『洋々集』の研究
- 研究代表者:藤田隆則(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター教授)
- 研究分担者:高橋葉子(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター客員研究員)
- 丹羽幸江(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター客員研究員)
- 坂東愛子(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター共同研究員)
- 研究協力者:荒野愛子(京都市立芸術大学音楽研究科日本音楽研究専攻修士課程)
【2022年度 研究成果】
- 論文 荒野愛子2023『能の謡における作曲とは何か–小段[クセ]の分析を中心に』京都市立芸術大学音楽研究科日本音楽研究専攻修士論文(このうち、第1章3節「地拍子の基礎–『洋々集』の紹介を兼ねて」)
『洋々集』の上巻、中巻、下巻まで、すべての部分の翻刻、あげられている謡の事例をすべて八割化する予定で作業をすすめたが、作業は、下巻の途中までで終わった。当初計画したスピードが維持できなかったのは(1)例として挙げられている謡の前後の部分も合わせつつ八割化したこと、(2)八割化の過程で、観世流だけではなく、梅若、喜多、宝生、金春などとの異動に目を向けたこと、(3)作業しつつ、例として挙げられている類型の、表現上の機能を考察していったこと、(4)後世の地拍子研究(三宅こう一、佐藤芳彦など)をも比較・参照しつつ読み進めたこと、などの理由による。
『洋々集』の上巻の記述は、謡の上句の文字数に焦点をあてるという、地拍子の基礎的、常識的なところに、およそとどまっているが、中巻になると、対象は、下句に向けられる。下句が、次の句の上句へどのようにつながるか、それが細かく分類されて、下句から見た「間」の類型化がなされている。下巻では、特殊な地拍子のあたり方が類型として紹介され、謡には、一定の表現や効果をねらって、個別に作曲された部分が存在していることが、明らかにされる。
小段内の旋律型が、類型化してとらえうるという感覚は、謡を多く歌ってきている方々には共有される感覚だが、『洋々集』は、類例を集めて列挙することで、その感覚を体系的な知識として示しているのが興味深い。とくに中巻の仕事(下句に焦点をあてて旋律を類型化したこと)は、明治時代から多様に展開する地拍子研究よりも半世紀以上遡る仕事である点において優れた業績である。
八割による図示つまり全体を上から見下ろす地図のようなかたちではなく、進行していく中の感覚(いわば地上を走るときの目の前の風景)で捉えようとしている点で、『洋々集』は、江戸期の歌い手の拍子の感覚的な捉え方に関する、貴重なドキュメントとなっている。そういった感覚的な把握は、著者独自の地拍子用語、たとえば「6文字の分量」などのように使われる「分量」の概念などに表れている。
【研究目的】
鴻山文庫におさめられている『洋々集』は、能の謡のリズム・拍節法(地拍子)の歴史を見渡す上で、重要な文献のひとつであるとされてきた。なぜ重要かと言えば、(1)いわゆる近古式ではなく、現代式の地拍子フォーマットを規範として示している最初の文献のひとつであること、(2)「大乗(おおのり)・中乗(ちゅうのり)・平乗(ひらのり)」という現代でも使われている用語を、もっとも早く使用した文献のひとつであること、などによる。
ただし、『洋々集』の中心は、そこにあるわけではない。その中心は、膨大な数の謡の一句一句を、文字数や節回しを基準にしながら、細かくパターン化し、分類して示している点にある。その意味で『洋々集』の仕事は、20世紀に大きく開花した謡の地拍子研究の先駆けとなるものであるが、挙げられている全てに対して、批判的な検討を加える研究は、これまでにはおこなわれてこなかった。
また『洋々集』には、地拍子について説明するための独特な用語もみられる。たとえば「文字数の産み字」「文字運びの産み字」などは、現代では用いられない表現である。これは、20世紀以降の地拍子研究とちがって、『洋々集』が基本的に、八割譜などによる図示にたよらないやり方で、説明をおこなおうとする点に由来すると考えられる。これらの独特な用語法は、謡のリズムを上から見渡す(外側からみる)のではなく、より実践的な感覚から(内側から)捉えていくための用語であり、その詳しい解釈が必要となる。
本研究では、『洋々集』がとりあげているすべての謡の実例の1句1句を明快に把握すること、つまり、すべての実例を「八割」の形式に置き換える作業を、第1のゴールとする。つづいて、挙げられている膨大な実例が、謡の小段(曲節)の中において、どのような位置をしめているか(いいかえれば、その句の前後にはどのような旋律が来ているか)をあきらかにして、たんなる1句(1クサリあるいはその半分)の大きさ内での類似性、共通性を明らかにするだけではなく、複数のクサリのまとまり間の類似性の発見を目指す。
研究の成果は、(1)『洋々集』全体の翻刻、(2)すべての実例1句1句の八割化、(3)増シ節の配置法の分類、そして、(4)それらを実際の謡本と照合させること、以上の4点に定める予定である。これらの成果は、謡の拍節法研究、ひいては旋律研究、作曲研究のための、新たな基礎資料のひとつとなるはずである。
【研究計画】
『洋々集』については、鴻山文庫におさめられる本のほかに、早稲田大学におさめられた本が存在することが知られている。両者を見合わせて、翻刻をおこない、エクセルを使って八割化の作業をおこなう。八割化の初期作業については、学生のアルバイト(荒野愛子氏)を雇用して、たたき台を作成させる。研究分担者を含む全員のメンバーで検討する会をもつ(オンラインにて定期的に開催)。なお、八割化にあたっては、『洋々集』にとりあげられた部分の前後の部分も含めておこなう。
翻刻作業も2022年度中に完了させ、ひととおりのデータ化をすませる。