要である。また、謡の旋律に関する用語は、英訳自体は直訳であっても、同時に西洋音楽の楽譜の装飾音記号を用いて説明している例が見られた。
【成果】
“Melody Transcription Framework using Score Information for Noh Singing,” Katunobu Itou, Rafael Caro Repetto and Xavier Serra, CONTENT 2016, Rome, (2016/3) (Best Paper Award)