「新纂謡曲引歌考」の作成と謡曲における歌枕摂取の研究
- 研究代表者:中野顕正(弘前大学人文社会科学部助教)
- 研究分担者:浅井美峰(大阪大学人文学研究科准教授)
- 研究分担者:川上一(国文学研究資料館助教)
【2023年度 研究成果】
- 論文 中野顕正「能《国栖》の構想」(『能と狂言』21、2023年12月)
- 研究発表 浅井美峰「連歌の場と歌枕」(和歌文学会関西例会、2023年12月、於・神戸女学院大学)
本共同研究では、(1)謡曲における古歌摂取の俯瞰的・網羅的把握、(2)謡曲(特に道行謡)における歌枕利用の注釈的検討、の二点から、謡曲に含まれる和歌・連歌由来の表現について検討を行うことを計画していた。
このうち(1)については、佐成謙太郎『謡曲大観』首巻所収「謡曲引歌考」を表形式のデータとして整理し、その後に刊行された謡曲注釈における新たな指摘をそこへ追加反映するという作業を進めている(仮称「新纂謡曲引歌考」)。特に、新潮日本古典集成『謡曲集』に代表される伊藤正義氏の研究により、古今注・伊勢注・中世日本紀などの領域が謡曲の基盤として評価されるようになったことが研究史上重要であることから、同書の頭注に指摘される本歌・参考歌等の追加入力を優先的におこない、本年度のうちにその3分の2程度を終えることができた。また、佐成謙太郎「謡曲引歌考」を研究利用する際の不便な点の一つに、その用例が音曲構造上のどういった場面に位置しているのかを明示しておらず、そのために一見しただけでは作中における用例出現箇所の把握が難しいという点が挙げられることから、「新纂謡曲引歌考」においては、さらに用例を日本古典文学大系『謡曲集』の本文(段番号・小段名を含む)とも紐付ける作業を進めることで、現在の能楽研究の水準に堪え得るものとした。
この「新纂謡曲引歌考」作成事業における今後の課題としては、第一に底本の問題が挙げられる。現状、同一叢書内における収録曲数の点で『謡曲大観』が今なお最大であることから、同書所収本文(底本は観世流昭和版)をひとまずの底本とし、同書の頁行数を用例と紐付ける形を採ったが、今後、公開に向けてデータを整理してゆく中で、何を底本とするのが望ましいかにつき、データ公開の場所・方法との関わりの中で再度検討したいと考えている。また、今後の課題の第二として、段番号・小段名の表示をめぐる問題が挙げられる。すなわち、日本古典文学大系『謡曲集』不収曲についての扱いをどうするかや、同書所収曲であっても底本の関係で現行演出とは段数がずれる場合(アシライアイの有無など)にどのような処理をするかといった点で、基準となる指標を設ける必要があると考えている。この点についても、実際の公開が近づいた段階で、データ公開の場所・方法との関わりの中で検討したい。
また(2)については、本年度は《阿古屋松》《敦盛》《蟻通》《鵜羽》の4曲につき検討をおこなった。但し、注釈的精読研究を行うためにはどうしても一曲ごとに多くの時間を要してしまい、限られた期間内で今後の研究の発展に資する基盤的成果を提示することは困難であるとの結論に達した。そのため、データの構築による研究基盤の提供を早期に実現することが優先されるべきと判断し、年度の後半ではこの精読研究は一時中断して「新纂謡曲引歌考」の作成を優先することとした。そうした経緯から、本年度の検討曲数は4曲のみに留まることとなった。
なお、本事業を遂行する中で見えてきた、研究資源としての「新纂謡曲引歌考」の意義について示しておく。「新纂謡曲引歌考」によって謡曲の和歌索引が提供されることは、謡曲じたいの研究に資するのは勿論のこと、室町期の他の文芸ジャンル(和歌・連歌のほか、室町時代物語〔お伽草子〕など)の研究においても頗る有用なものと考えている。その背景には、室町期文芸の中で注釈的研究の成果が一定の質・量を伴って提供されているのはほぼ謡曲のみに限られるという事情がある。「新纂謡曲引歌考」は、同時期の文芸享受者に広く知られていた古歌がどういった範囲に収まるのかを窺わせる有益な指標となるものであり、それは即ち、室町期の文化人層における和歌的教養基盤の内実を窺わせるものと言える。このことは、能/謡曲の研究が日本文化史研究の上で重要な役割を担い得ることの一証となるものと考えている。
【研究目的】
謡曲は、前時代・同時代に存在していた様々なジャンルの文芸や文化事象を縦横無尽に摂取することで成立している。従って、謡曲詞章を注釈的に読解分析し、その内容を適切に把握する上では、それらの様々な文芸や文化事象についての知識・知見を援用する必要がある。しかし、謡曲の前提となった諸文芸の中でも特に和歌・連歌研究の領域は、他分野の研究者に介在の余地を与えないほどに独自の体系が出来上がってしまっており、ジャンルを超えた室町期文芸同士の相互理解は従来難しいものであったと言わざるを得ない。かかる問題意識のもと、謡曲・和歌・連歌のそれぞれの研究者が互いに知識・知見を共有することにより、謡曲詞章のうち和歌・連歌方面に由来する表現の注釈的分析を行うための環境を整備することが、本研究の目的である。
上記の目的に基づき、本課題の代表者・分担者の三名は、既に2019年度共同研究「謡曲における和歌・連歌表現の用例データベース構築」(代表:川上一)、2020~21年度共同研究「和歌・連歌との比較を通した謡曲修辞技法の学際的研究」(代表:浅井美峰)、2022年度共同研究「世阿弥脇能を中心とした謡曲詞章の和歌・連歌的研究手法に基づく表現分析」(代表:中野顕正)において研究を重ねてきた。その中で、(1)謡曲における古歌摂取の俯瞰的・網羅的な再把握がまず行われるべきこと、(2)個別の分析に際しては歌枕利用に着目することが特に現時点で有効と認められること、の二つの結論に達した。本研究課題は、これらの成果を継承し、主として以下の二つの検討作業をおこなうことで、それを更に発展させるものである。
(1)謡曲における古歌摂取の網羅的把握について。謡曲に出現する古歌引用の網羅的把握を試みた成果としては、既に佐成謙太郎『謡曲大観』首巻所収「謡曲引歌考」があり、今なお有用なものである。但し当該稿は、本歌の認定や他出ある歌の典拠の認定に問題があることに加え、現行観世流詞章を底本とし謡曲の本文異同に触れていない点、用例採取の対象を現行曲のみに限定していた点にも、増訂の余地があるように思われる。加えて、その後の謡曲注釈研究の進展、特に新潮日本古典集成『謡曲集』に代表される伊藤正義氏の研究によって、古今注・伊勢注・中世日本紀などの領域が謡曲の基盤として評価されるに至ったことも踏まえて、情報を更新する必要があろう。こうした問題意識のもと、既に前年度の共同研究において「謡曲引歌考」に代わる新たな謡曲の古歌別索引(仮称「新纂謡曲引歌考」)を作成し始めており、佐成謙太郎「謡曲引歌考」を表形式のデータに整理する作業が完了したほか、新潮日本古典集成『謡曲集』の頭注に言及のある和歌用例について、表データに追加する作業を開始したところである。本研究課題ではこれを更に発展させ、新潮日本古典集成頭注の反映を完了させ、日本古典文学大系『謡曲集』の頭注・補注を反映させ、和歌の他出確認と典拠比定の見直しを行うこととしたい。それらの作業が一段落した段階で暫定版データを仮公開しつつ、次いでその他の注釈書の反映、番外曲(特に寛正頃までに成立した作品)の用例採取などを行い、データの拡充・更新版作成を進めてゆきたいと考えている。
(2)謡曲における歌枕利用の注釈的検討について。前年度までの共同研究において、特に和歌・連歌的表現が頻出すると予測された[上ゲ哥]形式の箇所につき、主として世阿弥の脇能を対象としつつ注釈的に検討をおこなった。その結果、特に歌枕利用の観点から注釈を深めることが、和歌・連歌的景観の謡曲摂取方法を解明する上での重要な端緒となるとの結論に至った。本研究課題においてはこれを継承し、主として世阿弥の作品(脇能に限定しない)を対象として、特に道行謡に着目することで、注釈的検討を進めてゆきたいと考えている。