「能楽意匠」の研究―基本と変容の検証―
- 研究代表者:門脇幸恵(女子美術大学芸術学部非常勤講師)
- 研究分担者:池田芙美(サントリー美術館主任学芸員)
- 研究協力者:Khanh Trinh( Museum Rietberg、Curator)
- 原田一敏(ふくやま美術館館長)
- 宮本圭造(法政大学能楽研究所教授)
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【2022年度 研究成果】
【1】 鴻山文庫の「部分謡本」の悉皆調査を行い、挿絵を抽出して特徴を以下に整理した。
A.部分謡に合致する場面の登場人物を景観と共に描いたもの。
1.元禄三年正月 山岡四郎兵衛刊『頭書絵入 小うたひ百番』。(図1)
2.明和八年仲春 花屋久次郎刊『絵入小謡』他
B.「能絵」に近く、舞台上のみを描いたもの。
1.刊年不明(明和頃カ)勝尾屋六兵衛 題不明「絵入小謡」他(図2)
C.劇画的表現で能を描いたもの。
1.享保二十年刊『謡曲画誌』中村三近子編 橘守國画 (図3)
2.享和二年正月再板 鶴屋喜右衛門 『観世当流 歓声小謡酒宴楽』他(図4)
D.『訓蒙図彙』の手法で、面・装束・冠・手道具・作り物等諸道具類を描いたもの。(図4)
1.貞享四年刊『能訓蒙図彙』国立能楽堂
2.元禄十二年『舞楽蘂葉大全』他
【2】 工芸作品における「能楽意匠」の特徴の整理。
A. 「能」の内容に即した作品。
a.本説から「能」へと導かれる作品。
1.「男山蒔絵硯箱」
b.能の主題を象徴的に表した作品。
1.「菊慈童蒔絵手箱」
2.「船橋蒔絵硯箱」
3.「野宮蒔絵硯箱」
*これらに関しては、内田篤呉氏の先行研究『能と狂言17』参照
B.「部分謡」からのみ連想される意匠作品。
1.「波兎」の検証
小謡本の「竹生島」には「緑樹蔭沈んで 魚樹に登るけしきあり 月海上に浮かんでは 兎も波を走るか 面白の島のけしきや」が掲載されている。
能「竹生島」の上演は室町時代にはほとんどなく、金春安照が慶長頃に盛んに舞った(宮本圭造)とのこと。兎の意匠は戦国武将の兜のモーチーフにもなっているが、これは兎が俊敏かつ後ろへ移動できない習性を愛でたものだと考えられており、兎=能「竹生島」ではない。では「波兎」の意匠作品が流布した要因には「小謡本」の刊行と並行した小袖のデザイン帳である「雛型本」の出版の影響が大きいと考え、小袖模様雛型本の調査を始めた。
C.「雛型本」の研究
染織作品の雛型本の初出と考えられている寛文六年刊『御ひいなかた』には、「能楽意匠」と考えられる作品が散見できるが、その中に「月うみのうへに兎のもやう」と記された作品がある(図5)。『御ひいなかた』は直截的に「能楽意匠」を扱うのではなく「絵解き」的遊び心で意匠を表している。従って「富士太鼓」(図6)も鳥兜ではなく、太鼓と藤の花房で暗喩させている。
また、元禄三年刊『高砂ひいながた』は、暗喩ではなく「能」の演目を象徴させる花木と曲名の文字模様で全作品を表している(現在存在が確認されている上巻だけで46曲の能楽モチーフ作品が掲載されている)。そうした雛型本の影響力の大きさは、ダイレクトに見る側にインプットされるビジュアルの力であることは言うまでもないが、それらを支えた文化的基層に「小謡本」があって、相乗的に流行を動かしていたのだと考える。
「波兎蒔絵旅櫛笥」(図7)の兎はとても耳が長く、その表現は『御ひいなかた』の兎の表現と極めて近い。こうした共通点の検証は染織意匠と蒔絵意匠ではあっても制作年代考証の手がかりの一つとなり得ると考える。
一方【1】A-1の『小うたい百番』の「竹生島」の前場の世界観を描く挿絵にも、月と波の上を走る一羽の兎が描かれている(図8)。『御ひいなかた』で「竹生島」を暗示させていた「波兎」も、二十余年後には「小謡本」において「波兎」=「竹生島」として掲載されるに至ったのだ。雛型本の調査も「謡本」同様に進めたい。
【3】 今後の研究展望
本研究チームは分野も所属も異なる学芸員で構成し、意匠の中に一ジャンルを築くと言っても過言ではない「能楽意匠」の歴年指標を見出すために能の文献の必要性が大きいことを感じて調査を行っている。漠とした「能楽意匠」の変遷を実物資料と文献調査により検証を重ね、展示に反映させることで能楽文化の振興を図りたいと考えてのことだ。有形作品とは異なり芸能は無形であるが故の難しさがある。しかし、無形の芸能の歴史は有形の作品からしか知り得られないのだ。文献の扱いとは異なるそれぞれの分野における決まり事や注意点がある。そのためにも学際研究を重要と考える。コロナ禍も落ち着きをつつある。更に共同調査の機会を増やし研究を進めたい。【2022年度 研究目的】
工芸作品に施された意匠には「能楽」をデザインソースとしている作品がある。こうした意匠作品の多くは、近世から近代に至るまでに制作された工芸作品(染織、漆工、陶芸、美術、刀装具等)と考えられているが、その表現には、(1)能の内容と密接に関連するものや、(2)直截的に能の小道具や作り物を描いたもの、(3)演目名や詞章の一部から連想される事物を表象したものなど様々だが、便宜的に「能楽意匠」と呼ばれている。
「能楽意匠」の作品名称には、A,発注者が命名したもの、B,工芸作家自らが命名したもの、C,後の所蔵者が命名したもの、D,各部門の研究者が「絵解き」解説したもの、など様々だが、個々の能楽に対する知識や距離感によって大きく表現方法が異なっており、極めて曖昧である。しかし、こうした意匠が量産された背景には、近世の出版文化の発達と、そこから発信された能楽の情報に依るところが大きいと考える。
本研究では、「能楽意匠」とされる作品のデータ収集を行い、図像学的に整理、分類し、部門研究の中で紹介されている情報を「能本」や種々「謡本」、そして「往来物」をはじめとする年紀の解る文献類の時系列で再検証を行うことにより、能楽の需要と変容の流れを読み解きたいと考えている。さらに、その情報を基にデータベースを作成し公開することにより、能楽研究のみならず、国内外の日本美術研究者及び博物館学芸員等が利用可能な指標として能楽振興の一助となることを目指すものである。【研究計画】
- 1-1. 国内外の博物館・美術館が所蔵する工芸作品(染織、漆工、刀装具、陶磁器、絵画等)の所在情報と主だった意匠の収集。
- 2. メーリングリスト並びに情報収集用基本フォーマットの作成。
- 3. 学芸員ネットワークによる情報収集開始。
- 4. データベース用のフォーマット作成。
- 2-1. 大名家伝来作品の調査を行う。
- 2. 「御道具帳」の調査を行う。
- * サテライト的に、所蔵館の学芸員及び大学図書館の研究者に協力者としての参画を依頼する予定。
- 3-1. 能研の「謡本」、特に部分謡や「往来物」の調査による「意匠」の整理開始。