世阿弥脇能を中心とした謡曲詞章の和歌・連歌的研究手法に基づく表現分析
- 研究代表者:中野顕正(弘前大学人文社会科学部助教)
- 研究分担者:浅井美峰(お茶の水女子大学グローバルリーダーシップ研究所特別研究員(「みがかずば」研究員・明星大学非常勤講師・東京経済大学非常勤講師)
- 川上一(慶応義塾大学大学院文学研究科後期博士課程・大東文化大学文学部非常勤講師)
【2022年度 研究成果】
- 論文 中野顕正・川上一「謡曲《放生川》明和本における道行部の改訂意図」『銕仙』727、2022年10月
- 研究発表 中野顕正「能《国栖》の構想」能楽学会 第21回大会、2023年3月25日、於・法政大学
本共同研究は、2019年度共同研究「謡曲における和歌・連歌表現の用例データベース構築」(代表:川上一)、2020~21年度共同研究「和歌・連歌との比較を通した謡曲修辞技法の学際的研究」(代表:浅井美峰)の成果を継承し、和歌・連歌研究の知見を援用することによる謡曲の注釈的検討を目指したものである。特に、前年度までの共同研究において、謡曲の中でも韻文的文体を有しかつ類型性・規範性の高い箇所として《高砂》《弓八幡》の[上ゲ哥]から検討を開始したことを継承し、本年度は世阿弥作の脇能における[上ゲ哥]を主として精読・検討することとした。本年度検討対象とした作品は《放生川》《老松》《養老》《難波》《志賀》《呉服》の六曲である(2023年2月24日現在)。但し、前年度までの共同研究の中で《高砂》《弓八幡》の検討をおこなった際、初同や待謡には和歌・連歌的修辞がさほど認められなかったことから、本年度は[上ゲ哥]形式の箇所全てを等価として扱うことはせず、和歌・連歌的修辞や歌枕への言及が頻出するワキ登場段の道行を主として検討対象とした。
本年度および前年度までの脇能八曲の検討の中で、謡曲作品における古典雅文学からの継承を論ずる際には、歌枕に代表される古典文学的景観の謡曲中における利用法の解明が重要な端緒となるとの問題意識を得た。謡曲における歌枕の利用法を考えるとき、例えば《難波》では「かざなぎの浜」(万葉集1673番歌に由来する語)を紀州の歌枕として扱っているが、中世には当該語を紀州の地名として理解することは必ずしも定説となっておらず、これを紀州の歌枕とする説は現存文献中では『歌枕名寄』に特徴的なものと判断されるから、謡曲詞章が執筆されるに際しては、少なくとも世阿弥の場合、『歌枕名寄』(あるいはそれと極めて近い内容をもつ書物)が座右に置かれていた蓋然性が高いとの結論を得た(以上の点については今後の論文化を考えている)。本研究においてこのように謡曲詞章の精読を進めたことにより、能作品における歌枕摂取の具体相について注釈考証的に検討するための端緒を得ることが出来た点は、大きな収穫であった。中野顕正・川上一「謡曲《放生川》明和本における道行部の改訂意図」(下記)は、こうした検討の成果の一部である。本年度の研究では、脇能以外の世阿弥作品にまでは検討が及ばなかったため、世阿弥における歌枕利用の全体像を網羅俯瞰して論文化するまでには至っておらず、まして他の能作者についてはこれからの課題とせざるを得ないが、今後もこうした精読研究を重ねてゆくことにより、謡曲における古典雅文芸摂取の具体相を明らかにしてゆくことが出来ると考えている。
但し、こうした精読研究では各詞章の精密な注釈に多くの時間を要するため、謡曲における古典雅文芸摂取の全体像を容易には俯瞰的に把握できない憾みがあった。そこで本年度の共同研究では、こうした精読研究と併行して、古典雅文芸摂取の全体像把握のための端緒として、謡曲中に引かれる古歌の網羅的整理を開始した。謡曲の古歌利用について網羅・整理したものには既に佐成謙太郎『謡曲大観』別巻所収「謡曲引歌考」があり、謡曲の古歌別索引として有用である。但し当該稿では、他出のある歌についての典拠の認定方法などに問題があることに加え、用例採取の対象を現行曲のみに限定していた点にも増補修訂の余地があるように思われる。加えて、新潮日本古典集成『謡曲集』をはじめとするその後の注釈研究の中で新たに判明した典拠・基盤等(例えば古今注・伊勢注・中世日本紀など)についても、情報を更新する必要がある。こうした問題意識のもと、本年度の共同研究では、「謡曲引歌考」に代わる新たな謡曲の古歌別索引(今仮に「新纂謡曲引歌考」と称する)を作成することとした。
「新纂謡曲引歌考」作成に向けた本年度の進捗としては、佐成謙太郎「謡曲引歌考」を表形式のデータに整理する作業が完成した。あわせて、新潮日本古典集成『謡曲集』の頭注に言及のある和歌用例について、表データに追加する作業を開始した。今後は、新潮日本古典集成頭注の反映を済ませることを最優先とし、その後、日本古典文学大系『謡曲集』の頭注・補注の反映、和歌の他出確認と典拠比定の見直しまでおこなった段階で暫定版データを仮公開し、次いでその他の注釈書の反映、番外曲(特に寛正頃までに成立した作品)中での用例採取などを行いつつ、データの拡充・更新版公開を進めてゆきたいと考えている。
【研究目的】
謡曲詞章のうち、物語内容の理解に直接資さない韻文的レトリックの表現分析は、従来検討の遅れてきた領域と言えよう。その分析の上では、まずは和歌研究や連歌研究の方法論を借り、それらの修辞的論理に基づいて検討を試みた上で、そことの距離を測定し、謡曲独自の表現論理とは何だったのかを考えてゆく必要がある。本共同研究はそうした問題意識のもと、和歌・連歌と謡曲との修辞上の関係や距離を考察することによる、新たな謡曲の注釈方法の構築を目指すものである。なお本共同研究は、2019年度共同研究「謡曲における和歌・連歌表現の用例データベース構築」(代表:川上一)および2020-21年度共同研究「和歌・連歌との比較を通した謡曲修辞技法の学際的研究」(代表:浅井美峰)を継承するものである。
これまでの研究では、叙情的傾向が強く、かつ類型性が高い小段である[上ゲ哥]を中心に検討を進めてきた。その中でも、謡曲詞章の構築に韻文的レトリックが積極的に取り入れられる上で重要な役割を果たした世阿弥の作品を取り上げ、特に作品主題が明確で類型性の高い脇能の作品をまずは取り上げることとした。そうした経緯から、まずは《高砂》《弓八幡》の[上ゲ哥]について、和歌・連歌的表現という側面からの精読検討をおこなってきた。
本共同研究では、その研究手法を継承する形で、世阿弥の脇能における[上ゲ哥]についての検討を引き続きおこなってゆきたい。具体的には、《放生川》《老松》《養老》《呉服》《箱崎》《鵜羽》等を検討対象曲の候補として想定している。その中で注釈成果を蓄積してゆき、ある程度成果が蓄積された段階で、注釈稿のような形で適宜公開してゆきたいと考えている。
但し、既に《高砂》《弓八幡》の両曲を注釈的に検討する中で明らかになってきたように、同一作者・同一曲柄に属するこの二曲の間でも表現上の志向性という点では必ずしも同一ではなく、従って表現分析上のアプローチの取り方は曲ごとに別個に検討してゆくべきものと判断された。そのため、このたびの共同研究では、必ずしも検討曲数を増やすことを最優先課題とはせず、むしろ一曲ごとに丁寧・詳細に検討してゆくことを優先したいと考えている。
【研究計画】
世阿弥作品のうち、老体の脇能における[上ゲ哥]を中心に、注釈的検討をおこなう。研究方法については2020-21年度共同研究「和歌・連歌との比較を通した謡曲修辞技法の学際的研究」に準拠する。