『洋々集』の研究(2022年度より継続)
- 研究代表者:藤田隆則(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター教授)
- 研究分担者:高橋葉子(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター客員研究員)
- 研究分担者:丹羽幸江(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター客員研究員)
- 研究分担者:坂東愛子(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター共同研究員)
- 研究協力者:荒野愛子(神戸女子大学大学院文学研究科博士後期課程)
【2023年度 研究成果】
- 研究発表 荒野愛子「能の謡における作曲とは何か」楽劇学会大会(2023年7月23日(日)、早稲田大学小野記念講堂にて)
- 研究発表 島田和俊「洋々集 打切について」(2023年10月27日オンライン研究会にて)
- 研究発表 藤田隆則「能の平ノリが早歌から引き継いだものー三音基調と裏当り」(2024年1月12日、法政大学能楽研究所でおこなった研究会にて)
- 研究発表 坂東愛子「梅若満寿の系譜について」(2024年2月16日オンライン研究会にて)
- 未公開データ 『洋々集』に挙げられている謡の実例の八割化(上巻300例、中巻750例、下巻300例)(エクセルにて作成)
『洋々集』は、幕末の役者である梅若満寿によって記された、謡の地拍子(謡を8拍子に合わせる規則)にかんする研究書である。謡の一句一句がもっている様々な拍子のかたちを、網羅的にとりあげ、体系的に分類し、解説をくわえたているのが本書である。『洋々集』は、明治の後期から盛んにおこなわれるようになった体系的な地拍子研究の先駆けをなす書物である。『洋々集』は、(1)現代式の地拍子の当りを規範として示した初期の文献であり、(2)大乗り、中乗り、平乗りなど、現代も用いられている拍子合の分類用語をはじめて提案した書物として名高い。
明治時代以降二十世紀をつうじて、川崎九淵以下の研究者らが、地拍子研究を、これ以上進めることが残っていないレベルにまで引き上げてきた。そのため古い業績である『洋々集』が、振り返られて、より深く研究されることがなかったのである。
本研究では『洋々集』が単に上記の2点だけではなく、謡の個性的な節付(作曲)のあり方を分析した書物であるということを明らかにするため、『洋々集』の全体を丁寧に読み進める作業をおこなった。
2022年度と2023年度で、『洋々集』の上巻、中巻、下巻まで、すべての部分を通読した。文字を読んだだけではない。上巻、中巻、下巻それぞれには、拍子を説明するために、謡の実例が多数含まれている。上巻にはおよそ300例、中巻にはおよそ750例、下巻はおよそ300例があげられている。2023年度末の時点で、それらすべてを、八割譜のかたちに移し替える作業を完了させた。
八割化の作業は、実例として挙げられている詞章の部分だけではなく、その前後も合わせておこなった。また、割付が現行観世流とことなる場合、すなわち異同の存在が予想できるときには、宝生、梅若、金春、喜多などの現行謡本にもあたり、異同が認められる場合には、比較のために異同を併記した。書き込みはすべて、独自にエクセルファイルで作成した横書きの八割フォーマットの上におこなった。
検討の結果、『洋々集』の中巻と下巻には、謡の拍子のユニークな捉え方を認めることができる。中巻は、対象を下句に向ける。下句が、次の句の上句へ移る移り方に焦点をあてて、細かい分類がなされているのである。下巻では「取り越し」という概念が提示される。「うらわの・ながめまで、げにたぐいなや・おもしろや」(4・5、7・5)が「うらわの・ながめまでげに、たぐいなや・おもしろや」(4・5+2、5・5)のように句を超えて分割されることをさしている。著者の梅若満寿による独自の発見であろう。
このほか『洋々集』の中巻と下巻には、謡の地拍子上のさまざまな技巧にかんする発見がある。それらはみな、謡の節付(作曲法)のパターンを明らかにするヒントを提供してくれるのである。
【研究目的】
鴻山文庫におさめられている『洋々集』は、能の謡のリズム・拍節法(地拍子)の歴史を見渡す上で、重要な文献のひとつであるとされてきた。なぜ重要かと言えば、(1)いわゆる近古式ではなく、現代式の地拍子フォーマットを規範として示している最初の文献のひとつであること、(2)「大乗(おおのり)・中乗(ちゅうのり)・平乗(ひらのり)」という現代でも使われている用語を、もっとも早く使用した文献のひとつであること、などによる。
ただし、『洋々集』の中心は、そこにあるわけではない。その中心は、膨大な数の謡の一句一句を、文字数や節回しを基準にしながら、細かくパターン化し、分類して示している点にある。その意味で『洋々集』の仕事は、20世紀に大きく開花した謡の地拍子研究の先駆けとなるものであるが、挙げられている全てに対して、批判的な検討を加える研究は、これまでにはおこなわれてこなかった。
また『洋々集』には、地拍子について説明するための独特な用語もみられる。たとえば「文字数の産み字」「文字運びの産み字」などは、現代では用いられない表現である。これは、20世紀以降の地拍子研究とちがって、『洋々集』が基本的に、八割譜などによる図示にたよらないやり方で、説明をおこなおうとする点に由来すると考えられる。これらの独特な用語法は、謡のリズムを上から見渡す(外側からみる)のではなく、より実践的な感覚から(内側から)捉えていくための用語であり、その詳しい解釈が必要となる。
本研究では、『洋々集』がとりあげているすべての謡の実例の1句1句を明快に把握すること、つまり、すべての実例を「八割」の形式に置き換える作業を、第1のゴールとする。つづいて、挙げられている膨大な実例が、謡の小段(曲節)の中において、どのような位置をしめているか(いいかえれば、その句の前後にはどのような旋律が来ているか)をあきらかにして、たんなる1句(1クサリあるいはその半分)の大きさ内での類似性、共通性を明らかにするだけではなく、複数のクサリのまとまり間の類似性の発見を目指す。
研究の作業は、(1)『洋々集』全体の翻刻、(2)すべての実例1句1句の八割化、(3)あらたな旋律型の類型化をおこなうこと、の3点である。これらは、謡の拍節法研究、ひいては旋律研究、作曲研究のための、新たな基礎資料のひとつとなるであろう。
本研究は、謡の作品を、言葉の詩的な内容だけで捉えるのではなく、音数律の選択や節付けとともに捉えることに向けた、学術的な道筋を切り開いていくことになるであろう。