和歌・連歌との比較を通した謡曲修辞技法の学際的研究
研究代表者 浅井美峰(明星大学人文学部非常勤講師、東京経済大学全学共通教育センター非常勤講師、お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科博士後期課程)
研究分担者 川上一(慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程、日本学術振興会特別研究員DC2)
中野顕正(日本女子大学文学部学術研究員、都留文科大学文学部非常勤講師、実践女子大学非常勤講師)
【2020年度 研究活動】
1.研究の目的と遂行方法
謡曲詞章のうち、物語内容の理解に直接資さない韻文的レトリックの表現分析は、従来検討の遅れてきた領域と言えよう。その分析の上では、まずは和歌研究や連歌研究の方法論を借り、それらの修辞的論理に基づいて検討を試みた上で、そことの距離を測定し、謡曲独自の表現論理とは何だったのかを考えてゆく必要がある。本研究はそうした問題意識のもと、和歌・連歌と謡曲との修辞上の関係や距離を考察することによる、新たな謡曲の注釈方法の構築を目指したものである。今年度は、そうした方法論構築に向けての足がかりとして、検討対象曲を数曲選び、分析を行うこととした。その際、下記の意図および方法によって検討対象の選定を行った。
(1)謡曲詞章の構築に韻文的レトリックが積極的に取り入れられる上で重要な役割を果たした世阿弥の作品を中心に、いわゆる歌舞能的作品を主たる検討対象とした。
(2)諸曲を横断的に検討する上で、まずは類型性の強い作品群を検討対象とすることが、作品や作者ごとの特色をあぶり出す上で効果的と考えた。また、まずは作品主題の明確な曲を検討対象とすることが、分析の上での手がかりになると考えた。これらの意図のもと、脇能から検討を始めることとした。
(3)検討対象とする詞章の箇所についても、類型性の強い小段を取り上げることが効果的と考えた。その上で、韻文基調の小段の中でも、叙事的志向性を有する[クセ]等より、叙情的傾向の強い[下ゲ哥・上ゲ哥・哥]等のほうが、その読解に和歌・連歌の研究手法を援用する必要性がより高いものと考えた。こうした意図のもと、まずは[上ゲ哥]から検討を始めることとした。
(4)検討対象曲の優先順位をつける上では、上演記録数や伝本状況などの観点から見て当時著名であったと推測される作品を優先することとした。
こうした意図のもと、まずは世阿弥作の脇能《高砂》《呉服》《老松》《弓八幡》《難波》を検討対象として取り上げることとした。その中でも、まずは試験的に《高砂》について深い注釈的検討を行うことで、方法論の確立を目指すこととした。
なお、申請書の段階では[上ゲ哥]の中でも特に道行に着目するとしていたが、そもそも道行が[上ゲ哥]全体の中で特にどのような特徴を有しているのかを確認する必要があると考え、今年度の研究では道行以外の[上ゲ哥]についても検討対象に含めることとした。また、本来であれば検討対象曲の諸本異同についても確認する必要があるが、コロナ禍ゆえ外出が憚られたという事情もあり、今年度は方法論の構築に時間を割くことを優先した。そのため、ひとまずの措置として、検討は現行詞章に基づき、朝日古典全書・日本古典文学大系・新潮日本古典集成等を適宜参照した。本研究は、2019年度共同研究「謡曲における和歌・連歌表現の用例データベース構築」(代表・川上一)を継承したものである。
2.今年度の成果
今年度は《高砂》を例に、[上ゲ哥]の詞章に関連する和歌・連歌表現の用例を蒐集し、表として一覧した。謡曲詞章と和歌・連歌との関係性は、従来も検討されていた問題であるが、それらは本歌・本説等、明らかな影響関係が想定できるものが中心であった。本研究では、むしろ影響関係が定かでない和歌・連歌と謡曲詞章との間の類想表現に着目することとした。これらの用例を集積することで、謡曲作者の韻文リテラシーを把握し、また後代の韻文修辞における謡曲との影響関係を明らかにすることが出来ると考えたためである。こうした問題意識のもと本表では、[上ゲ哥]の詞章を一句毎に掲出し、それらに類似する和歌・連歌の表現を掲出した。和歌の検索には『新編国歌大観』・『新編私家集大成』を、連歌には「連歌データベース」を利用した。用例の選定については以下の二点を基準とした。
①語と語の組み合わせが特徴的であるもの
例)さしも思ひし播磨潟、高砂の浦に着きにけり(1・上ゲ哥)
播磨潟-高砂 →播磨潟なだのみおきは風あれて高砂めぐる夕立の雲(中書王御詠〔宗尊〕・七六)
②語と語の連続性が詞章と一致するもの
例)船路のどけき春風の(1・上ゲ哥)
のどけき春風 →やはらげるときの心をうくるなれや吹くものどけき春風の声(光厳院三十六番歌合貞和五年八月・一〇・俊冬)
これらの用例を、和歌は謡曲の成立以前と以後(以下【謡曲以前】・【謡曲以後】)、連歌は単独で項目を立て(以下【連歌】)、謡曲詞章との影響関係を検討した。以下、分析を通して明らかになった点を述べる。
⑴既存の和歌修辞との関係性
その一は、直接の参照関係を有しない既存の和歌表現との関係性である。たとえば、《高砂》の詞章、「月もろともに出で汐の(7・上ゲ哥)」の類似表現には、【謡曲以前】に、以下の用例が認められる。
Ⅰ在明の空に千鳥の声すなり月のいでしほみちやしぬらん(文治六年女御入内和歌・二一九・実定)
Ⅱ在明の月もろともにいでしより心は雲の上にとめてき(林下集〔実定〕・三〇一)
《高砂》作者世阿弥が、これらの詠を参照した確証はなく、直接的な影響関係は認めがたい。しかし「月の出」に「出で汐」を重ねた修辞(Ⅰ)、「月もろともにいでし」という表現(Ⅱ)の類似は、当該詞章が既存の韻文レトリックを援用して構成された可能性を示している。同様の例は、「なほいつまでか生の松(2・上ゲ哥)」→かずならぬ心づくしにながらへていつまで世にか生の松原(風情集〔公重〕・七六)、つれもなき君に心をつくしきていつまでか世に生の松原(民部卿家歌合・二〇二・実快)。「枝を鳴らさぬ御代なれや(3・上ゲ哥)」→吹く風も枝をならさぬ御代にあひて花も心やのどけかるらむ(正治二年石清水若宮歌合・一二・顕昭)、山桜をりなつかしく吹く風も枝をならさぬ御代としらずや(宝治百首・五七六・有教)等、複数認められる。こうした用例の集積から、従来の研究よりも広く、謡曲詞章構成上の技法と、伝統的韻文芸の修辞技法との関係性を明らかにできるものと考える。
⑵後代の和歌・連歌修辞との関係性
その二は、謡曲から後代の和歌・連歌への影響である。《高砂》の詞章、「あひに相生の、松こそめでたかりけれ(3・上ゲ歌)」に登場する「相生の松」は、『古今集』仮名序に、「高砂、住の江の松も相生のやうにおぼえ、」とあって以降、頻用される歌語である。「君が代にあひおひの松もとしをへてももたび春の色やかはらん(正治後度百首・八九五・宮内卿)」。ただし《高砂》詞章「あひに相生」(共に寄り添って生える)のように、「あひに」・「あひおひ」の二語を併用する例は【謡曲以前】には認められない。確認されるのは、【謡曲以後】である。「いはひつる松に契りて君と臣あひにあひおひの春の藤波(後水尾院御集・一六五)」「咲きてとくちらぬためしぞ光なき谷にやあひにあひおひの松(後水尾院御集・一二六五)」。同様の修辞は【連歌】においても認められる。「梅やなぎあひにあひ生の色か哉(大発句帳・四八八・紹巴)」いずれも《高砂》が膾炙した時代の作であり、こうした新たな修辞の創出には、前掲詞章の影響が想定される。同様の例はこの他、複数みえる。「船路のどけき春風の(1・上ゲ哥)」→心なき海士も春とや祝ひ島舟路のどかに波ぞかすめる(拾塵和歌集〔政弘〕・雑上・七六〇)、舟ぢのどかに風もおとせず(文明八年五月兼良点何木百韻・六二)、あと遠く過行く舟路のどかにて(延徳二年九月二十日山何百韻・八七・良珠)、鳫渡る舟路のどかに海のうへ(天文二十三年十月夢想百韻・五)、※「船路」・「のどけき/のどか」を併用する例。【謡曲以前】に所見なし。「国も治まる時つ風(3・上ゲ哥)」→和歌の浦いまぞをさまるときつかぜ芦辺のたづも声のどかにて(雪玉集〔実隆〕・二二八二)、※「治まる」・「時つ風」を連続させる用例。【謡曲以前】に所見なし。このように、和歌表現の用例を謡曲成立の前後に分け、謡曲と同時期に盛行した連歌の表現と複合的に分析することで、検討の遅れていた「謡曲」→「和歌・連歌」の影響関係がより明確になるだろう。
3.次年度の課題
今年度の研究によって研究の方法論をほぼ確立できたことから、次年度はより幅広い作品を対象として検討を行い、さらに成果を積み上げてゆきたいと考えている。なお、今年度の研究の中で道行に限定せず[上ゲ哥]全般を検討対象としてみた結果、道行だけでなく一曲中の[上ゲ哥]を全て検討してゆくことが有意義であるとの結論に至った。それゆえ、次年度についても[上ゲ哥]全般を検討対象にしたいと考えている。こうした注釈的検討作業によって得られた知見のうち、特に重要と思われる用例については、論文化などによる公表を想定している。また、将来的に検討対象をさらに広げ、その中で成果が積み上がってゆけば、注釈成果じたいの公表も可能となると考えている。
【研究目的】
本研究の目標は、謡曲の文体・表現面における特質を和歌・連歌の修辞的表現との比較によって明らかにし、併せて室町期文芸における謡曲の位置を考察することにある。室町期の文芸は個々のジャンルごとに研究が進められているものの、室町期の文学史を分野横断的に考察する研究は従来ほとんど行われてこなかった。謡曲は、中世の様々な文芸を縦横無尽に典拠としている点において、分野横断的に文学史を考察する上での重要な視座を提供するジャンルと考えられる。本研究においては、和歌・連歌との比較を例に、謡曲を軸とした同時代文芸との交錯を考察することで、室町期文芸の諸相を立体的に理解するための端緒としたい。
なお本研究は、2019 年度共同研究「謡曲における和歌・連歌表現の用例データベース構築」(代表者:川上一)を引き継ぐものである。
1.謡曲の文体・表現面における特質の解明
先年度は、謡曲と和歌・連歌における修辞上の類似性を考察するための手がかりとして《賀茂》《班女》の 2 曲を例曲として取り上げ、一曲を通して和歌・連歌的修辞表現がどのように使われているかの検討を行ったが、その過程で、道行・初同・クセ等の小段ごとにおける和歌・連歌的表現の用例分布の傾向を把握することができた。言うまでもなく、謡曲の修辞技法を考察する上では、小段ごとの性格や一曲中での位置づけを考慮に入れることが不可欠である。そうした問題意識のもと、当課題においては用例検討対象曲を広げ、小段単位で曲目横断的に修辞技法を検討することにより、各小段のもつ修辞的性格を考え、併せて題材や作者・成立年代ごとの表現技法の特質を比較検討することを目指すこととする。
2.室町期文芸における謡曲の位置の考察
先年度同様、当課題でも、用例採取にあたっては同時代の和歌・連歌用例との比較を中心に行うこととする。従来、謡曲と和歌・連歌との関係性を考察する上では「和歌・連歌から謡曲へ」という一方向的関係が想定されるに留まっていたが、先年度の調査において「謡曲から和歌・連歌へ」という影響関係も見られることを確認できた。当課題でもそうした双方向的な影響関係への探求を続けることによって、室町期文芸における謡曲の位置を解明してゆきたい。
データベースの構築を最終目標とすることは先年度の共同研究の通りだが、必ずしも当課題の期間内でのデータベース公開には拘らず、まずは用例蒐集を重ねて基礎的なデータを蓄積し、その中で個々の事例の特質や同時代文芸の中での広がりを検討することに特化してゆきたいと考えている。